『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.2(通算第52回)その1

2013-04-06 14:22:38 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.2(通算第52回)その1

 

 

◎「次元の違う金融緩和」だって?

 日本銀行は3月4日、黒田東彦新総裁就任後初となる金融政策決定会合で、新たな量的緩和策の導入を決めました。その内容は……

  ●2%の物価目標を2年で実現するために必要な措置をすべて入れた

  ●マネタリーベースを「約2倍」--現在の138兆円から270兆円--に拡大

  ●
長期国債は現在の2倍、月7兆円ペースで買い、長期国債の保有額は12年末の89兆円から、14年末に2倍の190兆円に

  ……等々、というものです。

 これで黒田総裁はデフレを脱却して、2年後には2%のインフレにするというのです。しかし、殘念ながら、これらは「貨幣数量説」という間違った貨幣理論にもとづいたものでしかありません。

 日銀のホームページでは「マネタリーベース」を次のように説明しています。

 〈マネタリーベースとは、「日本銀行が供給する通貨」のことです。具体的には、市中に出回っているお金である流通現金(「日本銀行券発行高」+「貨幣流通高」)と「日銀当座預金」の合計値です。
 
 マネタリーベース=「日本銀行券発行高」+「貨幣流通高」+「日銀当座預金」 

 このように日銀はこれらをひっくるめて「日本銀行が供給する通貨」と説明していますが、何度も述べてきましたように、これは間違っています。

 まず「日本銀行券発行高」というのは、市中銀行等が日銀にある自行の当座預金を現金で、つまり日本銀行券(1000円、2000円、5000円、1万円)で引き出した時の、その高のことです。

 「貨幣流通高」というのは、政府が発行する硬貨類(1円、5円、10円、50円、100円、500円)のことですが、これもやはり市中銀行が日銀の当座預金から引き出すことによって「流通」することになります。


 これら二つは確かに「通貨」ということができます。


 しかし「日銀当座預金」というのは、決して概念的には「通貨」ではないのです。


 そもそも通貨というのは、貨幣の抽象的な機能である流通手段と支払い手段を兼ねたものです(広義の流通手段)。それは商品市場で流通しているものであり、この社会の物質代謝を現実に媒介しているものです。しかし預金というのは、貨幣市場において、つまり貨幣の貸し借りにおいて生じるものなのです。それは再生産過程(つまり社会的物質代謝)の外部における信用に基づくものなのです。だから「日銀当座預金」というのは、確かに市中銀行が自行に還流してきた現金(日本銀行券と硬貨)を当面は運用する予定がないということで日銀に預けて生じる場合もありますが、しかしこのように例えそれが現金で預金されたものだとしても、これは通貨とは言えないのです。それはただ市中銀行が概念的には利子生み資本として日銀に貸し付けたものだからです(実際には利子はつきませんが)。


 そして現実には、今回の緩和策でもありますように、積み増される「日銀当座預金」の多くは、市中銀行などが持っている国債や株式等を日銀が買いつけて生じているものが大半です(それ以外にも何らかの担保をもとに貸し付て生じる場合もあるでしょう)。


 つまり国債を買って、その代金を当座預金として積みますことなのです。しかし市中銀行が持っている国債や株式などは、銀行の準備金(つまり当面運用あてのないカネ)の一形態なのです。だから市中銀行としては準備金の一部の形態をただ国債や株式等から日銀の当座預金に変えたに過ぎないのです。当面使うあてがないという状態は何一つ変わっていません。そもそも日銀が市中銀行から国債や株式を購入するということは、これは「売買」という外観を取っていますが、内容はやはり利子生み資本の運動であり、「貸し借り」なのです。だからこうしたものをいくら増やしても、「通貨」が増発されたということにはならないのです。


 そもそも厳密な意味での「通貨」というのは、商品流通の現実(つまり社会的物質代謝の状態)に規定されて流通するに過ぎないのであって、誰かが恣意的にその流通を増やしたり減らしたりできるようなものではないのです(そもそも自分たちの社会的物質代謝を統制・管理できないからこそ、貨幣というわけのわからないもののやっかいになっているのです)。


 では今回の金融緩和策が将来のインフレに繋がることはないのか、というと必ずしもそうとは言えません。というのは、日銀が市中銀行などが持っている国債を買い上げて、当座預金を積み増すのは、市中銀行がさらに政府から増発される国債を引き受けやすくするための措置であり、政府の信用膨張を容易にすることに繋がるからです。


 そして景気が上向けば、そうした膨張した信用は、すぐにインフレとして現れてくるでしょう。インフレが景気の上昇をもたらすのではなく、景気の上昇がインフレをもたらすということです。この点、日銀はいうまでもなく、多くのブルジョア経済学者たちも原因と結果を取り違えています。そして一旦、インフレが生じたらそれをコントロールできるなどということは一つの淡い幻想でしかないことが暴露されるでしょう。

 さて、それでは前回の続きをやることにしましょう。

◎第4パラグラフ

【4】〈(イ)金による一商品の価値表現--x量の商品A=y量の貨幣商品--は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。(ロ)鉄の価値を社会的に通用する仕方で表すためには、1トンの鉄=2オンスの金 というような単一の等式で今や十分である。(ハ)この等式は、他の諸商品の価値等式と隊伍を整えて行進する必要はもはやない。(ニ)なぜなら、等価物商品である金がすでに貨幣の性格をおびているからである。(ホ)それゆえ、諸商品の一般的な相対的価値形態は、今やふたたび、その最初の、単純なまたは個別的な相対的価値形態の姿態をとる。(ヘ)他面、展開された相対的価値表現、または相対的価値諸表現の無限の列が、貨幣商品の独特な相対的価値形態になる。(ト)しかし、この列は、今やすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。(チ)物価表の値段表示を後ろから読めば、貨幣の価値の大きさがありとあらゆる商品で表されていることがわかる。(リ)これに反して、貨幣は何の価格ももたない。(ヌ)他の諸商品のこうした統一的な相対的価値形態に参加するためには、貨幣はそれ自身の等価としてのそれ自身に関係させられなければならないであろう。〉

(イ) 貨幣である金によって一つの商品の価値を表現する等式--x量の商品A=y量の貨幣商品--は、その商品の貨幣形態、あるいは価格です。

 このパラグラフは、いわば第1章で展開した価値形態の反省です。ここで述べられていることは、すでに第1章で次のように述べられていました。

 〈すでに貨幣商品として機能している商品での、たとえば金での、一商品たとえばリンネルの単純な相対的価値表現は、価格形態である。それゆえ、リンネルの「価格形態」は
 20エレのリンネル=2オンスの金
または、もし2ポンド・スターリングというのが2オンスの金の鋳貨名であるならば、
 20エレのリンネル=2ポンド・スターリング
である。〉(全集23a95頁)

(ロ)(ハ)(ニ)(ホ)
 もはや例えば鉄の価値を社会的に通用する仕方で表すためには、1トンの鉄=2オンスの金 というような一つの等式だけで十分です。というのは、等価物の商品である金がすでに貨幣になっているからです。だから諸商品の価値を一般的に表す価値形態は、われわれが第一章で見た一般的価値形態のようなさまざまな商品が隊伍を整えて行進する必要はもはや必要ないからです。だから諸商品の価値形態は、最初の単純なあるいは個別的な相対的価値形態の姿をとるわけです。
 
 第1章の一般的価値形態というのは、次のようなものでした。

   1着の上着     =
   10ポンドの茶    =
   40ポンドのコーヒー=
   1クォーターの小麦 =
   2オンスの金     = 20エレのリンネル
   1/2トンの鉄    =
   x量の商品A     =
   等々の商品     =

 そしてこの等式を説明して、次のように指摘されていました。

 〈一般的価値形態は、ただ商品世界の共同の仕事としてのみ成立する。一つの商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ等価物で表現するからにほかならない。そして、新たに現われるどの商品種類もこれにならわなければならない。こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「社会的な定在」であるからこそ、ただ諸商品の全面的な社会的関係によってのみ表現されうるのであり、したがって諸商品の価値形態は社会的に認められた形態でなければならないということが、明瞭に現われてくるのである。〉(90頁)

 しかし貨幣形態では、こうした隊伍は不要になるわけです。というのは貨幣商品としての金は、そのだけですでに社会的に認められた価値の具体物として存在しているからです。だから諸商品は、貨幣に等置されるだけで社会的に妥当な自らの価値を表したことになるわけです。初版には次のような説明があります。

 〈諸商品の、貨幣での単純な相対的価値表現--x量の商品A=y量の貨幣商品--が、諸商品の価格である。諸商品の価格にあっては、諸商品は、第一には、価値として、すなわち、質的に等しいもの、同じ労働の具象物または労働の同じ具象物として、現われているし、第二には、量的に規定された価値量として現われている。なぜならば、諸商品は、ある割合で--この割合において、これらの諸商品はあれこれの一定の金量と相等しい--互いに相等しいからであり、言い換えれば、相等しい労働量を表わしているからである。〉(83頁)

 さらに、この部分については、「補足と改訂」も参考になるので、それも紹介しておきましょう。

 〈一商品の金での簡単な相対的価値形態--x商品A=y金商品--はその商品の価格である。もともと一商品は、等価物との等式が、すべての他の諸商品が同じ等価物と結ぶ等式の列のなかの一分肢として現れる限りにおいてのみ、一般的相対的価値形態をもった。この列はいまはなくなっている。商品の金との個々の等式、すなわちその価格は、先行する歴史的過程が金(または銀、またはあるその他の際だった商品)をすでに貨幣商品、つまり、その特殊な自然形態と一般的等価物形態がすでに社会的に癒着している商品にしているがゆえに、その商品の一般的相対的価値形態になるのである。〉(36頁)

 〈金による一商品の価値表現--x量の商品A=y量の貨幣商品--は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。しかし、いま、先行する歴史的過程がある特別な商品・金に、すでに社会的に認められた等価物商品の性格をおしつける、つまりその商品を貨幣にする、と仮定するならば--他の諸商品の等式の列とは無関係に--この単一の等式で十分である。いまや、一般的相対的価値形態は一番最初の簡単な相対的価値形態の姿をもっている。〉(37頁)

(ヘ)(ト)(チ)
 他方で、展開された相対的価値形態、あるいは相対的価値形態の無限の列が、今度は、貨幣商品の独特な相対的価値形態になります。しかし、この列そのものは、すでに内容が違っています。というのは、それはいまでは諸商品の価格として社会的には与えられているからです。だから物価表を逆に読めば、貨幣の価値の大きさがさまざまな商品で表されていることになるわけです。

 
 ここに出てくる〈展開された相対的価値表現〉というのは、第1章で出てきた形態IIであり、次のようなものでした。

 20エレのリンネル=1着の上着
    〃        =10ポンドの茶
    〃        =40ポンドのコーヒー
    〃        =1クォーターの小麦
    〃        =2オンスの金
    〃        =1/2トンの鉄
    〃        =等々

 ここで左項の「20エレのリンネル」の代わりに「2オンスの金」を入れ、右項の「2オンスの金」の代わりに「20エレのリンネル」を入れると次のような等式がなりたちます。

 2オンスの金 =1着の上着
    〃    =10ポンドの茶
    〃    =40ポンドのコーヒー
    〃    =1クォーターの小麦
    〃    =20エレのリンネル
    〃    =1/2トンの鉄
    〃    =等々

 これがすなわち貨幣商品金の価値表現というわけです。しかし、これは物価表、つまり2オンスの金に1万円という鋳貨名をつけると仮定すれば、1着の上着1万円、1ポンドの茶1000円、1ポンドのコーヒー250円等々というような表を逆に読めば、2オンスの金の価値は、1着の上着や10ポンドの茶や40ポンドのコーヒーや1クォーターの小麦等々の諸商品によって(それらの使用価値とそれぞれの量によって)表されているというわけです。
 初版にはより詳しく次のように説明されています。

 〈他方、発展した相対的価値表現、すなわち、相対的価値表現の無限の系列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。ところが、この系列は、いまではすでに、諸商品価格のうちに与えられている。物価表の相場を逆に読めば、貨幣の価値量がありとあらゆる商品で表わされていることがわかる。この系列は新たな意味をも得たわけである。金は、貨幣であるために、すでに、それの現物形態のうちに、それのもろもろの相対的価値表現にかかわりなく、一般的な等価形態すなわち一般的な直接的交換可能性という形態をもっている。だから、これらの価値表現の系列は、いまでは同時に、金の価値量のほかに、素材的な富あるいは使用価値の発展した世界を表わしているのであって、金はこれらの使用価値に直接に置き換えられうるのである。〉(江夏訳83頁)

 またこうした指摘そのものは、すでに第1章で次のように説明されていました。

 〈反対に、一般的等価物の役を演ずる商品は、商品世界の統一的な、したがってまた一般的な相対的価値形態からは排除されている。もしもリンネルが、すなわち一般的等価形態にあるなんらかの商品が、同時に一般的相対的価値形態にも参加するとすれば、その商品は自分自身のために等価物として役だたなければならないであろう。その場合には、20エレのリンネル=20エレのリンネル となり、それは価値も価値量も表わしていない同義反復になるであろう。一般的等価物の相対的価値を表現するためには、むしろ形態Ⅲを逆にしなければならないのである。一般的等価物は、他の諸商品と共通な相対的価値形態をもたないのであって、その価値は、他のすべての商品体の無限の列で相対的に表現されるのである。こうして、いまでは、展開された相対的価値形態すなわち形態Ⅱが、等価物商品の独自な相対的価値形態として現われるのである。〉(93頁、下線は引用者)

 ここではこの諸文節に関連するもの(下線部分)以外の部分(前半部分)も紹介しましたが、それは引き続く諸文節と関連しているからです。

(リ)(ヌ)
 これに反して、貨幣そのものは何ら価格を持ちません。もし他の諸商品と同じように、統一的な相対的価値形態に参加しようするなら、貨幣は自分自身の等価として自分自身に関係させられねばなりませんが、これは同義反復以外の何ものでもないからです。

 これについては先に引用した第1章の説明が参考になります。2オンスの金=2オンスの金 という等式は、価値も価値量も表していないということです。

(「その2」に続きます。)

 

 

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