芸術、またはアートというのは厳密な定義が無いといわれています。
それでも芸術が好きな人には個人的に定義を持っている事も多く、言葉として持っていなくても、なにかもやっとした線引きをしている人もまた多い。
末端ながら私も定義を持っていて、それは個人のこだわりをそのまま表した形だと思っています。
たとえば「こうすれば他の人からどう見られるだろうか」などという邪念のようなものが感じられず、「自分はこれこそが美しい」という個人の美意識の表出が純粋にできているか、それこそが芸術なのだと思っています。
流行や他人の美意識に引きずられない、個人の中に持つ美の形。
だからその「美」を造りだすために技術が必要なのでしょうし、また、他人ウケを狙う何かが芸術にはならないのだと思っています。
昨年、ある蒐集家の方とお話ししたときに、
「古い土器に作った人の爪の後が残っているのを見つけると、それだけで感動する」
という話をすると賛同されたことがありました。
造形物の中に、作り手の集中力とかこだわりとか思いとか、魂のような何かがこもっているのを垣間見るような気がして。
そしてその作り手の心と同調するような感動を覚えるのですが、こんな話をしても理解してくれる人もいなかったので、妙に嬉しかったのです。
近年はアートで町おこしなどのイベントを見ますが、古い工芸の中にも芸術はあって、それを探し出してくれる目を持った人が少なくなっているだけではないのかとも感じます。
青森は芸術に溢れているのに。
それでも芸術が好きな人には個人的に定義を持っている事も多く、言葉として持っていなくても、なにかもやっとした線引きをしている人もまた多い。
末端ながら私も定義を持っていて、それは個人のこだわりをそのまま表した形だと思っています。
たとえば「こうすれば他の人からどう見られるだろうか」などという邪念のようなものが感じられず、「自分はこれこそが美しい」という個人の美意識の表出が純粋にできているか、それこそが芸術なのだと思っています。
流行や他人の美意識に引きずられない、個人の中に持つ美の形。
だからその「美」を造りだすために技術が必要なのでしょうし、また、他人ウケを狙う何かが芸術にはならないのだと思っています。
昨年、ある蒐集家の方とお話ししたときに、
「古い土器に作った人の爪の後が残っているのを見つけると、それだけで感動する」
という話をすると賛同されたことがありました。
造形物の中に、作り手の集中力とかこだわりとか思いとか、魂のような何かがこもっているのを垣間見るような気がして。
そしてその作り手の心と同調するような感動を覚えるのですが、こんな話をしても理解してくれる人もいなかったので、妙に嬉しかったのです。
近年はアートで町おこしなどのイベントを見ますが、古い工芸の中にも芸術はあって、それを探し出してくれる目を持った人が少なくなっているだけではないのかとも感じます。
青森は芸術に溢れているのに。