徐友漁:転換期中国における社会思想の分化と発展
改革開放の30年間、中国の社会転換は急激かつ深刻であり、多くの問題・利益・矛盾・要求を反映した社会思想が豊富に現れた。妨害を排除し、改革開放の円滑な進行を保障するために、小平は「論争しない」という指示を出した。「万言書」(一万字を超える長い政策提言)はときどき出てきたし、「社会主義か資本主義か」問題は蒸し返され続けたが、全体として見れば論争は体制内ではなく民間で行われ、思想文化の大枠はもう従来のイデオロギーのステレオタイプには陥らなくなった。現代中国の社会思想の分化と発展は人々の独立した観察と自発的思考に源を発する。主流メディアではあまり見られないが、それが映し出すのは真実の存在であり、中国の現代化の前途と未来の社会の方向に大きな影響を与えるだろう。
思想の起点と80年代の「文化ブーム」
中国の改革開放には一つの前提条件が必要であった。それは思想解放だ。思想解放の背景は中国人民が文化大革命の桎梏から抜け出したことだ。文革は個人崇拝を大々的に行い、法制度は完全に破壊され、数え切れない冤罪と誤判を生み、人民に対しファシズム独裁をおこない、国民経済を破産のふちに追い込んだ。その痛みを思い起こして、中国人はトップリーダーから一般民衆まで、徹底的に文革と決別することを決心した。
文革のどこが間違っていたのか、どうして文革の大破壊と大悲劇が生じたのか? 以前の観念によれば、答案は階級闘争、路線闘争と、いわゆる「資本主義の復活」の中に求めることになるが、もしそうすれば中国は旧来の道を歩むしかない。葉剣英、胡耀邦、李維漢、小平らのリーダーが左傾思想の長期支配と文革の手痛い教訓から得た結論は、「封建」専制主義の悪影響を排除すべきだということだった。葉剣英は「四人組」をはっきりと「『封建』ファシスト」だと指摘した。彼は、「我々の思想解放の重要任務の一つは、『封建』主義思想の残渣の影響を克服することだ。レーニンは、科学的社会主義の思想を宣伝するだけでなく、民主主義思想も宣伝しなければならないと言った。我々は『封建』主義が生み出す様々な迷信を打破し、縛られた我々の思想を解放しなければならない」と言った。この認識は知識層の共鳴と広範な大衆の支持を得て、全人民の共通認識となった。
思想解放の道は長く、曲がりくねっている。「封建」専制思想の影響を克服し、左を防ぐよう注意する方針も、「ブルジョア階級の復活反対」の騒ぎが時々起るのを防ぐことはできなかった。1980年代の思想文化建設は、直接もしくは間接に「封建」専制思想の残渣反対という目標を中心とし、啓蒙と新知識、世界に目を向けることを基調として展開された。
80年代の「文化ブーム」の中から多くの民間の思想学術団体が現れた。その中で影響力の大きい代表的な団体と流派には次のものがある。一、国学復興を任務とする中国文化書院。二、雑誌『新啓蒙』に集まった理論家。マルクス主義の人間性とヒューマニズムの原型の回復をはかった。三、自然科学研究者を中心とする『未来に向けて』編集委員会。科学精神と方法の振興に力を入れ、最新の科学成果と結び付けて新しい歴史観と世界観を構築することをめざした。四、北京大学と社会科学院の青年学者を主体とする『文化:中国と世界』編集委員会。これは専ら現代西側人文思想の輸入と紹介に努めた。五、『二十世紀文庫』などの編集委員会。西側社会学、経済学、法学、政治学、歴史学、文化学などの書籍を大量に翻訳出版した。
80年代の「文化ブーム」では各種の「主義」(マルクス主義、存在主義、フロイト主義など)に濃厚な興味を示され、精神と文化の偏愛は制度配置の探求を大幅に上回った。人々は深遠性、基礎性、系統性を追求し、現実性、直接性に対する渇望はあまり示さなかった。当時人気の学問は美学だった。これは理解できる。文革の非人間的状況から抜け出して、まずはっきりさせなければならないのは、人はいかにして人たりえるのか、何が心のよりどころなのかといった究極的な大問題だったからだ。
社会転換と思想転換
80年代の改革開放はさまざまな抵抗と曲折の中でも頑強に進行を続けた。国有企業に対しては、権限・利益の譲渡、活力・効率の増大をメインとする会社化、株式化改革が緩慢に進んだ。民営企業が地面から顔を出し、民営経済が急速に発展し、各種所有制の経済がともに発展するという枠組みが形成された。東南沿海のいくつかの都市は経済特区に指定され、対外開放の橋頭保になり、海外からの投資が徐々に増加した。
80年代末の騒動〔六四天安門事件〕の後、改革開放は一時政治情勢の突然の変化に直面した。それは小平の南方での視察という大きな行動と一連の改革開放支持の演説によって、復古の勢いを強制的に止め、改革開放は再び力を得て、タガが外れたような勢いでどんどん前進している。
改革の最初の駆動力が理想や歴史的責任などの理念であったとすれば、二回目の駆動力は利益だった。改革はすでに後戻りのきかない勢いとなったが、改革の理想の輝きと道義的訴求力はあらかた消えてしまい、特殊利益集団は肥え太り、社会の不公正が顕在化し、「改革すべきか否か」という問いは意味を失い、「どのような改革をすべきか」が重要となった。貧富の格差が拡大し、医療、教育、住宅、生産、安全、食品安全など多くの問題が山積している。人々が毎日直面し、議論し、論争するのはみな「問題」である。これは80年代の盛大な「主義」議論と著しい対照をなしている。もし80年代の代表作を李沢厚の『美の歴程』と『批判哲学の批判』だとすれば、90年代の代表作は何清漣の『現代化の落し穴』と孫立平の社会階層分化に関するいくつかの著作だろう。
もし80年代の思想文化の主流が肯定と現代化の追求であったとすれば、90年代に一時騒々しかったのはポストモダニズムだった。それは80年代に中国に上陸していたが、この時初めて気候にあって急激に膨張した。五四新文化運動で提唱され、80年代「文化ブーム」で再び盛んになった啓蒙・科学・民主・理性などの価値は批判否定され、意義やルールは消し去られ、前衛的な青年は中国が基本的にプレモダンの状況にあるという事実を無視して、無理に現代を飛び越えて西側の最新潮流につながろうとした。さいわい、この種の思潮は一時のブームに終わった。
80年代の思想文化の基調が急進的(および理想主義的、革命的)であったとすれば、90年代は一種の批判的反省であった。ある人は徹底的に壊した上で新しいものを作り、天地をひっくりかえすという革命の破壊性、急げば目的を達しえないことの自己批判を始め、保守・伝統尊重など以前はマイナスとみなされた価値を肯定した。ある人は「革命との決別」〔李沢厚と劉再復の対談集の題名〕というスローガンを叫び、ある人は革命党はこの機に乗じて政権党に変るべきだと提言した。論争の結果は出なかったが、いずれにせよ反省するのは良いことだ。
ヒューマニズムの喪失が大議論を巻き起こした。ある人は喪失の原因は知識人がその言論によって投獄されるなどの様々な弾圧により人格が委縮し、精神が小人化・動物化し、一方主流イデオロギーは教条に固執し、専制政治と結び付いたイデオロギーがヒューマニズムを排斥し、思想の硬直化を招いているとみなした。ある人は原因は市場経済化がもたらした商品の氾濫、大衆消費文化や低俗化にあるとみなした。またある人は現実逃避により、近いものを捨てて遠い物を求めるようなヒューマニズム喪失の主張は明末清初にさかのぼると述べた。王蒙はヒューマニズムの喪失の原因を市場経済に帰することに反対し、中国の近現代においてヒューマニズムは全く承認されたことはなく、まして実行されたこともないとみなした。王「だから私は、これまで持ったことのないものを何で失うことができるのか分からない」。「もしいま『喪失』したというなら、喪失以前に我々のヒューマニズムはどんな状態だったんだね? 中天の太陽のようだったのかね? 時代を牽引していたのかね? 伝統もしくは『主流』になっていたのかね? 盛りを過ぎて衰えたのかね?」。残念ながら、のちの人はほとんど一致して、ヒューマニズムの喪失の原因を市場経済に求めている。
いわゆる「自由主義と新左派」の争い
転換期の新しい問題、ジレンマ、誘惑と圧力は、80年代に共通認識を持っていた知識人の立場や観点の分化をもたらし、対立と論争が生じた。
一部の人々が「新左派」と呼ばれる理由は、一、彼らの思想理論資源が完全に現代西側新左翼のものだからである。例えば、サミール・アミン、イマニュエル・ウォーラーステイン、グンダー・フランク、エドワード・サイード、ドス・サントス、ノーム・チョムスキーなどである。ある人の文章と言論はしばしば西側新左翼の雑誌に発表されている。二、彼らは中国の旧左派同様、資本主義と市場経済にだけ反対し、専制主義に反対しない。三、旧左派同様、彼らも毛沢東の左傾的やり方を肯定する。例えば大躍進、人民公社、文化大革命などなど。これら「社会主義の遺産」を継承すべきと主張している。
もう一方の、自由主義派と呼ばれる人々は西側自由主義思想、ロック、モンテスキュー、アダム・スミスの学説の援用に重きを置く。その基本的主張は簡単にいうと以下の三点だ。一、市場経済、自由・公正な競争、二、個人の自由と権利の保障、たとえば言論の自由や財産権。三、立憲政治と法治主義、政府権力は監督と相互けん制を受けなくてはならない。
今日の中国のほとんどすべての重大な政治・社会・文化問題について、わけても「社会の弊害、社会的不公正が生ずる根本原因」について答えるときは双方はあい対立する意見を持っている。
新左派は問題が市場経済自体から起こったのであるとみなし、それに対して批判と抵抗をすべきであるとみなす。別の一派は原因は市場が旧権力体制の統制を脱しておらず、未成熟・不適正であるため、解決策は市場経済の適正化と改善であるとみなす。
それに関連するのはグローバル化とWTO加盟に対する態度だ。自由主義者の基本的立場は、中国は積極的、肯定的な態度でグローバル化時代の到来を迎えるべきだとみなす。だが新左派はそうしたら中国は不公正な世界資本主義システムに組み込まれるとみなす。彼らの中のある人は、第三世界諸国は現在の歴史的条件下での発展は不平等な発展、ないし自殺的な発展しかないから、第三世界諸国の現在の唯一の任務は、地球規模の反資本主義闘争を展開することであり、新しい、公平な経済システムができるのを待ってグローバル化に参加すべきだと言っている。
中国の国情について、新左派のある人は、中国は現在すでに資本主義もしくは市場経済であり、世界資本主義システムの一部であり、「中国の問題はすでに同時に世界資本主義市場の問題であるから、中国問題に対する診断は同時にグローバル化する資本主義およびその問題の診断でなければならない」と断言する〔汪暉「現代中国の思想状況と現代性の問題」1997〕。もう一方は、この意見に反対し、改革開放と市場経済化は根本的には中国の社会制度とその性質を変えていないとみなす。
双方のラベル〔理論〕はどちらも西側のものだが、直面しているのは中国の現実問題である。市場経済はけっしてプラスだけもしくはマイナスだけの単純な作用ではない。重要なのは市場経済よりも効果的で、より実行可能な方法があるかということだ。汚職・腐敗の主な原因は何か? 反腐敗第一線で長期間戦ってきた湖南省前紀律検査委員会書記の楊敏之の見方は非常に筋が通っている。「我が国の現在の深刻な腐敗現象は古い体制に依存している。10年間苦しかったことと言えば、旧体制の妨害だ。反腐敗とは実質的には旧体制、旧メカニズムとの力比べの繰り返しだった……。要するに、いまある体制問題を根本的に解決するには、改革開放の徹底と社会主義市場経済体制のたゆまぬ改善によるしかない」〔湖南省前紀律検査委員会書記インタビュー、初出『南方週末』2006年〕。
民族主義の勃興
90年代から、重大な国際事件や国際衝突の発生に伴って、中国の民族主義感情が高まり、ときに熱狂にまで高まった。
民族主義は90年代初めに隙に乗じて入ってきた。80年代末の国内の巨大な事変〔天安門事件〕とそれに続くソ連東欧の巨大な変化が、人々の信仰の空白を生じさせ、イデオロギーの上で民族主義の助けを借りる必要があった。ある人は、「特に中華民族精神と文化伝統を宣揚する愛国主義、民族主義を現代政治イデオロギーの中核的内容として宣揚すべきである。全人民、とりわけ知識人と公務員に対して国家民族利益を崇高な精神の本体とする愛国主義政治イデオロギーを注入することに重点をおくべきである」と主張した〔何新「イデオロギー問題についての考察」1992年7月8日〕。
ある学者は「民族主義と中国転換期のイデオロギー」と題した文章〔萧功秦。李世涛編『知識人の立場』2002年所収〕において、「中国の今の現代化においては儒教主流文化を基礎とする民族主義を社会的一体化と統合の資源として使うことができる。旧来の社会主義イデオロギーと経済発展の実績は政治的合法性の基礎の一つだが、それだけでは足りない。それだけでは民族的伝統の豊富な歴史と文化資源が欠けている」と述べた。
1996年に出版された『ノーと言える中国』は民族主義感情の熱狂と非理性の一面を代表している。この本は愛国を反米とイコールとしている。その立論の基礎は、米国人は邪悪であるだけでなく愚昧であるということだ。作者は、「大多数の中国の高校生の米国の歴史文化に関する知識は、米国の大学生よりずっと多い。米国の青年の堕落の証拠である薬物乱用、セックス、テレビゲームの背後に、人類文明に捨て去られる予兆が現れている」と述べている。1999年に出版された『グローバル化の影の下の中国の道』の考え方も同じだ。「中国は過去長年にわたって、『いい子』になろうと努力してきた。その結果腕力しか知らない米国に中国の実力を忘れさせた」。作者は中国も国際イメージの悪化を気にせず「悪ガキ」になるよう提案する。作者が心配するのは「今の中国人はすでに『悪ガキ』になる男らしさを失っている。このような退廃的な社会風潮は急いで改めなければならない」ことだけだ。
2008年3月、オリンピックの聖火リレーがパリで襲撃〔妨害〕されたことで、国内でカルフールのボイコット事件が勃発し、再び狭隘な民族主義の大波が渦巻いた。ボイコット騒ぎはカルフールの大株主がチベット独立を支持しているといううわさがきっかけになったが、その後それがデマであることが証明された。
民族主義の勃興は、一部の学者が理性的態度でその作用を研究することを促した。ある人は、民族主義には二面性があり、現代中国ではマイナスがプラスより多いと指摘した。第一に、民族解放運動に推進力を提供し、国家に統合力を提供すると同時に、しばしば自由民主思想を排斥・抑圧する。第二に、帝国主義の圧迫と侵略に反対すると同時に、排外主義にも結び付く。第三に、それはしばしば同一化対象のすり替えをもたらす。それは文化主義の代替政治原則を用いて、国家防衛を伝統文化防衛と位置付ける。それは愛国と特定政党への愛を混同させる〔王中江「現代中国民族主義の誤謬」『中国社会科学季刊』1993年第3期〕。また一部の学者は理性、立憲民主主義、法治主義に基づく愛国主義と民族主義を提唱した。
文化民族主義と「国学ブーム」
現代中国の民族主義には一つの際立った特徴がある。それは一部の知識人や学者が中国文化の西側文化に対する優越の証明に熱を上げていることだ。この種の文化民族主義の基本思想は、「西側文明はまさに解決不可能な精神と文化の危機に直面しており、中国伝統文化だけが世界を危機から救い出すことができ、21世紀は中国文化の世紀である」というものだ。有名な学者の季羨林北京大学教授はその代表の一人だ。彼は「各種の文化はみな盛衰のプロセスをへるのであり、西側文明が支配的地位についてから何世紀にもなるから、三十年河東、三十年河西〔世の無常を表すことわざ〕、いま東方文化が支配的地位を占めるときが巡ってきた」と言っている〔季羨林『三十年河東、三十年河西』2006年〕。
彼はまた、次のように主張している。中国哲学の本質は「天人合一」観であり、人類と大自然が一体であると信奉するが、西側思想の核心は「知識は力なり」〔フランシス・ベーコン〕という言葉に表れており、人類が知識を利用して自然を征服すべきことを主張する。現代の人類が直面する環境問題、生態系の危機などなど、みな人と自然との関係をうまく処理しなかったことによってもたらされた弊害である。彼は「『天人合一』だけが人類を救える」〔雑誌『東方』1993年創刊号〕の中で、「我々は現在のこの危急存亡のときに臨んで、東方の中国倫理道徳思想に助けを求め、人と自然の関係を正しく処理しなければならない。……東方の倫理道徳思想だけが、東方の哲学思想だけが、人類を救うことができるのだ」。だが、季さんはここで「天人合一」の意味を曲解している。「天人合一」は現代の生態学的哲学などではない。
現代の「国学ブーム」の第一の波は1993年北京大学に端を発する。だが正統を自任する人物が政治面から発動した大々的な批判により、マルクス主義に取って代わろうと図るものだと非難され、おびえて黙り込み、中断してしまった。第一の波は10年後におこった。2003年の夏、湖南省長沙で「全国児童経典詠唱経験交流会」が挙行された。当時すでに60都市500万家庭の少年が儒教経典詠唱の列に加わっていたという。「読経」スローガンの出現と『甲申文化宣言』〔2004年雑誌『大地』掲載〕の発表があったので、2004年は「文化保守主義年」と命名された。続けて、人民大学に国学院が設立され、人民大学の校長がそのために発表した講演の中で五四新文化運動を猛烈に批判したことが論争を呼んだ。その後、孔子を祭ることの是非、儒教を国教とすることの是非などを巡っても、大きな論争があった。
儒学思想の宣揚には明らかに二つの傾向が含まれている。一種は文化儒学である。それは半世紀間儒学を「封建」主義のカスとして完全に否定、批判してきたことの是正であり、伝統文化の中の優秀な成分を選んで継承発揚し、現代生活の中で一定の日常の人倫維持の役割を発揮させることを主張する。これは合理的かつ当然の主張である。我々は伝統文化に対して大きな借りがあるから、補習は大々的に進めなければならない。
もう一種は政治儒学の唱道である。「儒家の政治的知恵と指導原則を使って、中国政治の原則を転換し、中国において天道性理に起源を持つ合法的な政治秩序を構築し、中国自身の文化的伝統の基礎の上に中国の政治文化を再建する」。この種の観点は法の前の平等、一人一票の現代民主政治に反対し、「上智下愚」、「君子小人」、そして聖人は生まれながらにして庶民を教え諭すのであり、普通の人は理性を用いて事理を弁識する権利はないという主張に固執する。この種の非常識な主張は伝統文化の継承と宣揚にとって足を引っ張ることにしかならない。
中国の今後の発展にも思想解放が必要である。30年の思想文化の発展と変化は一元から多元への流れであった。対立と論争が我々にもたらすのは豊富化と革新である。
出典:http://www.chinese-thought.org/zwsx/008240.htm
初出『南方週末』2008年12月11日
〔 〕内は訳注。
改革開放の30年間、中国の社会転換は急激かつ深刻であり、多くの問題・利益・矛盾・要求を反映した社会思想が豊富に現れた。妨害を排除し、改革開放の円滑な進行を保障するために、小平は「論争しない」という指示を出した。「万言書」(一万字を超える長い政策提言)はときどき出てきたし、「社会主義か資本主義か」問題は蒸し返され続けたが、全体として見れば論争は体制内ではなく民間で行われ、思想文化の大枠はもう従来のイデオロギーのステレオタイプには陥らなくなった。現代中国の社会思想の分化と発展は人々の独立した観察と自発的思考に源を発する。主流メディアではあまり見られないが、それが映し出すのは真実の存在であり、中国の現代化の前途と未来の社会の方向に大きな影響を与えるだろう。
思想の起点と80年代の「文化ブーム」
中国の改革開放には一つの前提条件が必要であった。それは思想解放だ。思想解放の背景は中国人民が文化大革命の桎梏から抜け出したことだ。文革は個人崇拝を大々的に行い、法制度は完全に破壊され、数え切れない冤罪と誤判を生み、人民に対しファシズム独裁をおこない、国民経済を破産のふちに追い込んだ。その痛みを思い起こして、中国人はトップリーダーから一般民衆まで、徹底的に文革と決別することを決心した。
文革のどこが間違っていたのか、どうして文革の大破壊と大悲劇が生じたのか? 以前の観念によれば、答案は階級闘争、路線闘争と、いわゆる「資本主義の復活」の中に求めることになるが、もしそうすれば中国は旧来の道を歩むしかない。葉剣英、胡耀邦、李維漢、小平らのリーダーが左傾思想の長期支配と文革の手痛い教訓から得た結論は、「封建」専制主義の悪影響を排除すべきだということだった。葉剣英は「四人組」をはっきりと「『封建』ファシスト」だと指摘した。彼は、「我々の思想解放の重要任務の一つは、『封建』主義思想の残渣の影響を克服することだ。レーニンは、科学的社会主義の思想を宣伝するだけでなく、民主主義思想も宣伝しなければならないと言った。我々は『封建』主義が生み出す様々な迷信を打破し、縛られた我々の思想を解放しなければならない」と言った。この認識は知識層の共鳴と広範な大衆の支持を得て、全人民の共通認識となった。
思想解放の道は長く、曲がりくねっている。「封建」専制思想の影響を克服し、左を防ぐよう注意する方針も、「ブルジョア階級の復活反対」の騒ぎが時々起るのを防ぐことはできなかった。1980年代の思想文化建設は、直接もしくは間接に「封建」専制思想の残渣反対という目標を中心とし、啓蒙と新知識、世界に目を向けることを基調として展開された。
80年代の「文化ブーム」の中から多くの民間の思想学術団体が現れた。その中で影響力の大きい代表的な団体と流派には次のものがある。一、国学復興を任務とする中国文化書院。二、雑誌『新啓蒙』に集まった理論家。マルクス主義の人間性とヒューマニズムの原型の回復をはかった。三、自然科学研究者を中心とする『未来に向けて』編集委員会。科学精神と方法の振興に力を入れ、最新の科学成果と結び付けて新しい歴史観と世界観を構築することをめざした。四、北京大学と社会科学院の青年学者を主体とする『文化:中国と世界』編集委員会。これは専ら現代西側人文思想の輸入と紹介に努めた。五、『二十世紀文庫』などの編集委員会。西側社会学、経済学、法学、政治学、歴史学、文化学などの書籍を大量に翻訳出版した。
80年代の「文化ブーム」では各種の「主義」(マルクス主義、存在主義、フロイト主義など)に濃厚な興味を示され、精神と文化の偏愛は制度配置の探求を大幅に上回った。人々は深遠性、基礎性、系統性を追求し、現実性、直接性に対する渇望はあまり示さなかった。当時人気の学問は美学だった。これは理解できる。文革の非人間的状況から抜け出して、まずはっきりさせなければならないのは、人はいかにして人たりえるのか、何が心のよりどころなのかといった究極的な大問題だったからだ。
社会転換と思想転換
80年代の改革開放はさまざまな抵抗と曲折の中でも頑強に進行を続けた。国有企業に対しては、権限・利益の譲渡、活力・効率の増大をメインとする会社化、株式化改革が緩慢に進んだ。民営企業が地面から顔を出し、民営経済が急速に発展し、各種所有制の経済がともに発展するという枠組みが形成された。東南沿海のいくつかの都市は経済特区に指定され、対外開放の橋頭保になり、海外からの投資が徐々に増加した。
80年代末の騒動〔六四天安門事件〕の後、改革開放は一時政治情勢の突然の変化に直面した。それは小平の南方での視察という大きな行動と一連の改革開放支持の演説によって、復古の勢いを強制的に止め、改革開放は再び力を得て、タガが外れたような勢いでどんどん前進している。
改革の最初の駆動力が理想や歴史的責任などの理念であったとすれば、二回目の駆動力は利益だった。改革はすでに後戻りのきかない勢いとなったが、改革の理想の輝きと道義的訴求力はあらかた消えてしまい、特殊利益集団は肥え太り、社会の不公正が顕在化し、「改革すべきか否か」という問いは意味を失い、「どのような改革をすべきか」が重要となった。貧富の格差が拡大し、医療、教育、住宅、生産、安全、食品安全など多くの問題が山積している。人々が毎日直面し、議論し、論争するのはみな「問題」である。これは80年代の盛大な「主義」議論と著しい対照をなしている。もし80年代の代表作を李沢厚の『美の歴程』と『批判哲学の批判』だとすれば、90年代の代表作は何清漣の『現代化の落し穴』と孫立平の社会階層分化に関するいくつかの著作だろう。
もし80年代の思想文化の主流が肯定と現代化の追求であったとすれば、90年代に一時騒々しかったのはポストモダニズムだった。それは80年代に中国に上陸していたが、この時初めて気候にあって急激に膨張した。五四新文化運動で提唱され、80年代「文化ブーム」で再び盛んになった啓蒙・科学・民主・理性などの価値は批判否定され、意義やルールは消し去られ、前衛的な青年は中国が基本的にプレモダンの状況にあるという事実を無視して、無理に現代を飛び越えて西側の最新潮流につながろうとした。さいわい、この種の思潮は一時のブームに終わった。
80年代の思想文化の基調が急進的(および理想主義的、革命的)であったとすれば、90年代は一種の批判的反省であった。ある人は徹底的に壊した上で新しいものを作り、天地をひっくりかえすという革命の破壊性、急げば目的を達しえないことの自己批判を始め、保守・伝統尊重など以前はマイナスとみなされた価値を肯定した。ある人は「革命との決別」〔李沢厚と劉再復の対談集の題名〕というスローガンを叫び、ある人は革命党はこの機に乗じて政権党に変るべきだと提言した。論争の結果は出なかったが、いずれにせよ反省するのは良いことだ。
ヒューマニズムの喪失が大議論を巻き起こした。ある人は喪失の原因は知識人がその言論によって投獄されるなどの様々な弾圧により人格が委縮し、精神が小人化・動物化し、一方主流イデオロギーは教条に固執し、専制政治と結び付いたイデオロギーがヒューマニズムを排斥し、思想の硬直化を招いているとみなした。ある人は原因は市場経済化がもたらした商品の氾濫、大衆消費文化や低俗化にあるとみなした。またある人は現実逃避により、近いものを捨てて遠い物を求めるようなヒューマニズム喪失の主張は明末清初にさかのぼると述べた。王蒙はヒューマニズムの喪失の原因を市場経済に帰することに反対し、中国の近現代においてヒューマニズムは全く承認されたことはなく、まして実行されたこともないとみなした。王「だから私は、これまで持ったことのないものを何で失うことができるのか分からない」。「もしいま『喪失』したというなら、喪失以前に我々のヒューマニズムはどんな状態だったんだね? 中天の太陽のようだったのかね? 時代を牽引していたのかね? 伝統もしくは『主流』になっていたのかね? 盛りを過ぎて衰えたのかね?」。残念ながら、のちの人はほとんど一致して、ヒューマニズムの喪失の原因を市場経済に求めている。
いわゆる「自由主義と新左派」の争い
転換期の新しい問題、ジレンマ、誘惑と圧力は、80年代に共通認識を持っていた知識人の立場や観点の分化をもたらし、対立と論争が生じた。
一部の人々が「新左派」と呼ばれる理由は、一、彼らの思想理論資源が完全に現代西側新左翼のものだからである。例えば、サミール・アミン、イマニュエル・ウォーラーステイン、グンダー・フランク、エドワード・サイード、ドス・サントス、ノーム・チョムスキーなどである。ある人の文章と言論はしばしば西側新左翼の雑誌に発表されている。二、彼らは中国の旧左派同様、資本主義と市場経済にだけ反対し、専制主義に反対しない。三、旧左派同様、彼らも毛沢東の左傾的やり方を肯定する。例えば大躍進、人民公社、文化大革命などなど。これら「社会主義の遺産」を継承すべきと主張している。
もう一方の、自由主義派と呼ばれる人々は西側自由主義思想、ロック、モンテスキュー、アダム・スミスの学説の援用に重きを置く。その基本的主張は簡単にいうと以下の三点だ。一、市場経済、自由・公正な競争、二、個人の自由と権利の保障、たとえば言論の自由や財産権。三、立憲政治と法治主義、政府権力は監督と相互けん制を受けなくてはならない。
今日の中国のほとんどすべての重大な政治・社会・文化問題について、わけても「社会の弊害、社会的不公正が生ずる根本原因」について答えるときは双方はあい対立する意見を持っている。
新左派は問題が市場経済自体から起こったのであるとみなし、それに対して批判と抵抗をすべきであるとみなす。別の一派は原因は市場が旧権力体制の統制を脱しておらず、未成熟・不適正であるため、解決策は市場経済の適正化と改善であるとみなす。
それに関連するのはグローバル化とWTO加盟に対する態度だ。自由主義者の基本的立場は、中国は積極的、肯定的な態度でグローバル化時代の到来を迎えるべきだとみなす。だが新左派はそうしたら中国は不公正な世界資本主義システムに組み込まれるとみなす。彼らの中のある人は、第三世界諸国は現在の歴史的条件下での発展は不平等な発展、ないし自殺的な発展しかないから、第三世界諸国の現在の唯一の任務は、地球規模の反資本主義闘争を展開することであり、新しい、公平な経済システムができるのを待ってグローバル化に参加すべきだと言っている。
中国の国情について、新左派のある人は、中国は現在すでに資本主義もしくは市場経済であり、世界資本主義システムの一部であり、「中国の問題はすでに同時に世界資本主義市場の問題であるから、中国問題に対する診断は同時にグローバル化する資本主義およびその問題の診断でなければならない」と断言する〔汪暉「現代中国の思想状況と現代性の問題」1997〕。もう一方は、この意見に反対し、改革開放と市場経済化は根本的には中国の社会制度とその性質を変えていないとみなす。
双方のラベル〔理論〕はどちらも西側のものだが、直面しているのは中国の現実問題である。市場経済はけっしてプラスだけもしくはマイナスだけの単純な作用ではない。重要なのは市場経済よりも効果的で、より実行可能な方法があるかということだ。汚職・腐敗の主な原因は何か? 反腐敗第一線で長期間戦ってきた湖南省前紀律検査委員会書記の楊敏之の見方は非常に筋が通っている。「我が国の現在の深刻な腐敗現象は古い体制に依存している。10年間苦しかったことと言えば、旧体制の妨害だ。反腐敗とは実質的には旧体制、旧メカニズムとの力比べの繰り返しだった……。要するに、いまある体制問題を根本的に解決するには、改革開放の徹底と社会主義市場経済体制のたゆまぬ改善によるしかない」〔湖南省前紀律検査委員会書記インタビュー、初出『南方週末』2006年〕。
民族主義の勃興
90年代から、重大な国際事件や国際衝突の発生に伴って、中国の民族主義感情が高まり、ときに熱狂にまで高まった。
民族主義は90年代初めに隙に乗じて入ってきた。80年代末の国内の巨大な事変〔天安門事件〕とそれに続くソ連東欧の巨大な変化が、人々の信仰の空白を生じさせ、イデオロギーの上で民族主義の助けを借りる必要があった。ある人は、「特に中華民族精神と文化伝統を宣揚する愛国主義、民族主義を現代政治イデオロギーの中核的内容として宣揚すべきである。全人民、とりわけ知識人と公務員に対して国家民族利益を崇高な精神の本体とする愛国主義政治イデオロギーを注入することに重点をおくべきである」と主張した〔何新「イデオロギー問題についての考察」1992年7月8日〕。
ある学者は「民族主義と中国転換期のイデオロギー」と題した文章〔萧功秦。李世涛編『知識人の立場』2002年所収〕において、「中国の今の現代化においては儒教主流文化を基礎とする民族主義を社会的一体化と統合の資源として使うことができる。旧来の社会主義イデオロギーと経済発展の実績は政治的合法性の基礎の一つだが、それだけでは足りない。それだけでは民族的伝統の豊富な歴史と文化資源が欠けている」と述べた。
1996年に出版された『ノーと言える中国』は民族主義感情の熱狂と非理性の一面を代表している。この本は愛国を反米とイコールとしている。その立論の基礎は、米国人は邪悪であるだけでなく愚昧であるということだ。作者は、「大多数の中国の高校生の米国の歴史文化に関する知識は、米国の大学生よりずっと多い。米国の青年の堕落の証拠である薬物乱用、セックス、テレビゲームの背後に、人類文明に捨て去られる予兆が現れている」と述べている。1999年に出版された『グローバル化の影の下の中国の道』の考え方も同じだ。「中国は過去長年にわたって、『いい子』になろうと努力してきた。その結果腕力しか知らない米国に中国の実力を忘れさせた」。作者は中国も国際イメージの悪化を気にせず「悪ガキ」になるよう提案する。作者が心配するのは「今の中国人はすでに『悪ガキ』になる男らしさを失っている。このような退廃的な社会風潮は急いで改めなければならない」ことだけだ。
2008年3月、オリンピックの聖火リレーがパリで襲撃〔妨害〕されたことで、国内でカルフールのボイコット事件が勃発し、再び狭隘な民族主義の大波が渦巻いた。ボイコット騒ぎはカルフールの大株主がチベット独立を支持しているといううわさがきっかけになったが、その後それがデマであることが証明された。
民族主義の勃興は、一部の学者が理性的態度でその作用を研究することを促した。ある人は、民族主義には二面性があり、現代中国ではマイナスがプラスより多いと指摘した。第一に、民族解放運動に推進力を提供し、国家に統合力を提供すると同時に、しばしば自由民主思想を排斥・抑圧する。第二に、帝国主義の圧迫と侵略に反対すると同時に、排外主義にも結び付く。第三に、それはしばしば同一化対象のすり替えをもたらす。それは文化主義の代替政治原則を用いて、国家防衛を伝統文化防衛と位置付ける。それは愛国と特定政党への愛を混同させる〔王中江「現代中国民族主義の誤謬」『中国社会科学季刊』1993年第3期〕。また一部の学者は理性、立憲民主主義、法治主義に基づく愛国主義と民族主義を提唱した。
文化民族主義と「国学ブーム」
現代中国の民族主義には一つの際立った特徴がある。それは一部の知識人や学者が中国文化の西側文化に対する優越の証明に熱を上げていることだ。この種の文化民族主義の基本思想は、「西側文明はまさに解決不可能な精神と文化の危機に直面しており、中国伝統文化だけが世界を危機から救い出すことができ、21世紀は中国文化の世紀である」というものだ。有名な学者の季羨林北京大学教授はその代表の一人だ。彼は「各種の文化はみな盛衰のプロセスをへるのであり、西側文明が支配的地位についてから何世紀にもなるから、三十年河東、三十年河西〔世の無常を表すことわざ〕、いま東方文化が支配的地位を占めるときが巡ってきた」と言っている〔季羨林『三十年河東、三十年河西』2006年〕。
彼はまた、次のように主張している。中国哲学の本質は「天人合一」観であり、人類と大自然が一体であると信奉するが、西側思想の核心は「知識は力なり」〔フランシス・ベーコン〕という言葉に表れており、人類が知識を利用して自然を征服すべきことを主張する。現代の人類が直面する環境問題、生態系の危機などなど、みな人と自然との関係をうまく処理しなかったことによってもたらされた弊害である。彼は「『天人合一』だけが人類を救える」〔雑誌『東方』1993年創刊号〕の中で、「我々は現在のこの危急存亡のときに臨んで、東方の中国倫理道徳思想に助けを求め、人と自然の関係を正しく処理しなければならない。……東方の倫理道徳思想だけが、東方の哲学思想だけが、人類を救うことができるのだ」。だが、季さんはここで「天人合一」の意味を曲解している。「天人合一」は現代の生態学的哲学などではない。
現代の「国学ブーム」の第一の波は1993年北京大学に端を発する。だが正統を自任する人物が政治面から発動した大々的な批判により、マルクス主義に取って代わろうと図るものだと非難され、おびえて黙り込み、中断してしまった。第一の波は10年後におこった。2003年の夏、湖南省長沙で「全国児童経典詠唱経験交流会」が挙行された。当時すでに60都市500万家庭の少年が儒教経典詠唱の列に加わっていたという。「読経」スローガンの出現と『甲申文化宣言』〔2004年雑誌『大地』掲載〕の発表があったので、2004年は「文化保守主義年」と命名された。続けて、人民大学に国学院が設立され、人民大学の校長がそのために発表した講演の中で五四新文化運動を猛烈に批判したことが論争を呼んだ。その後、孔子を祭ることの是非、儒教を国教とすることの是非などを巡っても、大きな論争があった。
儒学思想の宣揚には明らかに二つの傾向が含まれている。一種は文化儒学である。それは半世紀間儒学を「封建」主義のカスとして完全に否定、批判してきたことの是正であり、伝統文化の中の優秀な成分を選んで継承発揚し、現代生活の中で一定の日常の人倫維持の役割を発揮させることを主張する。これは合理的かつ当然の主張である。我々は伝統文化に対して大きな借りがあるから、補習は大々的に進めなければならない。
もう一種は政治儒学の唱道である。「儒家の政治的知恵と指導原則を使って、中国政治の原則を転換し、中国において天道性理に起源を持つ合法的な政治秩序を構築し、中国自身の文化的伝統の基礎の上に中国の政治文化を再建する」。この種の観点は法の前の平等、一人一票の現代民主政治に反対し、「上智下愚」、「君子小人」、そして聖人は生まれながらにして庶民を教え諭すのであり、普通の人は理性を用いて事理を弁識する権利はないという主張に固執する。この種の非常識な主張は伝統文化の継承と宣揚にとって足を引っ張ることにしかならない。
中国の今後の発展にも思想解放が必要である。30年の思想文化の発展と変化は一元から多元への流れであった。対立と論争が我々にもたらすのは豊富化と革新である。
出典:http://www.chinese-thought.org/zwsx/008240.htm
初出『南方週末』2008年12月11日
〔 〕内は訳注。