久しぶりに「都市空間の怪異」(宮田登)に目をとおした。第3章「都市と妖怪」の第1節「都市の怪異」まで読み進んだ。第2章からとても惹かれる記述が続いている。
「戦乱の時期に「物の怪」がいろいろなメッセージを世に送り出すと人々は考えていた。「物の怪」が人間に対して警告を発する立場からものをいっている。災いをもたらすというよりも警告を発するという内容である。もともと「物の怪」は幸運をもたらすものであり、人間を庇護する役割を担った自然に属する精霊としての存在という見方があったことがうかがわれる。」(第2章「妖怪と幽霊」 第1節「平田篤胤の天狗研究」)
「日本のゴジラで重要なのは、水爆実験が生み出した存在であることと、海の向こうから出現してくることである。黒潮文化という日本文化の基層部分を校正した黒潮に沿って、海の彼方から怪獣がやってくるモチーフである。」(第2章「妖怪と幽霊」 第1節「平田篤胤の天狗研究」)
「一般論としては、妖怪伝承をたくさんもつ民俗は危険状況を乗り越えられると柳田國男はいっている。宗教が衰微してくると幽冥界の消息が不明確になってしまう。これは幽冥界に対する、あの世と霊魂に対する感覚を失いつつあることを示す。そうすると形骸化した宗教だけが残ってしまう。形骸化した宗教になると、精神世界そのものが末期的な症状になる。これが、終末というものを招く大きな原因になる。」(第2章「妖怪と幽霊」 第1節「平田篤胤の天狗研究」)
「柳田國男は幽霊と妖怪を区別する観点を示したが、これは幽霊の存在が共同幻覚の対象にならないという特徴にもとづくためである。特定の個人が、死者の生前の出来事に関わったため、その個人のみが死者と交流できるという霊魂観による。だから他者には幻視されない何かが映像化された。死者の霊魂をみる人が限定されているのに対して、妖怪は誰もが体験できるものと考えた。妖怪の属性として、出現する場所や時刻が限られててることをあげ、霊魂との関係からいえば、人間以外の霊が憑依したものと考えた。」(第2章「妖怪と幽霊」 第1節「平田篤胤の天狗研究」)
「南方熊楠が「実体なき幽霊」と「実体ありてかつて地上に生活し、もしくは現存する禽獣より訛り生ぜる妖怪」として幽霊と妖怪の相違を規定したところは面白い。実体がないとすれば、当然足跡は残らないのであるが、・・・生者とくらべるとどこかが不足してくる。頭がない幽霊も、へそのない幽霊もあり得る。だから生者に足があるならば、逆に幽霊に欠如するという考えは一つの道理ということになる。日本の幽霊は円山応挙の幽霊画に端を発し、そのイメージが普遍化した・・・。」(第2章「妖怪と幽霊」 第3節「幽霊の描かれ方」)
「現代都市の生活空間に発生した怪異をテーマとするフォークロアを考えてきた。消えた乗客、学校の怪談、「リング」のモチーフなどは、共通して日本が近代化をおしすすめる20世紀に入ってから都市を中心に発生、展開した。その根にあたるモチーフは、女性の隠れた霊力に関する民俗信仰にもとづいている。女の霊力によるメッセージは、都市の病める精神の回復を促していることになり、それを発見する妖怪研究が今後も必要になってくる。」(第3章「都市と妖怪」 第1節「都市の妖怪」)