朝日新聞2007年6月25日
憲法改正は、自民党も民主党も大筋で一致しているので、参院選の争点にはなりえない。だが、安部政権はあえて争点と位置付けた。自民党が負けても、与党と民主党も合わせて参院でも3分の2以上の議席を確保すれば、改正が発議できる。選挙の結果で「国民の信任を得た」と改憲の正当化ができると判断しているのだろう。何が何でも改正したいとの執念がにじむ。
自民党の新憲法草案では、戦力不保持と交戦権を否定した9条2項を削除し、自衛軍の保持を明記した。その一方で、安部政権は集団的自衛権の行使を容認できる環境を作ろうと、有識者懇談会を設置して研究をはじめている。
憲法の主体は国家ではなく国民だ。その意味では、国民の世代交代は進んでいるのだから、細かな微調整や修正はあって当然と私は考える。
しかし、今の時代の空気や世相では、「自衛」を名目にして9条2項の変更を容認すべきではない。なぜなら、戦争や虐殺の本質は、まさしくこの「自衛」にあるからだ。
地下鉄サリン事件に始まり、9・11テロや拉致事件などを契機に、漠然とした恐怖や不安が、この10年ほどで急速に高まった。殺人事件自体は60年前後に比べると大きく減っているのに、メディアの報道で増幅された「体感治安」が悪化し、「危機管理」を求める意識が高揚した。
この「知らない他者」に対する恐怖や不安に耐えられず、人は「知らない他者」を仮想的に設定し、自衛の意識を燃料にして先に攻撃しようとする。だが、先制攻撃は新たな敵を生み、不安や恐怖は雪だるま式に拡大する。その典型が平和を欲しながら敵を求め、敵がいない不安に耐えられない第二次大戦後の米国だ。
ならば、自らの過剰な自衛意識の発露を抑制し、さらに自らが「仮想的」にならないためにはどうすればよいか。その戦略を具体化したのが9条2項だ。奇麗事ではなく、性善説に依拠するわけでもない。憎悪と報復が連鎖する今の世界では、ラジカルで実践的な対抗原理なのだ。
改憲論者は、自衛権を放棄するのかというが、自然権である自衛権を放棄などできない。自衛の手段としての武力行使を否定するのが9条だ。
安部政権が、自民党結党以来の党是である改憲を目指すのは不思議ではない。だが、憲法とは主権者である国民が統治を委託した国家を規制するものだ。だから「制限規範」であり、私たちの理念でもある。安部首相は理解しているのか。「国民支配の道具」という感覚ではないか。
危機管理意識が高揚するのに伴い、難しいことは敬遠され、善悪や真偽で割り切る単純化や簡略化が進む。政策も「守旧派対改革派」といった「二項対立」で提示される。ヒトラーは自著の『我が闘争』で「国民が二項対立に熱狂する時、プロパガンダにもっとも有効な環境が現出する」と書いた。少しは周囲を見渡すことが必要ではないか。
単純で据わりのいい結論や早急な判断が求められる--そんな空気が充満する中で、改憲が争点になるのは危険だ。(聞き手・伊藤政彦)
感想:日本をイラク侵略戦争に駆り出したアメリカからの強まる改憲=本格派兵圧力。一方で、国民への「抗日戦争」気分の煽動を終結させようなどとは少しも考えていない中国の軍事的脅威の高まり。時間的に考えれば、改憲すればまずアメリカの要求により地上戦闘部隊を海外派兵することになるだろう。それを脅威と感じる中国共産党は独裁体制の引き締めと軍事力の飛躍的強化を図り……。国内では、治安対策を名目に、主権在民から主権在官に転換し、抑圧的な中国とシンクロナイズ。
9条改憲否決、派兵禁止、国内の自由と人権の確保、中国民主化促進、軍事的脅威の緩和、が最良の選択か。
憲法改正は、自民党も民主党も大筋で一致しているので、参院選の争点にはなりえない。だが、安部政権はあえて争点と位置付けた。自民党が負けても、与党と民主党も合わせて参院でも3分の2以上の議席を確保すれば、改正が発議できる。選挙の結果で「国民の信任を得た」と改憲の正当化ができると判断しているのだろう。何が何でも改正したいとの執念がにじむ。
自民党の新憲法草案では、戦力不保持と交戦権を否定した9条2項を削除し、自衛軍の保持を明記した。その一方で、安部政権は集団的自衛権の行使を容認できる環境を作ろうと、有識者懇談会を設置して研究をはじめている。
憲法の主体は国家ではなく国民だ。その意味では、国民の世代交代は進んでいるのだから、細かな微調整や修正はあって当然と私は考える。
しかし、今の時代の空気や世相では、「自衛」を名目にして9条2項の変更を容認すべきではない。なぜなら、戦争や虐殺の本質は、まさしくこの「自衛」にあるからだ。
地下鉄サリン事件に始まり、9・11テロや拉致事件などを契機に、漠然とした恐怖や不安が、この10年ほどで急速に高まった。殺人事件自体は60年前後に比べると大きく減っているのに、メディアの報道で増幅された「体感治安」が悪化し、「危機管理」を求める意識が高揚した。
この「知らない他者」に対する恐怖や不安に耐えられず、人は「知らない他者」を仮想的に設定し、自衛の意識を燃料にして先に攻撃しようとする。だが、先制攻撃は新たな敵を生み、不安や恐怖は雪だるま式に拡大する。その典型が平和を欲しながら敵を求め、敵がいない不安に耐えられない第二次大戦後の米国だ。
ならば、自らの過剰な自衛意識の発露を抑制し、さらに自らが「仮想的」にならないためにはどうすればよいか。その戦略を具体化したのが9条2項だ。奇麗事ではなく、性善説に依拠するわけでもない。憎悪と報復が連鎖する今の世界では、ラジカルで実践的な対抗原理なのだ。
改憲論者は、自衛権を放棄するのかというが、自然権である自衛権を放棄などできない。自衛の手段としての武力行使を否定するのが9条だ。
安部政権が、自民党結党以来の党是である改憲を目指すのは不思議ではない。だが、憲法とは主権者である国民が統治を委託した国家を規制するものだ。だから「制限規範」であり、私たちの理念でもある。安部首相は理解しているのか。「国民支配の道具」という感覚ではないか。
危機管理意識が高揚するのに伴い、難しいことは敬遠され、善悪や真偽で割り切る単純化や簡略化が進む。政策も「守旧派対改革派」といった「二項対立」で提示される。ヒトラーは自著の『我が闘争』で「国民が二項対立に熱狂する時、プロパガンダにもっとも有効な環境が現出する」と書いた。少しは周囲を見渡すことが必要ではないか。
単純で据わりのいい結論や早急な判断が求められる--そんな空気が充満する中で、改憲が争点になるのは危険だ。(聞き手・伊藤政彦)
感想:日本をイラク侵略戦争に駆り出したアメリカからの強まる改憲=本格派兵圧力。一方で、国民への「抗日戦争」気分の煽動を終結させようなどとは少しも考えていない中国の軍事的脅威の高まり。時間的に考えれば、改憲すればまずアメリカの要求により地上戦闘部隊を海外派兵することになるだろう。それを脅威と感じる中国共産党は独裁体制の引き締めと軍事力の飛躍的強化を図り……。国内では、治安対策を名目に、主権在民から主権在官に転換し、抑圧的な中国とシンクロナイズ。
9条改憲否決、派兵禁止、国内の自由と人権の確保、中国民主化促進、軍事的脅威の緩和、が最良の選択か。