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于建:中国民衆はなぜ不平を言うのか?

2009-09-22 22:55:59 | 中国異論派選訳
于建:中国民衆はなぜ不平を言うのか?

円満な中国を世界に向かわせよう

2009年8月14日午後、復旦大学講堂

于建

 皆さんこんにちは。
 私の講演のテーマは「円満な中国を世界に向かわせよう」です。
 なぜこの問題を話すのかというと、この講演会の全体テーマが「新新中国、世界に向かう」だからです。では「新新中国」とは何か? 主催者側はこの会議の準備の時に一つの命題を出したのです。それは民衆に「不平を言わない」よう呼びかけ、ひいては中国で「不平を言わない」運動を起こすというものです。これに対し私は多いに疑念を抱きました。

 私が見るところ、私たちが今日特に関心を注がなければならない問題は、民衆が不平を言うべきかどうかという問題ではなく、なぜ不平を言うのかという問題です。最近『人民日報』系列の非常に影響力のある雑誌が、私に記事の執筆を依頼してきました。当時私は河南省の洛陽で調査していましたが、彼らは私に電話してきて、役人も民衆も「どちらも大変だ」という問題、とくに民衆が政府を思いやるべきだということ、役人は大変だということ、人民は国家指導者が「大変だ」ということを思いやるべきだということを重点に書いてくれと言うのです。そしてそうすれば役人や指導者が見て喜ぶし、社会が円満になるのに役立つことにもなると言うのです。私は当時こう答えました「役人が大変だというのは事実だが、もしやってられないと思ったら辞めればいいんですよ。誰も彼らに面倒見てくれとは言ってないんですから」。民衆は役人のやり方を理解することはできても、役人はそれを理由にして不平を封ずるべきではありません。ですから、私はそういう文章は書けないと言いました。彼らはそれでも私に文章を書いてほしいと言いました。そして中国社会にこんなに多くの問題が発生しているけれど、円満な社会とは相互理解の社会だということを人民に分からせるような文章は書けないだろうかと言ったのです。私は、それならいいと言いました。ですが、国の安定はまず人民が安定することであり、人民を安定させるにはまず民生に配慮しなければなりません。もしある社会が全く民生に配慮しなければ、もし知識人が庶民の苦しみを見なければ、どうして民衆に理解を求めることができましょう? 私たちが本当の中国社会に近づくことによって、上海のような大都市のホワイトカラーの生活を離れることによって、皆さんは様々な不平が中国社会にあふれていることを感じることができます。みなさんがもし石首事件のビデオを見たら、数万の民衆がレンガ片を持って、怒りに燃えて武装警察隊と対峙している時に、私たちは彼らに向かって「君たち不平を言ってはいけない、政府を理解しなさい、君たちが我慢すればいいんですよ」と言えるでしょうか? できません。私たちは安易に民衆を分別がないと非難することはできません。必要なのは民衆がなぜ怒っているのか、なぜ街頭に出ているのか、なぜ武装警察隊と大胆にも対峙するのかを研究することです。また、社会の不正と腐敗を前にして、不平を言うことは民衆の一種の権利です。統治者あるいは学者たちには、民衆の不平を非難する権利はありません。むしろ、問題を改める方途を考え、民衆の不平が少なくなるようにしなければならないのです。
 では、どうやったら民衆の不平が少なくなるのでしょう? 私は皆さんのヒントになりそうな二つのお話を紹介します。

 一つ目は河南省洛陽のあるお婆さんの物語です。ここ数年私は地下教会もしくは家庭教会を調査しています。去年、私は河南省洛陽のとある辺鄙な農村に行き、ある家庭教会の集会所の連絡担当者に会いました。その人はお婆さんで、他に同居する人はなく、一人暮らしです。家は非常に貧しく、何もありませんが、その彼女の家が集会所になっているのです。お婆さんの生活の苦しさを見て、私はとても辛い気持ちになりました。ですが、彼女自身はとても楽観的で、いつもニコニコしています。私は彼女に「お婆さんは生活がこんなに苦しいのに、毎週日曜日にこういう活動をして、しかも幸せいっぱいで、いつものびのびしていられるのはなぜですか?」と聞きました。すると、彼女はこう答えました「私は何も心配することがないから、幸せです。空を飛ぶ鳥だってみな生活しているでしょ。神様は鳥にさえ心を配っているのに、私に心を配らないわけがないでしょ?」。彼女は、彼女が今日抱えている困難のすべては、当然のことだから不満はないと言っていました。これは本当の話です。このお婆さんが苦難に向かって示す態度を、私は多くの宗教を信仰する民衆の中に見てきました。彼らは現在と未来をどちらも彼らの神に差し出しているのです。
 問題は、我々中国人のほとんどが不信心なので、神がどこにいるのか知らないことです。中国人のほとんどが人生の究極的な意義を考えない世俗主義者です。ですから、我々も民衆に対して神や未来の世界に内心の円満と平静を探すよう求めることはできません。我々はこの不正に満ちた世俗世界に生きているので、幸せそうに空を飛ぶ鳥を見ても感嘆するしかないのです。

 もう一つのお話は、私が台湾を訪問した時の経験です。2004年に私は台湾に招待されました。台湾の招聘者が私に示した条件は大学で1回講演することだけで、それが終われば13日間の観光、視察ができます。当時私は招聘者に一つの条件を出しました。「私が話し終ったら、地図を1冊と、運転手を一人、それにお金を払う人を一人つけてもらって、自分で好きなところに行くというのはどうでしょう?」。彼は「いいですよ、ご自由に旅行してください」と言いました。そこで私は講演が終わってから、台北から台南に行きました。そこで私は会った人すべてに同じ質問をしました。
 「もし役人があなたの家を壊したら、どうしますか?」。99%の人がそんなことはあり得ないと答えました。「私の同意なしに何で勝手に壊せるんだ? もしその家が合法的なものなら役人はそんなことできない」と言いました。私がもし壊したらどうするかを聞くと、彼らは裁判所に壊した人を訴えると言いました。「裁判官は法律に基づいて判決を下すし、多額の損害賠償を命ずる。例えば合法で同意の上の収用の場合に10万元の補償だったら、もし同意がなければ裁判官は100万元の損害賠償を命ずる」と言うのです。
 私はさらに続けて、「もし裁判官が法律通り裁判をしなかったら、どうします?」と聞きました。人々はまた「あり得ない」と答えました。「我々の裁判官はいろいろ腐敗もあるかもしれないが、明確な財産権と証拠があれば裁判官は腐敗することはできません」。
 私は続けて、「それでも裁判官が腐敗したら、どうします?」と聞きました。彼らは「議員に訴える。議員はやってきて調査し、調査が終わったら記者会見を開き、議会で提案を行うから、そうなったら裁判官と役人はまずいことになる。彼らは辞めなければならなくなる」。
 私が続けて、「もし議員も腐敗したら、どうします?」と聞きました。私がこの質問をした時には、相手はすっかり嫌気がさして、「大陸から来たあんたは何でそんなにもしもが多いんだ? 議員はいくら腐敗してもこういう問題には関わりたがるもんだ。なぜなら議員にとってそういう問題が起きれば、調査して、メディアで報道されれば、その議員は英雄になれる。英雄になったら、県議会議員や国会議員になれる。そしてもしかしたら陳水扁にだってなれるかもしれない」と言いました。私は「信じられない、議員だって腐敗して、あなたの問題を取り上げないかもしれないじゃないか」と言いました。彼らは「あり得ない、信じないんだったら試してみよう」と言いました。ふつう台湾の民衆の家には名刺があり、その中には何枚も議員連絡カードがあります。私は彼らに議員に電話するよう求めました。電話すると、議員は遠くに行っていなければすぐに駆けつけてきました。台湾の末端議員は、皆とても興奮して、どんな問題があったのか聞き、有権者のために不正を正すと言いました。
 私は続けて、「もし議員があなたの問題を取り上げなかったらどうします?」と聞きました。「簡単なことさ、次の選挙の時に彼に票を入れなければ、彼は議員を続けられなくなる」と台湾の民衆は答えました。

 私の台湾訪問はごく短期間でしたが、多くの問題を考えさせられました。台湾社会には多くの問題があるかもしれませんが、権威主義体制から民主主義体制への移行が実現し、基本的に民主制度が確立しているので、台湾の民衆は体制全般に対して基本的に信頼しています。彼らはあるいは特定の指導者や特定の政党に対しては不満で、不平をたくさん言っているかもしれませんが、体制全般に対する不満ではなく、まして転覆などは考えていません。私が行ったことのある世界の多く民主主義国でも、私の質問に対する民衆の答えはほぼ似ています。今日なぜ台湾の話しをしたかと言うと、我々は民族文化とか、宗教など多くの理由をつけて、近代的な社会制度を否定しますが、台湾は我々と同じ血縁、同じ文化、ほぼ同じ文化を持っているからです。なぜこれほど多くの我々には当たり前のことを、台湾の民衆は「あり得ない」と言うのでしょう? 私はその為に必要な要素を4つにまとめました。

 第一、国民の基本的権利、とりわけ財産権を確認し保障されなければならない。今中国にはこの面で多くの問題があります。今の不動産権利証に意味はありません。いつ強制収用されるかわかりますか? わかりませんね。私たちが不在の時や、さらには寝ている時に家が壊されるのです。農民の土地は、「集団所有」だと言われますが、多くの場合少数者の所有になってしまっていて、何かプロジェクトが来たら農民は土地を失い、仕事を失い、社会保障のない、三無農民になってしまいます。労働者が何十年も仕事をしてきた工場から突然リストラと告げられ、失業してすべてを失う。こういうことが至る所で起きています。今日ご参加の民衆に不平を言わないことを呼び掛けている上海の学者、ホワイトカラーの皆さんはご存じないのでしょうか? 実際は上海でも起きています。最近私は記録映画を作りましたが、その中には上海の女性が北京に陳情に行く話があります。彼女は地面にひざまずいて「なんてことなの、私の家を返して、私は住む家が必要なの、私は生きてるのよ!」と言いました。もし人民のために統治し、人民を基とする「社会主義国家」といわれている我が国が、庶民の最も基本的な権利すら保障できないのなら、一体民衆に不平を言わせず、民衆に政府を理解させる根拠はどこにあるのでしょう。そんな根拠はありません。私が今日みなさんや我が国の統治者に言いたいことは、もし人民に不平を言わせたくなければ、もし人民に理解してほしければ、もし人民が街頭に出るのを止めたければ、まず先に彼らの基本的権利を保障しなければならないということです。その権利は封建社会が与える特権ではなく、現代社会のすべての国民の権利です。それがなければ、我々にどんな理由があって、どんな資格があって、民衆の不平を禁じるのでしょう?

 第二、信頼できる司法制度が必要です。司法を民衆の権利救済の最後の砦にしなければなりません。現代社会では、社会構成員間あるいは民衆と公権力機関との間に紛争が生ずることは、恐れるべきことではありません。恐ろしいのは、権利が侵害されたときに、必要な救済がなされないことです。もし我が国の司法が民衆の法律上の権利を保障できなければ、司法は社会の公平公正のセイフティーネットにはなりえません。とすれば我々はいかなる資格があって権利を侵害された民衆の不平を禁ずることができるでしょう? 実際、我が国の司法制度は多くの問題を抱えており、民衆は司法が社会に公平と公正をもたらすとはあまり信じていません。どんな判決でも、一方当事者は「司法が腐敗しているから、私は不服だ!」と言う可能性があります。この不服のために、国民は陳情を選択します。北京に行ってえらい指導者に頼る陳情を選択し、中には「指導者の指示」を求めて北京で何年も頑張る人もいます。ですが、我が国の統治者は陳情という典型的な人治〔法治に対する語〕について自慢げに語り、はては主な救済方法とさえみなしています。現実には、民衆は長期間の陳情の間に労働矯正所に送られたり、精神病院に強制入院させられたりして国家司法に対する最後の信頼さえ失ってしまいます。このような状況の下で我々が民衆に対して「不平を言うな」と言うのは彼らに麻酔注射をするに等しいことです。民衆の左の頬を打って、その上右の頬を差し出すよう命じますか? そんなことはできません! 我々はこの不公平な司法制度に対して不平を言うべきです。そして不平だけでなく、闘わなくてはなりません。不平の訴えと闘いによって初めて公平公正で信頼できる司法制度ができるのです。

 第三、正真正銘の代議制度が必要です。人民代表に本当に人民を代表させなくてはなりません。私たち一人一人が直接この国家や社会を管理することはできないので、自分たちの政治的代表が必要です。現代民主制における代議制は人類文明の結晶です。民主制では選挙によって誰が我々の利益を代表するのか決めることができます。そういう制度が我々にあるでしょうか? 法文の上では私たちにもあります。ですが実際には、まだありません。今日来ておられる方の何人が人民代表大会の選挙に参加したことがあるでしょう? 我々はだれに投票したのでしょう? 私は自分の代表が誰かを知りません。私たちは三つの代表〔江沢民が唱えた。共産党は先進生産力、先進文化、人民の根本利益の三つを代表しているという主張。〕を知っていますが、私の三つの代表がどこにあるのか知りません。私たちは変える必要があります。もしこれさえ変えられなければ、どうやって不平を黙らせることができましょう? 中南海にいて人民に不平を言うなと要求しても、復旦大学にいてみんなに不平を言うなと言っても、不平を言わない運動を展開しても、このような制度上の欠陥を改めない限り民衆は不平を言うし、不平を言わない運動など広がるはずがありません。

 第四、それによって民衆の不平を正常に発散させる、開かれたメディアが必要です。もし今日、全ての人が現場で本当に自分の不満を表明できなければ、家で不平を言うしかなくなり、最後は街に繰り出し、レンガ片で自分の不満を表明することになるでしょう。民衆が不平を言わず街に繰り出さないためには、アヘンに似た「不平を言わない運動」を展開するのではなく、彼らに不平を言う機会を与え、彼らに正常なルートで内心の不満を発散させる必要があります。

 私が以上の観点を述べたことは、主催者を怒らせたかもしれませんが、大丈夫、次回は私を呼ばなければいいんです。また、私は主催者は怒らないだろうと思います。なぜなら彼らは不平を言わないことを主張しているのですから。まず率先して私に対して不平を言わないでください。もしそれさえできないのであれば、とても筋が通りません。しかも私がこういう話をするのも、主催者と対立するためではなく、我々の社会が弱者の気持ちに向き合うようにする制度建設のためです。これは大国として当然のことです。今日の午前中の講師の方々は、皆さん中国はすでに大国になり、世界に向かっていると話されました。私はもし必要な制度建設がなされなければ、一体どこが大国なのかと思います。中国のソフトパワーはどこにあるのでしょう? それは、まず制度建設に、人民の制度に対する信頼に求められるべきです。もし民衆が、不当な強制収容、司法の不公正、代表の押し付けなどが無くなったと言った時、初めて中国は大国になったといえる資格が生じると思います。それこそが私たちの実力、中国が社会に向かい、世界に向かう時の本当の実力です。
 ご清聴ありがとうございました。

原文出典:http://www.blogchina.com/20090902798630.html

(転載自由、要出典明記)

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