すごく好きな詩を書く詩人が、ある時期から輝きを失っていくことはよくある。逆に、ある時を境に瞠目に値する詩を書きはじめる詩人もいる。もっともこれは自然なことかもしれない。どんなパフォーマーでもピークの時期が永遠に続くことはまずあり得ないだろう。となれば、好きになる詩人の究極の条件とは、駄作でも愛せるかどうか、どんな仕打ちを受けても許せるかどうかということになりはしないか。つまり、ここから先は恋愛と同様で相性が合うか合わないかの話になる。
飯島耕一という人は、ぼくにとっては悩ましい詩人だ。すごく好きな詩があって、その分には最も好きな詩人の一人であることには間違いない。しかし、ときおり、というか度々、なんとも退屈な詩を書いたり、理解不能なことを始めたり、ちっともファンであるぼくを安心させてくれないのである。だから、先の〈究極条件〉に照らすと、好きというより、気になって仕方がない詩人といった方が正確かもしれない。けれどもこんな詩はやっぱり鮮やかでいい。惚れてしまう。
他人の空
鳥たちが帰って来た。
地の黒い割れ目をついばんだ。
見慣れない屋根の上を
上ったり下ったりした。
それは途方に暮れているように見えた。
空は石を食ったように頭をかかえている。
物思いにふけっている。
もう流れ出すこともなかったので、
血は空に
他人のようにめぐっている。
敗戦の心象、おそらく空襲で焼け野原になった都市の被害者たち、あるいは敗残者たちの心象なのだろう。「空が石を食ったように頭をかかえている」という〈空〉、しかも血が「他人のように」めぐる〈空〉が、無惨で「途方に暮れて」いると同時に、空虚な心理空間として提示されている。戦後の詩という時代性が強調されることが多いが、巨大な惨劇の後のなにか普遍的なものが伝わってくる作品だと思う。
飯島耕一が気になる大きな理由は他にもある。かれのある種の詩の語り口が好きで、大いに参考にさせてもらったことがあるからだ。
生きるとは
ゴヤのファースト・ネームを
知りたいと思うことだ。
ゴヤのロス・カプリチョスや
「聾の家」を
見たいと思うことだ。
(「ゴヤのファースト・ネームは」部分)
この作品が収められている詩集『ゴヤのファースト・ネームは』や、地震被災したときのドサクサで紛失した『虹の喜劇』は、くどくどと直叙の語り口で書かれている。語っている内容については、本当にその程度でいいの?というくらい、あやういことを書いていたりするのだが、そして、そこは納得したくない自分がいるのだが、でもしかし、語り口が好きだ。言葉を繰り出すリズムが好み、ということだろう。
それだけではない。平易な直叙で書きながら、パラグラフを重ねていくことで効果を高める手法とでもいえばいいだろうか。その手法にはかなり影響を受けた。ああ、こんなにだらしなくても魅力的になる書き方があるんだと、当時あれこれ憂鬱にしていたのに一気に目の前が明るくなったものだ。今でも飯島耕一は大切な詩人だ。