『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(2)

2024-02-15 20:35:16 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.40(通算第90回)(2)


◎原注190

【原注190】〈190 大陸的自由主義の天国ベルギーも、この運動のなんの痕跡も示してはいない。この国の炭坑や鉱山においてさえ、あらゆる年齢層の男女の労働者が、どれだけの時間でもどんな時にも完全な「自由」をもって消費される。そこでの従業人員各/1000人について733人は男、88人は女、135人は16歳未満の少年、44人は16歳未満の少女である。熔鉱炉などでは1000人について男668人、女149人、16歳未満の少年98人、少女85人である。なおそのうえに、成熟および未成熟の労働力の恐ろしい搾取にひきかえ、1日平均、男は2シリング8ぺンス、女は1シリング8ペンス、少年は1シリング2ペンス半という低い労賃である。だが、そのかわりに、ベルギーでは1863年には1850年に比べて石炭や鉄などの輸出の量も価値もほぼ2倍になった。〉(全集第23a巻393-394頁)

  これは〈この闘争は近代的産業の領域で開始されるのだから、それはまず近代的産業の祖国、イギリスで演ぜられる(190)。〉という本文に付けられた原注です。
  標準労働日を確立するための労働者階級と資本家階級との闘争は、近代産業の発祥の地であるイギリスで開始されたが、それに対して、この原注では、ベルギーを例に挙げて、イギリス以外ではそうした階級闘争の痕跡はなかったと述べています。ではベルギーでは、資本の労働に対する搾取はなかったのかというとそうではなくて、マルクスは具体的に炭鉱や鉱山におけるあらゆる年齢層の男女の労働者が働いていたが、彼らは資本によって「自由」に搾取されるまままだったと述べています。
  ベルギーにおける労働者の構成とその低賃金の状態が具体的に詳しく紹介されていますが、にもかかわらず労働者は資本の思いのままに〈どれだけの時間でもどんな時にも完全な「自由」をもって消費され〉たというのです。だからそのおかげでベルギーでは石炭や鉄などの輸出の量も価値もほぼ2倍になったということです。


◎原注191

【原注191】〈191 (イ)今世紀の最初の10年が過ぎてからまもなく、ロバート・オーエンが労働日の制限の必要を単に理論的に主張しただけでなく、10時間労働日をニュー・ラナークの自分の工場で実際に採用したときには、それは共産主義のユートピアとして冷笑された。(ロ)ちょうど彼の「生産的労働と児童教育との結合」が冷笑され、彼の創設した労働者の協同組合事業が冷笑されたのと同じように、である。(ハ)今日では、第一のユートピアは工場法であり、第二のユートピアはすべての「工場法」のなかに公式の慣用句として現われており、そして、第三のユートピアはすでに反動的なごまかしの仮面として役だってさえいるのである。〉(全集第23a巻394頁)

  これは〈イギリスの工場労働者は、ただ単にイギリスの労働者階級だけのではなく、近代的労働者階級一般の選手だったが、彼らの理論家もまた資本の理論にたいする最初の挑戦者だった(191)。〉という本文に付けられた原注です。
  ここでは労働者階級の理論家としてロバート・オーエンが取り上げられています。文節に分けて検討しておきましょう。

  (イ)(ロ) 今世紀の最初の10年が過ぎてからまもなく、ロバート・オーエンが労働日の制限の必要を単に理論的に主張しただけでなく、10時間労働日をニュー・ラナークの自分の工場で実際に採用したときには、それは共産主義のユートピアとして冷笑されました。ちょうど彼の「生産的労働と児童教育との結合」が冷笑され、彼の創設した労働者の協同組合事業が冷笑されたのと同じように、です。

  オーウエンが労働者の、とくに子どもの健康を保障する法律を求めて請願を行ったのは1817年でした。当時、彼はニュー・ラナークの工場主であり、実際に自分の工場で10時間労働日を採用したのです。それは共産主義のユートピアとして冷笑されましたが、それは彼の「生産的労働と児童教育の結合」の主張や彼の創設した労働者の協同組合事業が冷笑されたのと同じだったということです。
  エンゲルスは『状態』において次のように述べています。

  〈工場制度の破壊的な作用は、すでにはやくから一般的な注意をひきはじめた。1802年の徒弟法については、すでにわれわれは述べた。その後、1817年ごろ、のちのイギリス社会主義の建設者で、当時ニュー・ラナーク(スコットランド)の工場主であったロバート・オーエンが、請願書と回顧録をつうじて、労働者、とくに子供の健康にたいする法的保証の必要を、行政当局にたいして説ぎはじめた。故R・ピール卿やそのほかの博愛家たちがオーエンに味方し、あいついで1819年、1825年および1831年の工場法を獲得したが、そのうち、はじめの二つの工場法はまったく守られず、最後の工場法はただ部分的に守られたにすぎなかった。サー・J・C・ホブハウスの提案にもとつくこの1831年の法律は、どんな木綿工場でも、21歳以下の人々を夜間、すなわち夜の7時半から朝の5時半までのあいだに働かせてはならず、またあらゆる工場で、18歳未満の若い者を最高毎日12時間、土曜日には9時間以上働かせてはならない、ということをきめた。しかし労働者は、首を覚悟しなければ自分の雇い主の意に反する証言をすることはできなかったので、この法律はほとんど役にたたなかった。労働者がわりと不穏なうごきを見せた大都市では、とにかくおもだった工場主たちが申し合わせて、この法律にしたがうことになったが、ここでさえも、農村の工場主と同じように、まったくこの法律に無関心な工場主がたくさんいた。そうこうするうちに、労働者たちのあいだで、10時間法案、すなわち18歳未満のすべての者を10時間よりも長く働かせることを禁止する法律にたいする要求がおこった。〉((全集第2巻402頁)

  また『歴史』ではオーエンの業績について次のように述べています。

  〈オーウェンは、ロバート・ピール卿のように、みずからの工場を規制するために議会の制定法を要求することはしないで、全般的な適用のための先例として、かれの工場の取りきめや規則を提案した。かれは、児童労働と労働時間を短縮するための各種の実験を試みた。そして、その結果を、かれは、「ピール委員会」で証言した。かれは、10歳未満の児童を雇用していないこと、および全労働時間は食事のためにさかれる1時間15分をふくむ12時間である、と証言した。かれは、以前には14時間労働をさせていたが、次第にそれを短縮した。かれは、労働時間を一層短縮することを希望した。そして、そうすることによって、製造業者たちが、国内取引においても、外国貿易においても、不利な立場に立たされるであろうとは考えなかった。こうした労働時間制限は、「老若を問わず、労働者たちの健康の少なからぬ改善、育ちゆく世代の教育の大いに注目すべき改善、および国の救貧税の多大の軽減」という結果をもたらすにちがいない、とかれは確信した。かれに雇用されている人びとの「全般的な健康と気力」にみられる大きな改善は、すでに採用された諸改革の結果として生じていた。かれは、「どんな規則的な労働にでも、10歳未満の児童を雇用することが必要である」とは考えなかった。かれは、教育こそが十分に必要であると考えた。「定職がないことで、かれらが悪い習慣を身につけるという恐れはなかったのか」と質問されたとき、かれは、「わたくし自身の経験では、まったくその反対で、かれらの習慣は、その教育の程度に比例してよくなったのがわかったといわなければならない」と答えた。そして10歳から12歳の児童は、半日工としてだけ雇用してもよい、とかれは考えていた。〉(21頁)

  (ハ)  しかし今日では、第一のユートピアは工場法として実現しており、第二のユートピアはすべての「工場法」のなかに公式の慣用句として現われています。そして、第三のユートピアはすでに反動的なごまかしの仮面として役だってさえいるのです。

  ユートピアとして冷笑されたオーエンの主張し実践したものは、今では実現していると述べています。一つは児童労働の労働時間の制限については工場法として実現し、第二のユートピア、つまり「生産的労働と児童教育の結合」はすべての「工場法」のなかに公式の慣用句として現れているということです。そして第三のユートピア、つまり労働者のための協同組合事業については、〈反動的なごまかしの仮面として役だってさえいる〉というのです。この最後の部分はいま一つ具体的になにを指しているのか分かりません。エンゲルスはオーエンの協同組合工場や協同組合売店について次のように述べています。

  〈ロバート・オーエンは、協同組合工場や協同組合売店の父ではあるが、前にも述べたように、この孤立的な変革要素の意義について彼の追随者たちが抱いたような幻想はけっして抱いていなかったのであって、実際に彼のいろいろな試みにおいて工場制度から出発しただけではなく、理論的にもそれを社会革命の出発点だとしていた。〉(全集第23a654頁)

  また『歴史』は、1819年の法案はオーエンの法案を拡張したものだと次のように述べています。

〈結局、1819年に通過したその法律は、オーウェンの草案をきわめて大幅に水増ししたもの/であった。かれの法案は、10歳未満の児童の就労を禁止し、洗礼の記録その他から年齢証明を義務づけることによって、このことを保証するものとされていた。同法は、わずかに年齢制限を9歳と定めたにすぎなかった。オーウェンの法案は、18歳未満のすべての人びとの労働時間を、食事時間を除いて1日に10時間30分に制限するものとされたが、同法は、16歳未満の全員について、食事時間を除いて1日に12時間以上働かせることを禁止した。ナーウェンの法案は、有給で資格のある監督官の任命を規定していたが、同法は、従来どおり、このことに関しては治安判事の意向に委ねた。それは、過去16年間の経験から非実用的であることが証明された制度であったにもかかわらずである。同法はまた、綿工場のみに適用された。一方、オーウェンの法案は、20人もしくはそれ以上の人びとが雇用されているすべての綿、毛織物、亜麻、その他の工場をふくむものであった。同法の真に重要な一条項は、9歳未満の児童労働を禁止することにあった。オーウェンは、この最低年齢を12歳まで引き上げることを希望していたが、10歳という線までは譲歩した。そうであるのに、さらに9歳まで引き下げられたのであった。このことは、不十分なものではあったにせよ、一つの原則の確認ということであった。それは多分、その他のいかなる時期よりもこの時期において一層必要とされていた。〉(23-24頁)

  最後に『資本論辞典』のオーエンの項目の概要を紹介しておきましょう。

  オーエン Robert Owen (1771-1858)イギリスの空想的社会主義者・協同組合主義の創始者.…….‘人間は環境の産物である'というフランスの唯物論的啓蒙主義を信奉し,当時のイギリス産業革命の上昇期にみられた労働者の困窮・堕落をなくすため,この信念から種々の案をつくり実施した.その試みは,すでに1790年来マンチェスターの紡績工場支配人として成功をおさめたが,1800年から1825年にわたってスコットランドのニュー・ラナークの大紡績工場の共同所有者および管理人として同じ方法でいっそラの好成績をあげ全欧州に名声を博した.そこでは,労働者の生活改善.その幼少年子弟の教育に成果をあげ.世界最初の幼稚園や職工の日用品を販売する工場共済店舗を創設した.しかも工場の株主には多大の利益が配当された.このオーエンのやり方は,‘純然たる事務的方法,いわば商人的打算の結果でき上がったもの'(エンゲルス)であり,専門的知識をもった実際的な博愛主義であった.この実践の上に立って,最初の著書《A New View of Society》(1813)が出版された.この博愛主義から共産主義への1820年来の移行は,彼の生涯における転換点となった.彼は.社会改良の道をふさぐ大きな障碍は.私有財産と宗教と現在の婚姻形式だと考えた.……彼は. 1819年の工場における婦人および児童労働の制限にかんする最初の法律の通過のため. 5年間の努力をしているが. 1821年来一方では協同組合(消費組合および生産組合)を提唱Lて,Co-operative Congressを結成し(1831-35).他方では,労働時間を単位とする労働貨幣によって労働生産物を交換する国民衡平労働交換所(National Equitable Labour Exchange)を創設した(1831-34)。そして労働組合の連合に努カし全国労働組合連合(The Grand National Connsolidated Trades' Union) を成立させ(1833-34).第1回大会の議長となった.……エンゲルスは'イギリスにおいて労働者の利益のために行なわれたいっさいの社会運/動.いっさいの現実の進歩は.すべてオーエンの名前に結びついている'と評価しているが.彼は,ただ‘よく指導された労働'のみが富の源泉であると考え,暴力を否定し労働階級独自の政治的運動にたいしてはつねに否定的立場に立った.そのためオーエン主義はイギリスのチャーテイズムおよび協同運動の主流とはなりえなかった.しかし彼は.サン-シモン、フリエとともに空想的社会主義者としてマルクス、エンゲルスによって高く評価されている。……
  マルクスは,……(オーエンが)労働日制限の必要を理論的に主張し,現実にニュー・ラナークの彼の工場で実施したことを指摘し,それが当時,彼の‘生産的労働と児童の教育との結合'および協同組合と同様に,共産主義的空想として物笑いされたこと,しかし今日では第一の空想は工場法となり,第二の空想は工場法中の公けの辞句としてあらわれ,第三の空想はむしろすでに反動的欺瞞の仮面として,役立っていることを指摘している。このうち‘生産的労働と児童の教育との結合'については,それが工場制度から発生したことがオーエンの研究によって明白であることが指摘されている。そしてマルクスは,個々の工場主が工場法制定にたいして大したことはできないとはいえ,オーエンを見ることによっていかに個々の人物が活動的でありうるかが.十分証明されると評価している。彼の共産主義については,それが経済学的,論戦的に登場ずるかぎりでは, リカードの価値および剰余価値に立脚しているとした。彼の〈労働貨幣〉については,商品生産の基礎の上で,労働時間を直接に代表するものとして労働貨幣を考えたジョン・グレイの浅薄な空想論とは対立的に,オーエンは,商品生産とは正反対に対立する生産形態における直接に社会化された労働を前提としていること,それゆえ彼の労働貨幣は,共同生産物にたいする生産者の個人的分担と個人的請求権を確認するにすぎないものであって,彼はけっして労働貨幣によって商品生産の必然的諸条件を回避しようとしているものではないとしている。……〉(478-478頁)


◎原注192

【原注192】〈192 ユア(フランス訳)『工場哲学』、パリ、1836年、第2巻、39、40、67、77ぺージ、その他。〉(全集第23a巻394頁)

  これは〈それだからこそ、工場哲学者ユアも、「労働の完全な自由」のために男らしく戦った資本に向かってイギリスの労働者階級が「工場法という奴隷制度」を自分の旗じるしにしたということを、労働者階級のぬぐい去ることのできない汚辱として非難するのである(192)。〉という本文に付けられた原注です。
  ユアの上記の主張の典拠として、『工場哲学』の参照箇所を示すものです。

  『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきましょう。

  〈{ユアは、国家の側からの労働日の規制である、12あるいは10時間法等々が、まったく労働者の「反逆」のせいで、彼らの組合(彼は攻撃的に「結社」と呼ぶ)のせいで存在するようになったことを認める。「(1818年ごろの紡績工組合の)これらの騒動や抗議の結果、工場の労働時間を規制するサー・ロバト・ピールの法案が1818年に通過した。同様な反抗の風潮がひきつづき現われ、1825年には第二の法案が、1831年にはサー・J・C・ホブハウスの名を冠した第三の法案が通過した。」(第二巻、19ページ。)}
  {「紡績工組合は、白人奴隷とか、キャラコの王冠をいただく黄金神の祭壇に毎年捧げられる児童の生賛とかいったおとぎ話ふうの絵を描いてみせることで、彼らのいいなりになる連中を育成することに完全に成功した。」(第二巻、39、40ページ。)}〉(草稿集⑨272頁)


◎第4パラグラフ(フランスにおける労働時間の規制)

【4】〈(イ)フランスはイギリスのあとからゆっくりびっこを引いてくる。(ロ)12時間法の誕生(193)のためには2月革命が必要だったが、この法律もそのイギリス製の原物に比べればずっと欠陥の多いものである。(ハ)それにもかかわらず、フランスの革命的な方法もその特有の長所を示している。(ニ)それはすべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日制限を一挙に課してしまうのであるが、これに比べて、イギリスの立法は、ときにはこの点、ときにはあの点で、やむをえず事態の圧力に屈服するものであって、どうしても新しい裁判上の紛糾を生みやすいのである(194)。(ホ)他方、フランスの法律は、イギリスではただ児童や未成年者や婦人の名で戦い取られただけで近ごろやっと一般的な権利として要求されているもの(195)を、原則として宣言しているのである。〉(全集第23a巻394頁)

  (イ)(ロ) フランスはイギリスのあとからゆっくりびっこを引いてきます。12時間法の誕生のためには2月革命が必要でしたが、この法律もそのイギリス製の原物に比べますとずっと欠陥の多いものです。

  このパラグラフから第7節の副題「イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応」が問題になり、まずフランスが取り上げられています。
  フランスの工場法の成立はイギリスに比べて遅く、しかも不完全なものだったということです。工場監督官のレッドグレイヴによれば、フランスでは1848年以前には工場における労働日を制限するための法律は存在しないも同然だったということです。次のように述べています。

  〈フランスで労働を規制している法律には二つのものがある。一つは、指定されたある種の諸労働における児童の労働と教育とにかかわるもので、1841年に制定された。もう一つは、あらゆる種類の労働における成人の労働時間を制限するもので、1848年に制定された。〉(草稿集④349頁)

  しかしこの1841年の法律は〈系統的な監察についての規定を含んでいないために〉(同355頁)、実際には効力のないものに終わったということです。
  もう一つの1848年に制定されたものは、2月革命の革命政府、国民会議によって制定されたものです。

  〈1848年3月2日に臨時政府は一つの法令を布告した。それによれば、工場ばかりでなくすべての製造所や作業場においても、児童ばかりでなく成人労働者についても、労働時間がパリでは10時間に、各県では11時間に制限さ/れた。〉(草稿集④349-350頁)

  しかしこれらも〈政府の執効な命令にもかかわらず、この法令は執行されえなかった。〉(同350頁)とも述べています。

  (ハ)(ニ)(ホ) それにもかかわらず、フランスの革命的な方法もその特有の長所を示しています。それはすべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日制限を一挙に課してしまうのですが、これに比べて、イギリスの立法は、ときにはこの点、ときにはあの点で、やむをえず事態の圧力に屈服するものであって、どうしても新しい裁判上の紛糾を生みやすいのでした。他方、フランスの法律は、イギリスではただ児童や未成年者や婦人の名で戦い取られただけで近ごろやっと一般的な権利として要求されているものを、原則として宣言しているのです。

  しかしフランスの労働時間を制限する法律は、問題点はあったとしても、革命政府によって行われたという特有の長所を持っていたということです。イギリスの工場法は、最初は紡績業や織物業など繊維産業に限定して、しかも児童や少年、婦人労働者に限ったものでしたが、フランスの法律は、すべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日の制限を一緒に課してしまうというものだったということです。
  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈国民議会はこの法律を、1848年9月8日の法律によって次のように修正した、--「工場(マニュファクチュア)および製造所(ワーク)における労働者の1日の労働は12時間を越えてはならない。政府は、作業の性質または装置の性質が必要とする場合には、この法令の適用を除外する旨を宣告する権能を有する」。1851年5月17日の布告によって、政府はこの除外例を指定した。まず第一に、1848年9月8日の法律が適用されないさまざまの部門が規定されている。そしてさらに、次のような制限が加えられた、--「1日の終りにおける機械類の掃除。原動機、ボイラー、機械類、建物の故障によって必要となった作業。以下の事例においては労働の延長が許される。--染色場、漂白場、綿捺染場における反物の洗浄および伸張について、1/日の終りに1時間。砂糖工場、精練所、化学工場では2時間。染色場、捺染場、仕上げ工場では、工場主が選定して知事が認可した年間120日は2時間」。{工場監督官A・レッドグレイヴは、『工場監督官報告書。1855年10月31日にいたる半年間』の80ページで、フランスにおけるこの法律の実施について次のように述べている、--「若干の工場主が私に請け合ったところによれば、彼らが労働日を延長する許可を利用したいと思ったときには、労働者たちは、あるときに労働日が延長されればほかのときにいつもの時間数が短縮されることになるだろう、という理由で反対した。……また、彼らが1日12時間を越える労働に反対したのは、とくに、この時間を規定した法律が、共和国の立法のうち彼らに残された唯一の善事だからである」。〉(350-351頁)


◎原注193

【原注193】〈193 『1855年のパリ国際統計会議』の報告書には、なかんずく次のように言われている。「工場や作業場での1日の労働の継続時間を12時間に制限するフランスの法律は、この労働を一定の固定した時間」(時限)「の範囲内に局限しないで、/ただ児童労働について午前5時から晩の9時までの時限が規定されているだけである。そこで、一部の工場主は、このわざわいをはらんだ沈黙が彼らに与える権利を利用して、おそらく日曜だけを除いて毎日中断なしに労働させるのである。そのために彼らは2組に分けた労働者を使用し、どちらの組も12時間より長く仕事場で過ごすことはないが、工場の作業は昼も夜も続けられる。法律は守られているが、人道のほうはどうだろうか?」「夜間労働が人体に及ぼす破壊的影響」のほかに、「同じうす暗い仕事場で男女が夜間いっしょに働くことの不幸な影響」も強調されている。〉(全集第23a巻394-395頁)

  これは〈12時間法の誕生(193)のためには2月革命が必要だった〉という本文に付けられた原注です。
  これはパリ国際統計会議の報告書から12時間法の内容について紹介しています。それによれば、労働時間を12時間に規定しているものの、それが一定の固定した範囲内に局限したものではないので、工場主たちは労働者を2組に分けて、交替して使い、中断無く昼も夜も労働させたということのようです。ただ児童労働については午前5時から晩の9時までに限定されていたということです。だから24時間中断なく労働させるということは、確かに法律には違反していないが、人道上は問題があるのだというのです。というのは夜間労働が人体に及ぼす影響もあるし、薄暗い仕事場で男女が夜間に働くにことによる「不幸な影響」もあるというわけです。


◎原注194

【原注194】〈194 「たとえば私の管区では、同じ工場建物のなかで、同じ工場主が、『漂白工場および染色工場法』のもとでは漂白業者および染色業者であり、『捺染工場法』のもとでは捺染業者であり、『工場法」のもとでは仕上げ業者である。」(『工場監督官報告書。一八六一年一〇月三1日』、二〇ページにあるべーカー氏の報告。) これらの法律のいろいろに違った規定とそこから生ずる混乱とを列挙してから、ベーカー氏は次のように言っている。「もし工場所有者が法律を回避しようと思えば、これらの三つの法律の実施を確保することがどんなに困難にならざるをえないかは、これによってわかるであろう。」〔同前、二一べージ。〕だが、これによって弁護士諸君に保証されているものは、訴訟である。〉(全集第23a巻395頁)

  これは〈それはすべての作業場と工場とに無差別に同じ労働日制限を一挙に課してしまうのであるが、これに比べて、イギリスの立法は、ときにはこの点、ときにはあの点で、やむをえず事態の圧力に屈服するものであって、どうしても新しい裁判上の紛糾を生みやすいのである(194)。〉という本文に付けられた原注です。
  ここでは工場監督官のベーカーの報告が紹介されています。それによれば同じ工場主が「漂白工場および染色工場法」のもとでは、漂白業者や染色業者になり、「捺染工場法」のもとでは捺染業者になり、「工場法」のもとでは仕上げ業者になることになり、同じ人物がさまざまな規定を受けることによる混乱を指摘しているということです。そしてさまざまな法律が補足的にあちこちに立てられたために、それを回避する方法も多様になり、そのたびに裁判をやらなければならなくなるということのようです。


◎原注195

【原注195】〈195 そこで、ついに工場監督官たちも思い切って次のように言うのである。「このような反対し(労働時間の法的制限にたいする資本の)「は、労働の権利という大原則の前に屈しなければならない。……たとえ疲労がまだ問題にならなくても、自分の労働者の労働にたいする雇い主の権利が停止されて労働者の時間が労働者自身のものになるような時点があるのである。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、54ページ。)〉(全集第23a巻395頁)

  これは〈他方、フランスの法律は、イギリスではただ児童や未成年者や婦人の名で戦い取られただけで近ごろやっと一般的な権利として要求されているもの(195)を、原則として宣言しているのである。〉どいう本文に付けられた原注です。
  これはフランスでは最初から原則として一般的に権利として要求されているものが、イギリスではようやく最近になって一般的な原則として要求されるようになったということの例として、工場監督官報告書の一文が紹介されています。要するに「労働の権利という大原則」を掲げて、労働者の労働に対する雇主の権利が停止されて、労働者の時間が労働者自身のものになるような時点があるのだ、と主張していることのようです。


◎第5パラグラフ(北アメリカ合衆国の8時間労働日の運動)

【5】〈(イ)北アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部をかたわにしていたあいだは、独立な労働運動はすべて麻痺状態にあった。(ロ)黒い皮の労働が焼き印を押されているところでは、白い皮の労働が解放されるわけがない。(ハ)しかし、奴隷制度の死からは、たちまち一つの新しく若返った生命が発芽した。(ニ)南北戦争の第一の成果は、機関車という1歩7マイルの長靴で大西洋から太平洋までを、ニュー・イングランドからカリフォルニアまでを、またにかける8時間運動だった。(ホ)ボルティモアの全国労働者大会〔95〕(1866年8月16日) は次のように宣言する。/
(ヘ)「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するために必要な現下最大の急務は、アメリカ連邦のすべての州で標準労働日を8時間とする法律の制定である。われわれは、この輝かしい成果に到達ずるまで、われわれの全力を尽くすことを決意した(196)。」
  (ト)それと同時に(1866年9月初め)ジュネーヴの「国際労働者大会」〔第一インタナショナルの大会〕は、ロンドンの総務委員会の提案にもとづいて、次のように決議した。(チ)「われわれは労働日の制限を、それなしには他のいっさいの解放への努力が挫折するよりほかはない一つの予備条件として宣言する。……われわれは8労働時間を労働日の法定限度として提案する。〔96〕」〉(全集第23a巻395-396頁)

  (イ)(ロ) 北アメリカ合衆国では、奴隷制度が共和国の一部をかたわにしていたあいだは、独立な労働運動はすべて麻痺状態にありました。黒い皮の労働が焼き印を押されているところでは、白い皮の労働が解放されるわけがないのです。

  アメリカの労働者階級の闘いは、アメリカの南北戦争によって南部の奴隷解放が実現して初めて、その発展が可能になったということが強調されています。それがやや文学的な表現によって述べられています。
  マルクスの合衆国大統領リンカンに宛てた書簡からも紹介しておきましょう(全文は付属資料に)。

  〈北部における真の政治的権力者である労働者たちは、奴隷制が彼ら自身の共和国をげがすのを許していたあいだは、また彼らが、自分の同意なしに主人に所有されたり売られたりしていた黒人にくらべて、みずから自分を売り、みずから自己の主人を選ぶことが白人労働者の最高の特権であると得意になっていたあいだは--彼らは真の労働の自由を獲得することもできなかったし、あるいは、ヨーロッパの兄弟たちの解放闘争を援助することもできなかったのであります。〉(全集第16巻17頁)

  (ハ)(ニ) しかし、奴隷制度の死からは、たちまち一つの新しく若返った生命が発芽しました。南北戦争の第一の成果は、機関車という1歩7マイルの長靴で大西洋から太平洋までを、ニュー・イングランドからカリフォルニアまでを、またにかける8時間運動でした。

  しかし南北戦争が北軍の勝利に終わり、奴隷制度の廃止が決まると同時に、アメリカの労働運動は息を吹き返し、その成果は東から西へとアメリカ大陸を横断する鉄道のように進展した8時間労働運動だったというのです。
  全集第16巻の注解138を紹介しておきます。

  〈注解(138)--アメリカ合衆国では、内戦以後、法律による8時間労働日の制定を要求する運動が強まった。全国にわたって、8時間労働日獲得闘争のための8時間労働連盟(Eight-Hour Leagues)が結成された。全国労働同盟がこの運動に参加した。同盟は、1866年8月ボルティモアでひらかれた全国大会で、8時間労働日の要求は資本主義的奴隷制から労働を解放するための必要な前提である、と声明した。〉(第16巻637頁)

  また〈1歩7マイルの長靴〉という部分には新日本新書版では次のような訳者注が付いています。

  〈イギリスの童話『一寸法師』に出てくる人食い鬼が履く、1またぎで7リーグ(約21マイル)進める長靴にちなむ〉(524頁)

  (ホ)(ヘ)ボルティモアの全国労働者大会(1866年8月16日) は次のように宣言します。「この国の労働を資本主義的奴隷制度から解放するために必要な現下最大の急務は、アメリカ連邦のすべての標準労働日を8時間とする法律の制定である。われわれは、この輝かしい成果に到達ずるまで、われわれの全力を尽くすことを決意した。」

  アメリカの8時間労働運動を牽引した全国労働同盟は1866年にボルティモアの大会で創立されましたが、その宣言のなかで、アメリカの労働者を資本主義的奴隷制度から解放するためには、8時間を標準労働日とする法律の制定であるとしたのです。
  全集版には〈ボルティモアの全国労働者大会〔95〕〉には注釈95が付いています。それは次のようなものです。

  〈(95) ボルティモァの全アメリカ労働者大会は1866年8月20日から25日まで開かれた。大会には労働組合に結集した6万人以上の労働者を代表する60名の代議員が出席した。大会は次のような諸問題を討議した。すなわち、8時間労働日の法定、労働者の政治活動、協同組合、すべての労働者の労働組合への結集、およびその他の諸問題である。さらに労働者階級の政治組織である全国労働同盟(ナシロナル・レーバー・ユニオン)の設立が決議された。〉(全集第23a巻17頁)

  また全集第16巻の注解205も紹介しておきます。

 〈注解(205)--アメリカ合衆国の全国労働同盟(National Labor Union)は、1866年8月にボルティモアの大会で創立された。アメリカの労働運動のすぐれた代表者であるW・H・シルヴィスがこの創立に積極的に参加した。全国労働同盟は、当初から国際労働者協会を支持した。1867年8月の全国労働同盟シカゴ大会では、トレヴェリックが国際労働者協会の定例大会への代議員に選出されたが、彼はローザンヌ大会に出席しなかった。全国労働同盟の一代議員キャメロンが、1869年にインタナショナルのバーゼル大/会の終わりの数回の会議に参加した。1870年8月、シンシナティでひらかれた全国労働同盟の大会は、国際労働者協会の原則にたいする同意を宣言し、協会への加入の意向を表明した決議を採択した。しかしこの決定は実行されなかった。〉(第16巻652-653頁)

  さらに新日本新書版にも同じ部分に次のような訳者注が付いています。

  〈恒久的全国組織の結成、8時間労働日の法定、未組織労働者の組織加盟、協同組合問題等を議題として、6万余名を擁する59の組織によって、8月20-25日に開かれた大会。マルクスは、1866年10月9日のクーゲルマン宛の手紙でこの大会を高く評価した(邦訳『全集』、第31巻、441頁)。なおマルクスは、これを「労働者総会(1866年8月16日)」と誤記した。〉(524頁)

  ついでですから、マルクスのクーゲルマン宛の手紙も見ておきましょう。

  〈私はジュネーヴの第1回大会について非常に懸念していました。しかし、大会は全体として私の予想以上にうまくいきました。フランス、イギリスおよびアメリカでの影響は思いがけないものでした。私は行くことができず、また行こうとも思いませんでしたが、ロンドンの代議員たちの綱領(『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』--引用者)を書いてやりました。私はわざとそれを、労働者の直接的な相互理解と協力が可能であり、階級闘争と労働者を階級に組織することの欲求に直接に栄養と刺激とを与えるような項目に限定しました。……(中略)……
  同時にボルティモアでひらかれたアメリカの労働者大会は私に非常な喜びをもたらしました(545)。資本にたいする闘争の組織化がここでのスローガンでした。そして不思議なことに、私がジュネーヴのために提出した要求の大部分が、労働者の正しい本能からそこでもまた提出されたのです。/
  わが中央評議会(ここで私はそれに大いに参加しました)が生命をふきこんだ当地の改革運動は、いまや巨大な抵抗しがたい規模にひろがりました。私はいつも舞台裏にいましたが、運動が軌道にのってからは、もうそれ以上これにかかわらないことにしています。
  あなたのK・マルクス〉(全集第31巻、441-442頁)。
  〈注解545--ボルティモアの労働者大会(1866年8月20-25日)には、59の労働組合と、8時間労働日のための闘争を行った他の多数の団体が代議員を派遣した。この大会では、とりわけ次の問題が論ぜられた。すなわち、8時間労働日の法律による実施およびすべての労働者の労働組合への加盟である。大会は、全国労働同盟(National Labor Union)の設立を決議した。〉(全集31巻610頁)

  (ト)(チ) それと同時に(1866年9月初め)ジュネーヴの「国際労働者大会」〔第一インタナショナルの大会〕は、ロンドンの総務委員会の提案にもとづいて、次のように決議しました。「われわれは労働日の制限を、それなしには他のいっさいの解放への努力が挫折するよりほかはない一つの予備条件として宣言する。……われわれは8労働時間を労働日の法定限度として提案する。」

  アメリカの全国労働同盟の創立と同時に、ジュネーヴの第一インターナショナルの大会では、労働日の制限を、何より重要であることを宣言し、8時間労働日の制定を提案したということです。
  全集版には〈「われわれは労働日の制限を、それなしには他のいっさいの解放への努力が挫折するよりほかはない一つの予備条件として宣言する。……われわれは8労働時間を労働日の法定限度として提案する。〔96〕」〉と注解96が付いていますが、それは次のようなものです。

 〈(96) ここで引用された国際労働者協会ジュネーヴ大会の決議は、カール・マルクスの執筆した『個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示』にもとづいて採択された。(本全集、第16巻、190-199(原)ぺージを見よ。)〉(全集第23a巻17-18頁)

  というわけで、マルクスが起草した《個々の問題についての暫定中央評議会代議員への指示》(『ジ・インタナショナル・クリア』1867年2月20日および3月13日付第6/7号および第8/9/10号)の「労働日の制限」の項目を紹介しておきます。

 〈3 労働日の制限

  労働日の制限は、それなしには、いっそうすすんだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるをえない先決条件である。
  それは、労働者階級、すなわち各国民中の多数者の健康と体力を回復するためにも、またこの労働者階級に、知的発達をとげ、社交や社会的・政治的活動にたずさわる可能性を保障するためにも、ぜひとも必要である。
  われわれは労働日の法定の限度として8時間労働を提案する。このような制限は、アメリカ合衆国の労働者が全国の労働者が全国的に要求している(138)ものであって、本大会の決議はそれを全世界の労働者階級の共通の綱領とするであろう。
  工場法についての経験がまだ比較的に日のあさい大陸の会員の参考としてつけくわえて言えば、この8労働時間が1日のうちのどの刻限内におこなわれるべきかを決めておかなければ、法律によるどんな制限も役にはたたず、資本によってふみにじられてしまうであろう。この刻限の長さは、8労働時間に食事のための休憩時間を加えたもので決定されなければならない。たとえば食事のためのさまざま/な休止時間の合計が1時間だとすれば、法定の就業刻限の長さは9時間とし、たとえぽ午前7時から午後4時までとか、午前8時から午後5時までとかと決めるべきである。夜間労働は、法律に明示された事業または事業部門で、例外としてのみ許可するようにすべきである。方向としては、夜間労働の完全な廃止をめざさなければならない。
  本項は、男女の成人だけについてのものである。ただ、婦人については、夜間労働いっさい厳重に禁止されなければならないし、また両性関係の礼儀を傷つけたり、婦人の身体に有毒な作用やその他の有害な影響を及ぼすような作業も、いっさい厳重に禁止されなけれぽならない。ここで成人というのは、18歳以上のすべての者をさす。〉(全集第16巻191-192頁)

  ((3)に続く。)

 

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