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王力雄:趙爾豊の直轄統治――チベットと中国の歴史的関係(11)

2009-03-05 22:58:22 | 中国異論派選訳
王力雄:趙爾豊の直轄統治――チベットと中国の歴史的関係(11)

「カム」とは、今日のチベット自治区東部と四川省西部、雲南省の西北の一角を含む横断山脈地域である。それはチベット人の三大地理区分のひとつであるとともにチベット語カム方言の分布地域である。地理的に中国に近いので、カムはチベット民族と漢民族の交流が比較的密接な地域である。歴史的にカムはほとんどを現地の世襲土司が統治しており、一部の地域はラサから派遣された役人が管理していた。19世紀末から20世紀初頭にかけて、カムはラサとともに北京からの離反傾向を増し、混乱状態に陥った。多くの暴動が発生して、清朝の役人と西洋の宣教師を攻撃し、カトリック教会を焼き、バタンで軍の開墾を指揮していた駐チベット幇弁大臣の鳳全まで殺した。趙爾豊は皇帝の命を受け出征し反乱を平定した。それから彼のチベットのカム地区(中国は当時カムを「川辺(四川省の辺境)」と称した)統治が始まった。

趙爾豊の祖籍は襄平(今日の遼寧省遼陽市)の漢軍正藍旗人であり、早いうちからマンジュ(満洲)人のために働いた中国人の家系である。父は山東省泰安の知府を務めたことがある。趙爾豊は四川省で官職についていたとき、哥老会の暴動を鎮圧し数千人を殺したことがあり、その時は「屋趙」と呼ばれた。彼はカム地区に対しても同じように暴虐な手段を用いた。現地の土司と族長を征服するために、無数の人を殺し、多くの激しい戦いをした。郷城県の桑披寺を攻撃した著名な戦闘では、僧兵は交渉に赴いた清朝官吏の皮をはいでそれに草をつめて吊るした(徹底抗戦の意思を示した)。この寺は地形が峻険で、半年間攻め落とせず、清軍は食糧が底をつき、趙爾豊は兵士と同じく草と牛皮を煮て飢えをしのいだ。当時彼は桑披寺の水源切断を指示した。ひと月後寺を守るチベット人が3~4斤の活魚を投げてきてからかった。これを見て全軍身の毛がよだって、山をあまねく捜索した。その後一人の兵士が偶然穴に落ちて、初めて地下の送水管を発見することができた。結果、桑披寺は断水で陥落し、寺は焼かれ、立てこもっていた数百名の僧侶と民衆は虐殺された(注1)。

反乱平定後、趙爾豊は四川雲南辺境事務大臣に任命され、カムで直轄統治を実行した。直轄統治というのは、世襲の土司が統治していた土地を、清国政府の任命するいつでも転勤させられるマンジュ人や中国人の官僚統治に変え、土司割拠の政治体制を解消し、中国内地とおなじ州県制度の政治体制に吸収することである。直轄統治はカム各地の土司の反乱を一層激発させた。趙爾豊の川辺統治の6年間は、各地を転戦し、ほとんど休みなく戦争を続け、メツェ、デルゲ、バタン、リタンをはじめとする大小の土司を廃止し、チャムド、ダクヤプなどのラマの政治的地位をはく奪し、ラサがカムに派遣していた役人を追い出した。

当時の直轄統治に関する古い資料を読むと非常に面白い。土司権力を放棄するよう要求された魚科土司の趙爾豊への上申書を見てみよう。

「欽差大臣閣下:小生魚科土司は謹んでご報告申し上げます。小生はかねてより彼ら遊牧民とは異なり、小生は大皇帝の部下であり、毎年銀を上納していることは、大臣もすべてご存じのとおりです。小生がこれまで同様住まうことを許し、許可状を賜られるよう、大臣に懇願します。もしお許しいただけず、土司の印鑑と任命状を召し上げるのであれば、先に綽斯甲と革什咱の二人の土司の印鑑と任命状を取り上げたあとで、小生から取り上げるようお願いします。」

趙爾豊の返事は次のようなものだった。

「報告は読んだ。お前の請願するこれまで通り住み、許可状を賜ることについては許可するが、印鑑と任命状の回収については、皇帝の命令であるから、すべての土司が一律に行うものであり、綽斯甲と革什咱が返還しない道理はない。汝の求める両土司が印鑑を返還した後で自分が返還するというのは、全く荒唐無稽の要求である。同じく返還するのになぜ後先にこだわるのか? 本督部大臣がどうして私情にとらわれることあろうか。朱倭、白利、霊葱(いずれも土司の名)はすでに返還したのに、お前はなぜ朱倭らと比べず、綽斯甲や革什咱とだけ比べるのか? このような野蛮無知は、本来懲罰すべきであるが、とりあえず勘弁してやる。」(注2)

趙爾豊が征服し、直轄統治に変更した地域はおおむね東西三千里あまり、南北四千里あまりで、府・所・州・県を30余り設置し、のちの西康省の形がこのときに出来上がった(注3)。その後30年間、カムの中国人官僚は、みな趙爾豊の当時の威力の余禄にあずかった。西康省は1928年、民国になってから設立されたが、趙爾豊が四川・雲南のチベット人地区を統治した時にすでにその構想はあった。彼は「カム平定三策」を上奏している(注4)が、その中の第二策が「カムを省に改める」ことだった。第三策はさらに一歩進んで、「四川総督をバタンに移し、視線とラサにそれぞれ巡撫を置き、東三省(清朝末期に満洲に設置された遼寧・吉林・黒竜江の三省のこと)の例に倣って、西三省総督を設置し、これによってイギリスの介入を防ぎ、ダライの外国への依存を制止する」(注5)。

趙爾豊は非常に多くの殺戮を行ったので、チベット人(とりわけチベット人上層部)は彼に恨み骨髄だった。清国政府は1908年彼を駐チベット大臣兼四川雲南辺境事務大臣に任命した。つまり主なチベット事務をすべて彼に任せた。しかし、ラサの強烈な反対により、彼はラサに行って就任することはできなかった。趙爾豊は残虐な一面があり、逃亡兵70人余りを一度の斬首したこともある。しかし、廉潔公正な一面もあり、移動の途中である庶民の一家が次の日の食料もないことを発見したが、地方官が知らなかったので、地方官を厳正に処罰した。彼は地方官に訓戒して言った「知県は一県のことを知るのであり、すなわち人民のことを知るのである。ゆえに政務に励み民を愛するとは、民を愛するがゆえに政務に励むのである。政務に励むことと民を愛することは別のことではない。およそ民に苦しみがあるのに、役人がこれを知らず、これを救えなければ、それは民を傷つける者である」(注6)。彼はこのように恩威並び重んじたので、当時のカムのチベット人庶民はかなり多くが信服した。彼は辛亥革命のときに蜂起した民衆に殺されたが、その下女は彼を救おうとして死に、その後彼の生前の衛兵が革命の首領を暗殺して彼の仇を取ったことからも、彼の平素の人柄の一端を知ることができる。

清末チベットで行われた新政は、立場の違いによって評価も違ってくるが、近代化の視点からは、それは確かにチベットへの最初の近代化の輸入だった。張蔭棠、趙爾豊、聯豫らは、チベット人地区に対する権力接収の面で政治改革を行っただけでなく、経済・文化・教育・衛生などの面でもチベットに一連の新しいものをもたらした。たとえば、平治カム四川道路、四川チベット送電線の敷設、ベルギーの技術者を雇って作った河口鋼橋、工場の開設、郵便局の創設、若いチベット人を選抜して内地で技術を学ばせたこと、ラサに商品陳列所を作ってチベット人に参観させたこと、新式軍隊を組織し、陸軍学校と巡査教練所を作り、徒歩警察と騎馬警察を組織して治安を維持したことなどである。また、趙爾豊はカムで60校余りの学校を作り、自ら教科書作成にあたった。聯豫はチベット各地にやはり20校余りの新式学校を開校し、またチベット口語文の新聞を発行し、翻訳局、印刷工場などを作った。

清末のチベットに対する新政を今振り返ってみると、中国の視点からは、主権フレームの国際システムに取り込むためにチベットの権力を接収することはやむを得ないことであり、是非ともしなければならないことだった。しかし、張蔭棠と趙爾豊はともに同じ誤りを犯した。すなわち、権力接収の他にさらに中国文明によってチベット人を改造しようと企てたのだ。張蔭棠はチベット語に翻訳したパンフレットを配り、チベット人の民衆に孔孟の道の倫理を吹き込もうと企て、「チベットは大清帝国の暦法を用いるのが宜しい」と主張した。彼は中国語教育を推進し、そのために個人で50両の砂金、350両の銀インゴットを寄付して、中国語試験が優秀だったチベット人学生の奨学金とした。彼は更に「ラマが妻帯することを許し、農工商兵を生業として営むことを許す」「ラマは昼間読経する必要はなく、農工商と兼業して財産を作り、布施に頼らないようにすべきである」と主張した。これに対するチベット官僚とラマの回答は、「もしこの指示通りにし、ラマの妻帯を許せば、黄教(チベット仏教のゲルク派)は必ずや衰退するので、それを行うのは極めて困難である」だった(注7)。趙爾豊はチベット人の子弟に中国語学習を強制しただけでなく、チベット人に中国風の姓を名乗るよう強制した。今日でもカムには中国風の姓のチベット人が多いのは、多くがその時の名残である。彼は風俗の変更の面で細かいところまで口を出し、チベット人の舌を出して尊敬を示す習慣を止めさせようとしたり、青年男女にチベット服の下にズボンをはかせようとしたり、さらにはチベット人の鳥葬を悪いものとみなし、変更することまで要求した(注8)。

チベットの政治権力没収は、権力を握っていたチベット上層統治集団にとって脅威となるに過ぎず、反抗に遇ったとしても、範囲は限られている。生活が良くなれば(少なくとも前より悪くならなければ)、多くの民衆は誰が権力を握ろうとあまり関心はない。しかし、チベット人社会に対して同化政策を行えば、衝突の対象を民衆全体に広げることになる。一つの民族の伝統風俗文化を蔑視し、強制的にそれを変えようとすれば、必ずや民衆の怒りを呼び起こす。いったん民衆と民族上層部がまとまって反抗すれば、権力の没収と同化はどちらも失敗に帰し、しかも民族的怨恨を植え付けることになる。そして、それは長い間消えることはない。

(脚注は原文参照)
原文:http://observechina.net/info/artshow.asp?ID=49027

関連文章:

王力雄:清末の対チベット新政――チベットと中国の歴史的関係(10)
http://blog.goo.ne.jp/sinpenzakki/e/f1df05c99436cc7652faa33494dc9695
王力雄:チベットの選択――チベットと中国の歴史的関係(12)
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