危機はわたしの属性である
「十月の詩」の最初の一行に、傍線が引いてある。書き込みをした当時の事情はよく憶えていないが、内から自分が崩壊していくような不安のさなかで、この詩句に出会い強く肯ったことはたしかだ。人間は、創造し何かを産み出す存在であるとすると、危機を伴うのは宿命である。しかし、私=危機そのものである、と言い切るに等しい表現は衝撃であった。同時に、見透かされたような思いがした。
わたしのなめらかな皮膚の下には
はげしい感情の暴風雨があり 十月の
淋しい海岸にうちあげられる
あたらしい屍体がある
不安定極まりない情緒、計り知れない寂寥、入れ代わり立ち代わり現れる死の想念。危機であるところの内実をひとつの情景として、しかと見つめ、さらに、
ぼくは悲惨をめざして労働するのだ
根深い心の悲惨が大地に根をおろし
淋しい裏庭の
あのケヤキの巨木に育つまで
(「保谷」より)
積極的に、‘悲惨’に近づき、‘悲惨’を根づかせ、そのために日々の労苦を重ねる。これが詩人の姿だ。幸福を追求して然るべき人間の在り方とは矛盾しているようだが、
一篇の詩を生むためには、
われわれはいとしいものを殺さなければならない
これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
われわれはその道を行かなければならない
(「四千の日と夜」より)
この大いなる矛盾を宣言した田村が当然引き受ける日常の姿なのだろう。そうして育つ、木、すなわち詩。木と言えば、別の詩篇ではこんな賛歌がささげられている。
木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ
ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか
見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空にむかって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしかにわめかないが
木は
愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
空にかえすはずがない
(中略)
木
ぼくはきみのことが大好きだ
(「木」)
「四千の日と夜」や「立棺」の、建築物や交響曲のような優れた構造と音楽性、詩の真実に肉薄する迫力、厳しいほどの決意表明。目指すべき詩というものがあるとするなら、そのような田村詩の在りようをこそ指すのではなかろうか。そう思ったのが私が田村隆一に惹かれた最初である。だが、詩人として生まれついたがゆえの人間性の危うさや苦悩の吐露(詩が成立する過程でその苦悩は乗り越えられているが)、素直にすがすがしく歌い上げたこのような詩篇も胸を打つ。危機や悲惨の中で養った目で、木のほんとうの姿(それは限りなく詩そのものに近い)を捉えた詩人の、無上の悦びにふれるからである。