作品 濱田友郎「旅番組について」 http://shiika.sakura.ne.jp/works/tanka/2017-09-02-18717.html
評者 浅野大輝
旅番組は日常のなかに存在しながら、旅という非日常の世界を映し出す。濱田友郎「旅番組について」は、そうした日常/非日常の接近や拮抗を感じさせる一連であると思う。
こらーって何年ぶりに言われたかわからずソファに麦茶をこぼす
①部屋でくつろいでいて、何かの瞬間に「こらーっ」という声を主体は聞く。驚いた主体が、思わずソファに麦茶をこぼす。
②「こらーっ」と言われたのは時間的には過去の話で、それを主体は「何年ぶりに言われたかわからず」と思い返している。ぼーっとそのことを考えているうちに、ソファに麦茶をこぼしてしまう。
初読のときは①の読みとして捉えていたのだが、読んでいるうちに②の読みを取りたくなった。「何年ぶりに言われたか」という自身の内省は、いまこの瞬間に成立する思いではなくて、ある程度の時間をかけて過去を思い返すことで成立する思いである。①の読みではその認識がうまく掬い取れない。驚いて麦茶をこぼすのであれば、「こらーっ」という声のあと瞬間的に麦茶をこぼすほかなく、「何年ぶりに言われたか」という思いは歌をつくる段階で呼び出された後付けの説明という性格を帯びてしまう。
②の読みであれば、そうした認識も歌の読みに捉えることができる。むしろ、現代口語による時制表現の上で、主体の認識やその動きが巧みに表現されていると考えることができるのではないだろうか。歌のなかには過去の情報もあるが、それはあくまでもいまこの瞬間の主体の心において生起している事柄なのである。主体がいま生きているということが、確かなこととして感じられるようにも思う。
言い方にもよるけれど、「こらーっ」というのは基本的には注意喚起のための言葉である。ただ、それを「何年ぶり」と考えてしまう主体の様子を見ていると、どことなく温かみのある「こらーっ」が想像される。
「麦茶をこぼす」という言い方は、〈意図せず麦茶をこぼしてしまう〉場合にも、〈意図して麦茶をこぼす〉場合にも使う。ここにも口語の面白さがある。僕は上の読みで〈意図せず麦茶をこぼしてしまう〉読みをとったけれど、〈意図して麦茶をこぼす〉のも面白いかもしれない。温かい「こらーっ」に再び会うためなら、ソファに麦茶をこぼすくらいしてしまおうかなとも思う。
ミサイルが来るときは窓のない部屋に逃げてとひまわりに言えるのか
「ミサイルが来る」という時事性と、「ひまわり」の叙情性の交錯が良いなと思う。同時に、「ミサイルが来る」ということがかなり身近な、現実の手触りが感じられる事象として存在していることに改めて驚く。
「屋内にいる場合:窓から離れるか、窓のない部屋に移動する」という文言は、最近よく耳にするものだろう。これは内閣官房国民保護ポータルサイトに掲載されている「弾道ミサイル落下時の行動について」中の一文であるが、「ミサイルが来るときは窓のない部屋に逃げて」というのはそのメッセージを受けてのものと推測できる。このメッセージは、自分の意思で移動できるものを主な受け手として想定したものである。
「ひまわり」が選ばれた背景には、植物であって基本的にはある1箇所に根を張って生活しているという事実や、時に太陽を追って動くとされる、夏の輝かしさのなかに直立するイメージがあるのだろう。またもしかしたら、震災以降ひまわりが放射性物質を吸収するというデマがささやかれたことなども影響しているかもしれない。
ミサイルが来るから窓のない部屋に逃げてくれとひまわりに伝えるのは、非常に残酷なことである。そもそも自分の意思で動くことができない上に、たとえ移動できたとしてもその先は自身にとっては地獄のような暗闇なのだから。
何らかの危機によって住み慣れた場所を捨て、過酷な環境に身を置かなくてはならないという状況は、人間の避難行動にも当てはまる。この歌で扱われる「逃げて」という言葉の背後には、土地に根ざして築き上げてきた暮らしを捨てよと伝える残酷さと、たとえ過酷な環境に向かうことになってもとにかくいま生きて欲しいという願いの苦しみとが、せめぎあっているように思えてならない。
駅にある小さな本屋に選ばれた小説なのだ 雨はつづいて
まず、歌で語られる発見に素直に頷いてしまった。
「駅にある小さな本屋」では、小規模でも最大限の売り上げを出せるように、なるべく広く支持を集めうる話題書が多く並ぶ。自分はいつも「話題ばっかり追いやがって」となんとなくひねくれた気持ちで見てしまうが、しかし良く考えてみればその本たちは、その小さな本屋のスペースを占有するに値すると判断された先鋭たちなのである。「〜なのだ」という断定により、そうした日常のなかの発見が鮮やかに立ち上げられているように思う。
一字空けのあとの「雨はつづいて」では、突然視線が目の前の「小説」から風景へ向けられる。この視線の移り変わりで、少し歌の景をどう取るかが分かれてくるかもしれない。
①主体が小さな本屋で販売されている小説を見て、その小説が選ばれた本であるということに気づく。ふっと本屋から外へ顔を上げると、雨が続いている。
②主体は小さな本屋で購入した小説を読んでいて、ふいにその小説が選ばれた本であったことに気づく。ふっと小説から顔を上げると、その先ではまだ雨が続いている。
個人的には、②の読みを取りたい。書店で顔を上げた先に雨の風景があるというよりも、本から顔を上げた瞬間に一気に外の風景に引き戻されるという体感の方が、唐突な「雨はつづいて」への接続に即しているように思える。また、たとえば「小説がある」「小説だ」という言葉と比べると、「小説なのだ」という言葉にはどこか本の内容を一度引き受けた上で、改めて「そうであったのだ」と発見し直すニュアンスが強いように思われる。そう思うと、書店に並ぶ小説をぱっと見たときに思ったというよりは、小説を一度手にとって開いて、それからふっと思い至った実感がある気がしてくるのである。
限りなく高貴なものと限りなく俗なもの yeah 苔むす寺に
そこで「yeah」なのかよと笑ってしまったのだけど、リズムがとても好きで初読のときから気に入ってしまった一首だった。
この歌のリズムを大まかに捉えるとしたら、〈5・7・5・5+2・7〉という形になるだろうか。通常の短歌定型〈5・7・5・7・7〉には、〈5・7〉のリズムの反復があって、その後に〈7〉が添えられて歌い納められるという長歌以来のリズムの構成意識が残されている。濱田作品の前半部分にあたる〈5・7・5・5〉というリズムでは、この〈5・7〉というリズムの反復が不完全な形で中断されるため、安定した〈5・7〉の形に早く解決したいという欲求が生まれてくる。リズムの中断と解決への欲求がタメを生み出し、〈+2〉の溢れ出るような勢いを作る。この〈+2〉部分でのリズム的欲求解消のために「yeah」という言葉が選びとられているのが、まさにラップにおけるフロウのようで心地よさが感じられる。
「苔むす寺」における「高貴なもの」と「俗なもの」の共存は、非日常と日常の拮抗に通じるイメージだろう。非日常と日常の交錯によるエネルギーとリズムのエネルギーとが結託し、一首を興味深いものにしている。
ドーナツを愛する母の年金がみんなポン・デ・リングならね……
一連のなかで最も好きだったのがこの一首。
いくら「ドーナツを愛する母」だからといって、「年金」がすべて「ポン・デ・リング」であったらきっと困ってしまうのではないかという気もするが、この作品中ではそうした日常的な考え、社会通念の転覆が図られる。「ならね……」という言いさしには「そうであったら良いのに」というニュアンスがあるから、むしろ「母」の「年金」がすべて「ポン・デ・リング」であるという非日常の方に価値が置かれていることになるのである。
また下の句の「ポン・デ・リング」でのリズムの取り方も注目すべきだろう。普段ポン・デ・リングという単語を口にするときには意識しない「・」、そして言いさしの「……」という微妙に質の違う休符がそれぞれ活用されることで、下の句のなんともならないような、希望に対する歯切れの悪さが巧みに表現されている。
ドーナツを愛するからといって、「母」の年金はポン・デ・リングにはならない。それは非日常的な願いが、日常的な通念に負けてしまっている様子でもあるのではないだろうか。リズムにおける歯切れの悪さには、そうした状況への悔しさや諦めきれなさが見え隠れしているようにも感じられる。
踊りたいというか踊らされたくて旅番組のような生活
旅番組においては、さまざまなタレントたちが旅という非日常の時間の演出に駆り出される。それは自らの意思で踊っているというよりも、背後にある番組構成上の都合に踊らされているように見える。この歌の特異さは、そうした踊らされている様にむしろ興味を抱いている点にある。誰かによって踊らされるというのは、自分の行く末が他者の手に委ねられているという状況ではあるが、一方で自身のことを心配せず他者に任せておけば良い状況でもある。主体の願いの後ろ向きな明るさが、危うさをはらんだ魅力として感じ取れる。
加えて「旅番組のような生活」というのも、非日常と日常が混ざり合うような不思議な直喩と言えるだろう。「旅番組」は日常のなかにありながら非日常を提示する特殊な存在であると同時に、虚構性の強いものでもある。対してそれと取り合わせられる「生活」は、時にそのまま日常を指す、現実性の強い言葉である。この二つのイメージが接続されることで、虚構とも現実ともつかない、浮遊感のある「生活」のイメージが新たに形成されている。
誰かの手によって踊らされている不穏な安心のなかで、現実味の薄い「生活」を楽しく送ること。それは許されないことなのかもしれないが、だからこそ淡く願ってしまうものであるようにも思う。
セフレじゃないよね? うんむしろビートルズかもねロンドンの屋上の
一連のなかでは時折、他者との対話が顔を覗かせているが、この一首はそうした対話性が顕著に表れているタイプの作品と言えるだろう。
「セフレ」=セックスフレンドは肉体関係のみの、ある意味割り切った関係性。となると、対比されている「ロンドンの屋上の」「ビートルズ」は、簡単には割り切れない、相互に深く絡み合ってしまった関係性であることがこの一首からだけでも想像できる。
歌の外部情報を含めて読みを進めていくと、こうした「セフレ」と「ビートルズ」とが表現する関係性の違いはより明瞭になる。「ロンドンの屋上の」「ビートルズ」は、1969年1月に行われたルーフトップ・コンサートでの彼らの様子を想起させる。ビートルズがロンドンのアップル社屋上で行った、事実上最後のライヴ・パフォーマンス。バンドとして活動しながらも、彼らの関係はすでに破綻へと向かっていた。終わりを互いに感じながらも、そう簡単に互いを割り切れない、利害や愛憎の入り混じった関係性。「うんむしろビートルズかもね」と切り出すさまは、たとえ終わろうとも簡単には切り離せないような関係を、相手との間に希求しているものであると言えるだろう。
たち消えたアイデアたちがぼくを航空母艦で待っていたらうれしい
「たち消えたアイデアたち」が、どこかで自分を待ってくれているのではないか。そうした願いにまず共感する。この歌でのポイントは、そんなアイデアたちが待っている場所として期待されているのが「航空母艦」である点と、あくまでもそこで「待っていたらうれしい」とだけ伝えている点にあると思う。
アイデアは気がついたらどこからか湧いてきたり、気がつけばどこかに消えてしまったり、非常に自由な存在である。そう思うと、彼らは人間のように足で移動するというよりは、もっと軽やかな、翼などで空を飛び回るものであるように思われてくる。そしてアイデアは人工的な産物でもあるから、きっと人工的な飛行体を受け止める、航空母艦のようなところで離着陸を繰り返すのではないだろうかと想像される。
また、あくまでもそうしたアイデアたちに対する主体の思いが「待っていたらうれしい」という控えめなものであることにも、何か優しさのようなものがあるだろう。すぐさま戻って来いというのではなくて、いつかまたどこかで会えたら良いという、淡い未来に対する期待なのである。
自分の手を離れてしまったアイデアに対する想像。そこに生まれる優しさ。日常から非日常へのやわらかい視線を感じる歌だと思う。
奨学金決まったきみがこれからは毎日食べるトルコのアイス
シンプルな佇まいの一首ながら、さまざまな思考を呼び起こす歌であるように感じる。
「奨学金」というのは、言い方を変えてしまえば未来の自分の負債である。その時は金銭的に潤うが、将来的にはそれを返済していかなければならないことになる。学生時代という特殊な時間を確保するための、あくまでも一時的な潤沢なのだ。
そんな「奨学金」をもらえることが決まった「きみ」が、「これからは毎日食べる」という「トルコのアイス」。ここでの「毎日」は、永遠のようでいてもちろん永遠ではない。どこかで必ず終わりが来てしまう。それはトルコアイスのどこまでも引き伸ばされていくようなさま、どこかで必ず途切れてしまうという運命ともリンクする。
永遠に続くようにも思える、人生におけるわずかばかりの時間。どこかで途切れてしまうことを考えると、そうした時間はきっと日常のようでいて限りなく非日常的な時間でもある。
わたし眠る われら府民の淀川に低体温症の蟹眠る
「わたし眠る」というのは、連作中にも表れていた「きみ」の発話だろうか。それとも、この歌の後半に登場する「蟹」の発話だろうか。もしかしたら、自分の発話ということもあるかもしれない。
個人的には、冒頭部分は「きみ」の発話として一首を読んでいた。「淀川」というものを想定するときは、自分が見たり感じたりしているものが「川」であるとわかる程度にマクロな視点で観察しているような印象を受けるから、主体と「淀川」の間には物理的距離があるように感じられる。そうなると、「淀川」で眠る「蟹」と主体との間にも物理的距離があることになる。「わたし眠る」は、助詞抜きの効果も相まって他者の発話をその場で聞いているような印象があるため、なんとなく心理的にも物理的にも近い位置にいる「わたし」=連作中の「きみ」がいるような想像をする。これらの感覚が合わさって、主体が「きみ」の発話を聞いていて、それとは少し異なった位相に「淀川」や「蟹」がいる、という景が頭のなかに浮かんでくる。
一般に人間や恒温動物に現れる症状である「低体温症」を変温動物である「蟹」の修飾に用いることで、「蟹」に人格が与えられ、どこか特別な存在として彼らを立ち上げる。「眠る」と発話する「きみ」も淀川に眠る「蟹」も、そしてそれを感じ取っている主体自身も、みな近い場所に暮らしている特別な「府民」なのである。「われら府民の淀川」をハブとして、土地に暮らす者たちの共鳴が生まれているのではないだろうか。
「きみ」が放った言葉を聞きながら、自分たちの身近に流れる淀川に意識が及び、さらにそこに暮らす生きものたちにも眠りが訪れることに想像を巡らせてゆく。そうして、そこに現れる他者すべてと自身とをリンクさせていく。他者との心理的なつながりが現れた一首であると、個人的には読みたい。
習慣と運。あとはゲームやわ。千のナイフの降る舗道かな
連作のラストを飾る一首。「習慣と運。あとはゲームやわ。」という発話には、主体の人生訓を読み取ることができるだろう。日常のものとして継続されていく「習慣」と、偶発的に変化を生み出す「運」、そうした日常とは隔絶された非日常の空間としての「ゲーム」。この3つの成分によって生を捉えるという意識が、主体にはあるように思う。
「千のナイフ」というと坂本龍一『千のナイフ』や、そのタイトルのもとになったアンリ・ミショー『みじめな奇蹟』の一節が思い浮かぶ。
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突然、一本のナイフが、突然千のナイフが、稲妻を嵌めこみ光線を閃めかせた千の大鎌、いくつかの森を一気に全部刈りとれるほどに巨大な大鎌が、恐ろしい勢いで、驚くべきスピードで、空間を上から下まで切断しに飛びこんでくる。
/アンリ・ミショー『みじめな奇蹟』(小海永二・訳、国文社、1969年)
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「千のナイフの降る舗道」は、ゲームのなかの風景のように見える。非日常な危機である「千のナイフ」が、日常的な場所である「舗道」に降り注ぐという部分に、非日常/日常という両者のせめぎ合いがある。
連作全体を通じて非日常/日常の拮抗があることは何度も述べてきたが、読みの可能性がさまざまな方向にひらかれた作品が多いということもまた、連作の特徴として挙げられるだろう。こうした傾向は、コンテクストからテクストを立ち上げる読者の読解力・想像力を信頼していることの証左でもあるだろうか。
ここまでいろいろと書いてはみたものの、まだまだ多くのものが隠れた連作であるようにも思われる。本作品が多くの読者によってじっくりと読み解かれていくこと、またその際に今回の僕の評が叩き台の一つとして機能してくれることを願って、ひとまず筆を擱くことにする。