『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(7)

2023-10-20 15:52:19 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (7)



◎原注125

【原注125】〈125 『産業および商業に関する一論』、41、15、96、97、55、56、57ページ。〉 (全集第23a巻頁363)

  これはそれ以前の引用部分の典拠を示すものといえます。このようにページ数が前後しているのを見ても、第11パラグラフのカミンガムの著書からの引用文は、マルクス自身の手による適宜な抜粋とまとめと言えるでしょう。付属資料に『61-63草稿』におけるマルクスによるカミンガムの著書からの抜粋を長く紹介していますので、それを参照してください。


◎原注126

【原注126】〈126 同前、69ページ。ジェーコブ・ヴァンダリントはすでに1734年に、労働民衆の怠惰についての資本家の苦情の秘密は、ただ単に、資本家が同じ賃金で4労働日の代わりに6労働日を要求したということでしかない、と説明した。〉 (全集第23a巻363頁)

  これは〈わが国の工業貧民が、いま彼らが4日でかせぐのと同じ金額で6日働くことに甘んずるようになるまでは、救済は完全ではないであろう(126)。〉という本文のカミンガムからの引用文につけられた原注です。カミンガムの時代は、まだ労働者は資本に形式的に包摂されただけで、資本の経済的な支配力は十分ではなく、生産手段と労働力との分離も不十分だったので、まだまだ労働者は独立していたので、如何にして労働者を生産へと駆り立て、労働の習慣を付け、4日で稼ぐのと同じ賃金で、つまり低い賃金でも6日働くのが当たり前というふうに習慣づけることが必要だというのがカミンガムの主張なわけです。
  それに対して、マルクスはすでに1734年につまり1730年のカミンガムの著書が出た当時において、労働につこうとしない民衆の怠惰についての資本家の苦情(それを代弁しているのがカミンガムなのですが)の真意は、4労働日の代わりに6労働日を要求していることでしかない、と喝破したというのです。
  同じように、『草稿集⑨』におけるカニンガムからの一連の引用のなかの一文で、マルクスは次のように書いています。

  〈当時、労働にたいする需要がその供給以上に急速に増大していた、という事実は、次の文章から見てとれる。(すでにヴァンダリント、またのちにはフォース夕、等が、ブルジョアは賃金をより高くすることでより多くの労働量を調達するということに抵抗することに気づいていた。)
  「わが王国における怠惰のもう一つの原因は、十分な数の働き手が不足していることである。(27ページ。)
  もろもろの製造業にたいする異常な需要によって労働者が不足するようになる場合には、労働者はつねに自分たち自身の責任(そんなものはあるはずがなかろう)を感じるし、それを彼らの親方に同じように感じきせるであろう。ところが、こうした場合に、一群の労働者が1日じゅう一緒に仕事を怠けることによって結託して彼らの雇用者を苦しめるほど、これらの人々の性向が堕落しているのは驚くべきことである。」(27、28ページ。)(この「驚くべき」事実とこの類まれなる「堕落」について、ヴァンダリントとフォースタを参照すること。)「そうしたことは、小麦やその他の必需品が高価な場合にはけっして起こらない。つまり、その場合には、労働が非常に豊富であり、労働することがぜひ必要となるので、そのように自然に背いた結託は許されないのである。」(28ページ。)〉 (『草稿集』⑨694頁)

  なお新日本新書版では〈1734年〉の部分に次のような訳者注が付けられています。

  〈1734年は、ヴァンダリントの唯一の著作である『貨幣万能論』の刊行された年であるが、同書には勤労者の怠惰の非難にたいする反論しか見あたらない。浜林・四元訳156ページ以下参照〉 (478頁)


◎原注127

【原注127】〈127 同前、242、243ぺージ。「このような理想的な救貧院は、『恐怖の家』にされなければならないのであって、貧民がたっぷり食わされ、あたたかくきちんと着せられ、ほんのわずかしか働かないというような、貧民の避難所にされてはならないのである。」〉 (全集第23a巻363頁)

  これは〈この目的のためにも、また「怠惰や気ままやロマンティックな自由の夢想の根絶」のためにも、同じくまた「救貧税の軽減や勤勉精神の助長やマニュファクチュアにおける労働価格の引き下げのためにも」、資本に忠実なわがエッカルト〔ドイツの英雄詩のなかの忠義者〕は、公の慈善に頼っているこのような労働者を、一口に言えば、受救貧民〔paupers〕を、一つの「理想的な救貧院」(an ideal Workhouse〕に閉じ込めるというきわめつきの方策を提案する。「このような家は恐怖の家(House of Terror) にされなければならない(127)。〉というカミンガムからの引用文につけられた原注です。まずそれらの引用分の典拠として242、243ページが示され、さらにカミンガムからの引用文が追加されています。
  『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきましょう。

 労役場〔workhouse〕が機能しなければならないとすれば、それは恐怖の家〔hous of terror〕にならなければならない。
  「労役場の計画が……怠惰、放蕩および不節制を根絶すること、勤勉の精神を鼓舞すること、わが国の製造業における労働の価格を低下させること……にかんして、なにかよい目的をかなえるべきであるならば、労役場は、ひとつの恐怖の家にされるべきであり、貧民のための避難所となってはならないのである。」(242[-243]ぺージ。)そうした「労役場」を、彼は「理想的な労役場」と呼び、そうした点において次のような提案をしている。「食事のために独自な時聞を与え12時間のきちんとした労働を残すようなかたちで、彼(貧民)に1日14時間働かせる。」(260ページ。)〉 (草稿集⑨689頁)


◎原注128

【原注128】〈128 “In this ideal workhouse the poor shall work 14 hours in a day,allowing proper time for meals,in such manner that there shall remain 12 hours of neat labour" (同前。〔260ページ。〕)彼は言う、「フランス人はわれわれの熱狂的な自由の観念を笑っている」と。(同前、78ページ。)〉 (全集第23a巻363頁)

  これは〈この「恐怖の家」、この「救貧院の典型」では、「毎日14時間、といっても適当な食事時間がはいるので、まる12労働時間が残るように」労働が行なわれなければならない(128)。〉という本文に付けられた原注です。
  初版や全集版やフランス語版では英文がそのまま紹介されていますが、新日本新書版では次のようになっています。

  〈(128)同前(260ページ)。「フランス人は」--と彼は言う--「われわれの熱狂的な自由の観念をせせら笑っている」(同前78ページ)。〉 (477頁)

  『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきましょう。

  労働階級は、彼らの上位者たちへの依存の念をもたなければならない。
  「しかし、製造業に従事するわが国の人々は、自分たちはイギリス人として、ヨーロッパのいかなる国におけるよりも自由で独立しているという生得の特権をほしいままにしている、という考えを抱いてきた。ところが今や、この考えは、わが国の軍隊を勇気づけるかぎりていくらか役に/立っかもしれないが、製造業に従事する貧民がこのような考えを抱かないほうが彼ら自身にとっても国家にとっても得策であることはまちがいないのである労働する人々は自分たちが彼らの上位者たちから独立しているなどとけっして考えてはならない。(56ページ。)おそらく全体の8分の7までがほとんどまたはまったく財産をもたない人々である、わが国のような商業国家で、下層民に活力を与えるのはきわめて危険である。(57ページ。)食糧品やその他の必需品の価格によって規定されるのは、労働の量であって、その価格ではない。つまり、必需品の価格を非常に低く低下させるならば、当然それに対応して労働の量が減少する。(48ページ。)人間というものが一般に、本来的に安楽と怠惰を好むものであるというのが真実であることは、食糧品が非常に高価になるようなことでもないかぎり、平均的にいって週に4日以上は働かないような、製造業に従事するわが国の大衆(下層民)の行状から、残念にも見てとれることである。」(15ページ。)〉 (草稿集⑨687-688頁)
  〈「イギリスの下層の人々は、自由についてのロマンティクな考えから、一般に、彼らに強制されるものをすべて拒絶し、それらすべてに反抗する。だから、処罰にたいする恐れを抱かせることによりある賃金である時間働くことを人々に強いることはできるとしても、仕事をきちんとやるように強いることはできない。(92ページ。)一般的な勤勉を強制しようとするいかなる計画にあっても、必要を基礎としなければならないのであるが、それにもかかわらず、イギリスの大衆の考えと性向を考えるならば、それは、議会のそうした法律がやるようには完全かつ直接に核心に触れるべきではないように思われる。というのは、そうした法律を実行すると、ほとんどつねに、不法な結託、暴動および混乱が生じてきたからである。できることなら、そうした法律の効果は、ほとんど気づかれずにまた力ずくのかたちをとらずに生み出されるべきである。」(93ページ。)〉 (草稿集⑨700頁)


◎第12パラグラフ(1770年の「理想的救貧院」、「恐怖の家」が強制した労働時間と63年後に長時間の児童労働を強制的に短縮させた労働時間とが同じ12時間という事実、それだけ長時間労働が歴史的に一般化してきたということである)

【12】〈(イ)「理想的救貧院」では、すなわち1770年の恐怖の家では、1日に12労働時間! (ロ)それから63年後の1833年、イギリスの議会が4つの工場部門で13歳から18歳までの少年の労働日をまる12労働時間に引き下げたときには、まるでイギリス工業の最後の審判の日がきたように見えた! (ハ)1852年、ルイ・ボナパルトが法定労働日をゆすぶることによってブルジョアのあいだに足場を固めようとしたとき、フランスの労働者民衆*は一様に叫んだ、「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の立法のうちわれわれの手に残った唯一の善事だ!(129)」と。(ニ)チューリヒでは、10歳以上の子供の労働は12時間に制限されている。(ホ)アールガウ〔スイスの一州〕では1862年に13歳から16歳までの少年の労働が12時間半から12時間に短縮され、オーストリアでは1860年に14歳から16歳までの少年について同じく12時間に短縮された(130)。(ヘ)なんという「1770年以来の進歩」だろう、マコーリならば「大喜びで」こう叫ぶことであろう!

  * 第三版および第四版では、民衆、となっている。〉 (全集第23a巻363頁)

  (イ)(ロ) 「理想的救貧院」では、すなわち1770年の恐怖の家では、1日に12労働時間です! それから63年後の1833年、イギリスの議会が4つの工場部門で13歳から18歳までの少年の労働日をまる12労働時間に引き下げたときには、まるでイギリス工業の最後の審判の日がきたように見えました! 

  まずこの部分のフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈1日に12労働時間、これが1770年の模範的な救貧院、恐怖の家での理想、すなわち極地である! 63年後の1833年に、イギリスの議会が4つの工業部門で13歳ないし18歳の児童の労働日をまる12労働時間に短縮した/ときには、イギリス工業の弔鐘が鳴ったかのように思われた。〉 (江夏・上杉訳281-282頁)

  ここではカミンガムが提唱した(1770年というのはカミンガムの著書が出た年)、「理想的救貧院」について、彼はそれは「恐怖の家」でなければならないとして労働時間の延長を強制しようとしたその労働時間が1日12時間だったというのです。つまり労働時間の延長を、しかも成年の労働者に強制して達成したのが、12時間であったというのです。次のように言ってました。

  〈「労役場の計画が……怠惰、放蕩および不節制を根絶すること、勤勉の精神を鼓舞すること、わが国の製造業における労働の価格を低下させること……にかんして、なにかよい目的をかなえるべきであるならば、労役場は、ひとつの恐怖の家にされるべきであり、貧民のための避難所となってはならないのである。」(242[1243]ぺージ。)そうした「労役場」を、彼は「理想的な労役場」と呼び、そうした点において次のような提案をしている。「食事のために独自な時聞を与え12時間のきちんとした労働を残すようなかたちで、彼(貧民)に1日14時間働かせる。」(260ページ。)〉 (草稿集⑨689頁)

  ところがそれから63年たって、1833年にイギリス議会が四つの工業部門で13歳ないし18歳の児童の労働日を12労働時間に短縮したときには、まるでイギリス工業の弔鐘がなったかのように思われたということです。
  しかしそれは63年まえには、成年の労働者の労働時間、しかもやっと強制的に延長された「恐怖の家」の、つまり究極の長さの労働時間だったというわけです。
  次の第6節でマルクスは〈やっと、1833年の工場法--綿工場、羊毛工場、亜麻工場、絹工場に適用される--以来、近代産業にとって標準労働日が現われはじめる。〉(全集第23a巻366頁)と述べています。1833年というのはそういう年なのです。

  (ハ) 1852年、ルイ・ボナパルトが法定労働日をゆすぶることによってブルジョアのあいだに足場を固めようとしたとき、フランスの労働者民衆は一様に叫びました。「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の立法のうちわれわれの手に残った唯一の善事だ! と。

  この部分もまずフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈1852年にルイ・ボナパルトが、ブルジョアジーを味方につけるために法定労働日に触れようとしたとき、フランスの労働者階層は異口同音に叫んだ。「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の法律のうちでわれわれに残されている唯一の善いものなのだ」。〉 (江夏・上杉訳282頁)

  つまり労働日を12時間に制限することは、フランスの労働者にとっても労働者が闘いによって勝ち取った重要な成果なのだということです。
  だから1848年の革命が敗北し、権力を握ったルイ・ボナパルトがブルジョア達を見方につけるために、法定労働日に手を着けようとしたとき、労働者たちは共和国の勝ち取ったもののなかで唯一残されているものだと反発したということです。これについては原注129で詳しく述べられています。

  (ニ)(ホ) チューリヒでは、10歳以上の子供の労働は12時間に制限されています。アールガウ〔スイスの一州〕では1862年に13歳から16歳までの少年の労働が12時間半から12時間に短縮され、オーストリアでは1860年に14歳から16歳までの少年について同じく12時間に短縮されましたた。

  イギリスやフランスだけではなく、スイスでも、児童に対しては12時間労働が標準労働日として勝ち取られているということです。

  (ヘ) なんという「1770年以来の進歩」でしょうか。マコーリならば「大喜びで」こう叫ぶことでしょう!

  フランス語版は次のようになっています。

  〈「1770年以来なんという進歩だ!」と、マコーリなら「大喜び」で叫ぶことであろう。〉 (江夏・上杉訳282頁)

  これらは1770年に成年労働者になんとか強制した12時間労働が、今や児童の標準労働日として決まっているということは、何という大きな進歩でしょうか、とマコーリならぱ大喜びでこう叫ぶでしょうと言われています。
  マコーリというのは原注120に出てきた人物のことです。そこでも〈イギリスの歴史をウイッグ党とブルジョアとの利益に合うように偽造したマコーリ〉とか〈このスコットランド生まれのへつらいもので口じょうずな同じマコーリ〉などと言われていました。
  彼は原注120で紹介されていますように、児童労働は古くから一般的だったなどと歴史をねじ曲げたのですが、確かに彼の時代にはそれは歴史の偽造だったのですが、今日(19世紀の半ば)では彼がブルジョア達に奨励した児童労働は一般的となり、むしろその労働時間の制限が問題になるほどですから、児童搾取を奨励したマコーリにとっては今日ほど喜ばしいことはないとマルクスは皮肉を込めて述べているわけです。


◎原注129

【原注129】〈129 (イ)「1日に12時間より長い労働に彼らが反対したのは、特に、この時間を確定した法律が、共和国の立法のうち彼らの/手に残った唯一の善事だからである。」(『工場監督官報告書。1855年10月31日』、80ページ。)(ロ)1850年9月5日のフランスの12時間法、それは1848年3月2日の臨時政府の布告のブルジョア化版であるが、すべての作業場〔Ateliers〕に無差別に適用される。(ハ)この法律以前には、フランスの労働日は無制限だった。(ニ)労働日は工場では14時間、15時間からもっと長時間にわたるものだった。(ホ)『1848年におけるフランスの労働者階級について。ブランキ氏著』を見よ。(ヘ)このブランキ氏は経済学者であって、革命家ではないが、彼は労働者の状態の調査を政府から委託されていたのである。〉 (全集第23a巻363-364頁)

  (イ) 「1日に12時間より長い労働に彼らが反対したのは、特に、この時間を確定した法律が、共和国の立法のうち彼らの手に残った唯一の善事だからである。」(『工場監督官報告書。1855年10月31日』、80ページ。)

  これは〈1852年、ルイ・ボナパルトが法定労働日をゆすぶることによってブルジョアのあいだに足場を固めようとしたとき、フランスの労働者民衆は一様に叫んだ、「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の立法のうちわれわれの手に残った唯一の善事だ!(129)」と。〉という本文に付けられた原注です。

  つまり本文で引用の形で述べているものは『工場監督官報告書』に記載されているものだということです。

  (ロ)(ハ)(ニ) 1850年9月5日のフランスの12時間法、それは1848年3月2日の臨時政府の布告のブルジョア化版ですが、すべての作業場〔Ateliers〕に無差別に適用されました。この法律以前には、フランスの労働日は無制限だったのです。労働日は工場では14時間、15時間からもっと長時間にわたるものだったのです。

  1850年の共和国による12時間法というのは、1848年の革命の臨時政府が布告したものを受け継ぎブルジョア化したものだったのですが、それでもそれはすべての作業場に一律に適用されるものだったということです。それ以前のフランスでは労働時間に制限はなく、14時間や15時間労働がまかり通っていたということです。

  『61-63草稿』から紹介しておきます。

  〈1848年3月2日に臨時政府は一つの法令を布告した。それによれば、工場ばかりでなくすべての製造所や作業場においても、児童ばかりでなく成人労働者についても、労働時間,がパリでは10時間に、各県では11時間に制限さ/れた。臨時政府は、標準労働日がパリでは11時間、各県では12時間であるという誤った前提に立っていたのである。だが、--「多数の紡績工場で、労働は14-15時間続き、労働者、とりわけ児童の健康と風紀とを大きく害していた。いなもっと長時間でさえあった」(〔ジエローム-アドルフ・〕プランキ氏著『1848年におけるフランスの労働者階級について』)。〉 (草稿集④349-350頁)

  (ホ)(ヘ) 『1848年におけるフランスの労働者階級について。ブランキ氏著』を見よ。このブランキ氏は経済学者であって、革命家ではないが、彼は労働者の状態の調査を政府から委託されていたのである。

  フランス語版を紹介しておきます。

  〈ブランキ氏著『1848年におけるフランスの労働者階級』を見よ。あの革命家のブランキ氏ではなく経済学者であるこのブランキ氏は、労働者の状態にかんする調査を政府から委嘱されていたのである。〉 (江夏・上杉訳282頁)

  先に紹介しました『61-63草稿』ではこのブランキの著書からの引用があります。
  なおついでに指摘しておきますと、全集版は〈『1848年におけるフランスの労働者階級について。ブランキ氏著』〉となっていて、〈ブランキ氏著〉まで著者名のなかに入っているおかしさがありますが(これは初版も同じ)、フランス語版では訂正されています。
  新日本新書版では〈このブランキ氏は経済学者であって、革命家ではない〉に次のような訳者注が付いています。

  〈経済学者のプランキは、革命家のブランキの兄〉 (479頁)

  全集第23a巻の人名索引には次のような説明があります。

  〈ブランキ,ジェローム-アドルフ Blanqui,Jérôme-Adolphe(1798-1854)フランスの経済学者,歴史家.革命家ルイ-オーギュスト・ブランキの兄.
  ブランキ,ルイ-オーギュストBlanqui,Louis-Auguste(1845-1881)フランスの革命家,ユートピア共産主義者.多くの秘密結社と陰謀の組織者,1830年の革命の積極的参加者.1848年の革命ではフランスの革命的プロレタリアートの指導者となり,陰謀組織による暴力的権力奪取と革命的独裁の必要とを主張した.36年間獄中ですごした。〉 (80-81頁)


◎原注130

【原注130】〈130 (イ)ベルギーは、労働日の取締りについても、ブルジョア的模範国としての実を示している。(ロ)ブリュッセル駐在のイギリス公使ロード・ハワード・ド・ウォルデンは、1862年5月12日、外務省に次のように報告している。(ハ)「ロジエ大臣が私に説明したところでは、一般的法律も地方的取締りも、児童労働をどのようにも制限してはいない。政府は、過去3年間、会期ごとに、この問題に関する一法案を議会に提出しようと考えていたのであるが、そのつど、労働の完全自由の原則と矛盾するような立法にたいする疑い深い不安が、どうにもならない障害になったのである」!〉 (全集第23a巻364頁)

  (イ)(ロ)(ハ)  ベルギーは、労働日の取締りについても、ブルジョア的模範国としての実を示しています。ブリュッセル駐在のイギリス公使ロード・ハワード・ド・ウォルデンは、1862年5月12日、外務省に次のように報告しています。「ロジエ大臣が私に説明したところでは、一般的法律も地方的取締りも、児童労働をどのようにも制限してはいない。政府は、過去3年間、会期ごとに、この問題に関する一法案を議会に提出しようと考えていたのであるが、そのつど、労働の完全自由の原則と矛盾するような立法にたいする疑い深い不安が、どうにもならない障害になったのである」!

  これは〈アールガウ〔スイスの一州〕では1862年に13歳から16歳までの少年の労働が12時間半から12時間に短縮され、オーストリアでは1860年に14歳から16歳までの少年について同じく12時間に短縮された(130)。〉という本文に付けられた原注です。

  つまりイギリスやフランス、スイス、オーストリアでは、児童労働を12時間に短縮する法律が制定されているのに、ベルギーでは依然として何の制限もない状態が続いているということです。何度も労働時間を制限する法律について審議にのぼったのですが、〈労働の完全自由の原則と矛盾する〉という理由で頓挫したということです。〈労働の完全自由〉と言いますが、資本家が完全に自由に労働者を搾取するという原則のことでしょう。


◎第13パラグラフ(1770年には「理想」であった「恐怖の家」は、数年後にはマニュファクチュアの発展とともに現実となり、「工場」と呼ばれた)

【13】〈(イ)資本の魂が1770年にはまだ夢に描いていた受救貧民のための「恐怖の家」が、数年後にはマニュファクチュア労働者自身のための巨大な「救貧院」としてそびえ立った。(ロ)それは工場と呼ばれた。(ハ)そして、このたびは理想は現実の前に色あせたのである。〉 (全集第23a巻364頁)

  (イ)(ロ)(ハ) 資本の魂が1770年にはまだ夢に描いていた受救貧民のための「恐怖の家」が、数年後にはマニュファクチュア労働者自身のための巨大な「救貧院」としてそびえ立ちました。それは工場と呼ばれました。そして、それによって理想は現実の前に色あせたのです。

  1770年にカニンガムが『産業および商業に関する一論』で「理想的な労役場」と呼び、それを「恐怖の家」にすべきだと主張したものが、数年後にはマニュファクチュアの発展ととにも、現実のものになり、「労役場」ではなくて「工場」と呼ばれたが、その工場ではカニンガムの理想どころかそれをはるかに上回る長時間と苛酷な労働が強いられるようになったということです。かくして理想は現実の前に色あせたというのです。カニンガムは「恐怖の家」における理想の強制労働を12時間としたのですが、現実の「工場」では14時間や15時間がざらになったのですから。カニンガムの理想を現実がすでに乗り越えたということです。

  (付属資料№1へ続く。)

 

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