『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第16回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2009-10-06 11:08:12 | 『資本論』

第16回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

◎changeの秋?

 民主党政権が誕生し、鳩山外交も上々の滑り出しのように見えます。新しい政権に変わって、われわれの生活も何か変わるのでしょうか?

 「チェンジの秋」を予感させるものの、私たちの『資本論』を読む会は相変わらずで、進捗は亀のごとくです。今回も、議論はそこそこでしたが、進んだのは、結局、二つのパラグラフと注だけでした。さっそくその報告に移ります。

◎第3パラグラフに出てくる「価値物」について若干議論

 最初にピースさんから、前回の第3パラグラフに出てくる「価値物」について、意見があり、若干、その問題について議論になりました。
 ピースさんは「報告」の解釈に理解を示してくれましたが、報告を担当した亀仙人は報告の立場は必ずしも一般的ではないこと、それは故久留間鮫造氏の最初の立場に近いが、しかし久留間氏は、そうした「価値物」の理解に立ちながら、しかし「価値体」との区別については無意識だったが故に、大谷禎之介氏の指摘に動揺し、自身の立場を捨て、大谷説に与するようになったことが紹介されました。

 しかし、実は、大谷氏の説明ではリンネルの価値の表現がなされていないのです。例えば、前回紹介した大谷氏の主張をもう一度紹介してみましょう。

 〈労働生産物が商品になると、それは価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。しかし、ある商品が価値物であること、それが価値対象性をもったものであることは、その商品体そのものからはつかむことができない。商品は他商品を価値物として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は価値物として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に等置した商品そのものも価値物であることが表現されることになる。〉(『貨幣論』98頁)

 このように大谷氏は価値表現を説明していますが、これでは価値は何一つ表現されたことにはなりません。「表現される」ということは、それが目に見えるようになるということです。そしてそのためには、価値が何らかの形ある物として現われる必要があるのです。しかし大谷氏の説明はそうしたものとはなっていません。というのは、大谷氏は「価値物」=「価値対象性を持ったもの」と説明するからです。例えば、この言葉を大谷氏の説明文に出てくる「価値物」の代わりに挿入すれば、それが分かります。

 〈商品は他商品を[価値対象性を持ったもの]として自分に等置する。この関係のなかではその他商品は[価値対象性を持ったもの]として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を[価値対象性を持ったもの]として自己に等置した商品そのものも[価値対象性を持ったもの]であることが表現されることになる。〉

 このように書き換えてみると、何一つ価値が表現されていないことが分かります。というのは〈[価値対象性を持ったもの]として意義をもつ、通用する〉と言っても、それだけでは、価値が目に見えるものとして、すなわち形ある物として現われていることにはならないからです。形あるものと顕れていないなら、それは表現されたとは言えません。マルクスは《上着は、価値の存在形態として、価値物として、通用する》と述べています。《価値の存在形態》というのは、本来は“まぼろし”のような対象性しかもたない価値が、形ある物として存在するということなのです。それが《価値物》の意味です。だからそうした「価値物」の理解に立たない大谷説では、価値は表現されているとは言えないのです。

 大谷氏は〈《その自然形態がそのまま価値物として意義をもつもの》、これが先生(=故久留間鮫造--引用者)の意味での「価値物」ですが、マルクスはこれをさす言葉としては、むしろ「価値体」というのを使っているのではないかと思われるのです〉とも述べています。しかし、これだと「価値体」によって始めてリンネルの価値は表現されることになり、「価値物」の段階ではまだ表現されていないことになってしまいます。しかしマルクス自身は第3パラグラフでも《他方では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。すなわち、一つの自立した表現を受け取る》と述べており、第3パラグラフの段階ですでにリンネルの価値は表現されていると述べているのです。だから大谷氏のような「価値物」理解では、こうしたマルクスの第3パラグラフの説明を理解不能にしてしまうのです。

 しかしピースさんは、大谷氏の主張にも一定の理解を示し、第3パラグラフに出てくる「価値物」、つまりリンネルとの価値関係におかれた上着が受け取る形態規定としての「価値物」と、一般に使われる場合の「価値物」とがあるのではないか、とも指摘されました。つまり大谷氏が主張されるような意味での「価値物」もありうるが、しかしそれはリンネルとの価値関係におかれた上着に付着する「価値物」の規定とは異なるものであり、だから「価値物」には二様の意味があるし、あってもよい、との意見です。これについては亀仙人は自身の意見を保留しました。

 確かに大谷氏が紹介している『資本論』からのいくつかの引用文では、ピースさんの意見を肯定するような用例が見られるように思えます。しかしよくよく吟味してみると、やはりそうではなく、マルクス自身は「価値物」という言葉で、価値が形ある物として存在すること、つまり目に見える形で顕れているものと捉えていることが分かるのです。しかしそれを大谷氏が紹介する引用文一つ一つについて、検証すると横道にそれすぎるので、割愛します(またその機会があればやることにしましょう)。

◎第4パラグラフの位置づけ

 さて、それでは第4節の検討に入って行きましょう。まずは、例のごとく全文を紹介することからはじめます(今回から、分節ごとに検討するために、分節にイ)、ロ)、ハ)…の記号を打っていくことにします)。

 イ)われわれが、価値としては諸商品は人間労働の単なる凝固体であると言えば、われわれの分析は諸商品を価値抽象に還元するけれども、商品にその現物形態とは異なる価値形態を与えはしない。ロ)一商品の他の商品に対する価値関係の中ではそうではない。ここでは、その商品の価値性格が、その商品の他の商品に対する関係によって、現れでるのである。》

 これまでは、パラグラフの引用に続いて、そのパラグラフに類似したそれ以外の文献を年代順に資料として紹介してきたのですが、やや煩雑に過ぎるので、それらはすべて付録に回し、すぐにパラグラフの検討に入ることにします。

 最初に問題になったのは、このパラグラフの位置づけでした。前回の報告で紹介しましたが、第3パラグラフに該当する初版付録の小項目は、「b 価値関係」でした。初版付録ではそれに続いて、「c 価値関係のなかに含まれている相対的価値形態の内実」が続き、それが現行の第4パラグラフ以降にほぼ該当します。だから第3パラグラフの段階では、まだ現行の小項目「a 相対的価値形態の内実」の本題には入っておらず、本題は第4パラグラフから始まると考えることが出来きます。そして第3パラグラフまでは、そのための前提の考察と位置づけられます。つまり第3パラグラフでは、上着がリンネルとの価値関係において、価値物として妥当することによって、リンネルの価値存在が表現されることが示されました。つまりリンネルが“相対的な価値の形態”--相対的に価値を表現する形式--にあることが示されたのです。だから次に問題になるのは、本題である、その「形式」の「内実」というわけです。
 ということは、「相対的価値形態の内実」というのは、相対的価値形態がその価値の実体である「抽象的な人間労働の凝固体」まで掘り下げられてそこから説明されること、すなわち「価値の概念」からその現象形態たる「価値形態」まで展開することだということが分かります。それが相対的価値形態が持っている内容(Gehalt)だというのです。
 そしてそう考えると、この第4パラグラフは、それまでの前提の考察を踏まえた、本題の入り口であり、第5パラグラフ以降への橋渡し、導入部分だということが分かるのです。だからこの第4パラグラフの内容については、やはり第5パラグラフ(あるいはそれ以降のパラグラフ)と関連させて理解する必要があるわけです。

 イ)の部分は、第1章で次のように論じていたことを思い出させます(下線は引用者)。

 《そこで、これらの労働生産物に残っているものを考察しよう。それらに残っているものは、幻のような同一の対象性以外の何物でもなく、区別のない人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、単なる凝固体以外の何物でもない。これらの物が表しているのは、もはやただ、それらの生産に人間労働力が支出されており、人間労働が堆積されているということだけである。それらに共通な、この社会的実体の結晶として、これらの物は、価値--商品価値である。》(全集版52頁)

 これは価値の概念を導出する部分に該当します。つまりこの第4パラグラフでは、価値の実体である抽象的人間労働の凝固を確認するとともに、それではいまだ《幻のような同一の対象性以外》の何もでもなく、「価値の形態」--価値が形があって目に見える状態--にはなっていないことを再確認しているわけです。
 しかし同時に、われわれは第1章では次のようにも述べられていたことを思い出します(下線は引用者)。

 《もしもわれわれが労働生産物の使用価値を捨象するならば、われわれは、労働生産物を使用価値にしている物体的諸成分と諸形態をも捨象しているのである。それはもはや、テーブル、家、糸、あるいはその他の有用物ではない。その感性的性状はすべて消しさられている。それはまた、もはや、指物(サシモノ)労働、建築労働、紡績労働、あるいはその他の一定の生産的労働の生産物ではない。労働生産物の有用的性格と共に、労働生産物に表れている労働の有用的性格も消えうせ、したがってまた、これらの労働のさまざまな具体的形態も消えうせ、これらの労働は、もはや、たがいに区別がなくなり、すべてことごとく、同じ人間労働、すなわち抽象的人間労働に還元されている。》(全集版51-2頁)

 つまりこの第1章では、抽象的人間労働に還元するためには、労働生産物に表れている(痕跡を残している)労働の具体的性格、裁縫労働とか織布労働といった性格も捨象され、消え失せなければならないことが言われています。しかし同じような人間労働一般への還元が第5パラグラフにも出てくるのですが、しかし同じ「還元」でも、第1章とは異なるのです。だからそれとの対比の意味も込めて、あらかじめ、ここでこうした問題が再び論じられているということも出来るのです。

 次にロ)の部分について検討しましょう。ここでは第3パラグラフで見たように、価値関係のなかでリンネルの価値が表現されたように、一商品への他の商品の価値関係のなかでは、《その商品の価値性格》《現れでる》と述べています。ここで現れでる「価値性格」とは何かが問題になりました。ピースさんは、「それは直接には目に見えないという性格のことではないか」と言いましたが、それでは内容的におかしくなります。なぜなら、価値関係のなかで価値の「直接には目に見えないという性格」が《現れでる》ということになっては意味不明だからです。
 やはりここでは「抽象的人間労働の凝固」こそが「価値性格」の内容だと考えるべきでしょう。つまり、一つは価値というのは純粋に社会的なものだということです。商品交換を通じて、その生産のために支出され、生産物に表れている具体的な諸労働が、人間労働一般に還元されることによって社会的性格をもつということ、それが価値性格の一つの側面です。さらに価値性格としては、価値を形成する労働の抽象的・社会的な性格だけではなく、それが商品という物的対象に結晶したものである、凝固したものである、という性格もあるわけです。そうした価値性格の二つの側面が二商品の価値関係のなかで現れ出てくるというのです。そして価値性格の二つの側面の現出過程を説明するのが、だいたい第5パラグラフと第6パラグラフに該当するわけです。だから次は第5パラグラフの検討に入ることにしましょう。

 (字数の関係で、第5パラグラフの検討は「その2」で掲載します。)

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