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満州国は中国領でよいのか

2008年02月26日 | Weblog
 大東亜民族独立・開放戦争をもう一度考えてみるのも一興か

 日本史辞典なるもので満州国と引いてみると、

 満州国:1932年(昭和7年)、中国東北部に建国された日本の傀儡国家(~1945)

 1931年関東軍は満州事変をおこして、1932年3月清国の廃帝溥儀(溥儀)を執政に迎えて満州国を建国。1934年から帝政となる。首都は長春(新京)。「五族協和(日・満・漢・蒙・朝)による「王道楽土」建設をスローガンとする独立国の体裁であるが、関東軍司令官の指導のもと、日本人が行政機関の要職を独占し、農工商各部門で特権を有し経済開発も日本の新興財閥の手に握られた。1945年8月、対日参戦したソ連軍に占領され満州国は崩壊した。

 満州事変:1931年(昭和6年)9月の奉天郊外でおこった柳条湖事件に始まる日本の満州に対する軍事行動(~1933)

 満州市場は日本の対外投資の7割に達しており、特に興行製品の重要な輸出市場であるとともに、農産資源や鉄・石炭・アルミ原料の供給地でもあった。政府・軍部は「満蒙は日本の生命線」と宣伝。1931年9月18日関東軍による南満州鉄道爆破事件を中国側の行為として、関東軍は軍事行動を展開。第2次若槻礼次郎内閣の不拡大方針に対して、東三省(奉天・吉林・黒竜江の3省)を武力占領し、満州国として独立させ、更に熱河省を占領した。国際連盟は中国(この当時中国はなかったので、支那というべき)側の提訴に応じ、リットン調査団を派遣し、柳条湖事件は日本の自衛行動と認めず、満州国も否定する報告書に基づく対日勧告を採択した。日本は連盟を脱退し、連盟やアメリカとの対立を深めていった。

 満州某重大事件(張作霖爆殺事件):1928年(昭和3年)6月、中国奉天軍閥の張作霖が国民党北伐軍に追われて奉天に引き揚げる途中、列車爆破で殺された事件

 張作霖爆死事件ともいう。関東軍の参謀河本大作大佐らは張を操って満州独立を企てたが、張が従わなくなったとみて敢行。真相は隠されていたが、翌1929年立憲民政党が満州某重大事件として責任を追及し、天皇・元老も政府の処置に不満を表明したので、田中義一内閣は崩壊した。

 以上、日本史辞典より

 これは戦前の日本が一方的に侵略者であったとする占領軍の押し付け史観に基づくものであるから、非常に公正を欠いた歴史というほかはない。アメリカ合衆国など今でも偉大な侵略国家であり、中共とて、自己の歴史も顧みず大侵略国家を標榜している。満州国が日本の傀儡国家だったなどと嘆くこともなかろう、現在日本の衆議員議長は江之傭兵などと噂される人物が就任していることを心配したほうが余程生産的思考だろう。こういう状態を中共の傀儡というべきである。

 満州国は現代史のキーポイントだと思うから、今後の学習課題としたい。


 満州への熱い思いの根源とは

 日清戦争:1894~95年、日本と清国が朝鮮半島支配をめぐって戦った戦争。結果は日本の勝利に終わり、この戦争での日本側の戦死者1万7千人戦費約2億円。得たものは、遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲、賠償金約3億1千万円だった。

 三国干渉:日清戦争の結果、遼東半島の日本領有に対して行われたロシア・フランス・ドイツ3国による対日干渉

 1895年4月、遼東半島の割譲は下関条約で約されたが、南満州進出を企図するロシアはフランス・ドイツを誘い、条約調印の直後、日本に対して清国へ返還することを勧告した。日本はやむなく約4千5百万円を代償に受諾したが 、政府は「臥薪嘗胆」を叫び、全力対ロシア戦争の準備に注いだ。また、この干渉後に欧州列強による中国(この時点では支那というべき、中国製の電子辞書はこれだから困る)分割が開始された。

 この後、ロシアはちゃっかり遼東半島を租借してしまい、旅順に強固な砦を築き上げるのだから、3国干渉とはロシアが日本にイチャモンをつけて支那侵略の足掛かりにしただけ。あとは、いわゆる満州地域を軍事的に占領すれば、待望の日本海への海路が開ける。・・・・こういうのを漁夫の利というのだ。それが分かっていたから、日本人は「臥薪嘗胆」と叫び対ロシア戦に備えたのも国民感情として当然のことであった。「リメンバー・パールハーバー」だけが開戦の標語ではない。

 この悔しい思いが殊更、『夢の満州国建国』へと向かわせる原動力となったのだろう。

 日露戦争:1904年(明治37年)日本とロシアが朝鮮・満州支配をめぐる対立からおこした戦争(~1905年)

 三国干渉後、ロシアは清から満州における権益を得、北清事変後は、日本の満州撤兵要求を実行せず、満州支配のみならず韓国進出の野心を示したので、日本と激しく対立した。日本は日英同盟によるイギリスの支持を背景に、1904年2月開戦、9月のポーツマス条約をもって終戦。この戦争で日本は韓国を保護国化し、南満州を勢力範囲とした。


 で、現在の中国の東北地方(満州地方)と呼ばれるこの地を所謂当時の被征服民族に過ぎなかった『漢民族』が領有を主張できる固有の領土かというと、全く筋違いなことであると思います。(現在でも漢人を含め諸民族の坩堝となっているはずです)


 清国が滅亡したのは辛亥革命による。同時に成立したのが『中華民国』である。

 辛亥革命:1911~12年(大正10~11年)にかけて清朝を滅ぼし、中華民国を成立させた革命

 1911年が辛亥(しんがい)の年にあたるためこの名がある。同年10月10日の武昌蜂起を糸口として、各地に波及、1912年1月孫文が南京で臨時大統領に就任し、中華民国が成立。ついで、宣統帝を退位させ、清朝は滅亡した。その後政府の権力は、諸外国に動かされる袁世凱らの軍閥の手に奪われた。


 現在支那大陸は漢民族が統治していると聞き及んでいるがその実態を我々は知らない。・・・彼らは国名を漢国と言わず、中華人民共和国(中国)と称しているのは詭弁なんだろうか。元来、中国東北部(満州)は万里の長城の外の地であり、北方民族(野蛮人)の住む地であるが、漢民族自身その野蛮人に幾度となく征服された歴史をもっている。清は女真族の王朝であって、首都は北京、紫禁城は満州族が復興したものである。溥儀の父祖の故郷は満州であった。

 渡辺昇一先生が著書「何が日本をおかしくしたのか」講談社のなかで、良いことを書かれているので引用させてもらいます。68ページより

 確かに満州国建国では日本の関東軍が大きな役割を果したし、また、その後も満州国の政策に日本が多大な影響を及ぼしたという事実は存在する。だが、満州の建国は全て日本側のシナリオによるもので、満州人は日本の道具として使われたに過ぎないとという東京裁判史観は、歴史の事実を大きく歪めたものである。

 そもそも満州の地は、清朝の領土の中でも特別な地位を持っていた。清朝を建てた女真族は満州の出身だったので、満州は清王朝にとって、いわば聖地ともいうべき土地だったのである。清朝の時代には、漢人は満州に入ることはなかなか許されなかったという。

 満州国初代皇帝になった溥儀は、その清朝のラストエンペラーであり、満州族の末裔であった。だから、1912年、辛亥革命によって退位を迫られたとき、父祖の地である満州に帰り、清朝建国以前の状況に戻って満州人たちの皇帝になりたいと考えたのは、しごく当然のことであった。

 そうした溥儀の気持ちが更に強くなったのは、革命を起こした国民党の蒋介石軍が北京にあった清朝王室の墓をダイナマイトで爆破して略奪を働き、さらにそこに眠っていた西太后(せいたいこう)の遺骸を冒涜するという事件が起こったためであった。この不祥事に対して、蒋介石が謝罪すらしなかったのを見て、溥儀は漢人のいる支那の地がつくづく嫌になり、故国である満州に戻ろうという決意を固めたのである。

 その溥儀が、もっとも心を寄せていたのが日本であった。溥儀は日本の皇室に対して、一種、崇めるような気持ちをもっており、日本訪問を強く希望していた。ヒョウギョクショウのクーデターによって紫禁城を追われ、彼自身の自動車で北京北部にあった父の住居のある北府に移ったときも、日本を頼っている。身の危険があったので、1924年(大正13年)11月29日、強風が吹き砂塵が視界朦朧たる中を日本公使舘に逃げ込み吉沢健吉公使の賓客となったのである。

 当時の日本は国際関係が複雑になることを好まず、彼をなかなか受け入れようとしなかったが、それから数年経つうちに満州の状況は大きく変わった。共産主義勢力に後押しされた排日運動が激化し、日本の企業や居留民を狙ったテロが続出するようになったのである。

 こうした状況に危機感を抱いたのが満州に駐留する関東軍であった。彼らは、このままでは満州の鉄道利権も日本人居留民も守れないと考え、日本政府や軍中央をまったく無視して満州事変を起こすに至ったのである。(以上引用)


 私は日本国の住人であるし、どちらかといえば自称右翼だと思っていますが、先の大戦(日本の立場で大東亜戦争と言おうが戦勝国の立場で太平洋戦争と言おうが)では、我が日本国は骨の髄まで負けたと素直に認めるべきだと思っています。占領軍を進駐軍などと誤魔化すのは言葉の遊びが過ぎるというものです。

 敗戦により、アメリカ合衆国による7年間の占領統治下で我々日本人は骨抜きにされました。しかし、占領政策が巧妙に行われたため、『敗戦のお仕置き』を自覚せずに60年の歳月が流れてしまった。現在、国家としての意思表示もできない外交を見るにつけ、これこそ民族存亡の危機だと思い知らされる。

 大東亜戦争=発端は満州国防衛に対する敵性国家の干渉。ルーズベルト・スターリン・蒋介石の結託(結果として漁夫の利を得た毛沢東は重要な役を演じたもののこの段階では共産主義の使い走りぐらいのもの)であった。とても皮肉なことであるが、大日本帝国皇軍がなければ、現在の『中国共産党』など存在し得なかったというのも歴史の真実であろう。激動の支那大陸中国共産党が生き延びることができたには彼らが非難して止まない日帝のおかげである。

 
 この際であるから、『大東亜戦争の正体』 清水馨八郎氏の著書よりとても印象的な一節を引いておこう。

 アムステルダム市長による日本擁護論

 平成3年、日本の傷痍軍人会代表団が、大東亜戦争の対戦国であったオランダを訪問した折、同国の傷痍軍人代表とともに、首都アムステルダム市長主催の親善パーティーに招待された。そのとき、同市のサンティン市長は歓迎の挨拶で実に良心的大東亜戦争の責任を語った。思いもよらぬ話に、日本の代表団は感激した。

 「あなた方は、先の大戦で 負けて私どもオランダは勝ったのに、大敗しました。今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。私達オランダは、その間屈辱の連続でした。すなわち、勝ったはずなのに、貧乏国になりました。戦前はアジアに本国の36倍もの面積の植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で、本国は栄耀栄華を極めていました。
 今のオランダは、日本の九州と同じ広さの本国だけになりました。あなた方日本は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分を蔑みぺこぺこ謝罪していますが、これは間違いです。
 あなた方こそ、自ら血を流して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。なぜなら、あなたの国の人々は過去の歴史の真実を目隠しされて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、あるいは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って、真実を見つめる必要があるでしょう。
 本当は、私達白人が悪いのです。100年も200年も前から、争って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大にして崇高な理想を掲げて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
 本当に悪いのは、侵略して、権力をふるっていた西欧人のほうです。日本は敗戦したが、その東亜の開放は実現しました。すなわち、日本軍は戦勝国の全てを、東亜から追放して終わりました。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。
 日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑むのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです」(以上引用)

 ・・・・このように、日本の偉大さが見える人にはちゃんと見えているのである。ヨーロッパの識者の日本人評はこのようなものであることを深く胸に刻もう。

1 コメント

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Unknown (滿族人hate日本人)
2013-03-10 11:40:25
日本人滿族人
日本人奴役滿族人
滿族人討厭倭畜
滿族人希望倭畜快滅亡
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