詩集というものにはあまり馴染みがない。私が持っている詩の本はごく僅かで、読んでいる詩人も少ししかいない。
誰かと詩の話をすることは滅多にない。相手が誰であれ、詩や詩人の話題をもちだすことは、何故か気が引ける。自分が詩の世界のことをよく知らないということもあるけれど、どんな詩人のどういう詩を好むか、ということは人によってはあまり触れて欲しくないプライベートな話題ではないかと思うからだ。人は心の内に自分だけの小さな「詩」の部屋を持っている。その小さな部屋のことを誰かと共有したりわかり合ったりすることはとても難しい。そればかりでなく、自分自身にさえその「詩」の部屋のことはよくわからない。それは絶えず揺れ動き、微妙に変化し続けている。「詩を読む」とはそういうものではないかと思っている。
馬 どこの馬?
山だ
山の馬だ
馬が山から下りてくる
寒い山賊 焚火をたいて
馬をあぶって まるごとたべる
ああ うまい馬 馬うまい
それでも馬が下りてくる
(「不死馬」 冒頭第一節から)
岩田宏は私が読む僅かな詩人のうちの一人だ。頭韻や脚韻、その独特のリフレインによるテンポの早さや言葉の歯切れの良さに最初は魅了された。例えば「いやな唄」や「不死馬」がそうだ。しかしそういう部分は魅力の一部にすぎない。岩田宏は詩人であるが、マヤコフスキーやプレヴェールを訳した翻訳家の小笠原豊樹として有名である。露、仏、英の言葉を自由に操ることができたという。創作者であると同時に、人の創造した作品を別の言語によって再創造することができる言葉専門の芸術家だ。言葉に対して複眼的な特別な眼を持っていたに違いない。岩田宏の詩は、音とリズムが研ぎ澄まされた口誦的な要素と、知や抒情に働きかけて深く心の奥に食い込んでくるような要素が複雑に入り組んでいる。
おれに妹をつくりもせず
両親は死んだ
おれは念力で妹をつくりだし
ふたりで
タオルを持って
深夜のプールの
ざらざらのふちに立ち
泳ぎ寄るマリリン・モンロウを迎える
雨雲 切れろ 月 顔を出せ
(「悼む唄」第三節から)
岩田宏の詩を読むと、どこか遠くて深い場所へせき立てられるような気分になる。聖と俗、硬さと柔らかさの編み目を縫って泳ぐように次の言葉へ、もっと次の言葉へ・・・しかしそれを追いかけてもどこかへ辿りつくことはない。彼の詩を読むといつまでも満たされることのない飢餓感に襲われる。しかしそれは悪い感じではない。満たされない、という恍惚にひたひたと浸っている。岩田宏の詩はそういう恍惚を与えてくれる。
おそらくこれはどんな詩人のどの詩についても言えることだろうけれど、岩田宏の詩の魅力を言葉で説明することはできない。それはただ読んで知覚するしかない。私が好きな岩田宏の詩は、「独裁」「いやな唄」「不死馬」「破壊されたソネット」「グアンタナモ」「鹿をどり」「悼む唄」・・・。
三枝 桂子:俳句誌『LOTUS』同人