第32回「『資本論』を読む会」の報告(その1)
◎ジャスミン革命
「ジャスミン」というのは香料の名前として知っていましたが、その花については、恥ずかしながら、知りませんでした。チュジニアの国花だそうで、だからチュジニアで起こった革命を「ジャスミン革命」というのだそうです。その革命の波は、エジプトにも及び、いまはリビアをも巻き込んでいます。お隣の中国でも「中国ジャスミン革命」が呼びかけられているのだとか。
ハゴロモジヤスミン
花の名前を冠した革命というのも、いい感じですが、厳しい冬の季節を克服して、暖かい春の到来をいち早く告げる梅の花も、あるいは革命の名に相応しいのかも知れません。
第31回「『資本論』を読む会」もようやく寒さが緩んで、春を感じさせるなかで開催されました。もちろん、参加者の状況は、相変わらずのお寒い限りではありましたが……。
今回は〈D 貨幣形態〉をやりました。これは分量も大したことはないので、一回で終わりました。これで〈第3節 価値形態または交換価値〉が終わったことになります。だから学習会の議論の最後には、この第3節全体の位置づけについても話題になりました。さっそく、その報告に移ることにしましょう。
◎一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差異
まず現行版には〈D 貨幣形態〉として次のような図示があります。
〈 20エレのリンネル =
1着の上着 =
10ポンドの茶 =
40ポンドのコーヒー = 2オンスの金
1クォーターの小麦 =
1/2トンの鉄 =
x量の商品A = 〉
そして、初版付録の「IV 貨幣形態」には三つの小項目がついています。まずそれを紹介しておきましょう。
〈(1)一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差異。〉--(【1】【2】)
〈(2)一般的な相対的価値形態の価格形態への転化。〉--(【3】)
〈(3)単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である。〉--(【4】)
それぞれの項目のあとに( )に入れて書いたものは、それぞれの項目に該当すると考えられる、現行版のパラグラフの番号です。この報告も、この初版付録の項目にもとづいて、各パラグラフを三つの項目に分けて、行うことにします。まず最初は第1パラグラフです。
【1】〈(イ)形態Ⅰから形態Ⅱへの、形態Ⅱから形態Ⅲへの移行に際しては、もろもろの本質的な変化が起きる。(ロ)これに対して、形態Ⅳは、今やリンネルの代わりに金が一般的等価形態をとるということのほかには、形態Ⅲと区別されるところがない。(ハ)形態Ⅳにおける金は、あい変わらず、形態Ⅲにおいてリンネルがそうであったもの--一般的等価である。(ニ)進歩は、ただ、直接的一般的交換可能性の形態または一般的等価形態が、今や社会的慣習によって、商品金の特有な現物形態に最終的に癒着しているということだけである。〉
(イ)形態 I (単純な価値形態)から形態II(展開された価値形態)への移行、あるいは形態IIから形態III(一般的な価値形態)への移行に際しては、もろもろの本質的な変化が起きました。それを私たちは、〈C 一般的価値形態〉の〈2 相対的価値形態と等価形態との発展関係〉のなかで詳しく見てきました。例えば等価形態は、単純な価値形態→個別的等価形態、展開された価値形態→特殊的等価形態、一般的価値形態→一般的等価形態と発展し、また相対的価値形態と等価形態の対立も、価値形態が発展または完成するのと同じ度合いで、発展して硬化することが指摘されたのでした。
(ロ)(ハ)これに対して、形態IV(貨幣形態)では、形態IIIで一般的等価形態にあったリンネルの代わりに、金が来るだけで、それ以外では形態IIIと区別されるところがありません。形態IVにおける金は、形態IIIにおいてリンネルがそうであったのと同じように、一般的等価形態にあるという点では変わらないのです。
(ニ)ただ違うところ、進歩は、一般的等価形態が持っている直接的な一般的な交換可能性の形態が、今では社会的な慣習によって、商品金の特有な現物形態(そのキラキラまばゆく光る形態)に最終的に癒着(全集版では「合生」)しているということだけです。
学習会ではこの最後の全集版で「合生」と訳されている部分について、JJ富村さんから、この原語のverwachsenの訳語の中には「合生」というのがあったことが紹介されました。木村・相良 独和辞典(新訂版) 博友社 昭和45年1月15日第9刷によると、次のような項目があったということです。
〈見出し語 verwachsen
(I) t. ①
② 成長して失う。
(II) i. ① 成長してきえる, ふさがる, 癒着する。
② mit et. ~, 或物(生えるもの)におおわれる。
③ 合生する。もつれ合う, からみあう。
④ 成長して不具になる。ぶかっこうになる。せむしになる。
(III) refl. sich ~
① 成長しすぎる。
② 成長して或物になる, に悪変する。
③ ふさがる, 癒着する。〉
次は第二パラグラフです。
【2】〈(イ)金が他の諸商品に貨幣として相対するのは、金が他の諸商品にすでに以前から商品として相対していたからにほかならない。(ロ)他のすべての商品と等しく、金もまた、個別的な交換行為における個々の等価としてであれ、他の商品等価物とならぶ特別な等価としてであれ、等価として機能した。(ハ)しだいに、金は、広い範囲か狭い範囲かの違いはあっても、一般的等価として機能するようになった。(ニ)金が商品世界の価値表現におけるこの地位の独占を勝ちとるやいなや、それは貨幣商品となり、そして、それがすでに貨幣商品となったその瞬間から、はじめて形態Ⅳは形態Ⅲから区別される。(ホ)言いかえれば、一般的価値形態が貨幣形態に転化するのである。〉
このパラグラフは先のパラグラフで〈一般的等価形態が、今や社会的慣習によって、商品金の特有な現物形態に最終的に癒着している〉と言われていたことに対応し、それを説明しているように思えます。
(イ)金が形態IVで、他の諸商品に対して貨幣として相対するようになるのは、金がすでに以前から他の商品と同じように一つの商品として、他の諸商品に相対していたからにほかなりません。
(ロ)つまり、他のすべての商品と同じように、金もまた、個別的な交換行為において(つまり単純な価値形態において)、個々の等価物としてあらわれたし、また展開された価値形態では、他の商品と並んで一つの特殊な等価物としてあらわれ、それぞれ等価として機能していたのです。
(ハ)そして、金は、しだいに広い範囲や狭い範囲の違いはあったとしても、徐々に一般的等価として機能するようになったのです。
(ニ)(ホ)そして金が商品世界の価値を表現する、こうした地位、つまり一般的等価物としての地位、を他の諸商品を押し退けて独占するようになると(本当は他の諸商品の一般的な相対的な価値表現の列から金は例外的なものとして排除されて、受動的にそうした地位につかされるわけですが)、それは貨幣商品になり、そして金がそうした地位についた瞬間から、はじめて形態IV(つまり貨幣形態)は、形態III(一般的価値形態)から区別されるのです。言いかえると、一般的価値形態が貨幣形態に転化するのです。
学習会では、ここでは金が一般的等価物の地位を独占することを、一般的価値形態と貨幣形態とを区別するメルクマールとしているのですが、果たして歴史的もそういうことがいえるのだろうか、ということが疑問として出されました。というのは古代ローマでは、金ではなく、銅が貨幣(鋳貨)であったとマルクス自身も語っていますし、マルクスが生きていた時代においても、大陸諸国では、例えば一大商業都市であったアムステルダムなどでは銀が貨幣だったからです。また日本の江戸時代では、大阪では銀が、江戸では金がそれぞれ貨幣として流通していたとも言われています。つまり歴史的には貨幣は銅や銀、そして金へと貴金属のなかでも変遷して来たといえるのではないだろうかというわけです。だから、もしそういうことなら、このパラグラフのように、金が一般的等価形態の地位を独占して、初めてそれは貨幣形態と言いうるのだというようにいうと、まだ銅や銀が一般的等価形態であった時代や地域では、そうしたものは、いまだ貨幣形態とはいえないものだったのかという疑問が生じてくる、というわけです。
そして「第2章 交換過程」では、次のようにも述べられている、との指摘もありました。
〈商品交換がそのもっぱら局地的な束縛を打破し、したがって商品価値が人間労働一般の物質化にまで拡大していくのと同じ割合で、貨幣形態は、一般的等価という社会的機能に生まれながらにして適している商品に、すなわち貴金属に、移っていく。〉(全集版119頁)
つまりここでは、貨幣形態そのものが、貴金属に移っていくと述べられており、ということは貴金属以前のものも貨幣形態であったかに述べられているわけです。また「金銀は生まれながらにして貨幣ではないが、貨幣は生まれながらにして金銀である」と『経済学批判』の一文が紹介されているように、ここでは貨幣形態として「金銀」という形で金と銀が一緒に語られているとの指摘もありました。しかし、この問題は疑問として出されただけで、それ以上の議論にはならずに終わりました。
◎一般的な相対的価値形態の価格形態への転化
次は第3パラグラフです。
【3】〈(イ)すでに貨幣商品として機能している商品たとえば金による、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態である。(ロ)だから、リンネルの「価格形態」は、
20エレのリンネル=2オンスの金
であり、あるいは、二ポンド・スターリングが二オンスの金の鋳貨名であれば、
20エレのリンネル=2ポンド・スターリング
である。〉
(イ)(ロ)すでに貨幣商品として機能している商品、例えば金による、一商品、例えばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態です。だからそれは次のように表されます。
20エレのリンネル=2オンスの金
あるいは、2ポンド・スターリングが2オンスの金の鋳貨名であれば、
20エレのリンネル=2ポンド・スターリング
がリンネルの価格形態となるわけです。
ここでは、そもそも価格形態と貨幣形態とは何が違うのか、両者はどのように区別されるのか、が問題になりました。ピースさんは、次のように説明してくれました。
〈一般的価値形態の貨幣形態への転化〉と言われるように(第2パラグラフ)、貨幣形態は一般的価値形態に対応している。
それに対して〈一般的な相対的価値形態の価格形態への転化〉と言われるように、価格形態は一般的相対的価値形態に対応しているのではないか、というわけです。
だから価格形態は一般的な相対的価値形態にある商品、例えばリンネルに対して言われているのに対して、貨幣形態の場合は、相対的価値形態と等価形態との全体を含めた価値形態の一つとして、単純な価値形態(形態 I )、展開された価値形態(形態II)、さらには一般的価値形態(形態III)に対応するもの(形態IV)として言われているというわけです。
同じように、一般的等価形態(あるいは一般的等価物)は、貨幣(貨幣商品)になるということができるかも知れません。
◎単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である
最後の第4パラグラフです。
【4】〈(イ)貨幣形態の概念把握における困難は、一般的等価形態、したがって一般的価値形態一般、形態Ⅲに限定される。(ロ)形態Ⅲは、もとにさかのぼれば形態Ⅱ、すなわち展開された価値形態に帰着し、そして、この形態Ⅱの構成要素は形態Ⅰ、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 または x量の商品A=y量の商品B である。(ハ)だから、単純な商品形態は貨幣形態の萌芽である。〉
(イ)貨幣形態を概念的に把握する困難は、一般的等価形態、だから一般的価値形態そのものの理解に限られています。
(ロ)しかし一般的価値形態の理解は、そもそももとに遡れば、形態II(展開された価値形態)の理解に帰着し、そしてその理解はさらにはそれの構成要素でもある形態 I (単純な価値形態)の理解に帰着するのです。つまり 20エレのリンネル=1着の上着 または x量の商品A=y量の商品B という単純な価値形態の理解こそが、すべての出発点であり、その概念的な理解こそが重要であるということです。
(ハ)だから、単純な商品形態は貨幣形態の萌芽だといえるわけです。
まずここでは最初に単純な価値形態ではなく、〈単純な商品形態〉と言われているが、これはどうしてなんだろうか、ということが疑問として出されました。これに対しては、〈4 簡単な価値形態の全体〉において、次のような指摘があったことが紹介されました。
〈労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象であるが、労働生産物を商品に転化するのは、ただ、使用物の生産において支出された労働を、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として、表す歴史的に規定された一つの発展の時期だけである。それゆえ、こうなる--商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する、と。〉(全集版83頁)
だからここで〈単純な商品形態〉と言われているのは、商品形態の未発達の状態を意味しているのではないか、そしてそれは単純な価値形態でもあったということではないか、ということになりました。
次に問題になったのは、最初に出てくる〈貨幣形態の概念把握における困難〉というように、どうして〈概念的把握における困難〉が問題にされているのか、ということでした。というのは、初版付録では、この部分は次のようになっているからです。
〈(3)単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である。
要するに、本来の貨幣形態は、それ自体としては、全くなんらの困難をも呈していない。一般的な等価形態がひとたび看破されてしまうと、この等価形態が金という独自の商品種類に固着するということを理解するには、いささかも苦慮する必要がないのであって、このことは、一般的な等価形態は、本来、ある特定の商品種類が他のすべての商品によって社会的に排除されることを条件としている、ということを理解するのに苦慮する必要がない、のと同じである。問題になるのは、こういった排除が、客観的・社会的一貫性と一般的妥当性とを獲得し、したがって、いろいろな商品にかわるがわる付着するのでもないし、商品世界のたんに特殊な範囲内でたんに局地的な射程をもっているだけでもない、ということだけである。貨幣形態の概念上の困難は、一般的な等価形態の理解に、したがって、形態IIIという一般的な価値形態一般の理解に、かぎられている。ところが、形態IIIは、反射的に形態IIに解消し、そして、形態IIの構成要素は、形態 I 、すなわち 20エレのリンネル=1着の上着 または、x量の商品A=y量の商品B なのである。そこで、使用価値と交換価値がなんであるかを知れば、この形態 I は、たとえばリンネルのような任意の労働生産物を、商品として、すなわち、使用価値と交換価値という対立物の統一として、表示するところの、最も単純で最も未発展な仕方である、ということがわかる。そうなると、同時に、単純な商品形態である 20エレのリンネル=1着の上着 が、この形態の完成した姿態である 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング すなわち貨幣形態を獲得するために通過しなければならないところの、諸変態の系列も、容易に見いだされることになる。〉(906-7頁)
つまりこの初版付録と較べてみると、現行版は初版付録についていた前半部分がカットされているように思えます。しかし初版付録の展開をみると、途中かから言われている〈貨幣形態の概念上の困難は〉云々という文言は、明らかに、最初の〈要するに、本来の貨幣形態は、それ自体としては、全くなんらの困難をも呈していない〉に対比した形で言われているように読めます。初版本文の最初で言われていることは、要するに、一般的価値形態から貨幣形態への移行というのは何の困難もなく理解できるということのようです。ただ問題になるのは、それが客観的・社会的一貫性と一般的妥当性を獲得し、もはやアチコチに付着することもなく、局地的なものではなくなるということだということのようです。そして、それに対して〈貨幣形態の概念上の困難〉が対比されているように思えます。
この問題については、ピースさんから、それに関連するのではないかと、久留間鮫造氏が問題にした〈第2章 交換過程〉の最後の方にある次の一文が指摘されました。
〈すでに一七世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み越えた端緒がなされていて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒にすぎなかった。困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある。〉(全集版123頁)
つまり貨幣形態を概念的に捉えるというのは、ここでマルクスが言っている〈どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する〉ということではないか、というわけです。〈商品が貨幣である〉というのをどのように理解するのかはなかなか難しいのですが、どうして商品には価格形態がついているのか、つまりどうして商品には値札がついているのかを商品の価値の概念から出発して、展開して説明することは困難なのだとマルクスは言っているのではないでしょうか。マルクスは第3節の前文のところでも、次のように述べていました。
〈だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。〉(全集版65頁)
まさに〈貨幣形態の概念把握における困難〉というのは、これまでの展開でマルクスが試みた〈ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること〉の困難だといえると思います。
なおこれは学習会では指摘されなかったのですが、フランス語版のこのパラグラフは極めて簡略化されており、その代わりにそれに付けられた注25ではかなり詳しい説明がなされています。そこでは〈古典派経済学はいまだかつて、商品、特に商品の価値の分析から、商品が交換価値になる形態を演繹することに成功したためしがなく、これがこの経済学の主要な欠陥の一つである〉云々とあります。しかし詳しくは付属資料を参照してください。
(以下、「その2」に続きます。)