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王力雄:中華民国の口先だけの主権――チベットと中国の歴史的関係(14)

2010-01-09 22:52:34 | Weblog
王力雄:中華民国の口先だけの主権――チベットと中国の歴史的関係(14)

1911年の清王朝の終焉から1949年の中国共産党の政権奪取まで、38年間続いた中華民国はほとんど最初から最後まで抜け出しがたい内憂外患に陥っていた。最初は何年も続いた軍閥の混戦だ。蒋介石が統一を達成するとすぐに、日本の侵略で8年の長きにわたる抗日戦争に引き込まれた。日本が降伏すると、抗日戦争中に増殖した中共がすぐさま政権奪取の戦争を開始した。民国政府はいつも慌てふためいて身の回りに手いっぱいで、遠く離れたチベットなどに精力を割くことはできなかった。この状況はチベットにとっては緩やかな環境をもたらし、40年の長きにわたって、完全な独立を維持することができた。それ以前も「骨抜き」によって実質的な独立を保ってはいたが、身近に人をあごで使う駐チベット大臣がいたし、領内には武力をひけらかす清国軍がいて、なにかと束縛されていた。だがこの40年間の独立は徹底していて、せいぜい民国政府とうわべだけの交際をするだけで、全てを自分たちで決めていた。この時期の歴史はいまでも多くの人にチベットが独立国家であることの根拠とみなされている。

それだけでなく、中国の内乱に乗じてチベットは武力でチャムド、デルゲなどカムのかなりの土地を回復し、国境を大きく東に移した。確かにダライラマ13世の行った新政とチベット軍がイギリスから得た新式武器は戦闘に勝利する一つの要因だったが、最大の原因はやはり中国内地の混乱に帰すべきである。以前川軍の西征を指揮して破竹の勢いだった尹昌衡は権力闘争によって袁世凱に監獄に送られ、新たに興った四川軍閥は互いの抗争に忙しく、省都の成都さえかれらの市街戦の戦場となっていた。チベット軍がチャムドを包囲したとき、守備隊長の彭日昇が何度も救援を求めたのに、民国政府が任命した四川辺境鎮守使は彭とかねてより確執があったので座視して救わず、チャムドは陥落し彭日昇はチベット軍の捕虜となって、結局チベットで客死した。その後イギリス人が外交的に介入し、民国にチベット軍勝利後の中国とチベットの国境を承認するよう迫った。

民国の初めの20年間は中国が最も弱くチベットが最も強かった時期である。ダライラマ13世は民族の受難の試練と亡命の鍛錬をへて、偉大な民族のリーダーになった。彼は漢人を追い出して独立を獲得してから、一連の新政を実行し、チベット軍を大規模に拡充し再編した。イギリス、日本、ロシアの訓練方法を導入し、外国の教官を招聘し、チベット人士官をイギリス式の士官学校で勉強させ、新型の武器を輸入し、チベットの兵器産業を興した。チベットは初めて西側に留学生を派遣した。彼はまた銀行を設立し、鉱業と郵便事業を興し、貿易を促進した。チベット社会は張蔭棠と聯豫が行った新政の上に、さらに近代化の啓もうを進めた。チベットが成し遂げた成果はイギリスをして「チベットが中国と比べて強大になり過ぎ、チベットの侵略的拡張と独立を招くのではないかと心配」させ、ついにはチベットへの武器輸出を中止するにいたった(1)。

もしイギリス人が本当にそんな心配をしていたとしたら、それは大げさすぎる。中国の数億の人口に対しチベットは百万から二百万人であり、チベットがいくら強くてもそこまで強くはなれないだろう? 民国が内部事務に全神経を集中していて、チベットにかまっている暇がない時、四川辺境の地方軍閥に対処するだけのために、チベットは軍事力の大部分を投入せざるをえなかった。この事実が当時のチベットの政治と外交を主導した。例を上げると、1920年にチベットとネパールに紛争が発生し、ネパールはチベットに攻め込むと脅した。チベット軍は全て中国との国境に投入しており、ネパールに対処するために呼び戻すことはできないので、ネパールの圧力に屈せざるを得なかった(2)。

チベットの歴史上の大きな不可解な事件――ダライラマ13世とパンチェンラマ9世の決裂の原因もこの時点までさかのぼる。中国との国境防衛の軍隊を維持することは、チベット政府にとって重い財政負担だった。中国が蒋介石によって統一されていくに伴い、チベットは一層の軍拡により中国に抵抗する力を強める必要に迫られた。そのためダライラマ13世はチベットの歴史上未曽有の決定――寺院からの徴税――をせざるを得なくなった。それ以前にもダライラマ13世とパンチェンラマ9世との間に対立があったとはいえ、決裂するほどには達していなかった。歴史的にパンチェンラマはシガツェを中心とするツァン地区を統治してきた。彼はチベット政府に次ぐ最大の土地所有者であり、多くの荘園のほかに、十数のツォン(県に相当)を管轄していた。パンチェンの権力は自己完結しており、自分の税収は自分で使い、それまでラサに上納したことはなかった。ダライの新税令はパンチェンの領地は今後チベットの軍事支出の四分の一を負担すると定めており、これがパンチェンの強烈な不満を引き起こした。対立が尖鋭化し、ついには1923年にパンチェンラマ9世は中国に亡命して民国政府に身を寄せ、これ以降チベット「親漢派」のリーダーとなってダライラマ13世の終生の敵対者となった。

軍拡のための増税は、パンチェンの国外脱出を招いただけでなく、僧侶や貴族階級の機嫌も損ねた。彼らはチベットの独立は支持したが、自分達が中国との対抗のために代償を払わざるをえなくなったら、不満の気持ちが生じた。とりわけ危険なのは、中国と対抗する実力を備えるためには、軍隊を近代化しなければならず、そうすると必然的にチベットの伝統秩序に対する挑戦することになるということだった。他の階級は全て中国に対抗するために代償を払うだけだが、軍隊は受益者だ。新思想を受け入れ西側式訓練を受けた士官たちは若くて活力ある集団であり、彼らは近代的知識と団結心を有してチベット近代化事業に打ち込んでおり、しかもしばしばチベットの伝統をチベットの後進性の原因とみなしていた。彼らはチベットの前途と安全は、ラマたちの祈祷によってではなく、軍事力によって守らなければならないと信じていた。彼らはイギリス人を羨み、生活の中で模倣した。洋服と皮靴を身につけ、会ったら握手をし、テニスとポロを楽しんだ。軍隊の号令は英語を使い、演奏するのは英国国歌――ゴッド・セイブ・ザ・キング――だった(3)。彼ら内部の思想傾向と団結はすでにいささか革新党の趣があり、そのためチベットの伝統政治にとっては非常に危険な勢力とみなされるようになった。ラマたちはその世襲の権威が脅かされることに我慢できなかった。チベットはこの世に二つとない仏教国であり、最も保護すべきは宗教の至高の地位であり、宗教を弱め堕落した世俗国家を守ることに一体どんな意義があるだろう、と彼らは考えた。

これは確かにダライラマ13世も考慮しないわけにはいかない根本的な問題だ。軍隊のダライラマの世俗的権力維持と中国との対抗における役割は良く知ってはいたが、いかなる宗教的権威に対する挑戦も容認できない。なぜなら宗教こそが彼自身の世俗的権力の源だからだ。

勢力の拡大に伴い、チベットの軍事集団は改革の矛先をダライラマにも向け始めた。彼らはひそかに連絡をとって盟約を結び、チベット伝統社会の政教一致体制を改めて、ダライに世俗権力を放棄させ、宗教面での精神的リーダーの役だけを務めさせよう図った。これは明らかに超えてはいけない一線を超えていた。ダライラマ13世はすぐさま彼ら親西側傾向の士官を解任した。反抗を避けるために、解任はすべて非政治的な取るに足りない理由で行われた。例えば、数人の士官が免職されたのは、イギリス人の髪型にしたためであった。ダライラマはこれをきっかけに軍隊を弱めることを決意し、チベットは再び近代化の道から退いた(4)。

この転換はダライラマ13世の対外政策の変化ももたらした。彼はイギリスへの依存は後ろ盾探しの問題だけではなく、それに伴って西側民主思想が浸透してくるということに気づいた。後ろ盾としてはいざという時に頼りになるとは限らない。イギリスはこれまでチベットのために中国と戦争をしようと考えたこともチベットのために防衛費を負担しようとしたこともない。一方、西側民主思想はチベット社会にとって破滅的な脅威であることは明々白々だ。比較すると、伝統的に専制政治の中国の方がこの面ではむしろ危害は小さい。また、現実的に考えて、改革派の士官が解任されてから、チベットの軍隊は衰退に向かっていた。1931年チベット軍と中国軍がカムと青海〔アムド〕で戦争になったが、結果は惨敗で、チベットは多くの領土を失い、中国とチベットの国境は再び西に移り、中国のチベットに対する軍事的圧力が強まった。もし軍隊を弱めながら、中国との対抗を続けたら、その結果はより大きな敗北だろう。抜け目のないダライラマ13世は中国との関係改善の姿勢を見せ、中国とイギリスの間でバランスゲームをやり始めた。

中国人はダライラマ13世が「祖国の統一を擁護」していたと説明するのに、常々次の言葉を引用する。一つは彼が1920年に甘粛地方政府から来た数人の代表団に語った言葉だ。「余の親英は本心ではなく、欽差(聯豫のこと)の無理強いがひどすぎたので、そうするしかなかったのだ。このたび貴代表団がチベットに来られたことに余は非常に感激している。大総統〔蒋介石〕が速やかに全権代表を派遣し、懸案を解決するよう希望する。余は内部に力を傾注し、ともに五族の幸福をはかる」(5)。もう一つは1930年彼がラサで国民党政府のチベットと漢の混血の職員を謁見したときに語った言葉だ。「イギリス人は確かに私を誘惑しようとしているが、私は主権は失ってはならないことを知っており、性質も習慣も相容れないので、彼らが来てもいつも表面的な応対をしており、寸分の権益も与えていない」。チベットと中国のカムの領土紛争について、彼は「いずれにしても中国の領土なのだから、彼我に分けることがあろうか」(6)。これらの談話記録を残したのはいずれも使命を帯びた中国側要員であるから、彼らの記載が正確なのか、自分の功績とするために意図的に誇張したりこじつけたりしていないかは疑問なしとしない。だがたとえダライラマ13世が本当にそう言ったとしても、彼の本音だと断定できるだろうか? 彼はイギリス人に対して「表面的な対応」ができるのに、なぜ中国に対しては同じような手を使えないと言えるだろう? 耳触りのいい言葉を言うのは難しいことではない。イギリス人に対して「寸分の利益も与えない」のと同様、どうして中国がなにかを得たと言えよう? 口頭の二言三言で話者の内心を断定することは、政治分野の法則と一致しないばかりか、日常生活においてさえあまりにも単純だと言わざるを得ない。

ダライラマ13世が再び中国に近づいたのは、ほとんど仕方なくしたことであって、「祖国統一の擁護」には程遠い。彼の心の奥底では中国が四分五裂に陥り、永遠に統一や強大化しないことを切望していたはずだ。イギリス人のチャールズ・ベルは一つのディテールを書き残している。ダライラマ13世は日本がすでに中国に軍事的手段で圧力をかけ始めたと聞いて、「彼の顔には愉快そうな表情が浮かんだ」(7)。ダライラマ13世は日本の中国全面侵略の日までは生き延びなかったが、もし生きていたら彼にとって祝うべき記念日になっていただろう。実際、もし日本の中国侵略がなければ、チベットは共産党時代を待たず、民国時代に再び漢人の軍隊に占領されてしまった可能性が大きい。日本との交戦中においてさえ、蒋介石は強硬にチベットに軍隊を派遣し、「チベットに中央の命令に従わせなければならない。チベットに日本と結託するような動きがあれば、日本とみなし、直ちに空爆せよ」と命じている(8)。そして実際にアムドとカム方面においてチベット〔ウ・ツァン〕侵攻のための部隊配置を行っている。

ダライラマ13世は1933年末に享年57歳で逝去した。彼はその統治37年間チベット独立事業を指導し、そしてかなりの程度実現した。彼の死は中国に平和的手段でチベットを取り戻すチャンスを与えた。1934年、ダライラマ13世弔問の名義で、民国政府は参謀次長黄慕松を特使としてチベットに派遣した。それは1912年に中国人がチベットから追い出されてから初めての中国高官のチベット行きだった。黄慕松は清朝の駐チベット大臣を模倣し、四川からチベットまで伝統の路線を進み、儀式も非常に見栄えに凝って、チベット人の中国統治に対する記憶を呼び戻そうと努力した。

黄慕松チベット使節日記に、彼のラサでの儀式に参加した隊列を紹介されている。

一、騎馬隊三十騎。
二、完全装備の儀仗。
三、軍楽隊一班。
四、僧俗官四人の先導。
五、飾り付けた亭は、中に玉冊〔皇帝(この時は総統か)の詔を書いた玉簡〕と玉印を置き、外は黄色の縮緬で囲み、彩球を周りにつるし、国旗と党旗を前に交差させ、四人が肩に担ぐ。
六、郭隊長が衛兵四人を率いて亭を護衛する。
七、特使は大輿に乗る。
八、全職員が乗馬する。
九、衛兵十人。(9)

だが彼ができたのは見せ場作りに限られ、中国とチベットの関係は実質的な進展があったわけではない。彼の記述によると、彼に割り当てられたチベットとの交渉における中国の立場は次のようなものだった。

甲、チベットにまず認めてもらうべき前提の二条件。
一、チベットは当然に中国領の一部である。
二、チベットは中央に服従する。

乙、チベットの政治制度に対する声明。
一、共同で仏教を崇敬し、擁護し発揚する。
二、チベットの既存の政治制度を維持し、チベットに自治を許し、チベットの自治権の範囲内の行政は、中央は干渉しない。その対外関係は、双方が一致しなければならず、全国統一的な国家行政に関しては、中央政府が掌理する。それは以下のものである。
(一)外交は中央が担当する。
(二)国防は中央が計画する。
(三)交通は中央が設置する。
(四)チベットの重要官吏はチベット自治政府が選んでから、中央に申請し各個に任命する。

丙、中央がチベット自治を許可する以上、国家の領土主権の完璧を図るため、高官を派遣して常時チベットに駐在させ、中央を代表し、国家行政を行う一方で、地方自治を指導する(10)。

この国民党政府の立場は、後の共産党とチベットの「無血解放」交渉の基礎でもあることを知ることができる。チベットが共産党の主張を受け入れたのは、共産党の大軍がすでにチベットに侵攻してきたので他に選択の余地がなかったからだ。

ダライラマ13世の入寂からダライラマ14世の親政までの18年間、摂政の役割を担ったチベット政府は基本的にダライラマ13世の方針を維持し、うわべだけ調子を合わせて中国に対して口先の迎合をする一方、断固としてチベットの実質的な独立を維持した。彼らは黄慕松に対し「イギリス人との交際は、純粋な社交であり、チベットは独立できず、中国だけが頼りである。だが物ごとには手順があり、急ぎ過ぎてはならない」と言っている(11)。その口ぶりはダライラマ13世と全く変わらない。具体的な問題について承諾を与えず、逆に中国から恩恵を得ようとばかりした。結局、黄慕松は無駄骨折りで、そのチベット派遣の成果はラサに無線電信局一つと連絡事務所一つを残したことだけだった。チベット政府はその後イギリス人にも同様にラサに無線電信局と連絡事務所を設置することを認めた。この行動で両者の間でバランスをとろうとする意図がはっきり見て取れる。

黄将軍は内地に戻ると直ちにモンゴル・チベット委員会の委員長に任命され、チベット事務を主管した。彼はチベットを再び支配する希望を当時内地に亡命していたパンチェンラマに託した。チベットにダライとパンチェンの二人の活仏が並存する制度が生まれた効果の一つは、ダライ逝去の時にパンチェンが宗教リーダーの役割を引き継ぎ、次のダライが成人になるまでの長い真空を作らないようにすることだ。パンチェンラマ9世は1923年にチベットを逃げ出してからはずっと中国政府に養われていた。もし彼がこの時チベットに帰ることができれば、疑いもなく中国のチベットへの影響力発揮に有利だっただろう。チベット〔=ウ・ツァン〕とアムド・カム地区のチベット人の間に当時パンチェンのチベット帰還を求める声が湧きあがった。だがチベット政府にとってはパンチェンのチベット帰還は彼らの権力を弱めることであり、チベットの親漢勢力を強めることになるので、口先ではパンチェンに歓迎すると言っても、実際は幾重にも障害を設けていた。だが、いずれにせよ中国にとっては一つのチャンスが目の前にあった。チベット帰還を急ぐパンチェンラマ9世は中国に十分な合法性を提供することができるし、さらには「パンチェンの求めによって」武力を行使し、パンチェンをチベットに送り返すと同時に再びチベットを支配することもできるのだ。

まさにこの時、中国に「七七事変〔盧溝橋事件1937年〕」が起こって日本が中国に向けて大挙進攻してきた。中国はよりいっそう西側に頼らざるを得なくなった。イギリスはずっとパンチェンのチベット帰還に反対しており、まして中国がチベットに武力を行使するのは容認しない。民国外交部〔外務省〕は直ちに兵を出してパンチェンをチベットに送り返すという計画に異議を唱え、「この国難の緊急時に当たって、国際情勢の上からは、いかなる列強友邦の反発も招かないようにすべきである」と強く主張した(12)。国民政府はやむなくとりあえずチベット経営を放棄し、全力で日本人の侵攻に対抗した。1937年8月の行政院会議で「抗日戦期間中は、パンチェンのチベット帰還は遅らせるのがよろしい」と決議した。中国内地に15年放浪し、チベットに帰ることに心を砕いて来たパンチェンラマ9世はこの打撃を受けて、3ヶ月後にはこの世を去った。齢わずか55歳であった。

パンチェンチベット帰還問題で行き詰っていた中国・チベット関係はパンチェンの逝去で多少緩和した。黄慕松の後任としてモンゴル・チベット委員会委員長に就任した呉忠信はダライラマ14世の地位継承式の機会を利用して再び中央高官の身分で〔1940年に〕チベットに入った。彼はチベットに対して感情から籠絡する手段をとり、そのための贈り物として三百頭分を持って行き、ダライ個人への贈り物だけでも80人以上が担ぐ量だった。呉忠信の随員朱少逸の記録によると、ダライへの贈り物には次の物があった。

「純金製メダル一枚、重さ約3両〔1両=31.25グラム(Wikipediaより)〕。金文字の銀の屏風4扇、長さ各5尺〔1尺は1/3メートル〕、幅2尺。純銀製仏像1、花瓶2、高さ各3尺余り。純銀製果物入れ、径1尺余り。サンゴの数珠1連、計108粒、粒はみな親指ほどの大きさ。緑玉碗2、精凝滴翠。福州漆製つるし屏風4扇、技巧絶妙。他に湖南刺繍絵、七宝焼の器、高級磁器食器、金糸絨毯、および各色の絹織物と毛織物、上級と下級の茶、およそ26色、240種余りに上った。全て国産の高級品で、価値は10万元〔1935年の幣制緊急令で1元=14.5シリング=0.30ドル(http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/C031.htm)〕以上であり、贈り物の多さは民国の新記録だった」(13)。

チベットの300人以上の六品以上の僧俗の官吏全員に贈り物が贈られた。チベット三大寺院の1万人以上の僧侶も、みな平均一人当たりチベット銀7両5銭布施を受けた。呉忠信は自分で「今回の布施の範囲は広く、各人の得た実利もまたこれまでに例がない」と述べている(14)。彼はまた一人のドイツのハンブルグ大学を卒業した医学博士を連れて行って、ラサで治療行為を行わせ、奇跡的な治療効果を発揮し、「命を救われた人は数え切れず」、治癒した患者には貴族高官から活仏まで含まれた。同行者は彼に「仏は人を救っても自らは生きられないのに、君は仏を生かして人も生かす」という詩を贈った(15)。これは共産党が後にチベットで「統一戦線」を行ったのとまったく同じである。

だが政治というものの基本的特徴の一つは感情によって左右されないということだ。チベットの統治者は気前の良い贈り物を受け取っても、それによって原則を変えはしなかった。それどころか、呉忠信の地位継承式の前に転生霊童に会いたいという要求も認めず、呉忠信が代表団を引き揚げると脅して始めてチベット側は妥協した。その後また地位継承式の席順をめぐって口論になった。最後は宙チベット大臣の例に倣って呉忠信の席次を決めた。これが中国の主権を象徴する重大な勝利として、それ以降の中国人によって何度も引用されている。実際は主権をこんな小さなことに象徴させること自体が、すでにこの種の主権が嘘であり無力であることを物語っている。

当時のチベット摂政レティンは中国史学界に「祖国熱愛」「統一擁護」だったと評価されている。呉忠信がチベットに行った時レティンの態度は友好的だったが、実際問題に関してはすべてそつなく口実を設けて断っている。そして呉忠信のチベット訪問はほとんど実質的な成果を得られなかった。呉忠信の自筆の記録によると、レティンは民国政府のラサに駐チベット弁事長官公署を設置したいという要求に対して次のように答えている。

「(一)チベット内部の事情は複雑で、人民の疑念は深いので、いま急いで高級機関を設置すると、誤解を生じやすい。(二)イギリスの代表グールドもここに留まって、今まさに漢とチベットの問題の展開を注視しており、疑念を持っている。(三)ダライラマ13世の前例によると、このような重大案件はまず僧俗の民衆大会に諮って解決しなければならないが、それを通過するのは非常に難しく、不承認となると中央の威信を傷つけるのではないかと、自分は非常に心配である。(四)今回ダライの地位継承式が完了し、中国とチベットの感情はちょうど円満になったばかりで、今は呉委員長はできるだけ早く都に戻って復命し、自分はここで徐々に進めていけば、必ずや中央の希望に添えるであろう。(五)自分は中央の厚恩を受け、いつも誠心誠意報恩を考えているので、分かったことは全て伝えずにはいられない」(16)。

この記事で彼のそつのなさが少しは見てとれるだろう。レティンが本当に「親漢」をあらわにするのはその後任摂政のタクタとの権力闘争において劣勢に立たされたときである。その時彼の代表は民国政府に三つの要求をした。一、中央がタクタに対し権力を引き渡すよう命ずること。二、レティン復権の活動費用として20万元を貸与すること。三、もし前二項がうまくいかなかったら、国民政府が軍隊と飛行機を派遣して支援し、タクタに権力委譲を迫ること(17)。だから、親漢か親漢でないかは、役に立つか立たないかで決まるのだ。チベット人に自分から進んで中国のチベットに対する主権を守ることを期待するのは、勝手な思い込みに過ぎない。

出典:http://www.observechina.net/info/artshow.asp?ID=49386
(脚注は出典の原文参照)

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