相も変わらず無駄ともとれる練習をしている。
日々頭にうかんだ曲をギターを手に取りつま弾いていると、頭より先に体がギターをならしているから、指が勝手な事をやりたがっていて(科学的には脳がそれを司っているという事なのだろうけど、指は人体の指と感じるから指は指だと思うことにしている)。
指が導く方向に頭が着いていこうとするから、身勝手な指が鳴らす音に対していちいち「今の音は何だ」ということに頭がなって、いったん止めて考える。それと共に口ずさんでいる唄らしき物も同じ様に、
また「何だ」という音を今度は脳の方が先に探しだすのだけれども、どうも指が言った様な同じ様にはならなくて、また考える。それで何の曲の練習だったかを思うと、何の曲でもなかったということになるから、その日は「あの音は何だ」という疑問で終る。
だから日々の練習といっても、ライブに向けてのとか、ライブで一曲一曲を間違えないようにやりきるための練習とかでは必然的になくなる。
そして面白い事にその疑問に残る「何だ」という音が、判明までいたらなくとも、例えばたまたま散歩していて「あっこれはもしかして」とか思う場面や瞬間があって、帰るとすぐに何かしらメモをして、だから日々のメモは僕の今やりたい表現の音のヒントであるかもしれないと思っている、といってもそのメモを読み返す事もないのだけれど。
ブログに書くのも「残す」その延長であるかもしれないと、ここまで書くと、無駄ともとれる練習どころかもう何の話か解らなくなるのだけれど、それを音楽の音として探すこともあれば、自然の音として探すこともあれば、踊るような文章、小説の中に見つけることもある。
僕はこのようにして、音楽と向き合い、一緒に歩いている。感覚全てが音としてなり得るし、音として体に感じられる聞こえない表現の源はあなたのまわりにもたくさんある。
日々頭にうかんだ曲をギターを手に取りつま弾いていると、頭より先に体がギターをならしているから、指が勝手な事をやりたがっていて(科学的には脳がそれを司っているという事なのだろうけど、指は人体の指と感じるから指は指だと思うことにしている)。
指が導く方向に頭が着いていこうとするから、身勝手な指が鳴らす音に対していちいち「今の音は何だ」ということに頭がなって、いったん止めて考える。それと共に口ずさんでいる唄らしき物も同じ様に、
また「何だ」という音を今度は脳の方が先に探しだすのだけれども、どうも指が言った様な同じ様にはならなくて、また考える。それで何の曲の練習だったかを思うと、何の曲でもなかったということになるから、その日は「あの音は何だ」という疑問で終る。
だから日々の練習といっても、ライブに向けてのとか、ライブで一曲一曲を間違えないようにやりきるための練習とかでは必然的になくなる。
そして面白い事にその疑問に残る「何だ」という音が、判明までいたらなくとも、例えばたまたま散歩していて「あっこれはもしかして」とか思う場面や瞬間があって、帰るとすぐに何かしらメモをして、だから日々のメモは僕の今やりたい表現の音のヒントであるかもしれないと思っている、といってもそのメモを読み返す事もないのだけれど。
ブログに書くのも「残す」その延長であるかもしれないと、ここまで書くと、無駄ともとれる練習どころかもう何の話か解らなくなるのだけれど、それを音楽の音として探すこともあれば、自然の音として探すこともあれば、踊るような文章、小説の中に見つけることもある。
僕はこのようにして、音楽と向き合い、一緒に歩いている。感覚全てが音としてなり得るし、音として体に感じられる聞こえない表現の源はあなたのまわりにもたくさんある。