SJesterのバックステージ

音楽関連の話題中心の妄言集です。(^^)/
もしよろしければ、ごゆっくりどうぞ。

三島億二郎をご存知ですか?

2007年01月09日 00時39分24秒 | その他
長岡市内を流れる信濃川沿いの堤防で長岡城(今は長岡駅)の方向を指し示し、冬空の下すっくと立つこのひとをご存知ですか?
ツッコミが入る前に申し上げておきますが、夏空の下でも同じようにすっくと立ってますよ。当たり前ですが・・・。
また、すっくと立っていることに間違いないですが、実はぽつねんと立っていると言うのが率直な印象。。。
後ろに日赤病院が聳え立っているとは言うものの、堤防伝いにはこの像が建っているほかは見事に何もありませんので。

そうそう、彼の名は三島億二郎といいます。この人こそが、長岡を北越戦争の荒廃から立ち直らせるための具体策を講じた人物であります。

簡単に触れておくと幕末の時期、長岡藩は小藩ながらも最新式のガトリング砲を装備するなど質実剛健な藩でありました。
ご存知のように戊辰戦争では、会津藩が朝敵であるということになって官軍と言われる新政府軍(指揮官は岩村高俊)はこれを討伐するために軍を進めてきたのですが、会津藩に近い長岡藩に対して“会津を攻めよ”と申し渡したのです。
これに対し長岡藩の家老河井継之助は、カンカンガクガクあったものの結局岩村との小千谷談判を決裂させてしまい、官軍との北越戦争を開戦させ郷土を荒廃させてしまいました。

ここで小泉前首相も誇らしげに引いていた小林虎三郎の「米百俵」の話が出てくるわけです。
小林虎三郎とはこの人です。

もちろん指の先からミサイルを発射しようとしている姿ではありません。

“米百俵”の話の要諦は、長岡の窮状を見たお隣の三根山藩から見舞いで米百俵が贈られて来たときに、それを藩の民に分けてすぐに食べつくしてしまうのではなく、売却することで得た利益を元に人材育成をする学校を作ったならば、そこで育成された人は次代にもっと大きな富をもたらしてくれるという、小林の断固とした精神とそれを具現化した政策が素晴らしいっていうことでしょうか。

誤解なきよう人口に膾炙している文言をご紹介すると「国が興るのも、街が栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ」ということです。

この写真は「米百俵の群像」と呼ばれる12体で構成される談判の場面のうちの小林だけを写していまして、武士が「米を分けろ」と刀を抜いて迫ってきているところを、小林が毅然と理解を求めている刹那であります。

河井も小林も、司馬遼太郎や山本有三の著作でずいぶんと脚色されているので、どこまでがホントでどこからが作り話かわかりませんが、長岡在住1年余で子供のゆとり教育の一環、地元の歴史研究の助手(手伝った本人はほとんど自分がメイン研究者と思っている)を務めた私としては、確かに河井も小林も傑出した人物であることに間違いはないと思いました。
そしてこの2名が著名であることも至極当然と思ったりしています。

ただ解せないのは、三島億二郎の知名度がかくもこの両名に比して低いことです。

河井は結果として義を貫いたといえますし、戦においても一旦落城した長岡城を奪還したり、長岡の実力で官軍に大ダメージを与えるなど、本来は行きがけの駄賃程度にひねられてしまっておかしくない戦いで大健闘しています。そのリーダーシップの卓抜していることについては疑念の余地はないと思います。
ついていけずに出奔した譜代の重臣も出ていたようですが、彼らは戦後帰ってきても当然ながら自らの居場所はなかったようです。

余談ですが、どこかの国の造反議員とは違いますな。
復党の後に「政策に反対と言った覚えはなく、議論の進め方が問題だと思った」と仰る厚顔無恥さには恐れ入りました。
反対でないなら、なんで青札入れたのかと聞きたいものです。
少なくとも私は、このような方にはついていけませんです。はい。

話を戻して、河井は岩村に会津を説得する役も買って出るので長岡との戦は回避して欲しい旨を訴えたのですが、聞き入れられず、まず負けるとわかっている戦いに国中を巻き込むことになってしまいました。

岩村という人は山県有朋などに比して小物であるばかりでなく、全日本を俯瞰した憂国の士であった河井などと比しても狭量であったために、将来の我が国的な視野はなく、会津をとにかくちゃっちゃと討伐するという目先の仕事のことしか目に入らなかったようですね。
また山県有朋が視察に来た際、地元の女性に給仕をさせてエラソーに食事をしていたのを見つかって、お膳を蹴っ飛ばされて叱責されたというエピソードが残っているようでもあります。

要するに河井の場合「相手が悪かった」と言えなくもないのですが、河井の決裂の決断で北越戦争が勃発を余儀なくされ、その結果いかに多くの故郷の人命、財産が損なわれたかを考えた場合には、どうしても河井の評価を是と言い切ることにはためらいを覚えてしまいます。

武士道とは死ぬことと見つけちゃったようなリーダーについていくというのは、現代の私にはちょいと理解できなかったりして・・・。
当時はどうだったか知りませんけどね。
やっぱり「君死にたまふことなかれ」っていうのが普通だったと思いはしますが・・・。

さて、もう一方の雄である小林虎三郎ですが、佐久間象山門下では吉田松陰と並び称されるほどの逸材でありました。
北越戦争には一貫して不戦を唱えながら、開戦後ももちろん藩にとどまっています。
河井の死後も戦い続けた長岡も終に降伏し荒廃きった領地に、難を逃れるために出奔したかつての重臣が戻ってきても、大参事となった小林の人望の前にもはや発言する余地はない・・・。そんな中で、米百俵の逸話が生まれました。

ただ、またケチをつけてしまうのですが、小林は自らを“病翁”と称するほど病弱で明治4年には既に病気平癒に専念せよと、自らがぶち上げた崇高な理念の実現に関しては「お呼びでない」状態になってしまっています。
言ったこと、道筋をつけたことは立派だったのですが、実はその実現はその志を継いだ人たちが成し遂げたこと。ご本人様はご活躍なさったかと言うと、ちょっと・・・。

小林は明治10年に50歳で亡くなります。ということは、44歳で健康上の理由で働けなくなってしまっているわけです。
私も気をつけよう・・・。
ということはさておき、それではだれが具体的に長岡を荒廃から立ち直らせる具体的な指揮を執ったのかというときに真っ先に出てくるのが、冒頭の三島億二郎なのです。

彼の業績は銀行の開設など経済面だけにとどまらず、北海道開拓にもその名を遺すなど実はたいへんに活躍をした人であります。
その三島は本は河井の側近であり、河井その人がこの人と恃む人物でありました。
北越戦争開戦についても、三島が河井の考え方を内諾していたため河井も開戦に踏み切る決断をしたともいわれているようです。
三島自身も開戦に賛成してしまったことを後ろめたく思い、復興に尽力したという側面もあるようではありますが、とにかく復興の具体策を語るときに三島の名を外すことはできないようであります。

史実をいろいろ調べていくうちに、私は三島が一番エライ、すなわち結果として郷土の役に立てた人という気がします。ブレイクして欲しいですねぇ。

さて長岡の郷土人というと河井・小林と並んで、いやもっとはるかに有名な人がいます。
そう、山本五十六元帥です。
彼の祖父は実は北越戦争で戦死しています。そのことを知り、無謀な戦争をすることがいかに愚かであるかを誰よりも実感していた山本五十六が、自身の思惑とはうらはらに第二次世界大戦で負わされた十字架と言うか、役割はこのうえない皮肉ですよねぇ。
彼にも行き着く先は見えていたはずです。

米軍も山本を恐れ、日本の士気を落とすために、わざわざ山本にはみなの前でわかるように死んでもらわなければならないとまで意識させしめた人ですね。
米軍は暗号解読完了の事実を伏せてまで、山本を迎撃できる態勢を整備して、その搭乗した飛行機を打ち落とすことによってそれを実行しました。
最後は米国のプロパガンダに利用されちゃったわけです・・・。

また郷土長岡も山本の故郷と言うことで標的にされた。。。
元帥にとっても故郷へ爆撃されることまでは読みきれなかったかもしません。あの世でも痛恨の極みだと嘆いておいででしょう。

なぜ山本元帥の像が写真がないかって・・・?
それはこのブログが音楽ブログだからです!!
もちろん山本元帥が超有名なので敢えて写真を掲載するまでないこともありますが・・・。

そして音楽ブログのタスキを託す、いまひとりの長岡郷土の英雄をご紹介します。


お客様は、神様です!!! 三波春夫顕彰碑でございますぅぅぅ・・・。


さて、先ほど東京に帰って参りました。
今日から仕事だ!!