わたしの好きな詩人

毎月原則として第4土曜日に歌人、俳人の「私の好きな詩人」を1作掲載します。

私の好きな詩人 第155回 ―パーシー・ビッシュ・シェリー―  浜田 優

2015-08-16 15:06:48 | 詩客

 「私の好きな詩人」という題目を与えられたものの、さて困っている。ここ数日、あれこれ考えてはみたけれど、そうだ、この人、という名前が出てこない。
 もちろん何人か思い浮かびはした。何度も読み返した詩集もある。ではその詩なり作者なりが、ほんとうに好きなのか、と自問すると、考えこんでしまう。
 たとえば好きな女優さんとか、好きなミュージシャン、と問われれば、即座に答えられる(誰とは言わないけど)。どちらも表層的な印象がすべてだからだと思う。映像という平面、スピーカーという表面から受け取る印象がすべてで、そうした表層の向こうに何があるのかなど、いちいち穿鑿しない。目と耳を心地よく刺激してくれれば、それでいい。どちらも感覚的な享楽の対象なのだ。
 ところが詩は、そうはいかない。感じるだけではすまない。考えてしまう。なぜこの言葉が選ばれたのか。この行の連なりに込められた心境は、どう動いていくのか。この詩を書いたとき、詩人はどこにいたのか。そしてどんな姿勢だったのか。あえて語らなかったこと、語り残したことは、ないのか。そんなあれこれが気にかかるのは、私も詩を書いているからだろうか。そうかもしれないけれど、よくわからない。
 あえて断っておくが、私はなにも、詩という表層の向こうに控えている、詩人その人を穿鑿したいわけではない。高潔だろうが卑劣だろうが、誠実だろうが不実だろうが、詩人の人格に好き嫌いの基準はない。そうではなくて、私にとって気になる詩には、つねになにがしかの了解があり、そして異和があるのだ。惹きつけられながらも、すんなり呑みこめないしこりがある。だからくり返し読み直す。
 と、ここまで書いてきたところで、かなり享楽的に読める詩人もいたことを思い出した。シェリーだ。異論もあるとは思うが、私にとってシェリーの詩はどれも磨きぬかれた工芸品のようで、イメージも響きもじつに心地よく、しかも技巧の痕を感じさせないほどに自然で、艶やかだけど華美ではなく、端正でなじみやすい。シェリーの詩を読んでいると、個性とか作家性とかいったようなものは、たんに不器用な自我が塗りたくった余分な夾雑物にすぎないように思えてくる。
 とはいえ、端麗な吟醸よりも雑味のある本醸造で、ついつい深酒してしまうことのほうが多いんですけど、ね。

  わたしの魂は魅せられた小舟、
  ねむる白鳥のように あなたの
美しいうた声の銀の波のうえを漂っている。
  そして あなたの魂は天使のように
  舟をあやつる舵のそばに坐っている
風はみな 美しい音で鳴りひびいている。
  いつまでも いつまでも舟は漂っていくのか
  あの まがりくねった川を
  山を 森を 淵を
  荒涼とした楽園のあいだを!
やがて熟眠にしばられたもののように
わたしは大洋へはこばれ 深い海
はてしなく広がるひびきにみちた海に 流れおちる。

エイシア(「鎖を解かれたプロメテウス」第2幕第5場より(上田和夫訳))