少太 BLOG

考える日々

日常は音楽である、とも言い切れないが、

2019-05-31 03:38:14 | 日記
野良猫のトラちゃんが、ある日よそからふらり表れた同じキジトラの猫に自分のテリトリーに時が経って居座る事を許したというか、その穏和な性質上、自然に諦めた様子。


相変わらず散歩をして、その二匹の猫を観ながら、相変わらず四季の変化を感じながら、目覚めている間中、何をしていてもずっと何処かで音楽の事を考えている。

潜在的なのか、突然やって来るのか解らないけど、そういう己の中に眠っていた音を、どう目覚めさせるか、それはどれだけ長い時間楽器に触れていても足りる事がない。


小説家が頭の何処かでずっと小説の事を考えている様に、芸術家が芸術性を持ち絶えずそうした眼で物をとらえている様に、常に頭の何処かで、音楽という化け物の事を考えている。

音とは

2019-05-22 04:23:55 | 日記
しかし、音楽とはなんであるか。

ある人は、ライブとは脱糞だと言う。それは己の内部を吐き出すというそのままの意味なのであれば、一理ある。また、芸術性を含ませて考えると、異なる性質を持ったいくつもの不規則な流動性が残した常に形は予測不能の吐き出される物、という様にも思えるし、さらに医学的に考えてみると、脱糞の糞というのは栄養を吸いとられた不必要な残りかすという事になる。不必要な残りかすを吐き出す事、そうなると幾分と意味が変わってくる、ある一つの言葉でも捉え方で意味が変わってくるものだ。

言葉は人類以前にある、という話があるが、しかし、それならばライブ、音楽、さらに抽象的な音について、

音とは何だろうか。

シベリアからの渡り鳥の様であり、河原に流れる水の様であり、転がる石の様であり、生命にとっての今日の日射しの様であり、降る雪の結晶の様であり、誕生から死までのダンスであり、それらは何一つとして昨日と同じものは無い。

花を積むときの、船を漕ぐときの、丸太を運ぶときの、威勢良く溢れる声、この世界を現す詩の言葉(音)としての、或いは別の方法で、表現者はどれだけ多くの人々に届き、どれだけ多くの人々の記憶に残るか、という、数量的な考えに全く捕らわれない音、楽でもあり悲しみでもある生命の音、言葉以前の音、そこを考えて止まない。


太古の人々の音に思考を傾ける事、語りかけ、声を聴こうとする事、それが音を表現するということではないか。

届かなくとも語りかけ、聴こえなくとも耳を傾けるのだよ。