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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

三島由紀夫「命売ります」(ちくま文庫)

2016年01月17日 21時54分24秒 | 読書


 ふと目について衝動的に購入した三島由紀夫の「命売ります」(ちくま文庫)。久しぶりに三島由紀夫を楽しんだ。いや小説そのものが久しぶりであった。1968(S43)年に当時の週間プレイボーイ誌連載だったとのこと。私はまったく知らなかった。またその後に三島由紀夫の作品を何点か読んだときにも存在を知らなかった。
 今私なりに読んでみて、当時の世相を充分取り上げている作品であることがわかる。連載誌の性格からも、ヒッピーや学生運動や安保問題、デカダンな世相などもさらっと触れている。が、話の中心は組織というものからまったく切り離された一人の青年の浮遊するような生を、危ういエピソードの連続として、しかしさらっと描いている。
 私はこのストーリーの展開の中に、組織と個人の不思議な関係、相互補完・相互滲出の永遠に解けない課題を、三島はにじませていると思った。この小説が発表されてから半世紀近く経って、久しぶりに訪れた一見熱かった昨年夏の政治の季節。そこには組織と個人の関係が、組織の力の方が相対的に後退しているように見える時代にも、半世紀前から引きづっている同じ課題がどこかに横たわっていることをあらためて思い出させてくれた。ただし誰かが云ったように「組織」がかなり茶番を演じているが。
 小説では最後のところで「組織」がその醜悪な本質を、滑稽ともいえる語りの中で曝け出し、主人公はそこから必死の逃亡を果たす。現実の三島由紀夫自身は4年後に、自ら作り上げた観念によって自死という名の死を体験する。命を放り出してしまう。
 組織が人間の理念の外化したものとすれぱ、あたかも自分の理念というものに殉じるように、理念という幻想の中で、生を完結したのがこの小説の作者三島由紀夫である。その三島自身の死と、この小説の主人公の宙ぶらりんの死からの生還と、どちらがより「生」の本質をついているのだろうか。
 三島由紀夫という作家、思想家は冷徹に、政治と組織というものの醜悪さを見つめ続けていたということにあらためて思い至った。

明日は横浜でも雪か?

2016年01月17日 14時40分33秒 | 天気と自然災害
 まだ空咳が停まらないが、薬疹のことがあり、薬は止めている。熱も下がっており、いつまでも寝ているわけにもいかない。本日は10時半過ぎから起きている。外は寒そうだが、温かくして横浜駅まで出歩いてみたい。
 実は退職者会のホームページに二つの記事の掲載依頼と記事が寄せられている。嬉しいのだが、まだこの記事を打ち直して文章を作る気力が湧かない。ようやくひとつの記事を仕上げた。途中で目がちらつき、何度か途中で放り出してしまった。まだ本調子に戻っていないようだ。ふたつ目の記事に取り掛かっていない。自分の文章を作るといことと、人の文章を打ちなおすということにはまったく違うエネルギーが必要である。両者に費やされるエネルギーは代替え不能のようである。
 完全復調はもうちょっとか?

 明日の胃癌検診、受けるか否かまだ迷っている。

 さて、明日の明け方は雪になる可能性が強いらしい。このままの体調では、雪が積もっても雪掻きは出来そうもない。


阪神淡路大震災から21年目

2016年01月17日 12時39分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 死者・行方不明6437名、家屋被害約64万戸などが今も報道される。そして大規模に倒壊した高速道路やマンション、途中の階がつぶされた市庁舎、消火ができない被害、ガス・水道・電気・下水・鉄道・道路などライフラインの損壊、通信網の停止‥都市のインフラ整備の第一線にいた私などにとっても大きなインパクトを与えた災害である。労働組合の役員としても貴重な体験をさせてもらった。
 その日の夕刻から嵐のような忙しい日々が開始された。行政支援として派遣する職員・組合員の労働条件・待遇の整理は出発のギリギリまで労使双方真剣に議論した。特にともに困ったのが、防災行政無線を車列の前後に配置して車列の維持と安全確保のため通信させたいのだが、防災行政無線の適用範囲は免許を受けた当該自治体でしかない。横浜から神戸まで通過する自治体、神戸市内で運行するパトロールカーの搭載無線も、横浜に許可された周波数帯を使うのは平常時では違法であった。電波管理局となかなか連絡が取れないらしくゴーサインが出たのが出発直前であった。それも口頭での確認だったにすぎなかったようだが、法体系の不備はこのように多数存在していた。今でも存在するかもしれない。
 さらに労働組合としてのボランティア派遣の手配、報告会‥。あっという間に半年が過ぎた。

 しかしこの阪神淡路大震災、一番の大きな教訓は「自分ならどう対応するのか」ということを真剣に考える必要性をしらされたことであると思う。
 都市基盤整備の第一線にいる人間が、その受け持ちの現場でどう振る舞ったらいいのか、発生直後から、当面1週間の行動の在りよう、自宅から職場までの往復の仕方、自宅で被災した時の振舞い方、労働組合としての振舞いの仕方‥実にいろいろのことを考えさせられた。
 そして現役を離れても、避難所、仮設住宅、当面の生活資材の確保、住宅の点検‥など具体的に考えるきっかけとなっている。

 これが2011年3月11日当日の私の振舞いに多少なりとも生かされたと思う。しかし我が家の中の耐震対応は残念ながら荷物の多さに圧倒されて手は着けていない。これが一番の問題点であることは重々承知をしているが‥。