住まいの安全 心の健康 住まい塾 21

住まいの安全性、食物の安全性、政治の危険性、感動の共有
心と体のリラクゼーション、誰かに秘密を話すストレス解消

山形偉人伝・文武両道の祖、清河八郎

2012年05月05日 | 日記
 殆ど、Wikiの転載で済ませる省エネ術、関西電力でも過去に囚われず、見習って欲しいと独り言。


 ― 新撰組の親分と言えば近藤勇 ―  しかし、その礎を作ったのは荘内藩士《清河八郎》とのこと。

 村山地方から、庄内に抜けるとき必ず通るのが、47号線沿いの《清川村》。
いつも、後ろ髪を惹かれる思いで通り過ぎるのだが、その場所にあるはずの《清河神社》。 あいにくとその神社の鳥居は、くぐろうくぐろうと思いながらも一度もくぐった事がない。

  ----------------------------

 彼は、天保元年10月10日(1830年11月24日)、庄内町の生まれ。
1843年、清川関所役人の畑田安右衛門に師事し勉学に勤しむ。 1846年には後の天誅組総裁藤本鉄石と会い親交を深めた。
1847年、江戸に出て古学派の東条一堂に師事。 才を認められ東条塾塾頭を命ぜられたが、固辞。
安積艮斎に転塾。その傍ら、《北辰一刀流の開祖千葉周作》の玄武館で剣を磨き免許皆伝を得、江戸幕府の学問所昌平黌に学んだ。  その後、清河塾を開設。当時、江戸市中で学問と剣術を一人で教える塾は清河塾だけであった。


 1860年に起こった桜田門外の変に強い衝撃を受け、倒幕・尊王攘夷の思想を強める。 
この事件を契機に、清河塾に憂国の士が集まりだす。 その中には幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)・笠井伊蔵・松岡万、薩摩藩の伊牟田尚平・樋渡八兵衛・神田橋直助・益満休之助、同門であった安積五郎らがいる。
また池田徳太郎・中村貞太郎・西川練造・村上俊五郎・石坂宗順などとも交わる。

 同年、清河八郎を盟主として《虎尾の会》を結成。  発起人は山岡鉄太郎ら15名。横浜外国人居留地を焼き討ちし、尊王攘夷の精神を鼓舞し、倒幕の計画を立てたが、この密計が幕府の知るところとなる。
しかも、1861年には罵詈雑言を浴びせてきた者を斬り捨てたため、幕府に追われる立場となった。 このとき、笠井・中村・西川らは捕縛され、後に獄死している。


 清河八郎は京に潜伏したり、諸国を回って倒幕運動を続けた。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その後、山岡鉄舟らを通して松平春嶽(幕府政事総裁)に急務三策《 1. 攘夷の断行、2. 大赦の発令、3. 天下の英材の教育 》を上書する。

 尊王攘夷志士に手を焼いていた幕府はこれを採用し、松平忠敏のもとに浪士組が結成される(234名)。
清河八郎は上手く幕府を出し抜いて今度は佐幕派を京都に集め出した。 1863年 2月23日、将軍・徳川家茂上洛の際、その前衛として清河は盟主として浪士組を率いて京都へ出発。 京都に到着した夜、清河は浪士を壬生の新徳寺に集め本当の目的は将軍警護でなく尊王攘夷の先鋒にあると述べる。 
 鵜殿鳩翁が《浪士組》 隊士の殿内義雄・家里次郎の両名に、京に残留することを希望する者の取りまとめを依頼し、攘夷に反対した根岸友山・芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らが残留し清河と袂を分かつたものの、200名の手勢を得た清河八郎は翌日、朝廷に建白書の受納を願い出て幸運にも受理された。

 このような浪士組の動静に不安を抱いた幕府は浪士組を江戸へ呼び戻す。 清河八郎は江戸に戻ったあと浪士組を動かそうとするが、京都で完全に幕府と対立していたため狙われていた。

 1863年 4月13日、幕府の刺客、佐々木只三郎・窪田泉太郎など6名によって麻布一ノ橋(現麻布十番商店街そば)で討たれ首を切られた。  享年34。 
 (山岡英子 1903年)の記述によると、首は石坂周造が取り戻し、山岡英子(山岡鉄舟の妻)が保管し傳通院に葬ったが後に遺族に渡したという。 墓所は東京文京区の伝通院にある。 清河の死後、幕府は浪士組を新徴組と改名し、庄内藩預かりとした。

  ***  以上  Wiki 概要まとめ  ***


 現在の、米国よりの官僚に動かされる《政治家の群れ》
それに対して、外国人参政権付与などの政策を続ける、韓国、中国よりの政治家の群れ・・・ 。
まるで、ワッフルとアンマンの違いだけで、その中身(倭人)の事を真剣に考える《政治家の群れ》は何処に居るのだろう・・ 。
本当のことはどうあれ、外見だけを議論の内容にしているだけで、《倭人》の本当の《生存とか存続》 の事を議論する政治家が少ないのは、どう云う事なのだろう・・・・・ 。
このままでは、スペインに滅ぼされた《アンデスの民》と同じ末路を迎えることも有るのではないか・・・ 。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿