「詩客」短歌時評

隔週で「詩客」短歌時評を掲載します。

短歌時評第130回 文語と口語はどちらがはずかしいか 吉岡太朗

2017-10-04 04:44:39 | 短歌時評

 

吉岡太朗

 1

 文語体で書くか口語体で書くかという問題は、私個人にとって割とどうでもいい。けれど世間様はどうもそうは思わないようだ。

 十年くらい前に文語を使ったり口語を使ったりしていたら、「吉岡くんは、どっちでやるの?」と言われた。そんな風に言われたことを別の人に言って「そんなんどっちでもいいですよね?」と訊いたら「どっちでもよくないと思う」と返ってきた。あれから十年経って最近、旧かなの歌を発表したら「あれ? 旧かなに変えたんですか?」と訊かれた。

 私は自分の作風とか自分の文体みたいなものには関心がなくて、そういうことを決めるのは書く自分ではなく書かれる内容の方だと思っているから、その都度内容に合う文体が選択できたらいい、という風にしか考えてないのだけど、何とはなしに他を見渡すとそういう人はあまり多くなさそうで、自分の作品自分の文体を持ったり持とうとしたりして書いているように思う。

 競争戦略上はそっちの方が得なのかも知れないが、私は勝手に窮屈に思ってしまうので、このまえ「別の作風で作りたくないんですか?」とある人に訊いてみたところ、「しない。だって短歌はそういうものだから」という答えが返ってきて、ハッとなった。あ、そっか、短歌ってそういうものなんだ。

 

 2

 そうなのだ。短歌は差異の文学なのである。五七五七七という定型があるが、この定型は単にそれを守って作れというルールではない。個々の短歌を鑑賞する際、基準になるものなのだ。

 分かりやすいところで言うと韻律で、定型を完全に順守していても全く同じ短歌でない限り全く同じ音ということはありえない。リズムがよいとかもたつくとか、明るいとかさみしいとか、音だけでも色々あるのである。基準が決まっているから比較が可能で、明確に違いを示すことができる以上、微差でも内容と結びつけば(明るい内容+明るい韻律など)大きな差になる。

 また千年以上の歴史があるので、新しく短歌を作る場合、過去の有名な短歌が基準のようなものになる。具体的にこの作品みたいな場合もあるだろうし、なんとなく漠然と思い描く「これが短歌だ」みたいなもの――言うなら原短歌みたいなものと比べられることもあるだろう。

 だからどういうことが起こるかというと、「Aである」ということが「Bでない」ということを意味してしまうようなことが起こる。つまり「このような文体で書く」が「別の文体で書かない」を意味し、「口語体を用いる」が「文語体を用いない」になるのである。書き手がどう意図しようが、読者は勝手にそのように意味づけをする。

 だから短歌において文語体を用いる、口語体を用いる、ということはただそれを使う以上の意味を持ちかねないわけであり、その選択が拡大解釈されて、使う人の人間性とかそういう部分にも関わるようなものにもなる。

 思えば小学生の頃に、自分のことを「俺」と言うか「僕」と言うかが、決定的なことのように思えて、どちらにするか迷ったことがあるが多分そういう感じなのだろう。

 

 3

 では文語体と口語体ではどのような差異があるか。ここでは単なる技術的な有効性の違いではなく、「はずかしさ」という観点から、ごく簡単にだが比べてみたいと思う。「はずかしさ」というのは人間性にかかわるような部分だからである。

まず文語体と口語体の関係について、確認しておきたい。以下は橋本治『失われた近代を求めてⅠ 言文一致体の誕生』からの引用である。

「文語体」は「文章に使われる書き言葉による文体」なんかではない。「口語体の文章」が一般的になってしまえば、「文章=書き言葉」なのだから、「文語体=口語体」になってしまい、「文語体」という概念を立てる意味がなくなる。「文語体」が「口語体」に対する概念であるのは、「文語体=古典の文体」と理解されているからである。現実には「書き言葉と話し言葉の対立」があると思われているが、実はそうではなくて、あるのは「古い言葉と新しい言葉の対立」なのである。

つまり文語体とは、相対的に過去の文体であるということである。橋本はこうも言っている。「文語=書き言葉」を前提とする「文語体=書き言葉の文章」とは、本来的には漢文のことであると。つまり今文語体とされる言葉は、かつては今の口語体のように扱われていたということだ。

これは短歌ではなく日本語一般に関する文章だが、短歌にもそのまま当てはめて考えることができると思う。文語体で書くということは、過去の文体で書くということなのだ。

 

 4

衛藤ヒロユキのファンタジー漫画『魔法陣グルグル』の16巻にこんなシーンがある。

主人公の少年ニケが魔物と戦う際に、「勇者の剣」という必殺技を使おうとするのだが、その際にこんな呪文を唱える。

 

火よ

大地よ

水よ

風よ

自然界の王たちよ!

その力――

われに託さん!!

 

しかし呪文は発動しない。次のコマでは、ニケが手をかざしている絵に「しーん」という効果音が付いている。

その二コマ先にジュジュという少女がこんな台詞を言う。

 

プーッ

「われ」だって

13歳の

子供が急に

「われ」

 

強力な魔法や技を使う際に大仰な呪文を唱えるというのは、ファンタジー作品のお約束のようなものである。この漫画ではそのお約束を逆手に取り、日常の感覚を持ち込むことによってギャグにしている。これは非常に示唆的なギャグではないだろうか。

文語体で語ることは、日常の文脈では不自然なことではないだろうか。現在の時制を生きている人間が、急に過去の文体で語り出すのである。しかもわざわざそのように語るのだ。それはおかしなことであり、場合によってははずかしいことではないだろうか。

もちろん「短歌だから」と言い張ればよい。「短歌だから」は文語体で書く者を、不自然さ、おかしさ、はずかしさから守る盾のようなものである。つまり短歌は過去の文体で書かれた言葉が収まるべき過去の文脈なのである。

けれどそこに日常の感覚――つまり現代の文脈が持ち込まれたらどうだろう。「気取ってやんの」「古くさっ」短歌を書く人間に面と向かってそんなことを言う人間はそうそういないだと思うが、そのような視点を書き手自身が内在化した時、はずかしさが生じてくるのではないか。

では口語体ではどうだろう。口語体は現在の文体である。先ほど短歌は過去の文脈であると書いたが、だからといって現在の文体を排斥するかといったらそんなことはなさそうだ。短歌は過去の文体だろうが、現在の文体だろうが、何でも受け入れてくれるように思う。けれどやはり過去の文脈であることに変わりはなくて、現在の文脈とは厳然と区別される。

つまり現在の文脈が海だとしたら、短歌という文脈はそこに浮かぶ船のようなものである。船に乗せられることで、文脈に合わない言葉(文語体)も溺れずに済むことができるが、けれど「船に乗っている」ということにより、海を泳ぐ言葉たちとは厳密に区別される。

口語体の短歌の言葉とは、本当なら船に乗らなくても海を泳ぐことのできるのに船に乗っている言葉である。船は受け入れてくれているが、海を泳ぐ言葉たちからすると「あいつらは俺たちとは違うから」と言って馬鹿にされかねない。

 

 

 5

そもそも「はずかしさ」とは何か。それはズレの自覚であろう。周りからズレていると思った時、人ははずかしくなるように思える。

そういう意味で、ズレがより大きいのは文語体の方である。けれど「短歌である」と言い張ることで、そのズレに鈍感になることができる。ズレを相対化したり、「歴史的に正統なのは俺たちであって、ズレているのはお前らだ」と言い張ることも、やろうと思えば可能である。前章の比喩で言えば、「船は海より広い」という理論を展開することができる、ということである。

それに対し、口語体はズレが少ない。それを限りなくゼロにすることもできるかも知れない。けれど、「短歌である」以上、やはり完全なゼロにはならないのである。どんな自然な短歌であっても、日常会話の中で断りもなく突然引用したら、大概の人はびっくりしてしまうだろう。そして口語体で書くということは、おのずとこのズレにゼロに敏感になってしまうことのように思える。

ざっくり言うなら「文語体ははじしらずの文体」「口語体ははずかしがり屋の文体」ということになる。さて、どっちがましだろう。

 

引用

橋本治『失われた近代を求めてⅠ 言文一致体の誕生』2010,朝日新聞出版.

衛藤ヒロユキ『魔法陣グルグル(16)』2003,スクウェア・エニックス.


短歌相互評⑪ 濱田友郎から浅野大輝「銀の鳥」へ

2017-10-04 04:39:22 | 短歌相互評

作品 浅野大輝「銀の鳥」へ

評者 濱田友郎

 

こんにちは、濱田友郎です。浅野大輝さんの連作「銀の鳥」を評します。この連作はこちら(http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-09-02-18723.html)で全文をごらんいただけます。こちらのオリジナルをどうぞ傍に置きながら、拙文も読んでいただけたらとおもいます。

   ✳︎

感情のすがたを町にするときにどうしてここにある精米所

まず目を引いたのはこの歌であった。「どうしてここにある精米所」、のフレーズ感。思わぬ場所に、あそことかそこにあるんじゃなくて、「ここ」にあるのか! しかも「精米所」が! へぇ~……。下のフレーズ感に負けずに、上句に立ち止まって再読してみると、感情にすがたが(すでに)あるのか? そしてそのすがたを町にできてしまうのか? と、驚くわけだが、どうだろうか。ここでわたしはPCソフト「3Dマイホームデザイナー」や、ゲーム「シムシティ」のことに思い当たる。 

・3DマイホームデザイナーPRO8 製品紹介

https://youtu.be/UqBu3QbEXAU?t=59s

・Japanese TV Commercials [1704] Sim City シムシティー

https://www.youtube.com/watch?v=r39mhkN8Sm4

 

 「シムシティ」では、プレイヤーは市長としてあらゆるインフラを整え、あらゆる建物をたて、さまざまなパラメーターに気を使いながら、住民の質を高めていく。「マイホームデザイナー」シリーズでは、思い思いの家屋の間取り図を平面に与えると、それがぐぐっと具現化されて、スクリーンにぽんと立体の家が建つ。建てた家の中では、いろいろに家具を置いてみたり、その家を実際に歩いてみたりといったシミュレーションも可能になっている。おもしろいのでぜひ触ってみてください。

 

さて歌にもどると、この主体は、頭の中にある感情を、上記のようなソフトウェアにモリモリ読み込ませ、あとはエンターキーを押すことでシミュレートできるという感じだろうか。かくしてさわやかな全能感の眺望を得、町を見渡してみると、おや、こんなところに精米所が…… この驚きは、まず精米所がそのシミュレーターにすでにプリインストールされていたことに対する驚きや喜びだろう(精米所まで収録されてるのか! すげ~)し、自分の感情において精米所の対応物が存在していたことに対する驚きでもあるだろう(精米所的な感情の部分……)。精米所って、初手で玄米を買うタイプのひとにしか必要じゃないし、そんなに使うなら精米機だって買えないほどには高価じゃない。だけど必要になるときもある、そんなものたちへの、なんともいえんノスタルジックな部分ということかもしれん。おもしろかった。また、

              くちなしの北限をもとめるこころありたりきみの言葉のなかに

 

も、似たような前提が共有されているとおもう。まず「こころ」に空間的な部分があること、そしてそれを言葉によってシミュレートし把握する、そんな力能が主体のなかにあること。このような認識にはちょっとびっくりしたが、「くちなしの北限」には、(口無し、の連想も手伝って、)「言えることといえないことの境界」や「言葉でどこまでいけるのか」といった感覚がなんとなくあり、しかもそれが「言葉」の「中」にある、ということで、徹底して空間的な把握のなか、きみとわたしの関係性が感ぜられ、興味深い。ただ、この歌に関しては、きみとわたしの間で、感情を言語化する能力のマウントバトルを勝手にやっているかのような滑稽さもなんとなく感ぜられ(きみの言ったことをこちらはさらに巧みに言語化するぜ、というような主体が感ぜられ)、そのあたりで、これまであまりわたしが短歌で読んでこなかった感触を得た。

連作「銀の鳥」はいくつかの概念の縁語的関係が書き手によって周到に用意され、それによって蜘蛛の巣のような連作の空間を作っているように見える。〈花〉〈鳥〉〈落下〉〈町〉〈旅〉〈夏休み〉などがまずパッと目につくが、そういった作者の用意した線を追っていくのも、連作にとってわるいことではないだろう。まず〈花〉について。

 

消去法なれどしづかに選びだす迂回路すでに花に汚れて

花瑠瑠とよびかけるときやはらかくぼくらのくちにある花の束

水をやりそこねたことも語られて日記に花の飢ゑうるはしき

蕊ふかくふふみて朝顔の中に空ありつねに朝焼けの空

 

一首目はさきほど取り扱っていた〈町〉とも関連する。あらゆる道があるなかでなにか迂回しなくてはいけないし、消去法のなかでその選択肢は多くない。そんななか選ぶ道は「花に汚れて」しまっているという。この歌は集合的な花のにぎやかな下品さみたいなものを使いながら、精神的なゆきばのなさみたいなものを表現しているのだろう。しかし切迫とした感じではない。「しづかに選び出す」には主体の全能感を感じる。

 

 二首目。これホノルルって読むんですね……。この漢字表記は、なかなかお耽美なイメージが美しく、また、いつかクイズで見たら答えてドヤれてうれしい感じの知識です。「やはらかく」や「ぼくらのくち」といった語の流れから、たしかにホノルル、っていう言葉を発音するときのくちのあの感じ。という身体的な共感を読者の口元に流し込みつつ、それを「花瑠瑠」からひっぱってきた「花の束」という喩にまとめている。なるほどなあ。と納得するその一方で、読者を導いてくれるはずの「やはらかく」や「ぼくらの」が、読むときのテンションによっては、読者を囲い込みに来ているような、あのちょっと不潔な感覚を放っていなくもない。「花の束」は、数本の花が、なんとなく、口にふさふさと揺れているようで、ホノルルのトロピカルなイメージともあいまって、良い。

 

三、四首目は〈夏休み〉、という補助線を引いていいだろう。朝顔の観察日記に水をやらなかったことも記入してしまう素直な小学生、それを読んでその花の飢えもうるわしく感じてしまう書き手、というような構図がなんとなく浮かぶ。四首目、朝だけにひらく朝顔は、つねに朝焼けの空をその花のなかに反芻する、という、ロマンティックな把握+仮構・加工をバシっと決めているが、なんといってもその中心に大切に「蕊」を「ふふ」ませているのが、どういったらいいか、なんとも……気持ちわるいかんじで、文体のあざやかさもあいまって、独特の存在感をはなちつつ一連を終えている。

 

こうしてみてみると連作内で花は汚れたり、飢えたり、口にはさまったり、蕊をふくんだりして、なかなか大変そうだが、その概念としてはさまざまに両義的な意味がぶちこまれているようで、このように花のモチーフになんども立ち返る書き手のみぶりは執念深い。

 

つづいて〈鳥〉や〈落下〉について。

 

銀紙を小さな銀の鳥にするきみはゆふぐれ祈りのやうに

落鳥といひてしばらくうつくしき鳥の落下をまなうらに見ゆ

想像のなかになんどもたふすため咲かす想像上のくちなし

もういちど、とだれかが告げてもう一度夏にたふれてゆく遊撃手

だとしてもひとの祈りが白鳥を描く晩夏の夜はろばろと

 

一首目、例えば千羽鶴を折るような情景が一読で思い浮かべられると思うが、鶴を折る行為の〈祈り〉性がすでに共有されている読み手には、「祈りのやうに」は直喩としてはもちろんピンボケにみえるのだけど、それだけ「きみ」の行為や「銀の鳥」がまぶしく、尊く見えてしまったのかもしれない。

 

二首目、三首目などは、想像のレベルででものを落としたり、倒したりするのを見る、そしておそらくはそれはいくらでもまなうらで上映されるのだが、なぜそんなことを? と、読み手としてはやきもきするのだが、ぽとりと落ちて鳥の死ぬ「落鳥」という語を「うつくし」く仕立て上げなければならないような、強迫的なものに書き手は駆動されているのかもしれなくて、なんどでも繰り返し上映されるイメージの中で、その痛みをなんとか薄めたい、さらにはそれをエイヤッと無化しようとしているのが「うつくしき」だ、というような姿がうっすらと見えてこなくもない。そんなんで咲かされるくちなしの気持ちにもなれば? と思うこともあるが、書き手はそのような水準は問題としていないのだろう。というように、なんとなく不安を感じる歌たちだった。

 

四首目でもそれらと似たことが厳かに、どこか儀式めいて演じられている(だれかが告げて、のあたりが)。景としてはテレビで甲子園のリプレイを見るようなことを思い浮かべたらよいだろうか。まず「夏にたふれてゆく遊撃手」のイメージの喚起力が高いこと。そして「もういちど」、そして「もういちど」と、アンコールにこたえるようにして継起的にそれが再演されること。そのふたつが先ほど見た二・三首目とのちがいで、二・三首目の自傷の印象にくらべてこの歌になんとなく明るさや救いが感じられるゆえんではないだろうか。

 

かつて一首目では「祈りのやうに」折られた銀の鳥であったが、五首目ではひとのいのりが白鳥を描くという、この逆転についての自己言及が、その初句の「だとしても」だろうか。うーん、ひとの祈りが白鳥をえがくというのも、難しいが、でも祈りが、なにかの超越的な存在をまるで経由しないかのようにそのまま白鳥を描いてしまう、という祈りのイメージにはなんだか奇妙なデフォルメが効いているようにも思う。以下はかなり直観的なものいいになってしまうが、この連作における〈祈り〉には、超越者がいるようで、でもやっぱりいないんじゃないか、という気もする。超越者へ垂直に接近していくことを、どこか最初からあきらめてしまっているような感じ。ということはこの祈りは儀式することが大切で、けっきょくひとの祈りはひとのものになるのだろう。また、

 

さうだなあ すべてがきみにもどること 上着のなかに日差しは残り

 

などをそういった線の上で読むと、主体にとっての超越的な存在は〈きみ〉だったのかもしれないし、その吸引力にはなすすべもないのかもしれない。というような落としどころも発見できるだろう。

 

連作全体としての感想をざっくりと書く。わかりやすい取っ手としては〈花〉〈鳥〉〈落下〉〈旅〉〈町〉〈夏休み〉などがあり、縁語的な連関にわたしは導かれる。こういったモチーフの連関によって一首一首が細い糸で結ばれて、それらの線はたくさんの軸を渡って、蜘蛛の巣状のネットワークをつくっているように思われる。それは世界の緊密さやしずけさ親密さを思わせる(そしてそれらは連作内で自己言及される)一方、そこには火種がない。縁語が縁語を呼ぶような豊かな類似性の中で、その風穴はとくには空いていない。そういう連作経験だったようにおもう。

 

ちなみにシムシティというゲームではプレイヤー=市長は理不尽な家事に襲われ、市長はその予想外の出費に悩まされることになる(おれの市民は家事を起こしてしまうほど愚かなのか……!)。そういったことがこの町では起こらないかもしれない。「すべて」は「すでに」起こり、「もういちど」「まなうら」で「想像」され、「語られ」る、そんな空気をこの町に感じるのですね。


 短歌相互評⑩ 浅野大輝から濱田友郎「旅番組について」へ

2017-10-04 04:17:36 | 短歌相互評

 

 作品 濱田友郎「旅番組について」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-09-02-18717.html

 評者 浅野大輝

 

旅番組は日常のなかに存在しながら、旅という非日常の世界を映し出す。濱田友郎「旅番組について」は、そうした日常/非日常の接近や拮抗を感じさせる一連であると思う。

 

こらーって何年ぶりに言われたかわからずソファに麦茶をこぼす

 

①部屋でくつろいでいて、何かの瞬間に「こらーっ」という声を主体は聞く。驚いた主体が、思わずソファに麦茶をこぼす。

②「こらーっ」と言われたのは時間的には過去の話で、それを主体は「何年ぶりに言われたかわからず」と思い返している。ぼーっとそのことを考えているうちに、ソファに麦茶をこぼしてしまう。

 初読のときは①の読みとして捉えていたのだが、読んでいるうちに②の読みを取りたくなった。「何年ぶりに言われたか」という自身の内省は、いまこの瞬間に成立する思いではなくて、ある程度の時間をかけて過去を思い返すことで成立する思いである。①の読みではその認識がうまく掬い取れない。驚いて麦茶をこぼすのであれば、「こらーっ」という声のあと瞬間的に麦茶をこぼすほかなく、「何年ぶりに言われたか」という思いは歌をつくる段階で呼び出された後付けの説明という性格を帯びてしまう。

 ②の読みであれば、そうした認識も歌の読みに捉えることができる。むしろ、現代口語による時制表現の上で、主体の認識やその動きが巧みに表現されていると考えることができるのではないだろうか。歌のなかには過去の情報もあるが、それはあくまでもいまこの瞬間の主体の心において生起している事柄なのである。主体がいま生きているということが、確かなこととして感じられるようにも思う。

 言い方にもよるけれど、「こらーっ」というのは基本的には注意喚起のための言葉である。ただ、それを「何年ぶり」と考えてしまう主体の様子を見ていると、どことなく温かみのある「こらーっ」が想像される。

 「麦茶をこぼす」という言い方は、〈意図せず麦茶をこぼしてしまう〉場合にも、〈意図して麦茶をこぼす〉場合にも使う。ここにも口語の面白さがある。僕は上の読みで〈意図せず麦茶をこぼしてしまう〉読みをとったけれど、〈意図して麦茶をこぼす〉のも面白いかもしれない。温かい「こらーっ」に再び会うためなら、ソファに麦茶をこぼすくらいしてしまおうかなとも思う。

 

 

ミサイルが来るときは窓のない部屋に逃げてとひまわりに言えるのか

 

 「ミサイルが来る」という時事性と、「ひまわり」の叙情性の交錯が良いなと思う。同時に、「ミサイルが来る」ということがかなり身近な、現実の手触りが感じられる事象として存在していることに改めて驚く。

 「屋内にいる場合:窓から離れるか、窓のない部屋に移動する」という文言は、最近よく耳にするものだろう。これは内閣官房国民保護ポータルサイトに掲載されている「弾道ミサイル落下時の行動について」中の一文であるが、「ミサイルが来るときは窓のない部屋に逃げて」というのはそのメッセージを受けてのものと推測できる。このメッセージは、自分の意思で移動できるものを主な受け手として想定したものである。

 「ひまわり」が選ばれた背景には、植物であって基本的にはある1箇所に根を張って生活しているという事実や、時に太陽を追って動くとされる、夏の輝かしさのなかに直立するイメージがあるのだろう。またもしかしたら、震災以降ひまわりが放射性物質を吸収するというデマがささやかれたことなども影響しているかもしれない。

 ミサイルが来るから窓のない部屋に逃げてくれとひまわりに伝えるのは、非常に残酷なことである。そもそも自分の意思で動くことができない上に、たとえ移動できたとしてもその先は自身にとっては地獄のような暗闇なのだから。

 何らかの危機によって住み慣れた場所を捨て、過酷な環境に身を置かなくてはならないという状況は、人間の避難行動にも当てはまる。この歌で扱われる「逃げて」という言葉の背後には、土地に根ざして築き上げてきた暮らしを捨てよと伝える残酷さと、たとえ過酷な環境に向かうことになってもとにかくいま生きて欲しいという願いの苦しみとが、せめぎあっているように思えてならない。

 

 

駅にある小さな本屋に選ばれた小説なのだ 雨はつづいて

 

 まず、歌で語られる発見に素直に頷いてしまった。

 「駅にある小さな本屋」では、小規模でも最大限の売り上げを出せるように、なるべく広く支持を集めうる話題書が多く並ぶ。自分はいつも「話題ばっかり追いやがって」となんとなくひねくれた気持ちで見てしまうが、しかし良く考えてみればその本たちは、その小さな本屋のスペースを占有するに値すると判断された先鋭たちなのである。「〜なのだ」という断定により、そうした日常のなかの発見が鮮やかに立ち上げられているように思う。

 一字空けのあとの「雨はつづいて」では、突然視線が目の前の「小説」から風景へ向けられる。この視線の移り変わりで、少し歌の景をどう取るかが分かれてくるかもしれない。

①主体が小さな本屋で販売されている小説を見て、その小説が選ばれた本であるということに気づく。ふっと本屋から外へ顔を上げると、雨が続いている。

②主体は小さな本屋で購入した小説を読んでいて、ふいにその小説が選ばれた本であったことに気づく。ふっと小説から顔を上げると、その先ではまだ雨が続いている。

 個人的には、②の読みを取りたい。書店で顔を上げた先に雨の風景があるというよりも、本から顔を上げた瞬間に一気に外の風景に引き戻されるという体感の方が、唐突な「雨はつづいて」への接続に即しているように思える。また、たとえば「小説がある」「小説だ」という言葉と比べると、「小説なのだ」という言葉にはどこか本の内容を一度引き受けた上で、改めて「そうであったのだ」と発見し直すニュアンスが強いように思われる。そう思うと、書店に並ぶ小説をぱっと見たときに思ったというよりは、小説を一度手にとって開いて、それからふっと思い至った実感がある気がしてくるのである。

 

 

限りなく高貴なものと限りなく俗なもの yeah 苔むす寺に

 

 そこで「yeah」なのかよと笑ってしまったのだけど、リズムがとても好きで初読のときから気に入ってしまった一首だった。

 この歌のリズムを大まかに捉えるとしたら、〈5・7・5・5+2・7〉という形になるだろうか。通常の短歌定型〈5・7・5・7・7〉には、〈5・7〉のリズムの反復があって、その後に〈7〉が添えられて歌い納められるという長歌以来のリズムの構成意識が残されている。濱田作品の前半部分にあたる〈5・7・5・5〉というリズムでは、この〈5・7〉というリズムの反復が不完全な形で中断されるため、安定した〈5・7〉の形に早く解決したいという欲求が生まれてくる。リズムの中断と解決への欲求がタメを生み出し、〈+2〉の溢れ出るような勢いを作る。この〈+2〉部分でのリズム的欲求解消のために「yeah」という言葉が選びとられているのが、まさにラップにおけるフロウのようで心地よさが感じられる。

 「苔むす寺」における「高貴なもの」と「俗なもの」の共存は、非日常と日常の拮抗に通じるイメージだろう。非日常と日常の交錯によるエネルギーとリズムのエネルギーとが結託し、一首を興味深いものにしている。

 

 

ドーナツを愛する母の年金がみんなポン・デ・リングならね……

 

 一連のなかで最も好きだったのがこの一首。

 いくら「ドーナツを愛する母」だからといって、「年金」がすべて「ポン・デ・リング」であったらきっと困ってしまうのではないかという気もするが、この作品中ではそうした日常的な考え、社会通念の転覆が図られる。「ならね……」という言いさしには「そうであったら良いのに」というニュアンスがあるから、むしろ「母」の「年金」がすべて「ポン・デ・リング」であるという非日常の方に価値が置かれていることになるのである。

 また下の句の「ポン・デ・リング」でのリズムの取り方も注目すべきだろう。普段ポン・デ・リングという単語を口にするときには意識しない「・」、そして言いさしの「……」という微妙に質の違う休符がそれぞれ活用されることで、下の句のなんともならないような、希望に対する歯切れの悪さが巧みに表現されている。

 ドーナツを愛するからといって、「母」の年金はポン・デ・リングにはならない。それは非日常的な願いが、日常的な通念に負けてしまっている様子でもあるのではないだろうか。リズムにおける歯切れの悪さには、そうした状況への悔しさや諦めきれなさが見え隠れしているようにも感じられる。

 

 

踊りたいというか踊らされたくて旅番組のような生活

 

 旅番組においては、さまざまなタレントたちが旅という非日常の時間の演出に駆り出される。それは自らの意思で踊っているというよりも、背後にある番組構成上の都合に踊らされているように見える。この歌の特異さは、そうした踊らされている様にむしろ興味を抱いている点にある。誰かによって踊らされるというのは、自分の行く末が他者の手に委ねられているという状況ではあるが、一方で自身のことを心配せず他者に任せておけば良い状況でもある。主体の願いの後ろ向きな明るさが、危うさをはらんだ魅力として感じ取れる。

 加えて「旅番組のような生活」というのも、非日常と日常が混ざり合うような不思議な直喩と言えるだろう。「旅番組」は日常のなかにありながら非日常を提示する特殊な存在であると同時に、虚構性の強いものでもある。対してそれと取り合わせられる「生活」は、時にそのまま日常を指す、現実性の強い言葉である。この二つのイメージが接続されることで、虚構とも現実ともつかない、浮遊感のある「生活」のイメージが新たに形成されている。

 誰かの手によって踊らされている不穏な安心のなかで、現実味の薄い「生活」を楽しく送ること。それは許されないことなのかもしれないが、だからこそ淡く願ってしまうものであるようにも思う。

 

 

セフレじゃないよね? うんむしろビートルズかもねロンドンの屋上の

 

 一連のなかでは時折、他者との対話が顔を覗かせているが、この一首はそうした対話性が顕著に表れているタイプの作品と言えるだろう。

 「セフレ」=セックスフレンドは肉体関係のみの、ある意味割り切った関係性。となると、対比されている「ロンドンの屋上の」「ビートルズ」は、簡単には割り切れない、相互に深く絡み合ってしまった関係性であることがこの一首からだけでも想像できる。

 歌の外部情報を含めて読みを進めていくと、こうした「セフレ」と「ビートルズ」とが表現する関係性の違いはより明瞭になる。「ロンドンの屋上の」「ビートルズ」は、1969年1月に行われたルーフトップ・コンサートでの彼らの様子を想起させる。ビートルズがロンドンのアップル社屋上で行った、事実上最後のライヴ・パフォーマンス。バンドとして活動しながらも、彼らの関係はすでに破綻へと向かっていた。終わりを互いに感じながらも、そう簡単に互いを割り切れない、利害や愛憎の入り混じった関係性。「うんむしろビートルズかもね」と切り出すさまは、たとえ終わろうとも簡単には切り離せないような関係を、相手との間に希求しているものであると言えるだろう。

 

 

たち消えたアイデアたちがぼくを航空母艦で待っていたらうれしい

 

 「たち消えたアイデアたち」が、どこかで自分を待ってくれているのではないか。そうした願いにまず共感する。この歌でのポイントは、そんなアイデアたちが待っている場所として期待されているのが「航空母艦」である点と、あくまでもそこで「待っていたらうれしい」とだけ伝えている点にあると思う。

 アイデアは気がついたらどこからか湧いてきたり、気がつけばどこかに消えてしまったり、非常に自由な存在である。そう思うと、彼らは人間のように足で移動するというよりは、もっと軽やかな、翼などで空を飛び回るものであるように思われてくる。そしてアイデアは人工的な産物でもあるから、きっと人工的な飛行体を受け止める、航空母艦のようなところで離着陸を繰り返すのではないだろうかと想像される。

 また、あくまでもそうしたアイデアたちに対する主体の思いが「待っていたらうれしい」という控えめなものであることにも、何か優しさのようなものがあるだろう。すぐさま戻って来いというのではなくて、いつかまたどこかで会えたら良いという、淡い未来に対する期待なのである。

 自分の手を離れてしまったアイデアに対する想像。そこに生まれる優しさ。日常から非日常へのやわらかい視線を感じる歌だと思う。

 

 

奨学金決まったきみがこれからは毎日食べるトルコのアイス

 

 シンプルな佇まいの一首ながら、さまざまな思考を呼び起こす歌であるように感じる。

 「奨学金」というのは、言い方を変えてしまえば未来の自分の負債である。その時は金銭的に潤うが、将来的にはそれを返済していかなければならないことになる。学生時代という特殊な時間を確保するための、あくまでも一時的な潤沢なのだ。

 そんな「奨学金」をもらえることが決まった「きみ」が、「これからは毎日食べる」という「トルコのアイス」。ここでの「毎日」は、永遠のようでいてもちろん永遠ではない。どこかで必ず終わりが来てしまう。それはトルコアイスのどこまでも引き伸ばされていくようなさま、どこかで必ず途切れてしまうという運命ともリンクする。

 永遠に続くようにも思える、人生におけるわずかばかりの時間。どこかで途切れてしまうことを考えると、そうした時間はきっと日常のようでいて限りなく非日常的な時間でもある。

 

 

わたし眠る われら府民の淀川に低体温症の蟹眠る

 

 「わたし眠る」というのは、連作中にも表れていた「きみ」の発話だろうか。それとも、この歌の後半に登場する「蟹」の発話だろうか。もしかしたら、自分の発話ということもあるかもしれない。

 個人的には、冒頭部分は「きみ」の発話として一首を読んでいた。「淀川」というものを想定するときは、自分が見たり感じたりしているものが「川」であるとわかる程度にマクロな視点で観察しているような印象を受けるから、主体と「淀川」の間には物理的距離があるように感じられる。そうなると、「淀川」で眠る「蟹」と主体との間にも物理的距離があることになる。「わたし眠る」は、助詞抜きの効果も相まって他者の発話をその場で聞いているような印象があるため、なんとなく心理的にも物理的にも近い位置にいる「わたし」=連作中の「きみ」がいるような想像をする。これらの感覚が合わさって、主体が「きみ」の発話を聞いていて、それとは少し異なった位相に「淀川」や「蟹」がいる、という景が頭のなかに浮かんでくる。

 一般に人間や恒温動物に現れる症状である「低体温症」を変温動物である「蟹」の修飾に用いることで、「蟹」に人格が与えられ、どこか特別な存在として彼らを立ち上げる。「眠る」と発話する「きみ」も淀川に眠る「蟹」も、そしてそれを感じ取っている主体自身も、みな近い場所に暮らしている特別な「府民」なのである。「われら府民の淀川」をハブとして、土地に暮らす者たちの共鳴が生まれているのではないだろうか。

 「きみ」が放った言葉を聞きながら、自分たちの身近に流れる淀川に意識が及び、さらにそこに暮らす生きものたちにも眠りが訪れることに想像を巡らせてゆく。そうして、そこに現れる他者すべてと自身とをリンクさせていく。他者との心理的なつながりが現れた一首であると、個人的には読みたい。

 

 

習慣と運。あとはゲームやわ。千のナイフの降る舗道かな

 

 連作のラストを飾る一首。「習慣と運。あとはゲームやわ。」という発話には、主体の人生訓を読み取ることができるだろう。日常のものとして継続されていく「習慣」と、偶発的に変化を生み出す「運」、そうした日常とは隔絶された非日常の空間としての「ゲーム」。この3つの成分によって生を捉えるという意識が、主体にはあるように思う。

「千のナイフ」というと坂本龍一『千のナイフ』や、そのタイトルのもとになったアンリ・ミショー『みじめな奇蹟』の一節が思い浮かぶ。

 

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突然、一本のナイフが、突然千のナイフが、稲妻を嵌めこみ光線を閃めかせた千の大鎌、いくつかの森を一気に全部刈りとれるほどに巨大な大鎌が、恐ろしい勢いで、驚くべきスピードで、空間を上から下まで切断しに飛びこんでくる。

/アンリ・ミショー『みじめな奇蹟』(小海永二・訳、国文社、1969年)

 

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 「千のナイフの降る舗道」は、ゲームのなかの風景のように見える。非日常な危機である「千のナイフ」が、日常的な場所である「舗道」に降り注ぐという部分に、非日常/日常という両者のせめぎ合いがある。

 

 

 連作全体を通じて非日常/日常の拮抗があることは何度も述べてきたが、読みの可能性がさまざまな方向にひらかれた作品が多いということもまた、連作の特徴として挙げられるだろう。こうした傾向は、コンテクストからテクストを立ち上げる読者の読解力・想像力を信頼していることの証左でもあるだろうか。

 ここまでいろいろと書いてはみたものの、まだまだ多くのものが隠れた連作であるようにも思われる。本作品が多くの読者によってじっくりと読み解かれていくこと、またその際に今回の僕の評が叩き台の一つとして機能してくれることを願って、ひとまず筆を擱くことにする。