
ふと目について衝動的に購入した三島由紀夫の「命売ります」(ちくま文庫)。久しぶりに三島由紀夫を楽しんだ。いや小説そのものが久しぶりであった。1968(S43)年に当時の週間プレイボーイ誌連載だったとのこと。私はまったく知らなかった。またその後に三島由紀夫の作品を何点か読んだときにも存在を知らなかった。
今私なりに読んでみて、当時の世相を充分取り上げている作品であることがわかる。連載誌の性格からも、ヒッピーや学生運動や安保問題、デカダンな世相などもさらっと触れている。が、話の中心は組織というものからまったく切り離された一人の青年の浮遊するような生を、危ういエピソードの連続として、しかしさらっと描いている。
私はこのストーリーの展開の中に、組織と個人の不思議な関係、相互補完・相互滲出の永遠に解けない課題を、三島はにじませていると思った。この小説が発表されてから半世紀近く経って、久しぶりに訪れた一見熱かった昨年夏の政治の季節。そこには組織と個人の関係が、組織の力の方が相対的に後退しているように見える時代にも、半世紀前から引きづっている同じ課題がどこかに横たわっていることをあらためて思い出させてくれた。ただし誰かが云ったように「組織」がかなり茶番を演じているが。
小説では最後のところで「組織」がその醜悪な本質を、滑稽ともいえる語りの中で曝け出し、主人公はそこから必死の逃亡を果たす。現実の三島由紀夫自身は4年後に、自ら作り上げた観念によって自死という名の死を体験する。命を放り出してしまう。
組織が人間の理念の外化したものとすれぱ、あたかも自分の理念というものに殉じるように、理念という幻想の中で、生を完結したのがこの小説の作者三島由紀夫である。その三島自身の死と、この小説の主人公の宙ぶらりんの死からの生還と、どちらがより「生」の本質をついているのだろうか。
三島由紀夫という作家、思想家は冷徹に、政治と組織というものの醜悪さを見つめ続けていたということにあらためて思い至った。