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王力雄:モンゴルは中国ではない――チベットと中国の歴史的関係(2)

2008-09-07 23:09:46 | 中国異論派選訳
王力雄:モンゴルは中国ではない――チベットと中国の歴史的関係(2)

 中国当局が編纂した歴史記述は、中国のチベットに対する主権は13世紀に始まると認定している。当時はチンギス・ハンのモンゴル騎兵が世界を席巻し、一方チベットは吐蕃王朝が解体して400年の分裂割拠が続き、モンゴルに対抗する能力はなかった。チベットの大小の地方割拠勢力は大勢の前に次々とモンゴルに帰順した。チンギス・ハンの孫のゴダン・ハンはチベットで当時のチベット仏教の中心サキャを選び、チベット全土の各勢力に対しサキャの統制に従うよう命令した。その後1世紀間続いた元王朝は、サキャを通じてチベットを統治し続けた。歴史学者が示す資料によると、そこにはある種の主権の要素があったかもしれない。しかし、問題はそれがモンゴルのチベットに対する主権なのか、それとも中国のチベットに対する主権なのかということである。

 実際、中国は当時チベットと同様、モンゴルの征服の対象だった。それどころかチベットにも及ばなかった。チベットはなおかなりの程度の自治を維持していたが、中国は徹底的に国を滅ぼされていた。主権を完全に失った国が、どうやって別の民族に対して主権を行使できるのか、全く説明がつかない。元はのちの清とは異なる。どちらも異民族の侵略による統治ではあるが、清朝の満洲人は居住地もその民族も最終的には全体として同化して中国人に溶け込んでしまった。だが、モンゴル人は現在でも自分たちの国があり、モンゴル民族はアジアの広大な地域に住んでいて、中国人とは全く別の概念である。したがって、むりにモンゴルのチベットに対する征服を中国のチベットに対する主権の根拠にしようとするこの種の「阿Q」式の論理は奇怪かつ不誠実である。

 いわんや、モンゴルとチベットは果たしてどちらがどちらを征服したのかも、検討の必要がある。軍事面では、チベットはモンゴルの敵ではなかった。しかし、チベットにはチベット高原という天然の要害があり、モンゴル軍のチベット侵攻は簡単ではない。実際、モンゴルはチベットに対して征伐を行っていない。チベットの帰順はチベットのサキャが先に帰順したことから実現した。モンゴル人の軍事的威嚇を後ろ盾とし、当時のサキャ・パンディタはチベット各地の僧俗の首領に告諭を発し、彼らに情勢をわからせ、サキャの、すなわちモンゴルの、統治を受け入れさせた。こうして400年近くの戦乱と分裂の状態を終わらせた(注1)。当時の元朝は、チベットに軍隊を駐留させたが、目的はチベットの直接統治ではなく、おもにチベットの地方政教勢力がサキャ政権を脅かさないよう威嚇するためだった。元朝中央政府はチベット事務を主管する機関、総制院(のちに宣政院と改称)を設立し、サキャ・パンディタの甥のパスパが初代統領になり、その後の統領も多くがパスパの一族から出た(注2)。つまり、元朝のチベット統治は、大部分がチベット人自身によって行われたのである。

 当時のサキャ政権をモンゴルの完全な傀儡とみなすことはできない。チベットは軍事的にはモンゴルに服属していたとはいえ、モンゴルもチベット仏教を受け入れた。さらに当時のモンゴル文字さえもパスパが作ったものである。ゆえにチベットは精神的にはむしろモンゴルを征服したといえる。当時の元朝皇帝はチベットのラマ教の熱狂的な信者であり、そのために元朝は専門の官職、帝師(皇帝の先生)を設け、その職はすべてチベット人に担当させた。帝師はすべての官職の中で最も地位が高く、皇帝が朝廷に出てくると文武の高官はみな起立整列したが、ただ帝師だけには座席があった。そればかりか、伝説によると初代の帝師パスパラマは自分の座席はフビライ大帝よりも高くなければならないと言い張ったという(注3)。このことからもチベット人の地位がみてとれる。歴代の元朝皇帝は即位前にみな帝師から仏戒を受けた。皇后・側室、皇帝の親族、大臣たちの間にもチベットの僧侶から仏戒を受けることが大いに流行した。当時の帝師は気炎を高く上げていて、その弟子が王妃を殴打しても、皇帝は問題にしなかった(注4)。

 元朝が長江以南の南宋を攻め滅ぼす過程で、チベット人は積極的にモンゴル人に協力した。パスパはそのために涿州に神殿を建立し、みずから開眼供養を行い、部下の法師にその中で秘密の呪文を唱えて元軍の加護を祈らせた(注5)。そして元軍が南宋の首都臨安(今日の杭州)を攻め落とした後、元朝に投降した南宋の皇帝趙顕をチベットのサキャ寺に送って、名目は仏教修行だが、実際は流罪にし、信頼できる者の支配下に置いた。のちに南宋の最後の皇帝はチベットで殺され、元朝を脅かす禍根は徹底的に除去された(注6)。これを中国のチベットに対する主権行使というなら、はなはだ荒唐無稽というべきではないだろうか。

 元朝の民族等級序列の中で、チベット人は色目人の等級であり、中国人より高かった。チベット人が担った帝師は同時に宣政院最高責任者を兼任した。宣政院とは中書省、枢密院、御史台と同格の最高レベルの元朝権力機関であり、皇帝と直接通じていた。その役割はチベット人地区のすべての軍政・民政・財政事務を管轄するほか、中国人地区の仏教事務も管理した。元朝の熱狂的な宗教的雰囲気のもとで、この種の権力が非常に強力なものであることは想像できるだろう。パスパの弟子楊真加(チベット人)は江南に行って仏教総統になったが、財宝を略奪するために南宋皇帝と大臣の墓を110余りも掘り返し、良田2万3千ムーを占拠し、美女宝物を無数に献上させ、多くの平民を殺害した。当時のチベットからは色々な人が続々と高等民族の身分で中国内地に行って、うまい汁を吸った。ときには百人千人になり、道中の旅館に泊まりきれなくなると、彼らは強引に住民の家に泊まり、機会に乗じて婦女を強姦した(注7)。当時の中国人はほとんどが不満であっても口に出せなかった。

 ゆえに、当時の歴史現象に即して見れば、元朝中国がチベットに対して主権支配を確立したというよりは、モンゴルとチベットが手を組んで中国を統治したと言うべきであろう。

原文:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=48998
(脚注は原文参照)

関連時事:

皇女神話――チベットと中国の歴史的関係(1)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/3496cd11ef6e1cd0d47a87eb86f5731d

収縮内向した明朝――チベットと中国の歴史的関係(3)
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