『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(1)

2022-02-13 13:07:36 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.28(通算第78回)(1)

 

◎「いかにして、なぜ、なにによって、商品は貨幣であるか」(№5)(大谷新著の紹介の続き)

  大谷禎之介著『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』の「Ⅲ 探索の旅路で落ち穂を拾う」の「第12章 貨幣生成論の問題設定とその解明」のなかの「Ⅰ 貨幣生成論の問題設定とその解明--いかにして、なぜ、なによって、商品は貨幣であるか--」の紹介の続きで、その第5回目です。
    前回は、大谷氏が久留間鮫造氏のシェーマ(=定式、「いかにして、なぜ、何によって、商品は貨幣になるか」)は、あくまでも〈『資本論』における貨幣生成論という観点から見たときに,価値形態論,物神性論,交換過程論のそれぞれの課題がなんであるかを問題にしている〉のであって、例えば価値形態論の場合においても、〈『資本論』第1部第1篇における第3節の課題あるいは『資本論』第1部の商品論における価値形態論の課題を,それ自体として問題にしているのではない〉と強弁しているのに対して、それでは実際問題として、著書『価値形態論と交換過程論』のなかで久留間氏自身はどのように問題を提起しているのかを検討し、その問題提起のなかで久留間氏が引用している『資本論』第1篇第2章の第15パラグラフで、マルクスは何を問題にしているのかを問い、それは久留間氏がいうように〈それは第3章の貨幣論の直前のところであり、したがってまた、第3章以前の貨幣に関する考察の最後のところにあたる〉と、あたかもマルクスが貨幣に関する考察を結論的に述べているところであるかに説明していますが、果たしてマルクスにはそうした意図があったのかどうか、を検討するために、第15パラグラフ全体を紹介して、その解説を試みたのでした。しかしその解説はあまりにも長くなりすぎるので、一旦、途中で中断したのでした。今回はその続きです。やはり、もう一度、第15パラグラフ全体を紹介しておきます(久留間氏が引用している部分は赤字で示しました)。

 【15】〈(イ)先に指摘したように、一商品の等価形態はその商品の価値の大きさの量的規定を含んではいない。(ロ)金が貨幣であり、したがって他のすべての商品と直接的に交換されうるものであることを知っても、それだからといって、たとえば10ポンドの金の価値がどれだけであるかはわからない。(ハ)どの商品もそうであるように、貨幣*はそれ自身の価値の大きさを、ただ相対的に、他の諸商品によってのみ、表現することができる。(ニ)貨幣*自身の価値は、その生産のために必要とされる労働時間によって規定され、等量の労働時間が凝固した、他の各商品の量で表現される。(ホ)貨幣〔*〕の相対的価値の大きさのこうした確定はその産源地での直接的交換取引の中で行われる。(ヘ)それが貨幣として流通に入る時には、その価値はすでに与えられている。(ト)すでに17世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み越えた端緒がなされていて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒にすぎなかった。(チ)困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある。
〔* カウツキー版、ロシア語版では「金」となっている〕

 (前回は、各文節ごとの解説を試み、(イ)から(へ)までの解説を紹介しました。今回はその続きの最後の文節(ト)(チ)の解説です。)

  《(ト)(チ) すでに17世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み込んだ端緒がなされていて、貨幣が商品であることは知られていました。しかし、それはやはり端緒に過ぎなかったのです。困難は、貨幣が商品であるということを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にあるのです。

 貨幣が商品であるという理解に達していた諸説の例は、第14パラグラフにつけられた原注45で紹介されていました。それらの引用文とその著者のそれぞれの人名索引の解説をつけて、もう一度、書き出して見ましょう。

 ・〈「われわれが貴金属という一般的名称で呼ぶことのできる銀や金そのものは····価値が····上がったり下がったりする····商品である。····そこで、そのより小さい重量でもってその国の生産物または製造品のより大きい量が買われるのならば、貴金属の価値は高くなったものとみなされる」〔S・クレマント〕『相互関係にある貨幣、商業、および為替の一般的観念に関する一考察。一商人著』、ロンドン、一六九五年・・・・
 (クレメント,サイモンClement,Simonイギリスの商人。)
 ・「銀や金は、鋳造されていてもいなくても、他のすべての物の尺度として用いられるけれども、ワイン、油、タバコ、布や織物と同じく一つの商品である」〔J・チャイルド〕『商業、ことに東インド貿易に関する考察』、ロンドン、一六八九年・・・・
 (チャイルド,サー・ジョサイアChild,SirJosiah(1630-1699)イギリスの商人,経済学者,重商主義者.高利貸資本に反対する「商業および産業資本の先駆者」,「近代的銀行業者の父」(マルクス)。)
 ・「厳密に言えば、王国の資産と富を貨幣に限定するのは適切でないし、金や銀を商品ではないとすべきではない」〔Th・パピロン〕『東インド貿易は最も有利な貿易である』、ロンドン、一六七七年・・・・〉
 (パピロン,トマスPapillon,Thomas(1623-1702)イギリスの商人,政治家,国会議員,東イソド会社の支配人のひとり。)

 原注では、この順序に引用文が紹介されていましたが、これを見ると、マルクスは17世紀の最後の数十年間のなかでも、もっとも最近のものから歴史を遡って紹介していたことが分かります。これらが貨幣分析の端緒だったというわけです。

 そしてその次に書かれている一文(困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある)が久留間鮫造氏によって、『資本論』の第1章第3節(どのようにして)、第4節(なぜ)、第2章(何によって)のあいだの関連を説明するものとして、問題提起されたことによって、極めて有名になったものです(『価値形態論と交換過程論』)。果たして久留間氏のようにこの一文に着目して、こうした『資本論』の一連の展開を説明することが、あるいはそれで説明可能だとすることが、妥当なのでしょうか。
  この問題については、すでに何度も論じてきたので(例えば第1回、第32回、第36回等々を参照)、ここで改めて取り上げる必要はないかも知れませんが、やはりこの問題は、これまで多くの人たちによって取り上げられ、論争にもなってきた問題なので、もう一度、論じておきましょう。
 ただ、私たちは、その久留間説を評価するためにも、そもそもこの第15パラグラフでは、全体としてマルクスは何を論じているのか、このパラグラフの本来の課題は何か、という問題から考えてみることにしましょう。というのは、久留間氏の問題提起が、あまりにも強い影響力があるために、あたかもこのパラグラフの課題は最後の文節で言われていることにあるかに思い込んでいる人がいないとも限らないからです。
 しかし果たしてマルクスがこのパラグラフで言いたかったことは、〈困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある〉ということなのでしょうか。私にはどうしてもそのように思えないのです。というのは、もし、そうしたことがこのパラグラフでマルクスが言いたいことなら、どうしてマルクスは、等価形態にある商品の価値の量的規定という問題から話を始めているのでしょうか。その説明がなかなかつかないのです。
 そうではなく、マルクスがこのパラグラフで中心に述べていることは、文節記号でいうと(ホ)で述べていることではないかと考えます。つまり貨幣としての金の価値の大きさは、産源地での他の諸商品との直接的な交換取引の中で確定されるのだということです。だから貨幣として、現実に流通にある金の価値は、すでに与えられたものとして前提されているのであって、流通過程の内部でも金と商品とが直接的な交換取引の関係に入って、それによってそれらの相対的価値がそれらの相互の交換によって確かめられるなどと考えるのは間違いなのだ、ということです。これは先に紹介した『経済学批判』の一文を良く吟味すれば分かります。
 だから17世紀の最後の十数年間における貨幣分析のなかで、当時の商人や経済学者たちが貨幣が商品であるとの理解に達していたとしても、彼らがそうした正しい認識に達していたというのではないのだということです。マルクスが〈それはやはり端緒にすぎなかった〉と述べているのはそういう意味ではないかと思います。つまり彼らはすでに金が貨幣として流通している現実を前提したうえで、そこで貨幣としての金と他の諸商品とが交換される現実を見て、それをあたかも直接的な交換取引と見立ててそうした主張をしているに過ぎないのですが、しかし、そうした理解そのものは決して正しいものではないのだ、というのがマルクスが言わんとすることではないでしょうか。
 つまり貨幣としての金が、他の諸商品と同じ一つの商品として登場するのは、あくまでも金の産源地においてのみであるということです。そうしたことを理解した上で、17世紀の最後の十数年間の商人や経済学者たちが貨幣は商品であると理解していたわけでは無かったということです。そうしたことを理解するためには、〈どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのか(商品が貨幣になるのか〉、つまり「商品の貨幣への転化」を論じたこの第2章でマルクスが展開してきたように論証する必要があるのだ、ということではないかと思います。
 だから、久留間氏が注目した最後の二つの文節((ト)(チ))で述べていることは、このパラグラフ全体でマルクスが中心に言いたいことから見れば、ある意味では、副次的な、あるいはそれを補強するようなものでしかないといえるのではないでしょうか。
 なぜ、マルクスがこうした貨幣としての金の価値の量的確定という問題を、ここで論じているのでしょうか。それは貨幣としての金が、他のすべての商品と同じように、一つの商品として現れ、他の諸商品と互いに交換される量によって貨幣としての金が、他のすべての商品と同じように、一つの商品として現れ、他の諸商品と互いに交換される量によって、その価値の量的規定が確定されるのは産源地という特殊な交換過程の問題だからです。こうした産源地における金の他の諸商品との直接的交換取引というものは、全体の商品交換の過程からみるなら、極めて特殊なものですが、しかし、それもやはり交換過程の問題であることは確かでしょう。だからこそマルクスは、交換過程の最後あたりで(この第2章を締めくくる最後のパラグラフの直前のパラグラフで)、その特殊な交換過程の果たす役割として貨幣としての金の価値量の確定という問題を取り上げているのではないでしょうか。》

 (やはり今回も、途中ですが、一旦、ここで打ち切ります。続きは次回に回します。)

  それでは本文テキストの解説に移ります。今回から第2篇第4章「貨幣の資本への転化」の第3節「労働力の売買」からになります。


◎  第3節  労働力の売買

 この〈第3節 労働力の売買〉はフランス語版は〈第3章 労働力の売買〉になっています。つまり〈〉が〈〉に格上げされているのです。ここらで、『資本論』の冒頭部分の構成が初版、第2版(現行版はほぼ第2版にもとづいていますが、若干の相違はあります)、フランス語版ではどのようになっているのかを見ておくことにしましょう。

〈初版〉 (江夏美千穂 訳)

  第1部 資本の生産過程
第1章 商品と貨幣
  (1)商品
  (2)商品の交換過程
  (3)貨幣または商品流通
      A 価値の尺度
      B 流通手段
     (a)商品の変態
      (b)貨幣の流通
     (c)鋳貨。価値象徴(シンボル)
      C 貨幣
      (a)貨幣蓄蔵
      (b)支払手段
      (c)世界貨幣)
第2章  貨幣の資本への転化
  (1)資本の一般的表式
  (2)一般的表式の諸矛盾
  (3)労働力の売買

〈第2版〉 (江夏美千穂 訳) 
      第1部 資本の生産過程
第1篇 商品と貨幣
  第1章 商品
    第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体 価値量)
    第2節 商品のうちに表示されている労働の二重性格
    第3節 価値形態あるいは交換価値
       A 単純なあるいは単一の価値形態
         (1) 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態
         (2) 相対的価値形態
            (a) 相対的価値形態の内容
            (b) 相対的価値形態の量的規定
         (3) 等価形態
         (4) 単純な価値形態の全体
       B 総和のあるいは発展した価値形態
         (1) 発展した相対的価値形態
         (2) 特殊的な等価形態
         (3) 総和のあるいは発展した価値形態の欠陥
       C 一般的な価値形態
         (1) 価値形態の変化した性格
         (2) 相対的価値形態と等価形態との発展関係
         (3) 一般的価値形態から貨幣形態への移行
       D 貨幣形態
    第4節 商品の呪物的性格とその秘密
  第2章 交換過程
  第3章 貨幣あるいは商品流通
    第1節 価値の尺度
        (価格-価格の尺度-価格の一般的上昇または下落-貨幣の計算名称、計算貨幣-価値量と価格との量的不一致-両者の質的不一致-商品の観念的な価値形態にほかならない価格)
    第2節 流通手段
         a 商品の変態(循環W-G-W-販売W-G-購買G-W-一章品の総変態-
           商品流通-商品流通と生産物交換とのちがい)
         b 貨幣の流通(商品変態と貨幣流通-貨幣の二度の位置変換-流通しつつ
           ある貨幣の量-流通速度-流通の流れと停滞-流通しつつある貨幣の量
           を規定する諸要因)
         c 鋳貨 価値象徴(鋳貨と棒状地金、鋳貨の摩滅-価値象徴-銀表章と銅表章
           -紙幣-強制通用している紙幣流通の法則)
    第3節 貨幣
         (a) 貨幣蓄蔵
         (b) 支払手段
         (c) 世界貨幣
第2篇 貨幣の資本への転化
  第4章  貨幣の資本への転化
    第1節 資本の一般的定式
    第2節 一般的定式の矛盾
    第3節 労働力の売買
       (「自由な労働者」-労働力の価値-「労働力」商品の特有な性質)

〈フランス語版〉  (江夏・上杉 訳)

      第1部 資本主義的生産の発展
第1篇 商品と貨幣
  第1章 商品
    第1節 商品の二つの要因--使用価値と交換価値または厳密な意味での価値(価値の実体。価値量)
    第2節 商品によってあらわされる労働の二重性格
    第3節 価値形態
       A 単純な、あるいは偶然的な価値形態
         (a)価値表現の両極、価値の相対的形態と価値の等価形態
         (b)相対的価値形態
         (c)等価形態とその特色
         (d)単純な価値形態の全体
       B 総和の、あるいは発展した価値形態
         (a)価値形態の性格の変化
         (b)相対的価値形態と等価形態との発展関係
         (c)一般的価値形態から貨幣形態への移行
       D 貨幣形態
         (d)商品の物神性とその秘密
  第2章 交換
  第3章 貨幣または商品流通
   第1節 価値の尺度
   第2節 流通手段
        (a)商品の変態
        (b)貨幣の流通
        (c)鋳貨--価値表章
   第3節 貨幣
        (a)貨幣蓄蔵
        (b)支払手段
        (c)普遍的貨幣
第2篇 貨幣の資本への転化
  第4章 資本の一般的定式
  第5章 資本の一般的定式の矛盾
  第6章 労働力の売買

  こうして比較してみると、初版は部・章・(1)・A・(a)の構成になっているのに対して、第2版は部・篇・章・節・A・(1)・(a)の構成になっているために、第2篇と第4章の表題が「貨幣の資本への転化」という同じものが並ぶことになっています。それに対してフランス語版は、部・篇・章・節・A・(a)の構成ですが、第2篇は篇と章の構成になっているために、同じ表題が重なる愚が避けられています。


◎第1パラグラフ(流通過程で生じない価値の増加は、商品の使用価値で生じるしかない。その消費が価値を創造する独自の使用価値を持つ商品=労働力)

【1】〈(イ)資本に転化するぺき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起こりえない。(ロ)なぜならば、購買手段としても支払手段としても、貨幣は、ただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけであり、また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変わることのない化石に固まってしまうからである(38)。(ハ)同様に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえない。(ニ)なぜならば、この行為は商品をただ現物形態から貨幣形態に再転化させるだけだからである。(ホ)そこで、変化は第一の行為G-Wで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。(ヘ)というのは、等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値どおりに支払われるのだからである。(ト)だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはない。(チ)ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。(リ)そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである--労働能力または労働力に。〉

  (イ)(ロ) 資本に転化するぺき貨幣の価値変化、その増大はこの貨幣そのものには起こりえません。というのは、単純流通においては貨幣は購買手段としても支払手段としても、ただ、それが買うかまたは支払う商品の価格を実現するだけだからです。または、それが流通から引き上げられても、貨幣としての形態にとどまりこそすれ、蓄蔵貨幣という価値量のまったく変わることのない化石に固まってしまうからです。

  このパラグラフ全体はフランス語版では大幅に書き換えられており、パラグラフそのものは四つのパラグラフに分けられています。ここでは該当するフランス語版をまず最初に紹介して、引き4続いてその解説を行うことにしましょう。まずフランス語版です。

  〈価値の増加--これによって貨幣は資本に転化するはずであるが--は、この貨幣自体からは生ずることができない。貨幣は、購買手段または支払手段として役立つにしても、それで買うかまたは支払う商品の価格を実現するにすぎない。
  貨幣が元のままにとどまり、自分自身の形態を保持するならば、貨幣はもはやいわば石化した価値でしかない(1)。〉 (江夏・上杉訳154頁)

  私たちは第2節「一般的定式の諸矛盾」の結論として次のような「二重の結果」を得ました。すなわち貨幣の資本への転化は、①商品交換に内在する諸法則(=等価物同士の交換) にもとづいて展開されるべきこと、②それは流通部面で行われなければならず、しかも流通部面で行われてはならない、というものです。
  資本としての貨幣の流通G(貨幣)-W(商品)-G'において如何にして価値の増殖、剰余価値の形成が可能でしょうか。まず最初のG-Wにおいて、貨幣が購買手段や支払手段として機能したとしても、その価値を増やすことできません。それはただ諸商品の価値を実現するだけであって、そこに価値の増減はないのが法則だからです。
  また貨幣そのものは流通から引き上げられても、ただ蓄蔵貨幣に石化するだけで何ら価値の増大は生じません。

  (ハ)(ニ) 同様に、第二の流通行為、商品の再販売からも変化は生じえません。というのは、この行為は商品の価値をただ現物の形態から貨幣の形態に再転化させるだけだからです。

  該当するフランス語版です。

  〈A-M-A'、すなわち、貨幣の商品への変換およびその同じ商品のより多くの貨幣への再変換が表現するところの価値の変化は、商品から生じなければならない。だが、 M-A'、という第二の行為では、商品がただたんに自然形態から貨幣形態に移行する転売では、価値の変化は実現しえない。〉 (同)

  それでは資本としての貨幣の流通の第二の部面、W-G'ではどうでしょうか。しかしこの場合も価値の変化は生じません。というのは、この流通はただ商品の価値をその現物形態から貨幣の形態に転化するだけで、商品交換の内在する諸法則では、ただ等価物の交換が行われるだけで、価値の変化はないからです。

  (ホ)(ヘ) そこで、変化は第一の行為G-Wで買われる商品に起きるのでなければならないのですが、しかしその商品の価値に起きるのではありません。というのは、商品交換の法則では、等価物どうしが交換されるのであり、商品はその価値どおりに支払われるのだからです。
 
  同じくフランス語版です。

  〈さて今度は、A-M,という第一の行為を考察すれば、等価物同士の交換が存在すること、したがって、商品は、この商品に変換する貨幣よりも大きな交換価値をもたない、ということが見出される。最後の仮定が、すなわち、変化は商品の使用価値、つまり商品の使用または消費から生ずるという仮定が、残されている。〉 (同)

  価値の増大が貨幣で生じないのなら、あとは商品に生じると考えるしかありません。すなわちG-W-G'最初の流通行為C-Wの結果であるW(商品)に生じるしかないのです。しかし商品の価値にはではありません。なぜなら、商品の価値は商品交換の法則では、ただ等価物の交換が行われるだけで、その価値には変化が生じないはずだからです。

  (ト)(チ)(リ) だから、変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはないことになります。ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないでしょう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのです。すなわち労働能力または労働力という商品にです。

  まずフランス語版です。これはかなり書き換えられています。

  〈ところで、問題は交換価値においての変化であり、交換価値の増加である。商品の使用価値から交換価値を引き出すことができるためには、貨幣所有者は、次のような商品--その使用価値が交換価値の源泉であるという特殊な効力をもち、このために、消費することが労働を実現し、したがって価値を創造することになるような商品--を、流通のなかで、市場自体で、運よく発見していなければならない。
  そして、われわれの貨幣所有者は実際に、この独自な効力を授けられた商品を、市場で見出すのであって、この商品が労働能力あるいは労働力と呼ばれる。〉 (江夏・上杉訳154-155頁)

  だから商品の価値に変化が生じないとすれば、その使用価値に生じる必要があります。しかし商品の使用価値は価値とは対立的な契機であって、使用価値には価値はまったく含んでいないのです。だから問題は使用価値の実現であるその消費の過程で価値が新たに生じるような独特の使用価値をもつ商品が見いだされなければならないのです。我が貨幣所持者は、市場において、その消費が価値を創造するような独特の使用価値を持つ商品を見いださねばならないのです。そしてそれは見いだされます。すなわち労働能力あるいは労働力という商品にです。
  『61-63草稿』から紹介しておきましょう。

  〈労働能力は、使用価値としては、独自なものとして他のあらゆる商品の使用価値から区別される。第一に、それは売り手である労働者の生きた身体のなかにある単なる素質〔Anlage〕として存在する、ということによって。第二に、他のすべての使用価値からの、まったく特徴的な区別をそれに刻みつけるものは、それの使用価値--使用価値としてそれを現実に利用すること〔Verwertung〕、すなわちそれの消費--が労働そのものであり、したがって交換価値の実体であるということ、それは交換価値そのものの創造的実体であるということである。それの現実的使用、消費は交換価値を生むこと〔Setzen〕である。交換価値を創造することがそれの独自な使用価値なのである。〉 (草稿集④61頁)


◎原注38

【原注38】〈38 「貨幣の形態にあっては……資本は利潤を生まない。」(リカード『経済学原理』、267ページ。〔岩波文庫版、小泉訳、上巻、243ぺージ。〕)〉

  これは〈また、それ自身の形態にとどまっていれば、価値量の変わることのない化石に固まってしまうからである(38)。〉という本文につけらた原注です。
  この引用では途中……と部分的に省略されていますが、小泉訳でも、そのあと出された羽鳥・吉澤訳でも中抜けはありませんでした。次のようになっています。

 〈貨幣の形に於いては、この資本は何等の利潤を生ずるものではないが、それと交換され得るべき、原料機械及び食物の形に於いては、それは収入を生じ、国家の富と資源を増すであろう。〉 (岩波文庫版、昭和27年6月第1版、上、243頁)
 〈貨幣の形態では、この資本は利潤をまったく生まない。貨幣がそれと交換されうる原料、機械および食料の形態では、資本は収入を生み、国家の富と税源を増加させるであろう。〉 (岩波文庫版、1987年6月、下、31頁)


◎第2パラグラフ(労働力の定義)

【2】〈(イ)われわれが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことである。〉

  (イ) わたしたちが労働力または労働能力と言うのは、人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて、彼がなんらかの種類の使用価値を生産するときにそのつど運動させるところの、肉体的および精神的諸能力の総体のことです。

  まずここでも最初にフランス語版を紹介しておきましょう。

  〈この名称のもとでは、人間の身体という人間の生きた一身のなかに存在していて、人間が有用物を生産するために運動させなければならないところの、肉体的および精神的力能の総体を、理解しなければならない。〉 (江夏・上杉訳155頁)

  ここでは労働能力、あるいは労働力の定義がなされています。それは生きている人間の肉体にそなわっていて、何らかの使用価値(有用物)を生産するときに、運動させる、肉体的・精神的諸能力の総体を意味するということです。

  第1章「商品」の第2節「商品にあらわされる労働の二重性」の最後のパラグラフに、次のような説明がありました。

  〈すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間の労働力の支出であって、この同等な人間労働または抽象的人間労働という属性においてそれは商品価値を形成するのである。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出であって、この具体的有用労働という属性においてそれは使用価値を生産するのである。〉 (全集第23a巻63頁)

  ここでは〈生理学的意味での人間の労働力の支出〉と〈特殊な、目的を規定された形態での人間の労働力の支出〉という形で〈人間の労働力の支出〉という言葉が二度出てきます。しかしこの段階ではまだ〈労働力〉というのはそもそも何か、ということは問わないままでした。

  また同章第4節「商品の物神的性格とその秘密」にも次のような一分があります。

  〈いろいろな有用労働または生産活動がどんなに違っていようとも、それらが人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だということは、生理学上の真理だからである。〉  (全集第23a巻96-97頁)

  ここでは人間の身体に備わった潜勢的な力としての労働力ではなく、実際にそれが発揮される〈有用労働または生産活動〉を規定しているといえます。しかし〈人間有機体の諸機能だということ、また、このような機能は、その内容や形態がどうであろうと、どれも本質的には人間の脳や神経や筋肉や感覚器官などの支出だ〉というのは「労働力の支出」を規定しているといえるのではないでしょうか。

  最後に『61-63草稿』からも紹介しておきます。

 〈したがって、次のことはしっかりとつかんでおかなければならない。--労働者が流通の領域で、市場で、売りに出す商品、彼が売るべきものとしてもっている商品は、彼自身の労働能力であって、これは他のあらゆる商品と同様に、それが使用価値であるかぎり、一つの対象的な存在を--ここではただ、個人自身の生きた身体(ここではおそらく、手ばかりでなくて頭脳も身体の一部であることに、言及する必要はあるまい)のなかの素質、力能〔Potenz〕としての存在ではあるが--もつ。しかし、労働能力の使用価値としての機能、この商品の消費、この商品の使用価値としての使用は、労働そのものにほかならないのであって、それはまったく、小麦は、それが栄養過程で消費され、栄養素として働くときに、はじめて現実に使用価値として機能する、というのと同様である。この商品の使用価値は、他のあらゆる商品のそれと同じく、その消費過程ではじめて、つまり、それが売り手の手から買い手の手に移ったのちにはじめて、実現されるのであるが、それは、それが買い手にとっての動機である、ということ以外には、販売の過程そのものとはなんの関係もないのである。〉 (草稿集④78-79頁)


◎第3パラグラフ(労働力が商品になる第一の条件は、労働力の自由な所持者であること)

【3】〈(イ)しかし、貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければならない。(ロ)商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んではいない。(ハ)この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、それ自身の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからである。(ニ)労働力の所持者が労働力を商品として売るためには、彼は、労働力を自由に処分することができなければならず、したがって彼の労働能力、彼の一身の自由な所有者でなければならない(39)。(ホ)労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、彼らの違いは、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人である。(ヘ)この関係の持続は、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。(ト)なぜならば、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまうならば、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからである。(チ)彼が人として彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければならない。(リ)そして、そうでありうるのは、ただ、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけで、したがって、ただ、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないというかぎりでのことである(40)。〉

  (イ)(ロ)(ハ)(ニ)(ホ) しかし、貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件がみたされていなければなりません。商品交換には、それ自体としては、それ自身の性質から生ずるもののほかにはどんな従属関係も含んでいません。この前提のもとで労働力が商品として市場に現われることができるのは、ただ、労働力の所持者が、それを自分の労働力としてもっている人が、それを商品として売りに出すかまたは売るかぎりでのことであり、またそうするからです。労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのです。彼らの違いといえば、ただ、一方は買い手で他方は売り手だということだけであって、両方とも法律上では平等な人なのです。

  第1パラグラフの最後で〈われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であるという独特な性質をその使用価値そのものがもっているような一商品を、つまりその現実の消費そのものが労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、運よく流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自な商品に出会うのである--労働能力または労働力に〉とありましたが、このような幸運に貨幣所持者が出会うためには、さまざまな条件があるというのです。それは商品交換そのものが示す条件でもあります。商品交換そのものにおいては商品所有者のあいだには対等の関係があるだけで、一方が他方を強引に暴力的に市場に引き出すようなことはできません。だから労働力が商品として市場に出てくるためには、労働力の所有者が自分の意志でそうすることが出来なければならないのです。そしてそのためはまず第一に、労働力が彼の自由な所有物として認められているということです。そうした自由が認められて、初めて彼は自分の労働力を自分の自由意志で商品として売りに出すことができるのです。だから市場における労働力の所持者と貨幣の所持者とは、リンネルを売ろうとしている人とそれを買おうとしている貨幣所持者との関係とまったく同じであって、彼らはまったく対等な平等な関係であって、違いはただ一方は売り手であり、他方は買い手であるという違いだけで法律上は同じ価値の所持者としてまったく対等・平等の関係にあるのです。

  (ヘ)(ト) この関係を持続させるためには、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とします。というのは、もし彼がそれをひとまとめにして一度に売ってしまったなら、彼は自分自身を売ることになり、彼は自由人から奴隷に、商品所持者から商品になってしまうからです。

  労働力の所持者が常に自分の自由意志で労働力を売ることが出来るためには、彼はそれを常に一定の時間を限って販売する必要があります。というのは、もし彼がそれをひとまとめに売ってしまうなら、それは彼自身を販売することになり、それは彼自身が貨幣所持者の持ち物になるということだからです。そうなると彼はただ貨幣所持者の奴隷になったのと同じです。彼は二度と彼の労働力を商品として販売することはできないでしょう。だからこうした貨幣所持者と労働力の所持者が市場で出会うことが維持されるためには、労働力の所持者は常に一定の時間を限って自分の労働能力を使用する権限を貨幣所持者に販売することでなければならないのです。

  (チ)(リ) 労働力の所持者が彼の労働力にたいしてもつ関係は、つねに彼の所有物にたいする関係、したがって彼自身の商品にたいする関係でなければなりません。そして、そうでありうるのは、彼がいつでもただ一時的に、一定の期間を限って、彼の労働力を買い手に用立て、その消費にまかせるだけでなければなりません。そしてそのためには、彼は、労働力を手放してもそれにたいする自分の所有権は放棄しないということを堅持しなければならないのです。

  だから労働力の所持者は常に彼の労働力に対して、彼の所有物として相対し、彼の所有する商品という関係になければならないのです。そしてそのためには、彼は常に彼の労働力を一定の時間、期間を限って、その買い手に使用する権限を与えるのであって、労働力を譲渡してもその所有権は手放さず、保持していることができなければならないのです。

  『61-63草稿』『賃金・価格・利潤』から紹介しておきます。

 〈ここではわれわれは商品流通の基礎の上に立っているのであり、したがって交換者たちのあいだには、流通過程そのものによって与えられる依存関係のほかには、どんな依存関係もまったく前提されておらず、彼らはただ、買い手と売り手として区別されるだけである。したがって、貨幣が労働能力を買うことができるのは、ただ、労働能力が商品そのものとして売りに出され、その持ち主〔Inhaber〕、すなわち労働能力の生きた所有者〔Besitzer〕によって売られるかぎりにおいてである。その条件は、第一に、労働能力の所有者〔Besitzer〕が自分自身の労働能力を思いどおりに処分する〔disponieren〕ということ、商品としてそれを思いどおりに処理する〔verfügen〕ことができるということである。そのためには彼はさらに、労働能力の所有者〔Eigtümer〕でなければならない。そうでなかったならば、彼はそれを商品として売ることができない。〉 (草稿集④52頁)

  労働者が売るものは、彼の労働そのものではなく彼の労働力であって、彼は労働力の一時的な処分権を資本家にゆずりわたすのである。だからこそ、イギリス法では定められているかどうか知らないが、たしかに大陸のある国々の法律では、労働力を売ることをゆるされる最長時間が定められているのである*。もし労働力をいくらでも長期間にわたって売る事がゆるされるとしたら、たちどころに奴隷制が復活してしまうであろう。こうした労働力の売却は、もしそれがたとえば人の一生にわたるならば、その人をたちまち彼の雇い主の終生の奴隷にしてしまうであろう。
  * イギリスでは1848年の新工場法で婦人と年少者の十時間労働法が施行されたが、交替制の採用によって有名無実となり、また成年男子労働者の労働日は制限されておらず、一方、ヨーロッパ大陸、たとえばフランスでは、2月革命の結果、1848年の命令で成年労働者の1日の最長時間をパリで10時間、その他で11時間と定め、革命政府の倒壊後は、49年の大統領令で全国一律に1日12時間と定められた。〉 (全集第16巻128-129頁)

    (今回も長くなりましたので、全体を9分割して掲載します。)

 

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