『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第33回「『資本論』を読む会」の報告(その2)

2011-03-26 19:02:48 | 『資本論』

第33回「『資本論』を読む会」の報告(その2)


◎商品の神秘的性格は価値規定の内容からも生じるのではない

 次は第2パラグラフです。

【2】〈(イ)したがって、商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではない。(ロ)それはまた、価値規定の内容から生じるのでもない。(ハ)と言うのは、第一に、有用労働または生産的活動がたがいにどんなに異なっていても、それらが人間的有機体の諸機能であること、そして、そのような機能は、その内容やその形態がどうであろうと、どれも、本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるということは、一つの生理学的真理だからである。(ニ)第二に、価値の大きさの規定の基礎にあるもの、すなわち、右のような支出の継続時間または労働の量について言えば、この量は労働の質から感覚的にも区別されうるものである。(ホ)どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった(26)。(ヘ)最後に、人間が何らかの様式でたがいのために労働するようになるやいなや、彼らの労働もまた一つの社会的形態を受け取る。〉

 (イ)だから商品の神秘的性格は、商品の使用価値から生じるのではありません。

 (ロ)では、それは商品の価値から生じているのでしょうか。しかしまた、商品の価値規定の内容を見る限りでは、そこから生じているともいえないのです。

 (ハ)というのは、商品の価値規定の内容というのは、第一に、その価値の実体としての抽象的人間労働が対象化されて凝固しているということです。しかし有用労働が、あるいは生産的な活動がそれがどんなに互いに違っていたとしても、それらが人間労働であり、人間の有機的な身体の諸機能から出ているものだという点ではどんな違いもありませんし、またそれがどういう具体的な形態でなされるかに違いはあったとしても、それらはどれも本質的には人間の脳髄、神経、筋肉、感覚器官などの支出であるという点では同じであることは、生理学的真理であって、これ自体には何の神秘的な性格もないわけです。

 (ニ)(ホ)次に価値規定の内容として問題になるのは、価値の量的規定性です。すなわちその商品の生産に必要な社会的な労働時間ということです。しかしこの価値の大きさの規定の基礎にある、人間労働の支出の継続時間、あるいはその労働の量というのは、その質、つまり人間労働一般と区別される限りでは、何の神秘的な性格もありません。なぜなら、どんな社会においても、人間は、確かにそれがどういう発展段階かによっては色々と違ってはいますが、やはり生活手段を生産するために必要な労働時間というものには関心をもたざるを得ないわけだからです。つまり労働の継続時間そのものには何の神秘的なものもないといわざるを得ないのです。

 (ヘ)そして商品の価値というのは、商品の生産のために支出された労働が、その具体的な属性を捨象されて、抽象的人間労働に還元されることによって、他の諸商品に支出された労働との同一性を獲得し、そのことによってその労働が社会的なものであることを実証しているわけですが、しかし人間の労働が互いのために労働するようになるやいなや、彼らの労働が社会的な形態を受け取るということはあたりまえのことであり、彼の労働が社会的な形態を持っているということ自体には何の神秘的なものもないのです。

 ここでは〈価値規定の内容〉という言葉が出てきます。マルクスはこの内容を三つの部分からなると考えているようです。では、それは第1節のどういう内容に照応しているのでしょうか。

 (1)まず価値規定、つまり価値の規定というのは、次のような第一節の一文を指すのではないでしょうか。

 〈そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。
 諸商品の交換関係そのものにおいては、それらの物の交換価値は、それらの物の諸使用価値とはまったくかかわりのないものとして、われわれの前に現れた。そこで今、実際に労働諸生産物の使用価値を捨象すれば、今まさに規定された通りのそれらの価値が得られる。したがって、商品の交換関係または交換価値のうちにみずからを表している共通物とは、商品の価値である。
 したがって、ある使用価値または財が価値をもつのは、そのうちに抽象的人間労働が対象化または物質化されているからにほかならない。

 (2)次は量的な価値規定について、

 〈では、どのようにしてその価値の大きさははかられるのか? それに含まれている「価値を形成する実体」、すなわち労働の、量によってである。労働の量そのものは、その継続時間によってはかられ、労働時間はまた、時間、日などのような一定の時間部分を度量基準としてもっている。……
 したがって、ある使用価値の価値の大きさを規定するのは、社会的に必要な労働の量、または、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間にほかならない。

 (3)次は、価値を形成する労働の社会的性格についてです。

 〈商品を生産するためには、彼は、使用価値を生産するだけでなく、他人のための使用価値を、社会的使用価値を、生産しなければならない。
 〈したがって、われわれは次のことを見てきた--どの商品の使用価値にも一定の合目的的な生産的活動または有用労働が含まれている。諸使用価値は、質的に異なる有用労働がそれらに含まれていなければ、商品として相対することはできない。その生産物が一般的に商品という形態をとっている社会においては、すなわち商品生産者たちの社会においては、独立生産者たちの私事としてたがいに従属せずに営まれる有用労働のこうした質的相違が、一つの多岐的な体制に、すなわち社会的分業に、発展する。

 報告者のレジュメでは、以前、大阪でやっていた「『資本論』を学ぶ会」のニュースNo.23(1998/11/5)からの紹介がありました。だからそれも少し紹介しておきましょう。

 【ここではマルクスは「価値規定の内容」とは、労働を基礎とする人間のどんな社会にも妥当するような、もっとも基本的なものだと述べているように思えます。だからそれは資本主義以前の社会はもちろん、将来の社会、つまり社会主義、共産主義の社会においても存在するものだということでもあります。だからこうしたものには何の神秘的なものもないのだということだと思います。このようなマルクスの考えは、それ以外の文献でも色々と述べられています。今、その主なものを紹介しておきましょう。

 例えばマルクスは1868年7月11日付けの「クーゲルマンへの手紙」で次のように書いています。

 〈価値概念を証明する必要があるなどというおしゃべりは、当面の問題についての、さらにまた、この科学の方法についての完全な無知にもとづくものにほかならない。いかなる国民でも、一年間はおろか二、三週間でも労働を停止しようものなら、たちまちまいってしまうということは、どんな子どもでも知っている。また、種々の欲望の量に応じる諸生産物の量は、社会的総労働の種々のそして特定の分量を必要とするということもどんな子どもでも知っていることである。このように社会的労働を一定の割合で配分する必要は、社会的生産の一定の形態によってなくされるものではなくて、ただそのあらわれかたが変わるにすぎないことは自明である。自然法則をなくすことはけっしてできないことである。いろいろの歴史的状態につれて変化しうるのは、それらの法則が貫徹される形態だけである。そして、社会的労働の連関が個人的労働生産物の私的交換としてあらわれる社会状態においてこの労働の比例的配分が貫徹される形態がまさしくこれらの生産物の交換価値なのである。〉(国民文庫版87~9頁)

 (中略)つまりマルクスが「価値規定の内容」として述べていることは、いわばこの手紙でマルクスが「自然法則」として述べていることと同義であって、だから商品生産社会において「それらの法則が貫徹される形態」こそが、まさに「生産物の交換価値」であり、それが「労働生産物の謎的性格」をもたらすのだ、ということではないでしょうか。

 もう一つ紹介しましょう。「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」では次のような一文が見られます。

 〈さて、ロートベルトゥスが--私はあとでなぜ彼にこれがわからなかったのか、その理由を言おう--すすんで商品の交換価値を分析したとすれば、--交換価値は商品が複数で見いだされ、さまざまな商品種類が見いだされるところにだけ存在するのだから--彼はこの現象形態の背後に「価値」を発見したはずである。彼がさらにすすんで価値を調べたとすれば、彼はさらに、価値においては物、「使用価値」は人間労働のたんなる対象化、等一な人間労働力の支出と見なされ、したがってこの内容が物の対象的性格として、商品自身に物的にそなわった〔性格〕として表示されていること、もっともこの対象性は商品の現物形態には現れないということ〔そして、このことが特別な価値形態を必要にするのである〕、こういうことを発見したことであろう。つまり、商品の「価値」は、他のすべての歴史的社会形態にも別の形態でではあるが、同様に存在するもの、すなわち労働の社会的性格--労働が「社会的」労働力の支出として存在するかぎりでの--を、ただ歴史的に発展した一形態で表現するだけだということを発見したことであろう。このように商品の「価値」があらゆる社会形態に存在するものの特定の歴史的形態にすぎぬとすれば、商品の「使用価値」を特徴づける「社会的使用価値」もやはりそうである。〉(全集・376~7頁)

 こうしたマルクスの論述は、それ以外の諸文献でも見ることができます。ここで重要なのは、マルクスはこうした「価値規定の内容」は、確かにあらゆる社会に存在するものではあるが、しかしそれは「価値」がそうであるとは言っていないということです。むしろ「価値」はその「特定の歴史的形態にすぎない」と述べています。(以下略)】

 ところで、初版本文では、このパラグラフに続いて、現行版では12パラグラフに来るロビンソンの例と15パラグラフに来る共同社会の例の二つのパラグラフが続いています。つまりこの価値規定の内容には何の神秘的な性格はないということを説明する例として、ロビンソンの孤島での生活や将来の共同社会の例が展開されているのです。この現行版の二つのパラグラフは、当然、後に問題になるわけですが、初版本文の展開の意義を確認するために、若干先取りして、その内容を少しだけ検討しておきましょう。
 まずロビンソンの島の生活においては、〈ロビンソンと彼の自家製の富を形成している物とのあいだのいっさいの関係は、ここではきわめて簡単明快〉だと指摘しながら、〈それにもかかわらず、これらの関係のうちには、価値のすべての本質的な規定が含まれている〉とも述べられています。つまりそれらが価値規定の内容を意味することが示唆されているのです。
 また〈共同の生産手段を用いて労働し、自分たちのたくさんの個人的な労働力を意識的にさて、一つの社会的な労働力として支出するところの、自由な人々の団体〉については、〈ロビンソンの労働のあらゆる規定が繰り返されるが、このことは、個人的にではなく社会的にというにすぎない〉と指摘され、やはり〈人々が彼らの労働や彼らの労働生産物にたいしてもっている社会的な諸関係は、ここでは依然として、生産においても分配においても、透明で簡単である〉と述べられています。つまり先に「クーゲルマンへの手紙」「アードルフ・ヴァーグナー著『経済学教科書』への傍注」でも指摘されていましたが、それらはあらゆる社会に共通な内容をもったものであり、こうした関係には何の神秘的な性格もないと言うわけです。
 そして初版本文では、こうした二つのパラグラフによる価値規定の内容の具体的な例の検討を行ったあと、それを受けて、次のパラグラフで〈それでは、労働生産物が商品という形態をとるやいなや、労働生産物の謎めいた性格はどこから生ずるのか?〉と続いているのです(しかしその後の展開は現行版とは若干異なります。その検討は次回以降にしたいと思います)。

 次の注26については、ほとんど議論にはなりませんでしたが、まずその本文を紹介しておきましょう。

【注26】〈(26) 第2版への注。古代のゲルマン人のあいだでは、一モルゲンの土地〔Land〕の大きさは一日の労働によってはかられ、そこから、一モルゲンは、 Tagwerk (あるいは Tagwanne )〔一日の仕事〕(jurnale または jurnalis,terra jurnalis,jornalis または diurnalis)、Mannwerk〔男一人の仕事〕、Mannskraft〔男一人の力〕、Mannsmaad〔男一人の草刈り〕、Mannshauet〔男一人の刈り取り〕などと呼ばれた。ゲオルク・ルートヴィッヒ・フォン・マウラー『歴史への序論、マルク・農地等々・・・の制度について』、ミュンヘン、一八五四年、一二九ページ以下を見よ。〉

 これは〈どんな状態のもとでも、人間は--発展段階の相違によって一様ではないが--生活手段の生産に費やされる労働時間に関心をもたざるをえなかった〉ということの一つの例証として、古代ゲルマンでも、一人の男の労働時間によって彼の土地の大きさが決められたことを紹介しているだけですから、あまり拘る必要もないでしょう。

(以下は「その3」に続きます。)

 

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