『資本論』学習資料室

泉州で開催された「『資本論』を読む会」の4年余りの記録です。『資本論』の学習に役立たせてください。

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(6)

2024-01-18 23:15:23 | 『資本論』

『資本論』学習資料No.39(通算第89回)(6)


◎第36パラグラフ(労働日を法的に規制するという原則は勝利をおさめ、1860年以来の進歩になった)

【36】〈(イ)それにもかかわらず、原則は、近代的生産様式の独特な創造物である大工業部門での勝利によって、すでに勝利をおさめていた。(ロ)1853-1860年の大工業のすばらしい発展は、工場労働者の肉体的および精神的な生まれ変わりを伴って、どんな鈍い目にもはっきりと映った。(ハ)法律による労働日の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって一歩一歩かちとられた工場主たちでさえ、まだ「自由な」搾取領域との対照を誇らしげにさし示した(182)。(ニ)いまや「経済学」のパリサイ人たちは、法律によって規制される労働日の必然性への洞察を、彼らの「科学」の特徴的な/新業績として宣言した(183)。(ホ)だれにもわかるように、大工場主たちが不可避な運命に身を任せ、それに逆らうのをやめてからは、資本の抵抗力はしだいに弱まってゆき、それと同時に労働者階級の攻撃力は、直接には利害関係のない社会層のなかにあった労働者階級の同盟者の数とともに増大してきた。(ヘ)こうして、1860年以来の比較的急速な進歩とはなったのである。〉(全集第23a巻388-389頁)

  (イ)(ロ)(ハ) それにもかかわらず、原則は、近代的生産様式の独特な創造物である大工業部門での勝利によって、すでに勝利をおさめていました。1853-1860年の大工業のすばらしい発展は、工場労働者の肉体的および精神的な生まれ変わりを伴って、どんな鈍い目にもはっきりと映りました。法律による労働日の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって一歩一歩かちとられた工場主たちでさえ、まだ「自由な」搾取領域との対照を誇らしげにさし示したのです。

  参考のためにフランス語版をまず紹介しておきます。

  〈けれども、近代的生産様式の固有の創造物である大工業部門における勝利によって、原則は終局的に凱歌をあげていた。1853年から1860年までの大工業部門の驚異的な発展は、労働者の肉体的、精神的な再生と肩を並べて進み、さほど先見の明もない人々の目をも驚かせた。労働日の法律上の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって少しずつ力ずくでかちとられてきた工場主自身が、いまなお「自由な」搾取部門とこの法律の適用を受ける工場とのあいだに存在している対照を、誇らかに浮き彫りにした(149)。〉(江夏・上杉訳304頁)

  全集版の〈大工業部門での勝利によって、すでに勝利をおさめていた〉という文言はやや分かりにくいですが、フランス語版では〈けれども、近代的生産様式の固有の創造物である大工業部門における勝利によって、原則は終局的に凱歌をあげていた。〉(江夏・上杉訳304頁)となっていて分かりやすいです。ここで〈原則〉といわれているのは、労働日を法的に規制するという原則のことでしょう。大工業の発展そのものが労働者の労働日を法的に規制する必要を原則としたということでしょうか。そしてそれは工場労働者の肉体的・精神的な生まれ変わりをもたらすことによって、誰の目にもハッキリしたということです。法律によってこの半世紀にわたる攻防によって少しずつ労働日の制限や規制を受け入れざるを得なかった工場主たちでさえ、いまだ法的規制を逃れている他の搾取領域との対照を、つまり規制によって保護された工場労働者の肉体的・精神的な生まれ変わった姿を、誇らしげに指し示したということです。
  〈法律による労働日の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって一歩一歩かちとられた工場主たちでさえ、まだ「自由な」搾取領域との対照を誇らしげにさし示した(182)。〉という部分はイギリス語版では〈法的制限と規制が、南北戦争後の半世紀、工場主らを、一歩一歩絞め上げて行ったが、今や、その工場主自身が、依然として「自由」に搾取を続ける部門と、工場法下にある部門との違いにこれ見よがしに言及するのである。〉となっています。全集版などのいう〈半世紀にわたる内乱〉というのは1802年の最初の法規制から1853年の労働日の確定までの過程を指していると思いますが、イギリス語版ではそれが〈南北戦争後の半世紀〉となっています。しかしアメリカにおける南北戦争の勃発は1861年勃発ですから年代が合いません。あるいはここでいう〈南北戦争〉は別の戦争なのでしょうか。

  (ニ) いまや「経済学」のパリサイ人たちは、法律によって規制される労働日の必然性への洞察を、彼らの「科学」の特徴的な新業績として宣言したのでした。

  まずフランス語版です。

  〈「経済学」のパリサイ人たちは、自分たちの「科学」の特徴的な新発見は、労働日の法的制限の必然性を認めたことだ、と言明しはじめた(150)。〉(同前)

  〈パリサイ人〉については、新日本新書版では〈〔偽善的独善者〕〉という訳者注が付いています(513頁)。要するに、ブルジョアに奉仕することをもっぱらとしてきた「経済学」の偽善的で独善的な論者たちも、今になって、労働日が法律によって規制される必然性を「洞察」したのが、自分たちの「科学」の新しい業績だなどと言い出したということです。

  (ホ)(ヘ) だれにもわかりますように、大工場主たちが不可避な運命に身を任せ、それに逆らうのをやめてからは、資本の抵抗力はしだいに弱まってゆき、それと同時に労働者階級の攻撃力は、直接には利害関係のない社会層のなかにあった労働者階級の同盟者の数とともに増大してきました。こうして、1860年以来の比較的急速な進歩となったのです。

  フランス語版てす。

  〈容易に理解されるように、工業の大立物連が、自分たちでは妨げることのできないものに服従して、既定の結果と和解までしたとき、資本の抵抗力はしだいに弱まっていったが、他方、労働者階級の攻撃力が、闘争ではなんら直接的な利害関係をもたない社会層中の労働者階級の同盟者の数とともに、増大した。そんなわけで、1860年以来の比較的急速な進歩が生じたのである。〉(同前)


  標準労働日を制定する必要が確固としてくるにしたがって、資本家たちの抵抗も次第に弱まってきて、それに反比例するように、労働者階級の力も、社会のさまざまな階層の同盟者の数も増大するなかで、強まり、1860年以来の比較的急速な進歩となったということです。この進歩の内容は次のパラグラフで明らかにされています。

  『歴史』は工場法が綿業から他の産業部門にも拡張していった背景について次のように述べています。

  〈工場法は一産業から他産業へ拡張適用されていったが、それは繊維産業において次第に確立されていった規制と監督の原理をどのように考えるかの仕かたが変化していったことと歩調をあわせている。わたくしたちが前章までにのべたように、繊維産業に対する立法の制定は、一般に人びとが暗黙のうちに、または公然と承認しているように、これらの害悪が繊維産業、いいかえるならば、工場制工業に固有である一見して明らかな弊害を理由として、要求されたのであった。……綿工場で働く児童に最初に規制が適用された本当の理由は、綿業が一定の地域に集中しており、多数の労働者が働く大きな工場のなかで操業され、しかも、そのことがある程度まで知れ渡っていたので、政府にとって、その実情がどのようなものであり、また、どのようにすればその対策を講じることができるか、ということを学ぶことが比較的容易であったからである。他の産業の状態が一層深く研究されるようになれぽ、それだけ、それらの産業を無制限の競争にまかせ/おくことが困難になるであろう、ということを同委員会の委員たちは理解することができなかった。婦人.児童労働に対する規制は非常に緩慢にしか進展しなかったし、ことに児童の場合には、ほとんど犯罪的といってよいほど、その進展は遅々としたものであった。だが、規制は確固とした経験的原則にもとついて行なわれた。ある産業において一般的である状態について正確な知識を得ることは、法的規制を実施するための不可欠の条件である。この理由からすれば、綿業は最も取り締まりやすい職種であり、ひとたびこの職種において労働時間と労働条件に関する規制原則が確立されれば、政府は一層進んだ立法制定のための出発点として、その原則をたえず念頭におくことができた。もしこの法的規制を受けた産業が他の産業との競争に敗退するどころか、逆に、前進し、その機械を改善して、競争者よりも一層高度の水準の繁栄を享受したことが実証されるならぽ、そのとき、たとえその改善が立法制定によるものでなくても、いずれにせよ、良いことが行なわれたのであり、害になることではない、という強い印象が与えられたことであろう。そうして、現実はまさにそのとおりになった。いままで、だれ一人として、議会の内外において、決起し、「これが諸君の哀れな繊維産業である。諸君の悲惨な綿業である。その衰退と破滅はすべて工場法によるものである--ただちに工場法を撤廃しようではないか」と論じることのできる者はいなかった。かれらが認めねばならなかったことは、法的規制を受けた産業の改善は明白であり、顕著であるのに対して、他の産業における不法行為は依然として醜聞の種である、ということであった。そうして、次第に政治家の発言のなかに、つぎのような確信があらわれはじめた。すなわち、過度労働と不衛生な状態の害悪は、1、2の産業だけに固有なのではなく、特別に恵まれた状態のもとにある産業をのぞけば、すべての産業にひとしくみられるものである。事実、わたくしたちは、競争をゆるし、各世代のうちの幼い子供たちの一定部分を、文字どおり「酷使」し、しかも、児童の悲惨なまでに低い賃金以外にはなんの報酬も与えずにおくことによって、資本家は国民的資源を枯渇させることをゆるしていたのである。
  1845年と1860年のあいだに、世論は驚くほど急激に、徹底的に変化した。「10時間労働日法案」をめぐる白熱した論争をみれば明らかなように、1844年には、同法案に対する反対は最も手厳しいものであった。/だが、1861年には、「イギリス学術振興協会・経済部会」の会長は、その演説のなかでつぎのようにのべることができた。「10時間労働日法案」の結果は、「すべての党派が大いに誇りにできるものである。事実、つぎのことが一般的に認められている。すなわち、もし一つの変化が生じて、それが他のなににもまして、わが国の社会機構を強化統合し、多くの腐敗と不満を一掃し、わが国の製造業を安全な基盤の上に立脚させ、そうして、決して軽んじることのでぎない外国競争の影響に対抗できるだけの資力をわたくしたちに与えたとすれば、それは、まさに労働時間に関する堅固な法的干渉制度を製造業に確立するための、賢明にして、根気強い、すぐれた努力によってもたらされた変化にほかならない。」……そうして、1867年には、工場法をすべての工場と仕事場に拡張適用する提案を、世論も好意的に受け入れた。〉(123-125頁)


◎原注182

【原注182】〈182 たとえば、1863年3月24日の『タイムズ』あての手紙のなかのE・ポッター。『タイムズ』は10時間法にたいする工場主の反逆を彼に回想させている。〉(全集第23a巻389頁)

  これは〈法律による労働日の制限や規制を半世紀にわたる内乱によって一歩一歩かちとられた工場主たちでさえ、まだ「自由な」搾取領域との対照を誇らしげにさし示した(182)。〉という本文に付けられた原注です。
  工場主たちが誇らしげに指し示した一例として、1863年3月24日付『タイムズ』あての手紙のなかのE・ポッターを見よということでしょうか。その内容はよく分かりませんが『タイムズ』の記事が10時間法に対する工場主たちの反逆をポッターに回想させているということのようです。
  E・ポッターを人名索引で調べると次のようになっています。

  〈ポツター,エドマンド Potter,Edmund イギリスの工場主,政治家,自由貿易論者。〉(全集第23b巻84頁)

  「第7篇 資本の蓄積過程」の「第21章 単純再生産」にポッターの書簡が長々と引用されていますので、関連する部分を紹介しておきましょう。

  〈アメリカの南北戦争と、それに伴って起きた綿花飢謹とのために、人の知るように、ランカシャやその他の地方で多数の綿業労働者が街頭に投げ出された。労働者階級自身のなかからも、その他の社会層からも、イギリスの植民地や合衆国への「過剰者」の移住を可能にするために国家の援助や国民の自発的寄付を求める叫びがあがった。そのとき、『タイムズ』(1863年3月24日号)は、マンチェスター商業会議所の前会頭エドマンド・ポ・タの一つの書簡を公表した。彼の書簡は、適切にも、下院では「工場主宣言」と呼ばれた。ここでは、そのなかから、労働力にたいする資本の所有権があからさまに表明されているいくつかの特徴的な箇所をあげておこう。/
  「綿業労働者には次のように言ってよい。彼らの供給は大きすぎる。……それは、おそらく3分の1は減らされなければならない。そうすれぽ、残った3分の2にたいする健全な需要が現われるであろう。……世論は移民を促している。……雇い主」(すなわち綿業工場主)「は、自分の労働供給が取り去られるのを見て喜んではいられない。彼はそれを不正とも不法とも思うであろう。……もしも移民が公共の財源から援助を受けるとすれば、雇い主には、意見を述べる権利があり、また、おそらくは抗議する権利があるであろう。」
  同じポッターはさらに続けて次のようなことを論じている。すなわち、綿業がどんなに有益かということ、「それは疑いもなく人口をアイルランドからもイングランドの農業地帯からも流し去った」ということ、その規模がどんなに巨大かということ、それは、1860年にはイギリスの全輸出貿易額の13分の5を供給したということ、それは数年後にはさらに市場の拡大、ことにインド市場の拡大によって、また十分な「綿花供給を1ポンド当たり6ペンスで」無理取りすることによって、拡張されるであろうということがそれである。それから彼は次のように続ける。
  「時が--たぶん1年か2年か3年が--必要量を生産するであろう。……そこで私は尋ねたい、この産業は維持するに値するか、この機械」(すなわち生きている労働機械)「を整えておくことは労に値するか、そして、これを放棄しようなどと考えるのは最大の愚ではないか! 私はそうだと思う。たしかに、労働者は所有物ではないし、ランカシャや雇い主たちの所有物ではない。だが、彼らは両者の強みであり、精神的な、訓練された力であって、この力は一代で補充できるものではない。ところが、もう一つの、彼らが使用する機械は、大部分は、12カ月で有利に取り替えられたり改良されたりすることもあるであろう。労働力の移住を奨励したり許可したりして(!) いったい資本家はどうなるのか?/
  この心痛は侍従長カルプを思い出させる。
  「……労働者の精鋭を取り去ってしまえば、固定資本は非常に減価し、流動資本は劣等な労働のわずかな供給では戦いに身をさらさないであろう。……われわれは、労働者たち自身も移住を希望しているということを聞く。彼らがそれを望むのは非常にもっともである。……綿業の労働力を取り上げることによって、彼らの賃金支出を3分の1とか500万とか減らすことによって、綿業を縮小し圧迫すれば、そのとき労働者たちのすぐ上の階級である小売商人はどうなるだろうか? 地代は、小屋代は、どうなるだろうか? 小さな農業者、いくらかましな家主、そして地主はどうなるだろうか? そして、このような、一国の最良の工場労働者を輸出し一国の最も生産的な資本や富の一部分を無価値にすることによって国民を弱くしようとする計画以上に、一国のすべての階級にとって自殺的な計画がありうるだろうか?」「私は、救済を受ける人々の道徳的水準を維持するために、ある種の強制労働を伴う特別な法律的取締りのもとに、綿業地帯の救貧局に付設される特別委員会の管理する2年か3年にわたる500万か600万の貸付を勧告する。……大規模な、あとをからにしてしまう移民と、一地方全体の価値と資本とをなくしてしまうこととによって、彼らの最良の労働者を捨て去り、あとに残った人々を堕落させ無気力にするということ、地主や雇い主にとってこれ以上にわるいことがありうるであろうか?」/
  綿業工場主たちのえり抜きの代弁者ポッターは、「機械」の二つの種類を区別している。それはどちらも資本家のものであるが、一方は彼の工場のなかにあり、他方は夜と日曜は外の小屋に住んでいる。一方は生命がなく、他方は生きている。生命のない機械は、毎日損傷して価値を失ってゆくだけではなく、その現に存在する大群のうちの一大部分が不断の技術的進歩のために絶えず時代遅れになってゆき、わずか数か月でもっと新しい機械と取り替えることが有利になることもある。反対に、生きている機械は、長もちがすればするほど、代々の技能を自分のうちに積み重ねれば重ねるほど、ますます改良されてゆくのである。『タイムズ』はこの大工場主に向かってなかんずく次のように答えた。
  「E ・ポッター氏は、綿業工場主たちの非常な絶対的な重要さを痛感するあまり、この階級を維持しその職業を永久のものにするために、50万の労働者階級をその意志に反して一つの大きな道徳的救貧院のなかに閉じ込めようとしている。この産業は、維持するに値するか? とポッター氏は問う。たしかに値する、あらゆる公正な手段によって、とわれわれは答える。機械を整えておくことは労に値するか? とさらにポッター氏は問う。われわれはここではたと立ち止まる。機械とポッター氏が言うのは人間機械のことである。」なぜならば、彼は、自分はそれを絶対的所有物として取り扱うつもりはない、と断言しているからである。じつを言えば、われわれは、人間機械を整えておくこと、すなわち、必要になるまでそれを閉じ込めて油を塗り込んでおくことが『労に/値する』とは思わないし、また可能だとさえも思わないのである。人間機械には、いくら油を塗っても磨きをかけても働かずにいれぽ錆びるという性質がある。そのうえ、人間機械は、一見してわかるように、かってに蒸気を起こして破裂したり、われわれの大都市であばれ回ったりすることもできる。ポッター氏の言うように、労働者の再生産にはいくらか長い時間がかかるかもしれないが、しかし、機械技術者と貨幣とがあれば、いつでもわれわれは勤勉で屈強な働き手を見いだすであろうし、それによって、われわれが使いきれないほど多くの工場主を製造するであろう。……ポッター氏は、1年か2年か3年でこの産業が復活するもののように言って、われわれに、労働力の移住を奨励したり許可したりしないように望んでいる! 労働者が移住を望むのは当然だ、と彼は言う。しかし、彼の考えるところでは、この国は、この50万の労働者とこれにたよっている70万人とを、彼らの希望に反して、綿業地帯に閉じ込め、その必然の結果である彼らの不満を暴力で抑えつけ、彼らを施し物で養わなければならないのであり、しかも、いっさいは、綿業工場主たちがいつか再び彼らを必要とするかもしれないということをあてにしてのことなのである。……『この労働力』を、石炭や鉄や綿花を扱うのと同じようにこれを扱おうとする人々の手から救うためにこの島国の大きな世論がなにかをしなければならないときが来たのだ。」
  この『タイムズ』の論説は、ただの知恵くらべでしかなかった。「大きな世論」というのは、じつは、工場労働者は工場の付属動産だというポッター氏の意見と同じだったのである。彼らの移住は阻止された。人々は彼らを綿業地帯の「道徳的救貧院」のなかに閉じ込めた。そして、彼らは相変わらず「ランカシャの綿業工場主たちの強み」となっているのである。〉(全集第23b巻747-751頁)


◎原注183

【原注183】〈183 なかでも、トゥックの『物価史』の協力者であり編集者であるW・ニューマーチ氏。世論にたいしていくじのない譲歩をすることが科学的な進歩なのだろうか?〉(全集第23a巻389頁)

  これは〈いまや「経済学」のパリサイ人たちは、法律によって規制される労働日の必然性への洞察を、彼らの「科学」の特徴的な新業績として宣言した(183)。〉という本文に付けられた原注です。トゥックの『物価史』の協力者であり編集者であるニューマーチが、世論にいくじのない譲歩をしたということで、そうした〈「経済学」のパリサイ人〉の一人だと述べています。第36ラグラフの付属資料に草稿集④からの引用を付けましたが、そこでは次のように述べています。

  〈それにしても工場主たちの実践的抵抗は、彼らの代弁者かつ弁護者である職業的経済学者たちが行なった理論的抵抗よりも大きくはなかった。というのは、なにしろ、トゥックの『物価史』の共編者であるニューマーチ氏が、イギリス技芸協会(協会の名称は調べること)の、1861年9月にマンチェスターで開かれた最近の会議で、経済学部門の議長として、工場等における標準労働日の法律的規制およぴ強制的制限の必然性を洞察したことは今日の経済学の最新業績の一つであり、今日の経済学はこの点でその先行者たちよりもすぐれているのだ、と力説しないではいられないと感じたほどなのだから!〉(草稿集④341頁)

  ここではニューマーチは俗物としてあげられていますが、『資本論』の第3部第5章(篇)では議会の証言者の一人としてマルクスはいろいろとその証言を引用して論じています。『資本論辞典』からその概要を紹介しておきましょう。

  ニューマーチ Wi11iamNewmarch (1820-1882) イギリスの経済学者・統計学者.……銀行業等にかんする知識を通じてトゥックの知過を受け,トゥックの主著“History of Prices"第4巻(1848) の編集に当っても協力したが.同書の第5巻,第6巻(1857)では共著者として,数多くの統計の蒐集と分析に当った.……/1857年6月5日,彼は下院の銀行法特別委員会に喚問され,イングランド銀行の二部局分離.公定歩合の水準,運営機構,金属準備などの諸問題について証言を行なった。『資本論』において引用されているのは,この証言であるが,特にその後半には厳密な批判が加えられている.……(以下、『資本論』で取り上げられている証言の主な内容とその問題点が指摘されていますが省略します。)〉(526頁)


◎第37パラグラフ(それ以外のさまざまな工場への工場法の適用)

【37】〈(イ)染色工場と漂白工場(184)とは1860年に、レース工場と靴下工場とは1861年に、1850年の工場法の適用を受けることになった。(ロ)『児童労働調査委員会』の第一次報告書(1863年)によってこれと運命を共にしたものには、あらゆる種類の土器の製造場(製陶工場だけではない)、マッチ工場、雷管工場、弾薬筒工場、壁紙工場、綿びろうど工場(fustian cutting)があり、また「仕上げ」という名称で一括される多くの工程があった。(ハ)1863年には「屋外漂白業(185)」と製パン業とが特別な法律の適用を受けることになり、これによって、屋外漂白業は児童と少年と婦人との夜間(晩の8時から朝の6時まで) の労働を禁止され、製パン業は晩の9時から朝の5時までは18歳未満の製パン職人を使用することを禁止された。(ニ)その後も前述の委員会からは農業と鉱山業と運輸業とを除いてイギリスのあらゆる重要産業部門から「自由」を奪おうとする諸提案が出されたが、これについてはあらためて述べることにしよう(185a)。〉(全集第23a巻389頁)

  (イ) 染色工場と漂白工場とは1860年に、レース工場と靴下工場とは1861年に、1850年の工場法の適用を受けることになりました。

   前パラグラフで労働時間を法的に規制する原則が勝利することよって、〈1860年以来の比較的急速な進歩とはなった〉とありましたが、ここではまず染色工場と漂白工場に1860年に、レース工場と靴下工場には1861年に、それぞれ1850年の工場法が適用されるようになったということです。
  1850年の工場法とは、第34パラグラフにありますように、標準労働日を確定した法律です。それは直接には1848年法に少年と婦人の労働時間を朝の5時半から晩の8時半までの15時間を朝の6時から晩の6時までの12時間に変更しただけでしたが、その後、1853年には1850年法に欠けていた児童労働に関する規定も入れられ、〈わずかばかりの例外を除いて、1850年の工場法は、それの適用を受けた産業部門では、すべての労働者の労働日を規制した〉と言われていたのでした。それが綿業だけではなくて、染色工場や漂白工場、レース工場や靴下工場にも適用されたということです。

  (ロ) 『児童労働調査委員会』の第一次報告書(1863年)によってこれと運命を共にしたものには、あらゆる種類の土器の製造場(製陶工場だけではありません)、マッチ工場、雷管工場、弾薬筒工場、壁紙工場、綿びろうど工場(fustian cutting)があり、また「仕上げ」という名称で一括される多くの工程がありました。

  『児童労働調査委員会』の第一次報告書(1863年)については、これまでにも第3節の第3パラグラフや第8パラグラフで製陶業における児童労働の実態を紹介するのに利用されています。第12パラグラフでは壁紙工場の児童労働の実態を紹介するのに引用されています。また第5節の原注114で製陶工場主たちが強制法が必要であると確信したという文言が引用されています。それ以外にも、後の章でもいろいろと引用されたりしていますが、その紹介は不要でしょう。
  要するに『児童労働調査委員会』の第一次報告書が1863年に出されたことによって、そこで取り上げられている。土器の製造業、マッチ工場、雷管工場、弾薬筒工場、壁紙工場、綿びろうど工場、あるいは「仕上げ」という名称で一括される多くの工程に働く児童たちに対しても、やはり1850年法が工場法として適用されるようになったということでしょうか。

  (ハ) 1863年には「屋外漂白業」と製パン業とが特別な法律の適用を受けることになりました。そしてこれによって、屋外漂白業は児童と少年と婦人との夜間(晩の8時から朝の6時まで) の労働が禁止され、製パン業は晩の9時から朝の5時までは18歳未満の製パン職人を使用することが禁止されたのです。

  また1863年には「屋外漂白業」と製パン業とが特別な法律の適用を受けるようになったということです。そしてこれによって、屋外漂白業では児童と少年と婦人の夜間労働が禁止され、製パン業は18歳未満の労働者の夜間労働を禁止されたということです。

  (ニ) その後も前述の委員会からは農業と鉱山業と運輸業とを除いてイギリスのあらゆる重要産業部門から「自由」を奪おうとする諸提案が出されたが、これについてはあらためて述べることにしましょう。

  その後も『児童労働調査委員会』から農業と鉱山業と運輸業とを除いた、あらゆる重要産業部門を対象にした児童労働の規制を行う緒提案が出されたということです。しかしこれについてはあらためて述べるとだけ書いているだけです。


◎原注184

【原注184】〈184 (イ)1860年に制定された漂白業と染色業とに関する法律は、労働日を1861年8月1日には暫定的に12時間に、1862年8月1日には最終的に10時間に、すなわち平日は10時間半、土曜は7時間半に短縮することを規定している。/(ロ)ところが、そのいやな1862年がやってきたときには、また古い茶番が繰り返された。(ハ)工場主諸君は、少年と婦人を12時間働かせることをもう1年だけ猶予してもらいたい……と議会に請願した。(ニ)「現在の営業状態(綿花飢饉時代の)では、毎日12時問ずつ労働してできるだけたくさん労賃をかせぐことが許されれば、労働者にとって大きな利益である、と。……この趣旨の一法案を下院に提出することにはすでに成功していた。それが成立しなかったのは、スコットランドの漂白業労働者の運動によるものだった。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、14、15ページ。) (ホ)こうして、労働者の名で語っている体(テイ)を装ったのに、当の労働者に撃退されてしまったので、資本は、次には法律家のめがねを借りてきて、1860年の法律は、「労働保護」のための法律がみなそうであるように、意味の紛らわしいひねった言葉づかいで書かれていて、「つや出し工」や「仕上げ工」をその適用範囲から除外する口実を与えているということを発見した。(ヘ)いつでも資本の忠僕であるイギリスの司法権は、「民事」裁判所によって、三百代言的論法を承認した。(ト)「それは労働者のあいだに大きな不満の念をかきたてたのであるが、用語の定義の不完全が口実にされて立法の明白な意図が無にされてしまうのは、残念至極である。」(同前、18ページ。)〉(全集第23a巻389-390頁)

  これは〈染色工場と漂白工場(184)〉という本文に付けられた原注です。やや長文ですので、文節に分けて検討しておきましょう。

  (イ) 1860年に制定された漂白業と染色業とに関する法律は、労働日を1861年8月1日には暫定的に12時間に、1862年8月1日には最終的に10時間に、すなわち平日は10時間半、土曜は7時間半に短縮することを規定しています。

  1860年に制定された漂白業と染色業に関する法律は、労働日を最初は暫定的に12時間に、
そして最終的には10時間に規制するものだったということです。
  『61-63草稿』から関連する部分を紹介しておきましょう。

  〈186O年に、漂白染色作業場法が発布された。
  捺染作業場法漂白染色作業業法工場法における規定は、それぞれ異なっている。  「漂白・染色作業場法はすべての婦人および少年の労働時間を午前6時から午後8時までのあいだに制限しているが、児童は午後6時すぎに労働させることを許していない。捺染作業場法は婦人、少年、児童の労働時間を午前6時から午後10時までのあいだに制限し、児童については、土曜日以外のどの日にも午後6時以前に5時間、どこかの学校に出席してくることを条件としている」(『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1862年、20、21ページ)。「工場法は、1日に1時間半が与えられるべきこと、この1時間半は午前7時30分から午後6時のあいだに取られるべきであり、そのうち1時間は午後の3時以前に与えられるべきこと、また児童、少年、婦人のいずれも、いかなる日も午後の1時以前に、食事のための少なくとも30分の休憩時間を置かずに5時間以上使用されてはならないこと、を規定している。……捺染法には、……食事時間についての規定はまったくない。したがって、少年も婦人も、靭の6時から夜の10時まで、食事のための休止なしに労働してもいい」(同前、/21ページ)。「捺染作業場では、児童は朝の6時から夜の10時までのあいだ労働してもいい。……漂白作業場法によれば、児童は、工場法の規定どおりに労働することしか許されないが、少年および婦人については、日中行なわれてきた彼らの労働が引き続き晩の8時まで継続されてもいい」(同前、22ページ)。〉(草稿集④362-363頁)

  (ロ)(ハ)(ニ) ところが、そのいやな1862年がやってきたときには、また古い茶番が繰り返されたのです。工場主たちは、少年と婦人を12時間働かせることをもう1年だけ猶予してもらいたい……と議会に請願しました。「現在の営業状態(綿花飢饉時代の)では、毎日12時問ずつ労働してできるだけたくさん労賃をかせぐことが許されれば、労働者にとって大きな利益である、と。……この趣旨の一法案を下院に提出することにはすでに成功していた。それが成立しなかったのは、スコットランドの漂白業労働者の運動によるものだった。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、14、15ページ。) 

  〈そのいやな1862年〉という部分は新日本新書版では〈不吉な年である1862年〉(514頁)となっています。ようするに2年間の猶予期間が終わる1862年ということです。それが近づくと、おきまりの工場主たちの反撃が生じたということです。あと1年猶予してほしいという請願が議会に出されということで。
  彼らはそれが如何にも労働者のためであるかに装って、1861年の南北戦争によって綿花の生産がストップして綿花飢饉が生じたことを理由に、毎日12時間労働して労賃をかせぐことが労働者にとっても利益だから、などという理由をあげたということです。しかしそれが成立しなかったのはスコットランドの漂白業労働者の運動によるものだったと報告書は書いています。

  『61-63草稿』では工場主たちの反対理由について次のよう述べています。

  〈プラトンが分業をよしとするおもな論拠は、1人の人がさまざまな労働を行ない、したがっていずれかの労働を副業として行なう場合には、生産物が労働者の都合を待たねばならないが、むしろ逆に、労働のほうが生産物の要求するところに従うべきだ、ということであったが、最近、漂白業者と染色業者が、工場法{漂白染色作業場法は1861年8月1日に施行された}に従うことに抵抗して、同じことを主張している。すなわち、工場法--この問題に関連する同法の諸条項は漂白云々〔漂白・染色作業場法〕にもそのまま用いられている--によれば、「食事のために与えられている1時間半のどの部分であろうと、食事時間中に児童、少年、婦人を使用してはならない、あるいは、なんらかの製造工程が続けられているいかなる場所にも彼らをとどめることは許されない。またすべての少年および婦人にたいして、1日のうちの同じ時間に食事時間が与えられなければならない」(『工場監督官報告書。1861年10月31日にいたる半年間』、ロンドン、1862年)。〔同報告書は言う、〕--「漂白業者は、食事時間をいっせいに与えるという彼らにたいする要求に不平を鳴らして、次のように抗弁する、--工場の機械ならいつ停めても損害は生じないかもしれないし、また停めて生じる損失は生産を逸することだけであるけれども、けば焼き、水洗い、漂白、つや出し、染色のようなさまざまの作業は、どの一つをとってもそれを勝手なときに停めれば、損害の生じる危険がかならずある。……労働者の全員に同一の食事時間を強制することは、作業の不完全さからときとして高価な品物を損傷する危険にさらすことになるかもしれない、と」(同前、21、22ページ)。(同一の食事時間を決めるのは、そうしなければそもそも労働者に食事時間が与えられているかどうかを監督することさえ不可能になるからである。)〉(草稿集④509頁)

   (ホ) こうして、労働者の名で語っている体(テイ)を装ったのに、当の労働者に撃退されてしまったので、資本は、次には法律家のめがねを借りてきて、1860年の法律は、「労働保護」のための法律がみなそうであるように、意味の紛らわしいひねった言葉づかいで書かれていて、「つや出し工」や「仕上げ工」をその適用範囲から除外する口実を与えているということを発見したのでした。

  結局、労働者のためであるかに装ったのに、肝心の労働者自身からの反撃で撃退されてしまった工場主たちは、今度は法律家に頼って、1860年の法律は、意味の紛らわしい言葉で書かれているとか、「つや出し工」や「仕上げ工」をその適用範囲から除外する口実を与えているという発見などをしたということです。

  (ヘ)(ト) いつでも資本の忠僕であるイギリスの司法権は、「民事」裁判所によって、三百代言的論法を承認した。「それは労働者のあいだに大きな不満の念をかきたてたのであるが、用語の定義の不完全が口実にされて立法の明白な意図が無にされてしまうのは、残念至極である。」(同前、18ページ。)

  そして資本の忠実な僕である司法権は、そうした工場主たちの弁護を買って出た法律家たちの屁理屈を承認したのでした。監督官報告書は、そうした判決に労働者たちは大きな不満をもったが、ささいな用語の詮索によって律法の明確な意図がはぐらかされたのは、非常に遺憾であると書いているということです。


◎原注185

【原注185】〈185 (イ)「屋外漂白業者」は、婦人には夜間労働をさせていないといううそによって、1860年の「漂白業」に関する法律の適用を免れていた。(ロ)このうそは工場監督官によってあばかれたが、同時に、議会は、労働者の請願によっても、草原の清涼と結びついた「屋外漂白業」の観念を取り去られた。(ハ)この屋外漂白業では、華氏の90度から100度の乾燥室が使用されていて、そこではおもに少女が労働している。(ニ)「冷却」〔“cooling"〕というのは、時おり乾燥室から外気に逃げ出すことを表わす術語である。(ホ)「乾燥室にいる少女15人。リンネルには80度から90度、ケンブリク〔上質リンネル〕には100度かそれ以上の高温。12人の少女が約10フィート平方の小室でアイロンをかけたり布を広げたりしており、まんなかに密閉したストーブが一つある。少女たちはストーブのまわりに立っており、ストーブは恐ろしい熱気を放射してアイロン女工たちのために急速にケンブリクをかわかす。この女工たちの時間は制限されていない。忙しい時には、彼女らは何日も続けて夜の9時か12時まで労働する。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、56ページ。)(ヘ)ある医師は次のように言明している。(ト)「冷却のために特別な時間は与えられていないが、気温が堪えられないほどになるとか、女工の手が汗でよごれたときには、数分間出て行くことが彼女らに許されている。……この女工たちの病気の手当てをしたときの私の経験から、彼女たちの健康/状態が紡績女工のそれよりもずっと劣っていることを確認せざるをえない。」(それなのに、資本は議会への請願書のなかでは彼女たちをルーベンスのような手法で超健康的に描いたのだ!)「彼女たちの病気のうちで最も目につくのは、肺結核、気管支炎、子宮病、最もひどい形のヒステリー、そしてリューマチスである。すべてこのようなことは、私の信ずるところでは、直接または間接に、彼女たちの作業室の熱しすぎた空気から起きるのであり、また、冬のあいだ帰宅するときに彼女たちを冷たい湿った大気から保護するための十分な気持ちのよい衣服がないことから起きるのである。」(同前、56、57ページ。)(チ)工場監督官たちは、上きげんの「屋外漂白業者」から遅ればせにかち取られた1863年の法律について、次のように述べている。(リ)「この法律は、それが与えているように見える保護を労働者に与えることに失敗しただけでなく、……それは、児童と婦人が晩の8時以後に労働している現場を押えたときにはじめて保護が加えられるように書かれてあり、しかも、その場合でも、所定の証明方法には、ほとんど罰することができなくなるようなただし書がついているのである。」(同前、52ページ。)(ヌ)「人道的な目的や教育上の目的をもつ法律としては、それは完全に失敗している。なぜならば、年齢に関する制限も男女の差別もなく、漂白工場の付近の家族の社会的な慣習も顧慮せず、食事は都合しだいであったりなかったりで毎日14時間、おそらくはもっと長い時間労働することを、婦人や児童に許すということ、または、同じことになるのだが、彼らに強制するということは、人道的とは言えないからである。」(『工場監督官報告書。1863年4月30日』、40ページ。)〉(全集第23a巻390-391頁)

  これは〈1863年には「屋外漂白業(185)」と製パン業とが特別な法律の適用を受けることになり、〉という本文に付けられた原注です。つまり「屋外漂白業」についての注といえます。

  (イ) 「屋外漂白業者」は、婦人には夜間労働をさせていないといううそによって、1860年の「漂白業」に関する法律の適用を免れていました。

  『歴史』にも〈1860年7月二七日、法案(「漂白・染色仕事場法案」--引用者)は第三読会を通過した。同法は屋外の漂白場をのぞく屋内の漂白・染色場に「工場法」を適用した。〉(140頁)とあります。その理由は、婦人には夜間労働をさせていなといううそだったということです。しかし同じ『歴史』は〈1862年、屋外の漂白場における深夜業を禁止した「法律」が議会を通過した。〉(同前)とも述べています。

  (ロ)(ハ)(ニ)(ホ) このうそは工場監督官によってあばかれたました。同時に、労働者の請願によっても、議会は、草原の清涼と結びついた「屋外漂白業」の観念は取り去らわれました。この屋外漂白業では、華氏の90度から100度(セ氏約32度ないし約38度)の乾燥室が使用されていて、そこではおもに少女が労働しています。「冷却」〔“cooling"〕というのは、時おり乾燥室から外気に逃げ出すことを表わす術語なのです。「乾燥室にいる少女15人。リンネルには80度から90度、ケンブリク〔上質リンネル〕には100度かそれ以上の高温。12人の少女が約10フィート平方の小室でアイロンをかけたり布を広げたりしており、まんなかに密閉したストーブが一つある。少女たちはストーブのまわりに立っており、ストーブは恐ろしい熱気を放射してアイロン女工たちのために急速にケンブリクをかわかす。この女工たちの時間は制限されていない。忙しい時には、彼女らは何日も続けて夜の9時か12時まで労働する。」(『工場監督官報告書。1862年10月31日』、56ページ。)

  婦人は夜間労働をしないなどという屋外漂白業者のうそは工場監督官によって暴かれたということです。その報告書では屋外とはいうものの実際には大変熱い乾燥室のなかでの作業で、ときどき外に出て外気に逃げ出すことがあるだけのもののようです。報告書ではその作業の詳しい様子が書かれていますが、劣悪な労働環境であり、しかも忙しいときには、何日も続けて夜の9時から12時まで、つまりほぼ夜間労働をやっているということです。

  『歴史』でも漂白業と染色業の実態について次のように述べています。

  〈労働者はしぼしば華氏90度から130度にも達する高温にさらされながら、ときには1日に16時間または18時間もの長時間にわたって、立ちどおしであるという害悪をこうむっていることが明らかにされた。これらの仕事場で働く多数の婦人と少女が寝泊りする小屋へ診察に行った外科医のリヅチモンド氏は、労働時間に応じて病人名簿の患者数が増減している、と証言した。すなわち、仕事がひまな時期には、かの女たちのうちで病人はごくわずかであったが、かの女たちが所定時間働いたり、残業をした場合には、多数の病人がでた。〉(138頁)

  (ヘ)(ト) ある医師は次のように言明しています。「冷却のために特別な時間は与えられていないが、気温が堪えられないほどになるとか、女工の手が汗でよごれたときには、数分間出て行くことが彼女らに許されている。……この女工たちの病気の手当てをしたときの私の経験から、彼女たちの健康状態が紡績女工のそれよりもずっと劣っていることを確認せざるをえない。」(それなのに、資本は議会への請願書のなかでは彼女たちをルーベンスのような手法で超健康的に描いたのです!)「彼女たちの病気のうちで最も目につくのは、肺結核、気管支炎、子宮病、最もひどい形のヒステリー、そしてリューマチスである。すべてこのようなことは、私の信ずるところでは、直接または間接に、彼女たちの作業室の熱しすぎた空気から起きるのであり、また、冬のあいだ帰宅するときに彼女たちを冷たい湿った大気から保護するための十分な気持ちのよい衣服がないことから起きるのである。」(同前、56、57ページ。)

  これも監督官報告書によるものですが、屋外漂白業に携わる女工たちを診察した医師の証言が紹介されています。それによれば彼女たちの健康状態は紡績女工よりもずっと劣っているということです。
  エンゲルスの『状態』では漂白工の労働について次のように述べています。

  漂白工は非常に不健康な仕事をする。漂白工は、その仕事中に、肺にとってもっとも有害な物質の一つである塩素を、ひっきりなしに吸わねばならない。染色工の仕事のほうがずっと健康的であり、多くの場合、非常に健康的である。というのは、染色工の仕事は全身の緊張を必要とするからである。この階級がどのくらいの賃金を得ているかは、あまり知られていない。そしてこのことは、彼らが平均以下の賃金は得ていない、という結論に達する十分な根拠なのである。なぜなら、もしそうでないとすれば、彼らはかならず不平を訴えるであろうから。〉(全集第2巻429頁)

  (チ)(リ)(ヌ) 工場監督官たちは、上きげんの「屋外漂白業者」から遅ればせにかち取られた1863年の法律について、次のように述べています。「この法律は、それが与えているように見える保護を労働者に与えることに失敗しただけでなく、……それは、児童と婦人が晩の8時以後に労働している現場を押えたときにはじめて保護が加えられるように書かれてあり、しかも、その場合でも、所定の証明方法には、ほとんど罰することができなくなるようなただし書がついているのである。」(同前、52ページ。)「人道的な目的や教育上の目的をもつ法律としては、それは完全に失敗している。なぜならば、年齢に関する制限も男女の差別もなく、漂白工場の付近の家族の社会的な慣習も顧慮せず、食事は都合しだいであったりなかったりで毎日14時間、おそらくはもっと長い時間労働することを、婦人や児童に許すということ、または、同じことになるのだが、彼らに強制するということは、人道的とは言えないからである。」(『工場監督官報告書。1863年4月30日』、40ページ。)

  1863年の法律(「屋外漂白工場法」)は、失敗だったと監督官たちは述べているということです。『歴史』も〈「漂白・染色仕事場法」は適用除外と例外とを認めていたため、実効性をもっていなかった。〉(140頁)と述べています。


◎原注185a

【原注185a】〈185a 第二版への注。私が本文のようなことを書いた1866年以後は、再び反動がやってきた。〉(全集第23a巻391頁)

  これは〈その後も前述の委員会からは農業と鉱山業と運輸業とを除いてイギリスのあらゆる重要産業部門から「自由」を奪おうとする諸提案が出されたが、これについてはあらためて述べることにしよう(185a)。〉というパラグラフの最後の一文に付けられた原注です。これは注の内容から考えると、このパラグラフ全体に付けられたものといえるかも知れません。つまりこのパラグラフで染色工場や漂白工場、あるはレース工場と靴下工場などなどさまざまな産業部門で工場法の適用が進んだことが述べられていましたが、しかし1866年以降、再び資本家たちの反撃が行われ、反動がやってきたということです。


  (付属資料№1に続く。)

 

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