『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

第48回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

2012-07-26 04:04:05 | 『資本論』

第48回「『資本論』を読む会」の報告(その1)

 

 

 

◎政府事故調の最終報告

 23日、福島第一原発の政府の事故調査・検証委員会の最終報告が発表されました。

 これでこの種の事故調査報告は出揃ったことになるそうです。今回の報告書では、福島第一原発における東電の対処は第二原発におけるそれと較べても、「適切さが欠けていた」と指摘、先に出された国会事故調査委員会の報告と較べると、事故の背景にまで切り込むというより、ただ淡々と事実を述べたというような印象が強いように思えます。

 ところで、こうした一連の事故調査報告書に先駆けて、昨年10月、いち早く「福島第一原子力発電所事故から何を学ぶか」という報告書を発表した大前研一氏は、先に発表された国会事故調査委員会の最終報告を、クソミソに批判しています(日経BPnet)。国会事故調の報告書は「しょせんは風聞を集めた三面記事のようなレベル」のものでしかなく、「幼稚な報告書を公表することで世界に対して恥をさらした」云々。

 すでに述べたように、国会事故調の報告書は、今回の事故を「人災」と断定し、根本的な原因は東電と規制官庁とが馴れ合って必要な対策を怠ってきたからだとしていました。大前氏はそれに対して、「究極の事故原因は外部電源がすべて崩壊したことだ」と自己の主張を対置しています。しかしその大前氏も、ではどうして外部電源がすべて崩壊したのかというと、それは「原子力安全委員会の『外部電源の長期喪失は考えなくてもいい』という指針があったから」だともいうのです。つまり「規制当局と東電の関係が『逆転関係』になり、原子力安全の監視・監督機能の崩壊が起きていた」という国会事故調の指摘に行き着くわけです。結局、大前氏の批判は言葉は辛辣ですが、その内容は“目くそ鼻くそ”の類に過ぎません。

 いずれにしても、すべての報告書が見ることができない本質的な原因は、原子力にしても、すべての科学や技術が資本主義的生産においては資本の生産力として存在しているという事実です。だからこそそれらは人間に対して疎遠で、そればかりか人間に敵対的な形でしか存在し得ないのです。

 一見すると、工場では労働者は直接機械に向き合い、それを操作し生産物を作っているかに見えます。しかし、労働者が機械などの生産力と結合して生産活動ができるのは、彼らが「賃労働」という社会的衣装をまとい、資本としての機械に対峙するからなのです。つまり労働者は決して直接機械に向き合いそれを操作しているのではなく、一定の社会的な関係、すなわち資本-賃労働という生産関係のもとでしかそれが出来ないのです。そしてそれは科学や技術においても同じことが言えるのです。科学者や研究者は、純粋に真理を追究し、技術を発達させようとしているかに自分では思っているかも知れません。しかし彼らが科学を研究し、技術の発展を追求できるのも、一定の社会的関係においてに過ぎないのです。だから現在の社会の物質的な生産力は直接労働者を豊かにするものとして存在しているのではなく、直接には資本が剰余労働を搾取し、利潤を上げるために存在しているのです。科学や技術も同じように資本の生産力として、その自己増殖欲に奉仕させられているのです。

 原子力発電のような膨大な自然力をコントロールしなければならない巨大な技術は、それだけ資本主義的生産様式の下では危険といわなければなりません。原発事故のもっとも本質的な原因はここに起因しているのです。

 やや前置きが長くなりすぎましたが、本題の学習会の報告に移りましょう。前回(第48回)は第2章の第9~11パラグラフを学習しました。さっそくその報告を行いましょう。

◎第9パラグラフ

 報告は、これまでと同じように、まず本文を紹介し、文節ごとに記号を打ち、それぞれについて平易に解説しながら、そのなかで学習会での議論も紹介していくことにします。なお、今回から見やすいように、本文は青字(太字)、平易な書き下しは太字(黒)とします。

【9】〈(イ)直接的な生産物交換においては、どの商品もその所有者にとっては直接的に交換手段であり、その非所有者にとっては等価物である--もっとも、その商品がその非所有者にとって使用価値である限りでのことであるが。(ロ)したがって、交換品は、それ自身の使用価値や交換者の個人的欲求から独立した価値形態をまだ受け取ってはいない。(ハ)この形態の必然性は、交換過程に入りこむ商品の数と多様性との増大と共に発展する。(ニ)課題はその解決の手段と同時に生じる。(ホ)商品所有者が彼ら自身の物品を他のさまざまな物品と交換したり比較したりする交易は、さまざまな商品所有者のさまざまな商品がその交易の内部で同一の第三の種類の商品と交換され、価値として比較されることなしには、決して生じない。(ヘ)このような第三の商品は、他のさまざまな商品にとっての等価となることによって、直接的に--たとえ狭い限界内においてにせよ--一般的または社会的な等価形態を受け取る。(ト)この一般的等価形態は、それを生み出す一時的な社会的接触と共に発生し、それと共に消滅する。(チ)この形態は、あれこれの商品に、かわるがわる、かつ一時的に帰属する。(リ)しかし、それは、商品交換の発展につれて、排他的に特殊な種類の商品に固着する。(ヌ)すなわち、貨幣形態に結晶する。(ル)それがどのような種類の商品に固着するかは、さしあたり偶然的である。(ヲ)しかし、一般的には、二つの事情が決定的である。(ワ)貨幣形態が固着するのは、外部から入ってくる最も重要な交易品--これは、事実上、内部の諸生産物がもつ交換価値の自然発生的な現象形態である--か、さもなければ、内部の譲渡されうる所有物の主要要素をなす使用対象、たとえば家畜のようなものである。(カ)遊牧諸民族が最初に貨幣形態を発展させるのであるが、それは、彼らの全財産が動かしうる、したがって直接的に譲渡されうる形態にあるからであり、また彼らの生活様式が彼らをたえず他の諸共同体と接触させ、したがって、生産物交換へと誘いこむからである。(ヨ)人間はしばしば人間そのものを奴隷の姿態で原初的な貨幣材料としてきたが、土地〔Grund und Boden〕をそうしたことはかつてなかった。(タ)このような観念は、すでに発展をとげたブルジョア社会においてのみ出現しえた。(レ)その始まりは一七世紀の最後の三分の一期のことであり、その実施が国民的規模でこころみられるのは、それからやっと一世紀後、フランスのブルジョア革命の中においてであった。〉

 (イ)直接的な生産物の交換においては、どの商品の所有者にとっても、自分の商品は自分にとって必要な生産物を入手するための交換手段です。そして自分の持っていない(つまり相手が持っている)商品は、それが彼にとって自分の欲望を満たすもの(彼にとって使用価値であるもの)であなるならば、自分の商品の等価物となります。

 ここでもやはり〈直接的な生産物交換〉が問題になっています。これは当然です。というのは我々はこれから商品交換の歴史的発展を辿って如何にしてそれが貨幣を産み出すに至るかを見ていくわけですから、まだ貨幣は登場していないからです。しかし注意が必要なのは、先のパラグラフでは、交換されるのは、いまだ商品ではなく、単なる使用対象(労働生産物)でしかなかったのですが、ここではすでに交換されるものは「商品」であることが前提されています。つまり交換されるものが商品であることが前提されながら、尚且つ、その交換が直接的な生産物交換であるような発展段階が問題になっていることが分かるのです。そしてこれは先のパラグラフから考えるなら、労働生産物の交換がある一定の広がりと深まりを獲得して、交換当事者が交換を目当てに、労働生産物を生産し始める段階だということが分かります。価値形態では形態II(全面的な展開された価値形態)の段階です。この段階では自身の価値をさまざまな商品で次々と表す商品は、すでに最初から交換を目当てに生産され、よってその価値性格が徐々に現れてくるものと言えるわけです。しかし、その商品と交換されるさまざまな物は、いまだ個別的・偶然的である可能性もあり、いまだ価値形態としては形態Ⅰの段階を抜けていないかも知れないのです。

 (ロ)だから交換される物は、いまだそれ自身の使用価値や交換する当事者の個人的欲望から独立した価値形態をまだ受け取っていません。

 自身の価値を次々とさまざまな商品で表現する形態IIの段階でも、それが想定する交換の歴史的な発展段階としては、当事者は、例えば遊牧民のように季節によって移動して、その移動の過程で接触するさまざまな定着農耕民と交換していく様な段階であり、こうした段階では、いまだ交換当事者自身の必要に応じて、それらは交換されると言えるでしょう。しかし、これがどんどん発展してゆけば、やがては遊牧民は、次の共同体との交易のことを考えて、その前に接触した共同体との交換では、特に自分には必要のない物品でも交換するようになってくるようになります。彼はそれをただ交換を目当てに交換するわけです。これはすでに商業民族としての登場ですが、こうした段階は早期に訪れたと考えられます。

 アフガニスタンとパキスタンに跨がって広く生活していたパシュトゥーン族は、冬季はパキスタン西部の低地にあり、春から夏にかけて、アフガンの高原まで羊を遊牧しながら、移動して生活していたのですが、彼らはその過程でアフガンの定着農耕民と農産物と羊を交換しながら遊牧していました。しかし、やがて彼らはアフガンの定着農耕民が必要とするさまざまな物品をパキスタンで仕入れて、それをも行き先々の農耕民と交易しながら、遊牧するようになったと昔読んだ本にはありました。カルタゴやフェニキアなど古代の商業民族も、最初は海洋民族として、さまざまな海に出かけてゆくなかで、その行く先々で海産物を交換するだけでなく、やがては、さまざまな物品を仕入れて、交換をするようにもっぱらなり、やがては商業民族として歴史の早くから登場したのではないでしょうか。

 またここでは〈それ自身の使用価値や交換者の個人的欲求から独立した価値形態〉という言葉で出てきますが、これは後にも出てきます〈一般的等価形態〉を指しているのだと思います。

 (ハ)この形態(=「それ自身の使用価値や交換者の個人的欲求から独立した価値形態」=「一般的等価形態」)の必然性は、交換過程に入り込む商品の数と種類の増大とともに発展します。

 (ニ)一般に課題はその解決の手段と同時に生まれます。

 この〈課題はその解決の手段と同時に生じる〉という言葉は、『経済学批判』序言にも、次のような形で出てきます。

 〈一つの社会構成は、それが十分包容しうる生産諸力がすべて発展しきるまでは、けっして没落するものではなく、新しい、さらに高度の生産諸関係は、その物質的存在条件が古い社会自体の胎内で孵化されおわるまでは、けっして古いものにとって代わることはない。それだから、人間はつねに、自分が解決しうる課題だけを自分に提起する。なぜならば、詳しく考察してみると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、またはすくなくとも生まれつつある場合にだけ発生することが、つねに見られるであろうからだ。〉(全集13巻7頁、下線は引用者)

 (ホ)商品所有者が彼らの物品を他のさまざまな物品と交換したり比較したりする交易は、さまざまな商品所有者のさまさまな商品がその交易の内部で、同じ第三の種類の商品と交換され、それによって価値として比較されることなしには、決して生じないのです。

 これはすでにある特定の商品が次々とさまさまな商品によって自らの価値を表すような展開された段階(形態II)とは異なります。この段階では、次々と自ららの価値を表す商品は、その価値性格を表してきますが、しかしその商品と交換されるさまざまな商品は、いまだまだ単純な段階、偶然的・一時的段階(形態Ⅰ)と考えられるからです。

 しかし、ここで想定している交換過程の発展段階は、こうしたものではなく、ある特定の商品が次々とさまざまな商品と交換され、その価値を表すだけではなく、その交換されるさまざまな商品そのものが互いに交換し合うような交換過程の発展段階を想定しているわけです。こうしたさまざまな商品の交換が行われるためには、しかし、第三の商品、例えば、展開された段階で次々にさまざまな商品と交換して、自分の価値を表した商品を尺度にして、そうした全面的に交換し合おうとする諸商品が、互いに価値を比較し合わないとそうした全面的な商品交換は不可能なのです。だからこれはすでに価値形態では形態IIが逆転された段階(形態III)、すなわち一般的価値形態の段階にあるものです。

 (ヘ)このような、その交易において、さまざまな商品がその価値を比較し合うための基準になるような商品は、他のさまざまな商品にとっての共通の等価物になることによって、最初はまだその交易の狭い範囲や限界のなかにおいてに過ぎませんが、一般的または社会的な等価形態を受け取ることになります。

 だからこうした第三の商品は一般的価値形態における一般的等価物になるのですが、しかし、マルクスは、こうした一般的等価形態そのものは、最初は、まだある交易の狭い範囲内の、限定された、限界のあるものに過ぎないことも指摘しています。

 (ト)(チ)
 この一般的等価形態になる商品は、最初はそれを生み出す交易と同様に、一時的または社会的な接触と共に発生し、それと共に消滅します。だからこの形態は、最初は、あれこれの商品に、かわるがわる、且つ一時的に帰属することになります。

 さまざまな商品が交換し合うような交易は、最初から恒常的にあったわけではなく、それ自体が一時的であったと考えられます。例えばある祭祀が行われる時期だけに開かれる市であるとか、ある時期に限って開かれる市というようにです。だから最初の一般的等価形態も、そうした交易が行われる時にだけ、その時点、時点である特定の商品に帰属し、別のある交易では、また別の商品がそうした形態を受け取るというようなものだったと考えられるわけです。

 (リ)(ヌ)
 しかし商品交換がさらに発展すると、徐々に、ある特殊な商品が恒常的にそうした役割を担うようになります。そしてそうなってくると、もはや他の商品がそうした役割を担うことが出来なくなるのです。そうなると、その交易は貨幣形態を獲得したことになるでしょう。

 商品交換の発展は、さまざまな商品が互いに交換される交易そのものが、一時的ではなくなり、恒常的になるとともに、交換されあう商品そのものもその数も増え、種類も多様になってきます。そうなるとそれらの価値を互いに比較し合う商品がその度に異なるのでは都合が悪くなってきます。だからますますある特定の商品が排他的にそうした役割を担うようになるわけです。つまり貨幣形態に結晶するわけです。そして一度、ある商品がそうした形態を受け取ると、他の商品はもはやそうした形態を受け取ることは出来なくなるわけです。

 (ル)(ヲ)(ワ)
 貨幣形態を受け取るのがどういう種類の商品であるのかは、さしあたりはまだ偶然が作用します。しかし、一般的には次の二つの事情がそれを決めます。

 一つは外部から入ってくる最も重要な交易品です。これは事実上、内部の諸生産物がその価値を表す自然なものだったと考えられます。

 もう一つの事情は、内部で譲渡されうる所有物のなかでもっとも主要な要素をなすよう使用対象です。例えば家畜のようなものです。

 貨幣形態そのものも、最初から、貴金属に結晶するとは限らないこと、最初はまだどの商品が貨幣になるかは、偶然的だとマルクスは指摘しています。しかし、二つの事情が決定的だと。

 一つは、外部からもたらされる物品のうち重要なものです。これはある意味では自然です。というのは、すでに指摘されてきたように、商品交換が発生するのは、共同体の内部からではなく、共同体が他の共同体と、あるいは他の共同体の成員と接触するところから生まれるからです。共同体の外部からその共同体にはない物品が交換によってもたらされるわけです。そうして始まった交換は、やがては共同体の内部に反射して、共同体の内部でも交換が盛んになり、共同体の成員同士でも互いに交換し合うことが想定されているわけです(しかしそのためにはすでに共同体の内部に私的所有が生まれ、共同体そのものが半ば崩壊しつつあることも前提されています)。だからこの場合、彼らにとって共通な尺度は、共同体の外部からもたらされた商品、そのうちの誰もが必要とする重要な商品がなるのは自然の成り行きなのです。

 共同体の内部でも商品交換が頻繁になると、やがて貨幣形態は、彼らにとって主要な使用対象をなすような商品に移っていきます。例えば、家畜のようなものです。私的所有の発生は、最初は、共同体において共有されているような土地などではなく、それぞれの家族が個人が占有している動産から生まれるとマルクスは指摘しています(そして家屋やその回りの菜園などから土地の私有も発生する)。しかし動産と言っても道具のようなものは、一般的ではないために、家畜などがそうした役割を担うことになったと考えられわけです。

 (カ)遊牧民族が最初に貨幣形態を発展させるのですが、それは彼らの全財産が動かしうるから、よって直接に譲渡可能なものからなっているからです。また彼らの生活様式が、つまり放牧によって一定の地域を移動する生活が、絶えず別の共同体と接触させ、だからそれぞれの接触する共同体と生産物の交換を促すことになるからです。

 イスラム教はムハンマド(マホメット)によって興されたとされていますが、ムハンマドが属したクライシュ族も、もとをただせばラクダを放牧して生活していた砂漠の民、ベドウィンの一部族でした。ところが、7世紀にビザンチン帝国とササン朝ペルシャの争いによって、ヨーロッパとアジアの通商路(いわゆる「絹の道」)が閉ざされたために、それに代わるものとして、紅海やアラビア半島の西南端を経由する通商路が開発され、その中継貿易を独占して栄えたのが、クライシュ族であり、イスラム教が興った歴史的背景でもあったと言われています。遊牧民族が商業民族へと発展するなかで、イスラム教も興ったわけです。いわゆる経典の民といわれるユダヤ教やキリスト教、イスラム教も、すべて神との契約をその教義としているように、商業民族から興ってきたと考えられています。

 (ヨ)(タ)(レ)
 人間はしばしば人間自身を奴隷として原初的な貨幣材料としてきましたが、不動産である土地をそうしたものにしたことはかつてありませんでした。土地を貨幣材料にするような観念が生まれるためには、土地を売買が発展するブルジョア社会においてのみ出現し得たからです。その始まりは17世紀の最後の3分の1期のことで、それが国家的規模で最初に実施されたのは、それからやっと一世紀後のフランスのブルジョア革命の時でした。

 ここでは奴隷が貨幣材料になったという指摘がありますが、『経済学批判』でも次のような指摘があります。

 〈交換過程の原生的形態である直接的交換取引〔物々交換〕は、商品の貨幣への転化の開始というよりも、むしろ使用価値の商品への転化の開始をあらわしている。交換価値は自由な姿を得ておらず、まだ直接に使用価値に結びつけられている。このことは二重に示される。生産そのものは、その全構造において使用価値を目的とし、交換価値を目的としていない。だから使用価値がここで使用価値であることをやめて、交換の手段、商品になるのは、ただ生産が消費のために必要とされる限度を越えることによってだけである。他方では、諸使用価値は、たとえ両極に配分されているとしても、直接的な使用価値の限界内でだけそれ自体商品となるのであって、したがって商品所有者たちによって交換される諸商品は、双方にとって使用価値でなければならないが、ただし各商品は、その非所有者にとっての使用価値でなければならない。実際には、諸商品の交換過程は、もともと原生的な共同体の胎内に現われるものではなく、こういう共同体の尽きるところで、その境界で、それが他の共同体と接触する数少ない地点で現われる。ここで交換取引が始まり、そして、そこから共同体の内部にはねかえり、これに解体的な作用を及ぼす。だから、異なった共同体のあいだの交換取引で商品となる特殊な使用価値、たとえば奴隷、家畜、金属が、多くの場合、共同体そのものの内部での最初の貨幣を形成する。〉(全集13巻34頁、下線は引用者)

 また『経済学批判要綱』には、次のような叙述があります。

 〈本源的に、貨幣として役立つであろう商品は、すなわち、欲求と消費の対象としてではなく、ふたたびそれを他の諸商品と交換で引きわたすために、交換で受けとられるであろう商品は--もっとも多く欲求の対象として交換され、通用し、したがってふたたび他の特殊的な諸商品と交換されうることがもっとも確実であり、したがってあたえられた社会的組織においてなにより第一に富を代表し、もっとも一般的な需要と供給との対象であり、特殊的な使用価値をもっている、そういった商品である。塩、毛皮、家畜、奴隷がそれであった。そのような商品は、実際上、商品としてのそれの特殊的な姿態において、他の諸商品よりもより多く交換価値としての自分自身に(残念だが、ドイツ語では、消費物と商い物の区別をうまく翻訳できない) 照応している。商品の特殊的な効用--特殊的な消費対象(毛皮)としてであれ、直接的な生産用具(奴隷) としてであれ--が、このばあいにはその商品に貨幣の烙印をおしている。ところが発展が進むにしたがって、ちょうどこの反対のことが起こってくるであろう。すなわち消費の直接的対象とか、または生産の用具とかであることのもっとも少ない商品が、まさしく、交換そのものの必要に役立つという側面をもっともよく代表するようになるであろう。第一のばあいには、商品はその特殊的な使用価値のゆえに貨幣になる。第二のばあいには、商品は、それが貨幣として役立つということから、その特殊的な使用価値を受けとる。永続性、不変性、分割可能性、再合成の可能性、大きな交換価値を小さな容積のなかに含んでいるので相対的に容易な運搬可能性、これらすべてのことがあるために、後の方の段階においては貴金属が特別に貨幣に適したものとされるのである。それと同時に、貴金属は、貨幣の最初の形態からの自然的移行をなしてもいる。生産と交換とがある程度高度になっている段階では、生産用具は諸生産物よりも優位を占める。しかも金属(最初は石) は最初の、しかも不可欠の生産道具である。古代人の貨幣においてとくに大きな役割を演ずる銅のぼあいには、生産用具としての特殊的な使用価値と、商品の使用価値から生じたのでなくて、交換価値としての商品の規定に照応するその他の諸性質(交換手段〔としての規定〕もそのなかに含まれている) との両方が、まだいっしょになっている。さらにつづいて、貴金属は、酸化しないことなどや、その均質性などによって、他の金属から区別され、そしてその次には、消費や生産のためのその直接的な効用はおとるが、その稀少性のゆえからしてすでに純粋に交換にもとつく価値を他の金属よりも多く表示していることによって、より高度な段階にいっそうよく適合している。貴金属は初めから剰余を、つまり富が最初に現象するところの形態を表わしている。金属でさえ、他の諸商品よりは好んで金属と交換される〉(草稿集①150-1頁、下線はマルクスによる強調、太字は引用者)

 またマルクスの抜粋ノートには、『ドイツ人の歴史』からの次のような引用があるのだそうです。

 〈「ホメロスやヘシオドスにあっては、金と銀ではなくて、羊と牡牛とが、価値尺度として、貨幣であった。トロイアの戦場では物物交換が行なわれた。」(ジェイコブ。)(同様に中世では奴隷がそうであった。同上。)〉(同上197頁)

 また学習会では、土地を貨幣材料とする観念が、〈17世紀の最後の三分の一期〉に出現したとありますが、それは具体的にはどのようなものかという質問がありましたが、調べてみましたが、ハッキリしたことは分かりませんでした。ただ〈その実施が国民的規模でこころみられ〉たとする「アシニャ紙幣」については、マルクスは色々なところで言及しています。それを紹介しておきましょう。

 〈ステュアートの意味での観念的貨幣に近いものとしては、フランスのアシニャ紙幣、すなわち「国民財産100フランのアシニャ」をあげることができよう。たしかにこの場合、アシニャがあらわすはずの使用価値、すなわち没収された土地は明示されていたが、度量単位の量的規定は忘れられていて、したがって「フラン」は無意味なことばであった。すなわち、1アシニャ・フランがどれだけの土地をあらわすかは、公けの競売の結果いかんにかかっていた。とはいえ、実際には、アシニャ・フランは、銀貨幣にたいする価値章標として流通し、したがってその減価は、この銀の度量標準で測られたのである。〉(『経済学批判』全集13巻64頁)

 〈一九世紀にはいって貨幣制度についての研究に直接の刺激をあたえたものは、金属流通の諸現象ではなくて、むしろ銀行券流通の諸現象であった。前者は、後者の諸法則を発見するために、さかのぼって研究されたにすぎない。一七九七年以来のイングランド銀行の兌換停止、それにつづいて起こった多数の商品の価格騰貴、金の鋳造価格のその市場価格以下への下落、とくに一八〇九年以来の銀行券の減価、これらは、議会内での党派闘争と議会外での理論上の試合とに直接の実際的な動機をあたえたのであって、いずれも等しく熱情的にたたかわれた。討論の歴史的背景となったものは、一八世紀の紙幣の歴史であった。すなわち、ローの銀行の破綻〔33〕、一八世紀のはじめからなかごろにかけて北アメリカのイギリス諸植民地で価値章標の量の増加にともなってすすんだ地方銀行券の減価、ついで、独立戦争中にアメリカ中央政府によって法律で強制された紙幣(大陸紙幣〔Continental bills〕)、最後に、なおいっそう大規模におこなわれたフランスのアシニャ紙幣の実験がこれである。当時のイギリスのたいていの著述家は、まったく別の法則によって規定される銀行券の流通を、価値章標または強制通用力をもつ国家紙幣の流通と混同しており、そして、この強制流通の諸現象を金属流通の法則で説明すると称しながら、じつは逆に、後者の法則を前者の諸現象から引き出している。われわれは、一八〇〇年から一八〇九年までの時期の多数の著述家たちをすべてとびこして、ただちにリカードに向かうことにする。それは、リカードが彼の先行者たちの説を総括しており、彼らの見解をいっそうするどく定式化しているからでもあり、また彼が貨幣理論にあたえた形態が現在までイギリスの銀行立法を支配しているからでもある。リカードは、彼の先行者たちと同様に、銀行券または信用貨幣の流通をただの価値章標の流通と混同している。彼の頭を支配していた事実は、紙幣の減価と、それと時を同じくする諸商品価格の騰貴とである。ヒュームの場合のアメリカの諸鉱山にあたるものは、リカードの場合にはスレッドニードル街〔34〕の紙幣印刷機であって、リカード自身もある個所で、この二つの要因をはっきりと同一視している。彼の初期の著作はもっぱら貨幣問題だけを扱ったものであるが、それらは、閣僚と主戦党とを味方としたイングランド銀行と、議会の反対党であるウィッグ党および平和党を周囲に結集したその反対者とのあいだで、きわめて激烈な論争がおこなわれていた時代に書かれた。これらの著作は、一八一〇年の地金委員会の有名な報告書の直接の先駆となったのであって、この報告書にはリカードの意見が採用されている〔*〕。貨幣をただの価値章標だと説明するリカードとその追随者たちとがBullionists(地金主義者)とよばれているのは奇妙なことであるが、これはたんにこの委員会の名称に由来するはかりでなく、彼の学説の内容自体にも由来している。リカードは、波の経済学にかんする著書で同じ見解をくりかえし述べ、さらに発展させているが、しかし彼が交換価値、利潤、地代等々についておこなったような研究は、貨幣制度そのものについては、どこでもおこなっていないのである。〉(同全集13巻145頁)

 なお草稿集③では同じ『批判』本文に対する注解として次のような説明があります。

 〈(3)〔注解〕 「アシニャ紙幣」--1790年4月1日、国民議会によって国債償還のために布告されたフランスの紙幣。はじめそれは没収された教会禄の価値の指図証であったが、のちには王室財産および亡命者の財産の指図証ともなった。その後アシニャ紙幣の発行が実際の流通必要量をはるかに凌駕するようになるにしたがって、経済ははなはだしい混乱に陥った。アシニャ紙幣のフランス語の銘文は、「国[有財産。何々リーヴル割当てと書かれている。〉(403頁)

 またマルクスはシーニアの著書からアッシニア紙幣に関連する部分を抜き書きしています。

 〈{アッシニア紙幣。「国民財産100フランのアッシニア紙幣。」法貨。それは、なにか特定のものを代表すると表明することさえしていない点で、他のすべての紙幣とは区別された。「国民財産」という言葉が意味していたのは、この紙幣をもって、〔革命のさいに〕没収された地所を、それの常設的競売の場で買うことによって、この紙幣の価値が維持されうる、ということであった。しかし、なぜこの価値が100フランと名づけられるのか、ということには根拠がなかった。この価値は、そのようにして購買できる土地の相対的な量とアッシニア紙幣の発行数とにかかっていた。(ナソー・W ・シーニア『貨幣調達費……に関する三つの講演』、ロンドン、1830年、78、79〔ぺージ〕。)〉(草稿集②665頁)

 (以下は、「その2」に続きます。)

 

 

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