『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.37(通算第87回)(12)

2023-10-20 11:27:08 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.37(通算第87回) (12)


【付属資料】No.5

  (第11パラグラフの付属資料の続きです。)

《初版》

 〈これに答えて、『産業および商業にかんする一論』の著者はこう言う。
  「週の7日目を休みにすることが神の掟と見なされるならば、このことは、他の週日が労働に(すぐにわかるように、資本に、ということ)属しているということを含意しているのであって、この神の掟を強制しても残酷だと言って叱られるはずがない。……人間は一般的には生来安楽と怠惰とを好むということ、このことを、われわれは不運にも、わが国のマニュファクチュア賎民の行為から経験するのであって、この賎民は、生活手段が騰貴するばあいは除いて、平均して週に4日以上労働することはない。……1ブッシェルの小麦が労働者の全生活手段を代表し、それが5シリングであって、労働者は自分の労働によって毎日1シリングかせぐ、と仮定しよう。そのぱあいには、彼は1週に5日だけ労働すればよい。1ブッシェルが4シリングであれば4日だけでよい。……ところが、労賃はこの王国では生活手段の価格に比べてはるかに高いので、4日労働するマニュファクチュア労働者は、余分の金銭をもっていて、この金銭で週の残りは仕事をしないで暮らしている。……週に6日の適度な労働がけっして奴隷状態ではないということをはっきりさせるのに、私の言ったことで充分だ、と私は思っている。わが国の農業労働者はこのことを実行しており、どう見ても、彼らは労働者(labouring poor)のなかで最も幸福な人々である(123)。オランダ人はこのことをマニュファクチュアで実行しており、いたって幸福な国民のように見える。フランス人は、多くの休日が週のあいだ/にはさまらないかぎり、このことを行なっている(124)。……ところが、わが国のマニュファクチュア賎民は、イギリス人として生得の権利にもとづき、ヨーロッパのどこかほかの国の労働者よりもいっそう自由でいっそう自立的である特権が、自分にはそなわっている、という固定観念を、自分の頭に植えつけた。ところで、この観念は、それがわが国の兵士の勇気に作用するかぎりでは、幾らか有益であるかもしれない。だが、マニュファクチュア労働者は、こういった観念を抱いていることが少なければ少ないほど、彼ら自身にとっても国家にとってもますます都合がよい。労働者は、自分たちが自分たちの上長から独立している(“independent of their superiors")、と思ってはならない。わが国のような、おそらく全住民の8分の7が財産をほとんどか全くもっていない商業国で下層民を勇気づけることは、格別に危険である(125)。……わが国の工業貧民がいまは4日でかせいでいるのと同じ金額で6日労働することに甘んずるようになるまでは、完全な救治は行なわれないであろう(126)。」この目的のためにも、「怠惰や放縦やロマンチックな自由な夢想を根絶する」ためにも、同じくまた「救貧税を軽減し、勤勉精神を助長し、マニュファクチュアにおける労働価格を引き下げるためにも」、資本に忠実なわがエッカルト〔ドイツの英雄詩のなかの忠臣〕の口から、公の慈善を受けているこのような労働者を、一言で言えば、受救貧民を、「理想的な救貧院」(an ideal Workhouse)のなかに閉じ込める、という保証づきの手段が、提案される。「このような家が恐怖の家(House of Terror)にしたてられることは、まちがいない(127)。この「恐怖の家」、この「理想の救貧院」では、「毎日14時間、といってもこれには食事時間が適当なだけ含まれているので、12労働時間がまるまる残るように」労働が行なわれなければならない(128)。〉(江夏訳305-306頁)

《フランス語版》

 〈『産業および商業にかんする一論』の著者の答えは、次のとおりである。
  「週の7日目が休日であることが神の掟によるものであれば、その結果は明らかに、ほかの日が労働に属する(もっと後でわかるように、資本に属するという意味である) ことになるのであって、この神の命令を強いて遂行させることは、けっして残酷呼ばわりしてもよい行為であるとはいえない。一般に、人間は生来無為のままでいて気ままに振舞う性向がある。われわれはこのことを、生活手段が騰貴するばあいを除いては週に平均して4日以上労働しないという、われわれのマニュファクチュア細民の振舞のうちに、宿命的に体験しているのである。……1ブッシェルの小麦が5シリングに値する労働者の全生活手段を代表し、労働者が毎日1シリングかせぐと仮定しよう。そのばあい、彼は週に5日だけ労働すればよい。1ブッシェルが4シリングに値すれば、ただの4日だけでよい。……だが、この王国では賃金が生活手段の価格に比ぺてはるかに高いので、4日労働するマニュファクチュア労働者は、週の残りはなにもしないで暮すだけの金銭を余分にもっている。……週に6日の適度な労働がけっして奴隷状態でないことを明示するためには、私が述べたことで充分だと思う。わが国の農業労働者はこれを実行しており、労働者<labouring poor>のなかで最も幸福のようである(91)。オランダ人は同じことをマニュファクチュアで行なって、非常に幸福な国民であるように見える。フランス人は、休日がたくさんあることを別にすればまる1週間同じよように労働する(92)。……ところが、わが国のマニュフアクチュア細民は、それを構成するすべての個人がイギリス人として、生得の権利により、ほかのどんなヨーロッパ諸国の労働者よりも自由で独立である特権をもっているという固定観念を、自分の頭に植えつけた。この観念は、それによって勇気を鼓舞される兵士には有用であるかもしれない。しかし、マニュファクチュア労働者がそれに染まることが少なければ少ないほど、彼ら自身にも国家にもいっそうよいことなのである。労働者はけっして、自分を自分の上長者から独立のものと思ってはならない。おそらく人口の8分の7が財産をわずかしかもたないかあるいは全くもたな/いわが国のような商業国では、下層艮を勇気づけることはひどく危険である(93)。わが国の工業貧民が、いまは4日でかせぐのと同一の金額のために、6日労働することに甘んじないかぎり、救治は完全ではないであろう(94)」。この目的のためにも、「怠惰や放縦や空想的自由への耽溺を根絶する」ためにも、さらには「救貧税を軽減し、勤勉の精神を励まし、マニュファクチュアにおける労働価格を引き下げる」ためにも、資本に忠実なわが戦士は、すぐれた手段を提案する。それはどんな提案であろうか? それは、公の慈善の世話になっている労働者、一言にしていえば受救貧民を、理想的な救貧院<an ideal Workhouse>のなかに監禁することである。この救貧院は恐怖の家<house of Terror>であるにちがいない。この救貧院の理想の地では、食事の時間を差し引いてもまるまる12労働時間が残るように、1日に14時間労働させられることであろう(95)。〉(江夏・上杉訳280-281頁)

《イギリス語版》

  〈(21) これに対して、「商業と貿易に関する評論」の著者は、こう応じる。
   (22) 「もし、7日ごとの日を休日となせと、神が制定されたと云うのなら、同時に、他の6日間は働くということを意味していると見るのは当然のことである。」(彼が云いたいのは、資本の為にということである。直ぐにそのことを知ることになろう。) 「勿論、それは、冷酷に強制せよと云っているものではない。….とかく人類というものは、安楽と怠惰に堕する傾向があり、我々はこのことを経験からどうしようもなく知っている。我々製造業の衆愚の行動から見れば、彼等は、平均を超えては働かない。食料価格が高くならないならば、週4日を超えては働かない。…. 貧乏人の必要なものを一種類の物として見れば、例えば、それらを小麦であるとすれば、または次のように仮定すれば、…. 小麦のそのブッシェルが5シリングであるとして、そして彼 (製造工場主の彼) が彼の労働によって1シリングを稼ぐとすると、週 たったの5日働けばよい。もし、その小麦のブッシェルが4シリングになったとすれば、彼は週 4日働けばよい。だが、この王国の賃金は、生活に必要なものの価格に較べてかなり高い。…. 4日働く工場主は、週のあとの日を無為に過ごすだけの余分の貨幣を持っている。…. 私は、週 6日の適度の労働は奴隷制ではないと充分に述べたものと思う。我々の労働する人々は、このようにしており、全ての我々の働く貧しき者達は、最上の幸福を表している。
  しかし、オランダ人は、製造業で、このように行っており、人々は大変幸福の様子である。フランス人も、休日でない限りそのようにしている。
  しかるに、我が衆愚は、ヨーロッパのどの国よりも、より自由でより独立的であるという生得特権を満喫するという観念に落ち込んでいる。この観念は、いくらかの利点として、我が軍隊の勇敢さに寄与しているものではあるが、製造業貧民達にとってはなんの利点もない。彼等自身にとっても、国家にとってもいいことはない。労働する人々は、絶対に、自分達の上位の者から自分達が独立していると、絶対に考えるべきではない。… 我々のような商業国においては、そのような観念で、暴徒を焚きつけるようなことは危険きわまりない。ここでは、7/8に当たる人々は財産を持たないか、殆ど持っていない。我々の製造業貧民達が、今4日で稼ぐと同じ額で、6日働くことに同意するまでは、治癒は完璧ではない。」
  (23) この目的のために、そして「怠惰、放縦、過剰を根絶する」ために、産業の精神を促進するために、「我々の製造工場の労働の価格を低減させ、この国の、貧乏人のための課税率という重い負担を和らげる」ために、資本に「忠実なるエッカート」は、次のような広く認められている計画を提案する。そのような労働者が公の援助に寄り掛かることを止めさせると。別の言葉で云えば、生活困窮者の、救貧院を「恐怖の作業院」という理想的な作業院としなければならない。貧乏人の避難所にはしない。「今までの救貧院では、彼等は、多くの食事を与えられ、暖かで清潔な衣服があり、ほんの少ししか働かない。」この「恐怖の作業院で」、この「理想的な作業院で、貧乏人は、日14時間働く。食事のための適切な時間が許され、この方式で12時間の正味労働時間は残こされるであろう。」(本文注: 「フランス人は」と彼は云う。「この我々の自由なる素晴らしいアイディアを笑う」と。) (なぜ、またはどのようなフランス人が笑うのかは、次に進めば、直ぐに分かる 訳者注)〉(インターネットから)


●原注123

《61-63草稿》

  〈「農業に雇用されているわが国の労働する人々は、それ〔1週間に6日の中位の労働〕をしているのであり、また彼らは、どこから見ても、わが国の労働するすぺての貧民中で最も幸福である。(この男は、まさにこの同じ著書のあとのほうで、こうした『幸福な』者たちが、すでにほぼ肉体的最低限に到達しており、彼らは少なくとも、賃金の引上げなしに必需品にたいする課税のそれ以上の増大にけっして耐えられない、ということを認めている。)〉(草稿集⑨687頁)
  〈労働者は、より多く働いてもより多くのものを得てはならない。というのは、必要が、相変わらず彼らの労働の刺激剤であり続けなければならないからである。すなわち、彼らは貧しいままでなければならないが、しかしまた、「商業国家」--これはすなわち、彼らのブルジョアジーの言い換えなのだが--のを生み出さねばならないのである。「節度ある生活と恒常的な雇用こそ、貧民にとっては理性的な幸福に、国家にとっては富裕と権勢とに直結する途なのである。」(54ページ。)
   彼が貧民の「理性的な幸福」という言葉てどのようなことを理解しているにせよ、以上からわかることは、彼が農業「労働者」を「最も幸福な人々」として描いたということである。彼の著書の別の簡所で、彼自身次のように語っている。
  「農業労働者……は、ところが、……食糧品が最も安値の状態にあるまさにそのときに、生活が落ち込むのである。彼らはつねに全力を出しているのであって、彼らは、今以上に安く生活することもできないしよりきびしい労働をすることもできない。……しかし、これは、製造業労働者の場合とはまったく違っている。」(96ページ。}したがって、これこそが、貧民の「理性的な幸福」なのである。〉(草稿集⑨690頁)

《初版》

 〈(123)『産業および商業にかんする一論』、彼自身が96ページで、すでに177O年にはイギリスの農業労働者の「幸福」がなんであったか、を語っている。「彼らの労働力(“their working powers")はいつでも極度に緊張している(“on the/stetch")。彼らは、自分たちが暮らしているよりも、低い暮らしをすることはできないし(“they cannot live cheaper than they do")、もっとはげしく労働することもできない」(“nor work harder")。〉(江夏訳306-307頁)

《フランス語版》

 〈(91) 『産業および商業にかんする一論』。彼自身が96ページで、すでに1770年にはイギリス労働者の「幸福」がなんであったかを語っている。「彼らの労働力は極度に緊張している。彼らは現在よりも安価に暮らすことができず、もっとはげしく労働することもできない。〉(江夏・上杉訳281頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 彼は、彼の著作「商業と貿易に関する評論」で、1770年の英国農業労働者の「幸福」がどんなものかに触れている。「彼等の力は常に限界まで使われており、今の生活レベル以下の生活をすることもできないし、より激しく働くこともできない。」〉(インターネットから)


●原注124

《61-63草稿》

 〈プロテスタンテイズムは剰余労働を増大させるためのひとつの手段でもあった
  「……プロテスタンテイズムを採用したこれらの国々は、……ローマ・カトリック諸国では人々が休息をとる祭日、住民の労働をほとんど1年の8分の1け減少させる祭日/を、多数廃止したことによる利益を享受している。」(カンティヨン、『商業一般の性質に関する小論』、231ページ。)(草稿集⑨700-701頁)

《初版》

 〈(124)プロテスタントは、伝統的な休日をほとんどすべて仕事日にすることによって、すでに、資本の発生史上ある重要な役割を演じている。〉(江夏訳307頁)

《資本論》

  〈重金主義は本質的にカトリック的であり、信用主義は本質的にプロテスタント的である。「スコットランド人は金をきらう。」〔“The Scotch hate gold"〕紙幣としては、諸商品の貨幣定在は一つの単に社会的な定在をもっている。救済するものは信仰である。商品の内在的精霊としての貨幣価値にたいする信仰、生産様式とその予定秩序とにたいする信仰、自分自身を価値増殖する資本の単なる人格化としての個々の生産当事者にたいする信仰。しかし、プロテスタント教がカトリック教の基礎から解放されないように、信用主義も重金主義の基礎から解放されないのである。〉(全集第25b巻765頁)

《フランス語版》

 〈(92) プロテスタンティズムは、ほとんどすべての休日を就業日にすることによって、資本の発生においてすでに一つの重要な役割を演じている。〉(江夏・上杉訳281頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: プロテスタントは、全ての伝統的な休日を、労働日に変えたことによって、資本の成因に重要な役割を演じている。〉(インターネットから)


●原注125

《初版》

 〈(125)『産業および商業にかんする一論』、15-57ページの各所。〉(江夏訳307頁)

《フランス語版》
        
 〈(93) 『産業および商業にかんする一論』、41、15、96、97、55-57ページ。〉(江夏・上杉訳281頁)

《イギリス語版》 なし。


●原注126

《61-63草稿》

  〈当時、労働にたいする需要がその供給以上に急速に増大していた、という事実は、次の文章から見てとれる。(すでにヴァンダリント、またのちにはフォース夕、等が、ブルジョアは賃金をより高くすることでより多くの労働量を調達するということに抵抗することに気づいていた。)
  「わが王国における怠惰のもう一つの原因は、十分な数の働き手が不足していることである。(27ページ。)
  もろもろの製造業にたいする異常な需要によって労働者が不足するようになる場合には、労働者はつねに自分たち自身の責任(そんなものはあるはずがなかろう)を感じるし、それを彼らの親方に同じように感じきせるであろう。ところが、こうした場合に、一群の労働者が1日じゅう一緒に仕事を怠けることによって結託して彼らの雇用者を苦しめるほど、これらの人々の性向が堕落しているのは驚くべきことである。」(27、28ページ。)(この「驚くべき」事実とこの類まれなる「堕落」について、ヴァンダリントとフォースタを参照すること。)「そうしたことは、小麦やその他の必需品が高価な場合にはけっして起こらない。つまり、その場合には、労働が非常に豊富であり、労働することがぜひ必要となるので、そのように自然に背いた結託は許されないのである。」(28ページ。)〉(『草稿集』⑨694頁)

《初版》

 〈(126)同前、69ページ。ジェイコブ・ヴァンダリントは、すでに1734年に、労働者の怠惰について資本家が申し立てる苦情の秘密は、たんに、資本家が同じ賃金と引き換えに4労働日ではなく6労働日を要求したことだ、と説明した。〉(江夏訳307頁)


《フランス語版》

 〈(94) 同前。69ページ。ジェーコブ・ヴァンダリントはすでに1734年に、労働者階層の怠惰にかんする資本家の苦情の全秘密は、同じ賃金と引ぎ換えに4労働日のかわりに6労働日を請求したことだけが動機である、と言明した。〉(江夏・上杉訳281頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 1734年に、ヤコブ バンダーリントが、資本家が、労働する人々の怠惰について云いたい腹の中を、単純に同じ賃金で、4日に代わって6日 働くことを要求することであると述べている。〉(インターネットから)


●原注127

《61-63草稿》

 〈労役場〔workhouse〕が機能しなければならないとすれば、それは恐怖の家〔hous of terror〕にならなければならない。
  「労役場の計画が……怠惰、放蕩および不節制を根絶すること、勤勉の精神を鼓舞すること、わが国の製造業における労働の価格を低下させること……にかんして、なにかよい目的をかなえるべきであるならば、労役場は、ひとつの恐怖の家にされるべきであり、貧民のための避難所となってはならないのである。」(242[-243]ぺージ。)そうした「労役場」を、彼は「理想的な労役場」と呼び、そうした点において次のような提案をしている。
「食事のために独自な時聞を与え12時間のきちんとした労働を残すようなかたちで、彼(貧民)に1日14時間働かせる。」(260ページ。)〉(草稿集⑨689頁)

《初版》

 〈(127)同前、260ページ。「このような理想的な救貧院は、『恐怖の家』にしたてられるべきであって、貧民がたっぷり食事を与えられ、暖かくきちんと着物を着せられ、ほんのわずかしか労働しない、というような貧民の避難所に、したてられではならない。」〉(江夏訳307頁)

《フランス語版》 フランス語版には原注127に該当する注はない。

《イギリス語版》  なし。


●原注128

《61-63草稿》

   〈労働階級は、彼らの上位者たちへの依存の念をもたなければならない。
  「しかし、製造業に従事するわが国の人々は、自分たちはイギリス人として、ヨーロッパのいかなる国におけるよりも自由で独立しているという生得の特権をほしいままにしている、という考えを抱いてきた。ところが今や、この考えは、わが国の軍隊を勇気づけるかぎりていくらか役に/立っかもしれないが、製造業に従事する貧民がこのような考えを抱かないほうが彼ら自身にとっても国家にとっても得策であることはまちがいないのである労働する人々は自分たちが彼らの上位者たちから独立しているなどとけっして考えてはならない。(56ページ。)おそらく全体の8分の7までがほとんどまたはまったく財産をもたない人々である、わが国のような商業国家で、下層民に活力を与えるのはきわめて危険である。(57ページ。)食糧品やその他の必需品の価格によって規定されるのは、労働の量であって、その価格ではない。つまり、必需品の価格を非常に低く低下させるならば、当然それに対応して労働の量が減少する。(48ページ。)人間というものが一般に、本来的に安楽と怠惰を好むものであるというのが真実であることは、食糧品が非常に高価になるようなことでもないかぎり、平均的にいって週に4日以上は働かないような、製造業に従事するわが国の大衆(下層民)の行状から、残念にも見てとれることである。」(15ページ。)〉(草稿集⑨687-688頁)
  〈「イギリスの下層の人々は、自由についてのロマンティクな考えから、一般に、彼らに強制されるものをすべて拒絶し、それらすべてに反抗する。だから、処罰にたいする恐れを抱かせることによりある賃金である時間働くことを人々に強いることはできるとしても、仕事をきちんとやるように強いることはできない。(92ページ。)一般的な勤勉を強制しようとするいかなる計画にあっても、必要を基礎としなければならないのであるが、それにもかかわらず、イギリスの大衆の考えと性向を考えるならば、それは、議会のそうした法律がやるようには完全かつ直接に核心に触れるべきではないように思われる。というのは、そうした法律を実行すると、ほとんどつねに、不法な結託、暴動および混乱が生じてきたからである。できることなら、そうした法律の効果は、ほとんど気づかれずにまた力ずくのかたちをとらずに生み出されるべきである。」(93ページ。)〉(草稿集⑨700頁)

《初版》

 〈(128)“In this ideal workhouse the poor shall work 14 hours in a day,allowing proper time for meals,in such manner that there shall remain 12 hours of neat labour" (同前)。彼はこう言う。「フランス人は、われわれの熱狂的な自由の観念を笑っている。」(同前、78ページ。)〉(江夏訳307頁)

《フランス語版》

 〈(95) 同前、260ページ。“Such an ideal workhouse must be made a House of Terror and not an asylum for the poor,etc.In this ideal worhouse the poor shall work 14 hours,in a day,allowing proper time for meals,in such manner that there shall remain 12 hours of neat labour." 彼は、フランス人はわれわれの熱狂的自由の観念を笑っている、と言う(同上、78ページ)。〉(江夏・上杉訳281頁)

《イギリス語版》 なし。


●第12パラグラフ

《61-63草稿》

  〈「労役場の計画が……怠惰、放蕩および不節制を根絶すること、勤勉の精神を鼓舞すること、わが国の製造業における労働の価格を低下させること……にかんして、なにかよい目的をかなえるべきであるならば、労役場は、ひとつの恐怖の家にされるべきであり、貧民のための避難所となってはならないのである。」(242[1243]ぺージ。)そうした「労役場」を、彼は「理想的な労役場」と呼び、そうした点において次のような提案をしている。
「食事のために独自な時聞を与え12時間のきちんとした労働を残すようなかたちで、彼(貧民)に1日14時間働かせる。」(260ページ。)〉(草稿集⑨689頁)

《初版》

 〈177O年の理想の救貧院」である恐怖の家では、1日に12労働時間! それから63年後の1833年に、イギリスの議会が4つの工場部門で13歳ないし18歳の児童の労働日をまる12労働時間に引き下げたときには、イギリス産業の最後の審判の日が現われ始めたように思えた! 1852年に、L・ポナバルトが法定労働日をゆさぶってブルジョアとしての地歩を占めようとしたとき、フランスの労働者たちは異口同音にこう叫んだ。「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の立法中われわれの手に残っている唯一の善きものだ(129)!」チューリヒでは1O歳以上の児童の労働12時間に制限されているアールガウでは1862年に、13歳ないし16歳の児童の労働が12[1/2]時間から12時間に短縮され、オーストリアでは186O年に、14歳ないし16歳の少年について同/じく12時間に短縮された(130)。ななんという「177O年以来の進歩」だと、マコーレーなら「有頂天になって」歓声をあげることであろうに!〉(江夏訳307-308頁)

《フランス語版》

 〈1日に12労働時間、これが1770年の模範的な救貧院、恐怖の家での理想、すなわち極地である! 63年後の1833年に、イギリスの議会が4つの工業部門で13歳ないし18歳の児童の労働日をまる12労働時間に短縮した/ときには、イギリス工業の弔鐘が鳴ったかのように思われた。1852年にルイ・ボナパルトが、ブルジョアジーを味方につけるために法定労働日に触れようとしたとき、フランスの労働者階層は異口同音に叫んだ。「労働日を12時間に短縮する法律は、共和国の法律のうちでわれわれに残されている唯一の善いものなのだ(96)」。チューリヒでは、10歳未満の児童の労働が12時間に短縮された。アールガウでは1862年には、13歳ないし16歳の児童の労働が12時間半から12時間に短縮された。オーストラリア(ママ)でも1860年には、15歳ないし16歳の児童について事情は同じであった。「1770年以来なんという進歩だ!」と、マコーリなら「大喜び」で叫ぶことであろう。〉(江夏・上杉訳281-282頁)

《イギリス語版》

  〈(24) 1770年の「恐怖の家」、理想的な救貧院では日12時間労働! 63年後の1833年、英国国会が、13歳から18歳の子供たちの労働日を、4つの工業部門において、正味12時間に縮減した時には、英国製造業に最後の審判の日が来た! また、1852年 ルイ ボナパルドが、彼の位置をブルジョワジーとともに確かなものにしようと、法定された労働日を勝手に改悪することで、と模索した時、フランスの労働者達は、一つの声にまとまった。「労働日を12時間と限定した法律は、共和国の法律で、我々に残された、まさにその一つの宝だ。」と。
  チューリッヒでは、10歳以下の子供たちの労働は、12時間に制限されている。1862年アールガウでは、13歳から16歳までの子供たちの労働時間は12時間半から12時間に軽減された。1860年オーストリアでは、14歳から16歳までの子供たちに、同様の軽減がなされた。
  「なんという進歩」1770年以来の! と、マコーリーは、狂喜して叫ぶだろう。〉(インターネットから)


●原注129

《61-63草稿》

 〈1848年3月2日に臨時政府は一つの法令を布告した。それによれば、工場ばかりでなくすべての製造所や作業場においても、児童ばかりでなく成人労働者についても、労働時間,がパリでは10時間に、各県では11時間に制限さ/れた。臨時政府は、標準労働日がパリでは11時間、各県では12時間であるという誤った前提に立っていたのである。だが、--「多数の紡績工場で、労働は14-15時間続き、労働者、とりわけ児童の健康と風紀とを大きく害していた。いなもっと長時間でさえあった」(〔ジエローム-アドルフ・〕プランキ氏著『1848年におけるフランスの労働者階級について』)。〉(草稿集④349-350頁)

《初版》

 〈(129)「彼らは1日に12時間以上労働することには特に反対しているが、その理由は、この時間をきめた法律が、この共和国の立法中彼らの手に残っている唯一の善きものだからである。」(『1856年1O月31日の工場監督官報告書』、80ページ。)185O年9月5日のフランスの12時間法は、1848年3月2日の臨時政府の布告のブルジョア版であって、すべての作業場に無差別に適用される。この法律以前には、労働日はフランスでは無制限であった。労働日は、工場では、14時間や15時間かそれ以上続いた。『1848年におけるフランスの労働者階級。ブランキ氏著』、を見よ。ブランキ氏は、経済学者であって革命家ではないが、労働者の状態の調査を政府当局から委嘱されていた。〉(江夏訳308頁)

《フランス語版》

 〈(96) 『1855年10月31日の工場監督宮報告書』、80ぺージ。フランスの1850年9月5日の12時間法は、1848年3月2日の臨時政府布告のブルジョア版であって、あらゆる作業場に無差別にひろがっている。この法律以前には、フランスの労働日は無制限であった。それは工場では14時間、15時間、またそれ以上続いた。ブランキ氏著『1848年におけるフランスの労働者階級』を見よ。あの革命家のブランキ氏ではなく経済学者であるこのブランキ氏は、労働者の状態にかんする調査を政府から委嘱されていたのである。〉(江夏・上杉訳頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: 「彼等が、特に、日12時間を超えて働くことに反対したのは、共和国の法律で、彼等に残された、ただ一つの宝であるからである。」( 事実に関する 工場査察官調査報告 1856年10月31日 ) フランスの12時間法 1850年9月5日は、1848年5月2日の暫定政府が定めた法律のブルジョワ版だが、いかなる工場も例外なく拘束するものであった。この法律以前のフランスの労働日に関する法律は、何の制限もないものであった。各工場においては、14、15、またはそれ以上の時間の状態が続いていた。「1848年におけるフランスの各階級の状況 パル M. ブランキ」を見よ。M.ブランキ 経済学者、革命論者の方のブランキではなく、経済学者のブランキは、労働者階級の状況に関する調査を、政府から委任されていた。〉(インターネットから)


●原注130

《初版》

 〈(13O) 1853年8月13日および1854年8月12日のv・d・ハイトならびにマントイフェル両氏の法令は、それが施行されていたならば、賞賛に償したであろうに。ベルギーは、労働日の取締りについてもブルジョア的典型国としての実を示している。ブリュッセル駐在のイギリス全権公使ロード・ハワード・ド・ウォルデンは、1862年5月12日に、外務省宛にこう報告している。「ロジェ大臣が私に説明したところでは、国法も地方の条令も児童労働をなんら制限していない。政府はこの3年間、会期ごとに、この間題にかんする法案を議会に提案する考えを抱いていたが、いつでも、労働の完全な自由の原則と矛盾するような立法に反対する疑い深い不安が、どうしょうもない障害になっていたのである!」〉(江夏訳308頁)

《フランス語版》

 〈97) 労働日の取締りにかんしては、ベルギーは模範的なブルジョア国家の地位を保っている。ブリュッセル駐在のイギリス公使ロード・ハワード・ド・ウォルデンは、1862年5月12日の外務省あての報告書のなかで、こう書いている。「ロジェ大臣は私にこう言明した。『児童労働は国法によっても地方の条令によっても制限されていない。政府は最近3年間、会期ごとに、この問題にかんする法律を議会に提出する意図をもっていたが、政府はいつも、労働の絶対的自由の原則に立脚していないような立法であればどれもこれもがかりたてるところのねたみ深い不安のうちに、乗り越えられない障言を見出すのであった』、と」。自称「ベルギーの社会主義者」は、自国のブルジョアジーから与えられたこのスローガンを、曖昧な形式で繰り返しているにすぎない!〉(江夏・上杉訳282頁)

《イギリス語版》

  〈本文注: ベルギーは、労働日の規制については、ブルジョワ国の模範である。駐ブリュセル 英国全権大使 ウエルデンのハワード上院議員が、1862年5月12日外務省にこう報告した。「M. ロジャー大臣は、私に、次のことを教えてくれた。子供たちの労働は、一般法でも、その他の地方法でも制限されてはいない。ここ3年政府はこの件に関する法律案を提出しようと、あらゆる会期で考えてきたが、いかなる法律でも労働の完全な自由の原理に反するものとする執拗な反対が、常に障碍として立ちふさがる。と。」〉(インターネットから)


●第13パラグラフ

《初版》

 〈資本の魂が177O年にはまだ夢に描いていた受救貧民のための「恐怖の家」が、数年後には、マニュファクチュア労働者自身のための巨大な「救貧院」としてそびえ立った。それは工場と呼ばれた。そして今度は、理想が現実の前に色あせた。〉(江夏訳308頁)

《フランス語版》

 〈資本の魂が1770年にはまだ夢に描いていた受救貧民のための「恐怖の家」は、数年後には、マニュファクチュア労働者のために建てられた巨大な「救貧院」のなかで実現した。その名は工場であって、理想は現実の前に色褪せたのである。〉(江夏・上杉訳282頁)

《イギリス語版》

  〈(25) 1770年では単に夢であった資本家の心が、貧乏人のための「恐怖の家」が、二三年後には、工業労働者自身のための、巨大な「作業院」として実現されたのである。その名は、工場と呼ばれる。そして、このたびは、現実の前にアイディアは色褪せる。〉(インターネットから)


  (第5パラグラフ終わり。)

 

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