『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第32回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2011-03-01 23:37:44 | 『資本論』

第32回「『資本論』を読む会」の報告(その1)


◎ジャスミン革命

 「ジャスミン」というのは香料の名前として知っていましたが、その花については、恥ずかしながら、知りませんでした。チュジニアの国花だそうで、だからチュジニアで起こった革命を「ジャスミン革命」というのだそうです。その革命の波は、エジプトにも及び、いまはリビアをも巻き込んでいます。お隣の中国でも「中国ジャスミン革命」が呼びかけられているのだとか。


ハゴロモジヤスミン

 花の名前を冠した革命というのも、いい感じですが、厳しい冬の季節を克服して、暖かい春の到来をいち早く告げる梅の花も、あるいは革命の名に相応しいのかも知れません。

 第31回「『資本論』を読む会」もようやく寒さが緩んで、春を感じさせるなかで開催されました。もちろん、参加者の状況は、相変わらずのお寒い限りではありましたが……。

 今回は〈D 貨幣形態〉をやりました。これは分量も大したことはないので、一回で終わりました。これで〈第3節 価値形態または交換価値〉が終わったことになります。だから学習会の議論の最後には、この第3節全体の位置づけについても話題になりました。さっそく、その報告に移ることにしましょう。

◎一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差異

 まず現行版には〈D 貨幣形態〉として次のような図示があります。

 〈 20エレのリンネル  =
   1着の上着      =
   10ポンドの茶    =
   40ポンドのコーヒー = 2オンスの金
   1クォーターの小麦 =
   1/2トンの鉄    =
   x量の商品A     =       〉

 そして、初版付録の「IV 貨幣形態」には三つの小項目がついています。まずそれを紹介しておきましょう。

〈(1)一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差異。〉--(【1】【2】)

〈(2)一般的な相対的価値形態の価格形態への転化。〉--(【3】)

〈(3)単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である。〉--(【4】)

 それぞれの項目のあとに( )に入れて書いたものは、それぞれの項目に該当すると考えられる、現行版のパラグラフの番号です。この報告も、この初版付録の項目にもとづいて、各パラグラフを三つの項目に分けて、行うことにします。まず最初は第1パラグラフです。

【1】〈(イ)形態Ⅰから形態Ⅱへの、形態Ⅱから形態Ⅲへの移行に際しては、もろもろの本質的な変化が起きる。(ロ)これに対して、形態Ⅳは、今やリンネルの代わりに金が一般的等価形態をとるということのほかには、形態Ⅲと区別されるところがない。(ハ)形態Ⅳにおける金は、あい変わらず、形態Ⅲにおいてリンネルがそうであったもの--一般的等価である。(ニ)進歩は、ただ、直接的一般的交換可能性の形態または一般的等価形態が、今や社会的慣習によって、商品金の特有な現物形態に最終的に癒着しているということだけである。〉

 (イ)形態 I (単純な価値形態)から形態II(展開された価値形態)への移行、あるいは形態IIから形態III(一般的な価値形態)への移行に際しては、もろもろの本質的な変化が起きました。それを私たちは、〈C 一般的価値形態〉の〈2 相対的価値形態と等価形態との発展関係〉のなかで詳しく見てきました。例えば等価形態は、単純な価値形態→個別的等価形態、展開された価値形態→特殊的等価形態、一般的価値形態→一般的等価形態と発展し、また相対的価値形態と等価形態の対立も、価値形態が発展または完成するのと同じ度合いで、発展して硬化することが指摘されたのでした。

 (ロ)(ハ)これに対して、形態IV(貨幣形態)では、形態IIIで一般的等価形態にあったリンネルの代わりに、金が来るだけで、それ以外では形態IIIと区別されるところがありません。形態IVにおける金は、形態IIIにおいてリンネルがそうであったのと同じように、一般的等価形態にあるという点では変わらないのです。

 (ニ)ただ違うところ、進歩は、一般的等価形態が持っている直接的な一般的な交換可能性の形態が、今では社会的な慣習によって、商品金の特有な現物形態(そのキラキラまばゆく光る形態)に最終的に癒着(全集版では「合生」)しているということだけです。

 学習会ではこの最後の全集版で「合生」と訳されている部分について、JJ富村さんから、この原語のverwachsenの訳語の中には「合生」というのがあったことが紹介されました。木村・相良 独和辞典(新訂版) 博友社 昭和45年1月15日第9刷によると、次のような項目があったということです。

〈見出し語 verwachsen
(I) t. ①
 ② 成長して失う。
(II) i. ① 成長してきえる, ふさがる, 癒着する。
  ② mit et. ~, 或物(生えるもの)におおわれる。
 ③ 合生する。もつれ合う, からみあう。
 ④ 成長して不具になる。ぶかっこうになる。せむしになる。
(III) refl. sich ~
 ① 成長しすぎる。
 ② 成長して或物になる, に悪変する。
 ③ ふさがる, 癒着する。〉

 次は第二パラグラフです。

【2】〈(イ)金が他の諸商品に貨幣として相対するのは、金が他の諸商品にすでに以前から商品として相対していたからにほかならない。(ロ)他のすべての商品と等しく、金もまた、個別的な交換行為における個々の等価としてであれ、他の商品等価物とならぶ特別な等価としてであれ、等価として機能した。(ハ)しだいに、金は、広い範囲か狭い範囲かの違いはあっても、一般的等価として機能するようになった。(ニ)金が商品世界の価値表現におけるこの地位の独占を勝ちとるやいなや、それは貨幣商品となり、そして、それがすでに貨幣商品となったその瞬間から、はじめて形態Ⅳは形態Ⅲから区別される。(ホ)言いかえれば、一般的価値形態が貨幣形態に転化するのである。〉

 このパラグラフは先のパラグラフで〈一般的等価形態が、今や社会的慣習によって、商品金の特有な現物形態に最終的に癒着している〉と言われていたことに対応し、それを説明しているように思えます。

 (イ)金が形態IVで、他の諸商品に対して貨幣として相対するようになるのは、金がすでに以前から他の商品と同じように一つの商品として、他の諸商品に相対していたからにほかなりません。

 (ロ)つまり、他のすべての商品と同じように、金もまた、個別的な交換行為において(つまり単純な価値形態において)、個々の等価物としてあらわれたし、また展開された価値形態では、他の商品と並んで一つの特殊な等価物としてあらわれ、それぞれ等価として機能していたのです。

 (ハ)そして、金は、しだいに広い範囲や狭い範囲の違いはあったとしても、徐々に一般的等価として機能するようになったのです。

 (ニ)(ホ)そして金が商品世界の価値を表現する、こうした地位、つまり一般的等価物としての地位、を他の諸商品を押し退けて独占するようになると(本当は他の諸商品の一般的な相対的な価値表現の列から金は例外的なものとして排除されて、受動的にそうした地位につかされるわけですが)、それは貨幣商品になり、そして金がそうした地位についた瞬間から、はじめて形態IV(つまり貨幣形態)は、形態III(一般的価値形態)から区別されるのです。言いかえると、一般的価値形態が貨幣形態に転化するのです。

 学習会では、ここでは金が一般的等価物の地位を独占することを、一般的価値形態と貨幣形態とを区別するメルクマールとしているのですが、果たして歴史的もそういうことがいえるのだろうか、ということが疑問として出されました。というのは古代ローマでは、金ではなく、銅が貨幣(鋳貨)であったとマルクス自身も語っていますし、マルクスが生きていた時代においても、大陸諸国では、例えば一大商業都市であったアムステルダムなどでは銀が貨幣だったからです。また日本の江戸時代では、大阪では銀が、江戸では金がそれぞれ貨幣として流通していたとも言われています。つまり歴史的には貨幣は銅や銀、そして金へと貴金属のなかでも変遷して来たといえるのではないだろうかというわけです。だから、もしそういうことなら、このパラグラフのように、金が一般的等価形態の地位を独占して、初めてそれは貨幣形態と言いうるのだというようにいうと、まだ銅や銀が一般的等価形態であった時代や地域では、そうしたものは、いまだ貨幣形態とはいえないものだったのかという疑問が生じてくる、というわけです。
 そして「第2章 交換過程」では、次のようにも述べられている、との指摘もありました。

 〈商品交換がそのもっぱら局地的な束縛を打破し、したがって商品価値が人間労働一般の物質化にまで拡大していくのと同じ割合で、貨幣形態は、一般的等価という社会的機能に生まれながらにして適している商品に、すなわち貴金属に、移っていく。〉(全集版119頁)

 つまりここでは、貨幣形態そのものが、貴金属に移っていくと述べられており、ということは貴金属以前のものも貨幣形態であったかに述べられているわけです。また「金銀は生まれながらにして貨幣ではないが、貨幣は生まれながらにして金銀である」と『経済学批判』の一文が紹介されているように、ここでは貨幣形態として「金銀」という形で金と銀が一緒に語られているとの指摘もありました。しかし、この問題は疑問として出されただけで、それ以上の議論にはならずに終わりました。

◎一般的な相対的価値形態の価格形態への転化

 次は第3パラグラフです。

【3】〈(イ)すでに貨幣商品として機能している商品たとえば金による、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態である。(ロ)だから、リンネルの「価格形態」は、
  20エレのリンネル=2オンスの金
であり、あるいは、二ポンド・スターリングが二オンスの金の鋳貨名であれば、
  20エレのリンネル=2ポンド・スターリング
である。〉

 (イ)(ロ)すでに貨幣商品として機能している商品、例えば金による、一商品、例えばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態です。だからそれは次のように表されます。
 20エレのリンネル=2オンスの金
 あるいは、2ポンド・スターリングが2オンスの金の鋳貨名であれば、
 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング
がリンネルの価格形態となるわけです。

 ここでは、そもそも価格形態と貨幣形態とは何が違うのか、両者はどのように区別されるのか、が問題になりました。ピースさんは、次のように説明してくれました。

 〈一般的価値形態の貨幣形態への転化〉と言われるように(第2パラグラフ)、貨幣形態は一般的価値形態に対応している。
 それに対して〈一般的な相対的価値形態の価格形態への転化〉と言われるように、価格形態は一般的相対的価値形態に対応しているのではないか、というわけです。
 だから価格形態は一般的な相対的価値形態にある商品、例えばリンネルに対して言われているのに対して、貨幣形態の場合は、相対的価値形態と等価形態との全体を含めた価値形態の一つとして、単純な価値形態(形態 I )、展開された価値形態(形態II)、さらには一般的価値形態(形態III)に対応するもの(形態IV)として言われているというわけです。
 同じように、一般的等価形態(あるいは一般的等価物)は、貨幣(貨幣商品)になるということができるかも知れません。

◎単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である

 最後の第4パラグラフです。

【4】〈(イ)貨幣形態の概念把握における困難は、一般的等価形態、したがって一般的価値形態一般、形態Ⅲに限定される。(ロ)形態Ⅲは、もとにさかのぼれば形態Ⅱ、すなわち展開された価値形態に帰着し、そして、この形態Ⅱの構成要素は形態Ⅰ、すなわち、20エレのリンネル=1着の上着 または x量の商品A=y量の商品B である。(ハ)だから、単純な商品形態は貨幣形態の萌芽である。〉

 (イ)貨幣形態を概念的に把握する困難は、一般的等価形態、だから一般的価値形態そのものの理解に限られています。

 (ロ)しかし一般的価値形態の理解は、そもそももとに遡れば、形態II(展開された価値形態)の理解に帰着し、そしてその理解はさらにはそれの構成要素でもある形態 I (単純な価値形態)の理解に帰着するのです。つまり 20エレのリンネル=1着の上着 または x量の商品A=y量の商品B という単純な価値形態の理解こそが、すべての出発点であり、その概念的な理解こそが重要であるということです。

 (ハ)だから、単純な商品形態は貨幣形態の萌芽だといえるわけです。

 まずここでは最初に単純な価値形態ではなく、〈単純な商品形態〉と言われているが、これはどうしてなんだろうか、ということが疑問として出されました。これに対しては、〈4 簡単な価値形態の全体〉において、次のような指摘があったことが紹介されました。

 〈労働生産物は、どのような社会状態においても使用対象であるが、労働生産物を商品に転化するのは、ただ、使用物の生産において支出された労働を、その使用物の「対象的」属性として、すなわちその使用物の価値として、表す歴史的に規定された一つの発展の時期だけである。それゆえ、こうなる--商品の単純な価値形態は、同時に労働生産物の単純な商品形態であり、したがってまた、商品形態の発展は価値形態の発展と一致する、と。〉(全集版83頁)

 だからここで〈単純な商品形態〉と言われているのは、商品形態の未発達の状態を意味しているのではないか、そしてそれは単純な価値形態でもあったということではないか、ということになりました。

 次に問題になったのは、最初に出てくる〈貨幣形態の概念把握における困難〉というように、どうして〈概念的把握における困難〉が問題にされているのか、ということでした。というのは、初版付録では、この部分は次のようになっているからです。

 〈(3)単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である

 要するに、本来の貨幣形態は、それ自体としては、全くなんらの困難をも呈していない。一般的な等価形態がひとたび看破されてしまうと、この等価形態が金という独自の商品種類に固着するということを理解するには、いささかも苦慮する必要がないのであって、このことは、一般的な等価形態は、本来、ある特定の商品種類が他のすべての商品によって社会的に排除されることを条件としている、ということを理解するのに苦慮する必要がない、のと同じである。問題になるのは、こういった排除が、客観的社会的一貫性一般的妥当性とを獲得し、したがって、いろいろな商品にかわるがわる付着するのでもないし、商品世界のたんに特殊な範囲内でたんに局地的な射程をもっているだけでもない、ということだけである。貨幣形態の概念上の困難は、一般的な等価形態の理解に、したがって、形態IIIという一般的な価値形態一般の理解に、かぎられている。ところが、形態IIIは、反射的に形態IIに解消し、そして、形態IIの構成要素は、形態 I 、すなわち 20エレのリンネル1着の上着 または、x量の商品Ay量の商品B なのである。そこで、使用価値と交換価値がなんであるかを知れば、この形態 I は、たとえばリンネルのような任意の労働生産物を、商品として、すなわち、使用価値と交換価値という対立物の統一として、表示するところの、最も単純で最も未発展な仕方である、ということがわかる。そうなると、同時に、単純な商品形態である 20エレのリンネル1着の上着 が、この形態の完成した姿態である 20エレのリンネル2ポンド・スターリング すなわち貨幣形態を獲得するために通過しなければならないところの、諸変態の系列も、容易に見いだされることになる。〉(906-7頁)

 つまりこの初版付録と較べてみると、現行版は初版付録についていた前半部分がカットされているように思えます。しかし初版付録の展開をみると、途中かから言われている〈貨幣形態の概念上の困難は〉云々という文言は、明らかに、最初の〈要するに、本来の貨幣形態は、それ自体としては、全くなんらの困難をも呈していない〉に対比した形で言われているように読めます。初版本文の最初で言われていることは、要するに、一般的価値形態から貨幣形態への移行というのは何の困難もなく理解できるということのようです。ただ問題になるのは、それが客観的・社会的一貫性と一般的妥当性を獲得し、もはやアチコチに付着することもなく、局地的なものではなくなるということだということのようです。そして、それに対して〈貨幣形態の概念上の困難〉が対比されているように思えます。
 この問題については、ピースさんから、それに関連するのではないかと、久留間鮫造氏が問題にした〈第2章 交換過程〉の最後の方にある次の一文が指摘されました。

 〈すでに一七世紀の最後の数十年間には、貨幣分析のずっと踏み越えた端緒がなされていて、貨幣が商品であるということが知られていたけれども、それはやはり端緒にすぎなかった。困難は、貨幣が商品であることを理解する点にあるのではなく、どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する点にある。〉(全集版123頁)

 つまり貨幣形態を概念的に捉えるというのは、ここでマルクスが言っている〈どのようにして、なぜ、何によって、商品が貨幣であるのかを理解する〉ということではないか、というわけです。〈商品が貨幣である〉というのをどのように理解するのかはなかなか難しいのですが、どうして商品には価格形態がついているのか、つまりどうして商品には値札がついているのかを商品の価値の概念から出発して、展開して説明することは困難なのだとマルクスは言っているのではないでしょうか。マルクスは第3節の前文のところでも、次のように述べていました。

 〈だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。〉(全集版65頁)

 まさに〈貨幣形態の概念把握における困難〉というのは、これまでの展開でマルクスが試みた〈ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること〉の困難だといえると思います。

 なおこれは学習会では指摘されなかったのですが、フランス語版のこのパラグラフは極めて簡略化されており、その代わりにそれに付けられた注25ではかなり詳しい説明がなされています。そこでは〈古典派経済学はいまだかつて、商品、特に商品の価値の分析から、商品が交換価値になる形態を演繹することに成功したためしがなく、これがこの経済学の主要な欠陥の一つである〉云々とあります。しかし詳しくは付属資料を参照してください。

(以下、「その2」に続きます。)

 

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第32回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2011-03-01 23:06:54 | 『資本論』

第32回「『資本論』を読む会」の報告(その2)


◎「第3節 価値形態または交換価値」の位置

 さて、今回で〈第3節 価値形態または交換価値〉が終わったのですが、そもそもこの第3節は第1章のなかでどういう位置と役割を持っているのかも最後に問題になりました。そしてこうした第1章の各節や第2章、第3章のそれぞれの役割や意義について、最初に問題にして、自身の理解を明らかにし、その後、その見解が多くの人たちにも受け入れられ、また最近になって批判されもしているという点で大きな影響を与えたものとして、久留間鮫造著『価値形態論と交換過程論』が話題になりました。そこで、ここでは、この久留間氏の著書を取り上げるなかでこの問題を考えてみたいと思います。

 久留間氏は次のように自身の問題意識を紹介することから始めています。

 〈「資本論」の最初の部分の構成を見てみると、第一章が「商品」で、これが四つの節に分れている。第一節が「商品の二つの要因、使用価値および価値」、第二節が「商品で表示される労働の二重性格」、第三節が「価値形態または交換価値」、第四節が「商品の物神的性格とその秘密」。それから章がかわって、第二章が「交換過程」、その次の第三章が「貨幣または商品流通」となっている。この構成を見てみるといろいろな疑問が起きてくる。貨幣という言葉は、表題では、第三章の「貨幣または商品流通」のところにはじめてあらわれてくる、これがいわゆる貨幣論にあたるものと考えられる。しかし内容をみると、その前にすでに貨幣に関するさまざまな議論が展開されている。第一は価値形態論、第二は物神性論、第三は交換過程論で、すべて貨幣が出てくる。いったいこれらは、第三章の貨幣論に対してどういう関係に立つのか。こういう疑問が当然おきてくる。第三章の貨幣論は本格的な貨幣論で、それ以前のものは序論的なものだと考えるのが当然のように思われるが、それではいったい、序論といい本論といい、その間にどういう本質的な区別があるのか、これがはっきりしないと具合がわるい。それから第二には、この第三章以前の貨幣に関する議論は序論的なものだとして、この今あげた三つのもの、すなわち価値形態論と物神性論と交換過程論、これらは序論としてそれぞれどういう特殊な意味をもっているのか。これがまた疑問のたねになる。そしてこれがわからぬとやはり具合がわるい。それから第三には、序論にあたると考えられる以上の三論のうちで、価値形態論と物神性論とは、「資本論」の現行版でいうと、第一章「商品」のうちのそれぞれ一つの節をなしているのに対して、交換過程論は、この商品論の全体とならぶ位置を与えられて、第二章になっている。しかも、頁数を見てみると、いまあげた第一章のどの一節よりもはるかに少いのである。にもかかわらず、それらの全部をふくむ第一章と対等な地位を与えられている。これはいったいどういうわけなのか。これがまた擬問のたねになる。こういういろいろな疑問が、「資本論」の最初の部分の構成を徹底的に理解しようとするならば、きっとおきてくるにちがいない。少くともわたくしのばあいにはそうであった。〉(1-2頁)

 この久留間氏の問題意識をみて最初に気付くのは、氏が問題にしているのは、第1篇の内容であるのに、そもそも第1篇の「商品と貨幣」という表題には注意が及んでいないことです。だから氏の問題意識は、第3章の「いわゆる貨幣論」から始まっており、この貨幣論の本論ともいうべき第3章と、その前で貨幣について論じている序論というべき部分(第1章第3節、同第4節、第2章)との関係はどうか、それは貨幣論の本論に対してどんな意義があるのかという問題意識しかないということです。

 しかし第1篇の表題が「商品と貨幣」であることを考えるなら、マルクス自身は、この第1篇では、まず「商品」を考察し、その上で「貨幣」を考察していると捉えなければなりません。貨幣が中心にあるわけではないのです。もちろん、貨幣とは何かを明らかにするためには、まず商品が明らかにされなければならないわけですが、しかし貨幣を明らかにするのは、資本を明らかにするためでもあり、決して、貨幣が事の中心にあるわけではないのです。まず商品とは何かが解明されて、初めて貨幣とは何かも明らかになり、貨幣の諸機能と諸法則が解明されるわけです。そして第2篇の「貨幣の資本への転化」へと繋がっていると捉える必要があるわけです。

 だからそもそもの久留間氏の問題意識そのものに問題があると言わなければならないのです。最初からこうしたやや偏った問題意識から出発しているが故に、その解決も必ずしも正しいものにならなかった、とわれわれは結論せざるをえません。

 氏は上記の引用では、三つの問題を提起していますが、それらはすべて、この氏の最初の間違った問題意識と関連しており、そうした間違った意識そのものによって生じてきている問題でもあるということです。それぞれについて少し検討してみましょう。

 まず久留間氏の最初の問題意識は、「価値形態論」(第1章第3節)と「物神性論」(同第4節)と「交換過程論」(第2章)では、すべて貨幣が出てくるが、これらは第3章の貨幣論に対してどういう関係に立つのか、〈第三章の貨幣論は本格的な貨幣論で、それ以前のものは序論的なものだと考えるのが当然のように思われるが、それではいったい、序論といい本論といい、その間にどういう本質的な区別があるのか、これがはっきりしないと具合がわるい〉というものです。すでに述べたように、第1章第3節や同第4節、第2章は、決して第3章の「序論」といった性格のものではありません。われわれは、『資本論』の展開に則して、素直にみて行くべきです。すなわち、それは次のようになっています。

 まず「第1篇 商品と貨幣」は「第1章 商品」と「第2章 交換過程」、「第3章 貨幣または商品流通」からなっています。この構成をみれば、第1章では商品とは何かが解明され、第3章では貨幣の諸機能と商品流通における諸法則が解明されることが明らかになり、第2章は、第1章と第3章を媒介する章であることが分かるのです。これが問題の正しい捉え方なのです。

 だから次の久留間氏の第二の問題意識も同じことが言えます。つまりそれは久留間氏が貨幣論の序論として位置づけた〈すなわち価値形態論と物神性論と交換過程論、これらは序論としてそれぞれどういう特殊な意味をもっているのか。これがまた疑問のたねになる。そしてこれがわからぬとやはり具合がわるい〉というものです。しかしこれらは第1章第3節、同第4節、第2章なのです。だからこの三つを、ただ貨幣が出てくるというだけで貨幣論の序論として位置づけることそのものがおかしいわけです。少なくとも「価値形態論」と「物神性論」は「第1章 商品」のそれぞれ第3節と第4節をなしており、だからそれらは「商品とは何か」を解明している第1章の、いわば「商品論」の一部である、という認識が必要なのです。それが十分意識されていないことが久留間氏の問題意識の決定的な誤りと言えるでしょう。今述べたことは、だから久留間氏の第三の問題意識にも直接関連しています。だから第三の問題意識もついでにみておくことにします。それは次のようなものです。

 第三の問題意識は、〈序論にあたると考えられる以上の三論のうちで、価値形態論と物神性論とは、「資本論」の現行版でいうと、第一章「商品」のうちのそれぞれ一つの節をなしているのに対して、交換過程論は、この商品論の全体とならぶ位置を与えられて、第二章になっている。しかも、頁数を見てみると、いまあげた第一章のどの一節よりもはるかに少いのである。にもかかわらず、それらの全部をふくむ第一章と対等な地位を与えられている。これはいったいどういうわけなのか。これがまた擬問のたねになる〉というものです。しかし第2章が第1章と第3章を媒介する章であるとの位置づけが分かれば、それが短いのに一つの章として第1章と第3章と対等の位置に置かれているという理由も分かると思います。それは例えば第2篇には、一つの章しかなく、しかも分量としては短いものであるのに、第1篇や第3篇と対等の位置にどうして位置づけられているのかという理由と同じ理由なのです。第2篇の表題は「貨幣の資本への転化」ですが、これはまさに第1篇と第3篇を媒介する篇であることをその表題そのものが示しているといえるでしょう。だから同じような位置づけで考えるなら、「第2章 交換過程」は、内容からいえば、いわば「商品の貨幣への転化」とでも言えるような位置にあると考えられるわけです。

 そこで今問題になっている。第3節の第1章全体における位置とその役割はどういうものと考えるべきか、についてですが、まず久留間氏の問題意識が、その点でもやはりおかしい点を指摘しておかなければなりません。氏は次のように述べています。

 〈特に価値形態論と交換過程論との関係、これが、三十四五年前に「資本論」を読みはじめてから間もない頃から、ずいぶん長いあいだわたくしを苦しめた。どちらを読んでみても、貨幣がどのようにしてできるかについて論じているように思われる。ところがその論じかたを見てみると、全くちがっている。そのちがいは、本質的にはどういう点にあるのか。これがなかなかわからない。そしてそれに関連して、前にも述べたように、価値形態論の方は第一章の商品論のうちの第三節になっているが、交換過程論の方は独立した第二章になっている。これもいったいどういうわけなのかということ、これまた長いあいだ疑問のたねであった。〉(2頁)

 やはり久留間氏の問題意識そのものが間違っているのです。と言うのは、氏は第3節と第2章との関係を直接問うているのですが(そしてこの問いは、この著書の表題『価値形態論と交換過程論』そのものになっていることをみても久留間氏にとっては重要な問題意識だったことか分かります)、しかし、関係を問題にするのなら、いきなり第1章第3節と第2章とではなく、まず第3節の第1章のなかでの位置を明確にした上で、次に第1章と第2章との関係を問うべきではないでしょうか。そうすれば自ずから、第1章第3節と第2章との関係も明らかになるはずなのです。

 では第3節は第1章でどういう位置と役割を持っているのでしょうか。

 第1章の表題は「商品」です。つまり商品とは何かを明らかにすることが課題になっています。しかし第1章の冒頭パラグラフでは、マルクスは「第1部 資本の生産過程」が「第1篇 商品と貨幣」の考察から始まり、さらにそれは「第1章 商品」の考察から始めなければならない理由を述べています。

 そして商品をそのありのままの姿で観察して、それがまず使用価値として存在すること、しかしそれが商品である限りは、同時に交換価値でもあることを指摘して、交換価値の考察に移り、交換価値をさしあたりは一つの種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係としてとらえます。つまり諸商品の交換関係という現象から考察を始めているのです。そしてマルクスはそこからその交換関係に内在する商品の価値を摘出し、価値の概念を与え、さらに使用価値と価値という二重物である商品に表される労働の二重性の考察まで深めたあと(第2節)、もう一度、商品の交換価値という現象形態に帰ってくるのです。それがすなわち第3節でした。第1節で価値の概念を明らかにしたところでも、次のように述べていました。

 〈研究の進行は、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値にわれわれをつれ戻すであろうが、やはり、価値は、さしあたり、この形態から独立に考察されなければならない。〉(全集版53頁)

 だから第3節はわれわれが第1章の冒頭で商品をそのまま観察した現象の背後にある本質的なもの(価値)を取り出して考察したあとで、その現象形態(交換価値)に再び帰ったものなのです。つまり現象の背後にある本質的な関係を考察したあと、再びその本質から最初の現象形態を展開して説明するのが第3節の課題であると言えるでしょう。つまり価値の概念からその現象形態(価値形態)を展開して説明することです。

 第3節の課題については、その冒頭の前文ともいうべきところで、次のように述べています。

 〈商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である。けれども、商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない。だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである。〉(全集版64頁)

 このようにマルクスはまず〈商品は、使用価値または商品体の形態で、鉄、リンネル、小麦などとして、この世に生まれてくる。これが商品のありふれた現物形態である〉と商品のもっとも最初の現象に帰っています。つまり商品がわれれわれの目に写るありふれた姿をそれ自体としてとらえているわけです。これは第1節の冒頭で商品をまず使用価値としてとらえていたのと同じです。そして同時に〈商品が商品であるのは、それが二重のものであり、使用対象であると同時に価値の担い手であるからにほかならない〉と指摘するのです。〈だから、商品は、現物形態と価値形態という二重形態をもつ限りでのみ、商品として現れ、言いかえれば、商品という形態をとるのである〉というのが大変重要なのです。つまりわれわれが商品をみて、これは商品だと分かるのは、商品が現物形態(これは鉄、リンネル、小麦という物的姿そのものです)と同時に価値形態という二重形態を持たねばならないと述べています。「価値形態」というのは、価値が形あるものとして目に見えるものとして現われているということです。だから商品が商品という形態、つまりその姿そのもので商品であることが分かるようなものになるためには、その物的形態だけではなく、商品に内在する価値も、何らかの形あるものとして直接的なものとして現われていなければならないのだ、とマルクスは述べているわけです。ではその価値形態というのはどういうものなのか、それが問題です。それについては、マルクスは次のように述べています。

 〈だれでも、ほかのことは何も知らなくても、諸商品がそれらの使用価値の種々雑多な現物形態とはきわめて著しい対照をなす共通の価値形態をもっているということは知っている。すなわち、貨幣形態である。〉(65頁)

 つまりわれわれが商品の価値形態として、そのありふれた姿として見えているのは、貨幣形態だとマルクスは述べています。そしてすでに貨幣形態まで学んだわわれは、マルクスがここで述べている「貨幣形態」というのは「価格形態」であることを知っています。つまり商品はその物的形態と同時に価格形態、すなわち「値札」をつけているというのが、われわれが商品を店頭でみるもっともありふれた姿なのです。だから例え商品であっても、それにもし値札が付いていないとそれが商品であるのか、すなわち売り物であるのか、それともその商店が自分で使っているものなのかは分かりません。値札がついていて、「ああ、これは商品だな」と分かるわけです。だから値札こそ、商品の価値形態であり、その発展したもの、すなわち貨幣形態なのです。だから第3節の課題は、商品とは何かを解明するために、商品にはどうして値札が付いているのかを説明することなのです。そしてそのためには貨幣形態を説明しなければならず、どうして商品は貨幣形態を持つのかを説明しなければならなかったわけです。だからマルクスは次のように述べているのです。

 〈しかし、今ここでなしとげなければならないことは、ブルジョア経済学によって決して試みられることもなかったこと、すなわち貨幣形態の発生を立証すること、すなわち、諸商品の価値関係に含まれている価値表現の発展を、そのもっとも単純なもっとも目立たない姿態から目をくらませる貨幣形態にいたるまで追跡することである。それによって、同時に、貨幣の謎も消えうせる。〉(65頁)

 だからこの第3節は確かに貨幣に言及し、貨幣形態の発生を立証しているわけですが、しかし、それはあくまでも商品とは何か(それが第1章の課題です)を明らかにする一環としてそうしているのだということ、商品とは何かを明らかにするために、商品にはどうして値札が付いているのかを説明するためのものだという理解が重要なのです。同じように貨幣の発生を説明しているように見える第2章が、第1章の商品論を前提にして、商品がその現実の交換過程において、如何にして貨幣へと転化するのかを解明するものであり、それによって第1章と第3章とを媒介するものであるという、その役割や位置づけにおける相違も分かってくるのです。

 だから第3節を最後まで考察し終えたわれわれは、すでに商品とは何かがそれによって掴むことができたことになります。しかし、それでは第4節はどういう意義を持っているのでしょうか。これは次回以降の学習の対象であり、次回以降の課題になりますが、久留間氏の諸説を検討したついでに、少し先回りして簡単に論じておきましょう。

 確かに第3節までで商品とは何かは明らかになったのですが、しかしそれだけでは商品の何たるかが十全に解明されたとは言えないのです。というのは商品というのは、歴史的にはどういう性格のものなのかがまだとらえられていないからです。資本主義的生産様式は歴史的な一つの生産様式です。だから資本主義的生産様式とそれに照応する生産諸関係や交易諸関係というものも、やはり歴史的な存在であるわけです。だから資本主義的生産様式を構成するさまざまな諸契機もやはりそれぞれが、やはり歴史的な存在なのです。つまりそれらも歴史的に形成されてきたものであり、それぞれがそれぞれの歴史を持っており、それぞれがそれぞれの生成や発展、消滅の過程を辿っているものなのです。だから商品の何たるかを十全に把握するためには、それを歴史的なものとしてとらえる必要があるわけです。そしてその課題を解決しているのが、すなわち第4節なのです。

 そして第1章として「商品」が解明されたあと、諸商品の実際の交換過程のなかから、如何にして貨幣が生まれてくるのかを説明するのが、第2章の課題であり、それを踏まえて貨幣の諸機能や商品流通における諸法則を解明するのが、第3章の課題である、ということができるのです。極めて簡略ですが、久留間氏の問題意識に答えるものとして、このように説明しておきましょう(久留間氏の著書を批判的に検討するのは、それはそれで別の課題であり、ここでの課題ではありません)。

(付属資料は「その3」に続きます。)

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第32回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

2011-03-01 22:21:25 | 『資本論』

第32回「『資本論』を読む会」の報告(その3)

【付属資料】

●【Dの表題】

《初版付録》

 〈IV 貨幣形態〉(905頁)

《フランス語版》

 〈(貨幣形態《Forme monnaie ou argent(24)》

(24)“Geld,Geldform”というドイツ語の正確な翻訳は困難である。“forme argent”という表現は、貴金属を除いてすべての商品に無差別に適用できる。人はたとえば、読者の頭を混乱させずに、“forme argent de I'argent”とか“I'or devient argent”などとは言えないであろう〔フランス語の“”は、「貨幣」という意味と「銀」という意味をもっているから〕。さて、“forme monnaie”という表現は、“monnaie”という語がフランス語では鋳造された貨幣片の意味でしばしば用いられることから生じるところの、別の不都合を示している。われわれは状況に応じて、といっても、いつも同じ意味で、“forme monnaie”と“forme argent ”との両語を交互に使用することにする〔両語とも本書では「貨幣形態」と訳すことにする〕。〉(43-4頁)

●【貨幣形態の図示】

《初版付録》

 〈 20エレのリンネル  =
   1着の上着       =
   10ポンドの茶     =
   40ポンドのコーヒー = 2オンスの金
   1クォーターの小麦  =
   1/2トンの鉄     =
   x量の商品A      =
   その他の商品     =      〉

《フランス語版》

 〈 20メートルリンネル  =
    1着の上衣        =
    10ポンドの茶      =
    40ポンドのコーヒー  =  2オンスの金
    1/2トンの鉄      =
    x量の商品A       =
      その他                 =       〉(44頁)

●【1】パラグラフ

《初版付録》

 初版付録には、「IV 貨幣形態」には三つの小項目がある。すなわち

 〈(1)一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差異。〉
 〈(2)一般的な相対的価値形態の価格形態への転化。〉
 〈(3)単純な商品形態は、貨幣形態の秘密である。〉

 ここでは、まず項目(1)の内容を紹介する。

 〈(1)一般的な価値形態から貨幣形態への移行と、それ以前の発展移行との差異

 本質的な変化は、形態 I から形態IIへの移行、形態IIから形態IIIへの移行にさいして、生じている。これに反して、形態IVは形態IIIとは、いまではリンネルに代わって金が一般的な等価形態をもっているということを除くと、なんらの差異もない。金は、形態IVでは、リンネルが形態IIIでそうであったもの--一般的な等価物である。進歩があるのは、直接的な一般的交換可能性という形態あるいは一般的な等価形態が、いまでは、社会的な慣習にのっとって、商品体独自な現物形態最終的に癒着している、という点だけである。〉(905頁)

《フランス語版》

 〈本質的な変化は、形態 I から形態IIへの移行、形態IIから形態IIIへの移行において生ずる。これに反して、形態IVは、いまでは金がリンネルにかわって一般的等価形態をもつようになったことを除けば、形態IIIと全然ちがわない。進歩はただたんに、直接的、普遍的な交換可能性の形態、すなわち一般的等価形態が、金という独自な自然形態のうちに終局的に体現された、ということにある。〉(44頁)

●【2】パラグラフ

《初版付録》

 以下も項目(1)である。

 〈が他の諸商品に貨幣として相対しているのは、金がこれらの商品にたいしてすでにあらかじめ商品として相対していたからにほかならない。金もまた、他のすべての商品と同じに、個々別々の交換行為における単一の等価物としてであろうと、他の商品等価物と並んで特殊的な等価物としてであろうと、等価物として機能していたのである。だんだんに、金は、もっと狭いかもっと広い範囲のなかで、一般的な等価物として機能するようになった。金が商品世界の価値表現においてこの地位の独占をかちとってしまうと、金が貨幣商品になる。そして、金がすでに貨幣商品になってしまった瞬間から、初めて、形態IVが形態IIIと区別されることになる。すなわち、一般的な価値形態貨幣形態に転化する。〉(905-6頁)

《フランス語版》

 〈金が他の商品にたいして貨幣の役割を演じるのは、金がすでに以前から他の商品にたいして商品の役割を演じていたからにほかならない。他のすべての商品と同じように金もまた、孤立的交換において偶然的にであろうと、他の等価物とならんで特殊な等価物としてであろうと、等価物として機能してきた。金は広狭さまざまな限度内で、しだいに一般的等価物として機能したのだ。金は、商品世界の価値表現においてこういった地位の独占を勝ちとるやいなや、貨幣商品になったのであり、金がもはや貨幣商品になったその時にはじめて、形態IVが形態IIIから区別される、すなわち、一般的価値形態が貨幣形態に変態する。〉(44-5頁)

●【3】パラグラフ

《初版付録》

 次から小項目の(2)である。

 〈(2)一般的な相対的価値形態の価格形態への転化

 すでに貨幣商品として機能している商品での、たとえば金での、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現が、価格形態なのである。だから、リンネルの価格形態は
 20エレのリンネル2オンスの金
であり、または、二ポンド・スターリングが二オンスの金の鋳貨名であれば、
  20エレのリンネル2ポンド・スターリング
である。〉(906頁)

《フランス語版》

 〈たとえばリンネルという一商品の、すでに貨幣として機能している商品たとえば金においての、単純な相対的価値表現が、価格形態になる。したがって、リンネルの価格形態は、
  20メートルのリンネル2オンスの金
あるいは、2ポンド・スターリングが2オンスの金の鋳貨名であれば、
  20メールのリンネル2ポンド・スターリング
になる。〉(45頁)

●【4】パラグラフ

《初版付録》

 次は小項目(3)である。

 〈(3)単純な商品形態は、貨瞥形態の秘密である

 要するに、本来の貨幣形態は、それ自体としては、全くなんらの困難をも呈していない。一般的な等価形態がひとたび看破されてしまうと、この等価形態が金という独自の商品種類に固着するということを理解するには、いささかも苦慮する必要がないのであって、このことは、一般的な等価形態は、本来、ある特定の商品種類が他のすべての商品によって社会的に排除されることを条件としている、ということを理解するのに苦慮する必要がない、のと同じである。問題になるのは、こういった排除が、客観的社会的一貫性一般的妥当性とを獲得し、したがって、いろいろな商品にかわるがわる付着するのでもないし、商品世界のたんに特殊な範囲内でたんに局地的な射程をもっているだけでもない、ということだけである。貨幣形態の概念上の困難は、一般的な等価形態の理解に、したがって、形態IIIという一般的な価値形態一般の理解に、かぎられている。ところが、形態IIIは、反射的に形態IIに解消し、そして、形態IIの構成要素は、形態 I 、すなわち 20エレのリンネル1着の上着 または、x量の商品Ay量の商品B なのである。そこで、使用価値と交換価値がなんであるかを知れば、この形態 I は、たとえばリンネルのような任意の労働生産物を、商品として、すなわち、使用価値と交換価値という対立物の統一として、表示するところの、最も単純で最も未発展な仕方である、ということがわかる。そうなると、同時に、単純な商品形態である 20エレのリンネル1着の上着 が、この形態の完成した姿態である 20エレのリンネル2ポンド・スターリング すなわち貨幣形態を獲得するために通過しなければならないところの、諸変態の系列も、容易に見いだされることになる。〉(906-7頁)

《フランス語版》

 〈したがって、単純な商品形態は貨幣形態の胚種である(25)。

 (25)古典派経済学はいまだかつて、商品、特に商品の価値の分析から、商品が交換価値になる形態を演繹することに成功したためしがなく、これがこの経済学の主要な欠陥の一つである。まさにアダム・スミスやリカードのような古典派経済学の最良の代表者は、価値形態を、商品そのものの本性には無関心なあるもの、すなわち、この本性とはどんな内的関係もないあるもの、として論じている。それは、量としての価値が彼らの注意をひいたためばかりではない。その理田はもっと深いところにある。労働生産物の価値形態は、現在の生産様式の最も抽象的な、最も一般的な形態であって、それゆえに歴史的な性格を、特殊な社会的生産様式という性格を獲得しているのである。これを、あらゆる社会におけるあらゆる生産の自然約な永遠の形態と取りちがえる、という誤りをおかすならば、価値形態、次いで商品形態、また、さらに発達した段階では貨幣形態、資本形態等の独自な側面を、必ず見失ってしまう。労働時間による価値量の測定については完全に意見がお互いに一致している経済学者たちのあいだで、貨幣、すなわち、一般的等価物の固定した形態については、この上もなく多種多様でこの上もなく矛盾しあった考えが見出されるのも、このためである。たとえば銀行問題のような問題が姐上にのぼるやいなや、われわれはこのことに特に気がつくものだ。そのばあいになると、貨幣の定義やこの定義について絶えず言いふらされてきた常套旬とは、もはや縁が切れなくなる。私はきっぱりと指摘するが、私が古典派経済学と言うのは、俗流経済学とは反対に、ウィリアム・ペティ以降、ブルジョア社会における生産関係の現実的で内的な総体を洞察しょうと努める、すべての経済学のことである。俗流経済学は、外観に満足し、自分自身の必要のために、また、この上なく大ざっぱな現象の俗流化のために、先行者たちによってすでに丹念に作りあげられた諸材料を絶えず反芻し、ブルジョアが自分に属する世界すなわち可能なかぎりすばらしい世界に好んで繁殖させる幻想を、衒学的に体系にまで昇格させ、これを永遠の真理である、と宣言するにとどまっている。〉(45-6頁)

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