少太 BLOG

考える日々

言葉や形では説明がつかない事

2015-01-28 01:22:02 | 日記
相も変わらず無駄ともとれる練習をしている。

日々頭にうかんだ曲をギターを手に取りつま弾いていると、頭より先に体がギターをならしているから、指が勝手な事をやりたがっていて(科学的には脳がそれを司っているという事なのだろうけど、指は人体の指と感じるから指は指だと思うことにしている)。

指が導く方向に頭が着いていこうとするから、身勝手な指が鳴らす音に対していちいち「今の音は何だ」ということに頭がなって、いったん止めて考える。それと共に口ずさんでいる唄らしき物も同じ様に、

また「何だ」という音を今度は脳の方が先に探しだすのだけれども、どうも指が言った様な同じ様にはならなくて、また考える。それで何の曲の練習だったかを思うと、何の曲でもなかったということになるから、その日は「あの音は何だ」という疑問で終る。

だから日々の練習といっても、ライブに向けてのとか、ライブで一曲一曲を間違えないようにやりきるための練習とかでは必然的になくなる。

そして面白い事にその疑問に残る「何だ」という音が、判明までいたらなくとも、例えばたまたま散歩していて「あっこれはもしかして」とか思う場面や瞬間があって、帰るとすぐに何かしらメモをして、だから日々のメモは僕の今やりたい表現の音のヒントであるかもしれないと思っている、といってもそのメモを読み返す事もないのだけれど。

ブログに書くのも「残す」その延長であるかもしれないと、ここまで書くと、無駄ともとれる練習どころかもう何の話か解らなくなるのだけれど、それを音楽の音として探すこともあれば、自然の音として探すこともあれば、踊るような文章、小説の中に見つけることもある。

僕はこのようにして、音楽と向き合い、一緒に歩いている。感覚全てが音としてなり得るし、音として体に感じられる聞こえない表現の源はあなたのまわりにもたくさんある。

米沢の夜

2015-01-26 20:15:49 | 日記
昨夜は米沢b ARBでの企画ライブの初回という場に呼んでいただき、今年の初ライブ
。天候に恵まれたため路面の雪は溶けていたが、やはり米沢。歩道にはあちこちに除雪による雪の山、人の背丈ほどある。


ケチョンの運転する車に乗っかり、ひたすら酔いに耐える、二日酔いではなく、車酔いに。ケチョンの運転がやさしかったために、なんとか持ちこたえる。車に対してのこの弱さ、なんとかならないだろうか。

ライブ前に腹ごしらえ、4人分の箸と取り皿の並べられた居酒屋の個室で一人で食べる。寂しい・・。

そしてライブ。2~3日前にTarjiに遊びに来てくれたクマガイマコトさんも飛び入り参戦となり、ごろうちゃんと、昨夜は二人でkechonまったかジャグバンド。企画初回にしてはよかったのではないかと思う。

また少し、踏むステージ、内面から発した何かが飛翔し出す群れの様な感覚は変化して行く。

今日はおとなしく休肝日。

立派に散歩

2015-01-24 17:33:25 | 日記
いつものコース、クリーニング屋さんの横を登り、陸橋を渡り、堀にそって行く。あのスズメらしきスズメが目の前のガードレールの上で首を傾げる様な形でくちばしを擦りつけている。

南門でお父ちゃま(この辺りのボス猫と思われる)とたわむれる。「お父ちゃま」、「ニャーニ」、「お父ちゃま」、「ニャーニニャー」、「ちゃまちゃま」「ニャーニニャーニ」とバカなやり取りをしていると、やがてかがんだ僕のお尻の下に頭から入ろうとゴリゴリしてくる。

今日は土手を登ってみる。桜の木の間から眺めのいいベンチにすわり光を浴びる。雪に反射する眩しさがその視界により体が感じる温かさが増してくる。

老夫婦に駅までの道を聞かれてここからの最短距離を説明して、てをふり背中を見送る。美術館の前の広場に大きな雪だるま、さっきせっせと雪を丸めている幼い兄弟が作ったやつか。目が×になっていた。太陽に溶けるのを嫌がっているみたいだ。

明日はライブ、前日になってようやく小指の痛みがなくなった。まったくわかりやすい体だ。


1/25(日)米沢ARB
Start 18:30 Charge Free
共演 Kechon Kechon Jug Band / イノウエゴロウ / クマガイマコト
山形県米沢市門東町3-2-51 TEL 0238-22-8556

人の上に立とうとするのは支配者であり、神ではない。いつの時代からかあやふやになってしまっている。

幼い母親は今日は身を隠す

2015-01-20 00:47:10 | 日記
今日の育児放棄に(猫に勝手につけた名前)、あいに行ったけれど、天候のせいか姿は見えず。次の場所、保護団体の作った段ボールハウスにいるモジャモジャに会いに行く。持参のエサには興味を示さず、撫でろなでろと身体を刷り寄せる。

その場所から眼の届く範囲内でハクセキレイは雪に尾をハタハタさせている。

毎日見ていて思う。猫と人、猫がかわいいと猫に寄る人、猫に救われて生きる人、救われた猫以外は知らない人、エゴ、アルトルとか枠組みにすることでしか、それにより理解することでしか納得できない人。猫嫌いな人。

あなたが存在する事によって、あなたを知っている人々が浮き彫りになり、時にあなたの心が脅かされるとすれば、あなたを知っている人々も同じ様に思っているかもしれない。
あなたを知っている人々というのはあなたを知っている事で繋がっているし、あなたを知らない人々というのは、あなたが知らない事で繋がっている、この世界に、この世界と。

カメムシさん、カメムシ酸

2015-01-17 19:43:25 | 日記
この間録画していた探偵ナイトスクープで「カメムシを食べてみたい」という依頼の元に皆でフライパンで炒めて食べているのを観ていて、そんな依頼なら僕の場合は15年以上前に相方に「はい、お鍋が出来ましたよ、いただきましょう」といって、一口目に春菊を思いきり噛みしめたときに、春菊を濯いだときに濯ぎ逃れたカメムシを一緒に噛みしめてしまった記憶と、

そんな事を言えば、これは20年近く前に、札幌の実家(僕はこの家には住んだことがない)に帰った時に、母親が「最近虫をかっているんさ、かわいくて、ほれあれ緑のやついるしょや」と言って指す指の先にある虫籠を覗くと、土の上に胡瓜が置かれてあり、てっきりキリギリスかと思って観ても姿がなく、目をこらしてみるとカメムシ・・。

「これカメムシだよ、分かってるよね、あの強烈なカメムシ酸の」と言ったとたんに「えっそうなの、あらいや」と、虫籠ごと放る勢いで中身を外に放ってしまった様子を見て、どこら辺をかわいがっていたのだろうと思った記憶。カメムシに纏わる記憶がよみがえり、気付けばテレビの方は別の依頼の話に移っていて、急に声を出して笑ってしまった。

ライブが近く、ギターを弾こうと弦をおさえた小指に激痛、なんだろう、まずいなー。


ライブです。
■1/25(日)米沢ARB
Start 18:30 Charge Free
共演 Kechon Kechon Jug Band / イノウエゴロウ
山形県米沢市門東町3-2-51 TEL 0238-22-8556

名もなき男の歌

2015-01-14 18:55:48 | 日記

「インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌」を観る。

1961年のグリニッジ・ヴィレッジ周辺での話をデイヴ・ヴァン・ロンクの自伝を参考に作られた映画。
去年上京した際に知り合いから聞いていて観るのを忘れ、題名も忘れてしまっていたのだけど、先日お客さんが「この映画いいよ」と手渡してくれて、何となく見ていたら「あれっ、あれっ」となって、この映画だった事にすぐに気が付いた。

あくまでも創作映画であるが、「この人が演じる役は多分あの人がモデルになっているだろう」というのを連想しながら観ていて面白かった。ピーターバラカンがこの映画の解説で「コーエン兄弟は知っているとニヤニヤ楽しめるような作りが本当にうまいですよね。」というのもうなずける。

また久しぶりに「コカイン」でもやってみようか、いや、この言い方は誤解されるな。また久しぶりに「コカイン」という曲を歌ってみようか、だった。今やろうとするとどうなるか全くわからない。

1961年、この時代にもし僕が世に存在し、ニューヨークなどに住んでいたなら、この主人公の様にギター片手に日々知り合いの家をてんてんとする様な生活をしていたかもしれない。

とくに映画のストーリーについては書かないし、評論家の意見は賛否両論あるようだけれど、素直に面白かった。

冬の休息

2015-01-11 18:23:15 | 日記


昨夜はなかなかの夜だった。新年という陽気な夜。
頭を打ったおじさんの目に一瞬タクシーのヘッドライトが映った。
人は何度か生きるという事を体感する事がある。湧き上がる事が。
皮肉にも最悪な状態を見たときや、生命にかかわる恐れを感じた時などに。

それから夜も更けた頃、南の島からの電話、久しぶりの声だ。辺りは騒がしく、「センパイ~」の声。
ほぼ何を言っているか解らない声が、陽気と酔いの度合を物語っていた。とても暖かな声。

今日も散歩中に猫が全く興味を示さない対応をしてみた。ホワイトタイガーみたいな猫は行ってしまったが、狸の様なもじゃもじゃの猫はゴロニャンと突進してきた。

冬は当たり前に寒いが、冬の景色というのはどこか温和な気分になる。白が黒を引き立たせる、カラスが枝の上で鳴いていた。

驚きが喜びにかわる

2015-01-06 22:20:54 | 日記
保阪和志[朝露通信]を一度終える。


実はこの本を読む前に、ここ二年ほど時間の事を考えていて、それに伴う距離としたときの故郷の意味というか現時点での想いみたいな事を考えていて、冒頭にそれと似た事が書かれていて、少し前にブログでふれた記憶の事に似たような言葉が、終わりの方に書かれていて、驚いた。


ブログでふれたのは、遠い記憶の断片が言葉によって引き出され、もとあった記憶の別の部分みたいな所に新たに刻まれるという様な事を書いたのだけど、朝露通信も似たような言葉で終わっていた。「僕の感覚では似たような情景が文章の終わりによって開かれた」と感じた。


この想いが今のライブにも何処かにみえかくれしているのかもしれない。この本を渡してくれた弟は、ほくそ笑んでいるかもしれない。

明日は7日、爪を切ろう。

一年を歩こうとしている

2015-01-02 18:29:16 | 日記


今日は起きてからというものシャワーを浴びるために風呂場に行ったことしかしていない。

昨夜頂いてきた重箱のおせちを食べる。テレビをつけると今日もマツコ・デラックス。そういえば年末にやっていたドキュメント72時間という番組は面白かった。一つの場所に72時間、そこにやってくる人々、出来事を定点観測するという番組。部分的だけど会話を通して様々な人間模様が垣間見える。一日正月気分をチビチビ味わいたいところだけど今日から仕事だ。


少しでも歩こうと回り道をして店にくる。ガスの元栓を開ける、明かりをつけると年末に僕が使用したであろう寝袋だけが敷かれている。電球が2つ切れている。張り紙をはがす。空気が入れ替わったころ「さて、やるかな」。いつの間にかただ純粋にお酒に酔う事のできなくなった体が、どんな出会いがあるだろうかとまた一年を歩こうとしている。

2015-01-01 17:25:04

2015-01-01 17:25:04 | 日記
去年の営業後、酔いか何か、店の寝袋にくるまり気づけば朝8時いく分だったか。こうして大晦日が過ぎて新年を迎え、初詣の帰り道、雪による電線が、作りかけの繊維みたいに家の数だけ張り巡らされていて、この国は電線まみれだなと思う。



新年のご挨拶にいつもの魚やさんにお邪魔して二階から一階の様子を想像していると、何人の来客かと思うくらい騒がしい魚やさんだなと思う。ここの人達はとにかく思った物事を教養の固まりみたいな話を一人で3人分は話す。


そしてこの時期に多発する社交辞令というのが嫌いだ。苦手とかいうのではなくて、そのものを真っ向から否定する。上っ面の社交性で人がわかるかって。


何はともあれ幕開けだ、やろうじゃないか。