少太 BLOG

考える日々

アイヌの血

2016-12-30 04:54:54 | 日記
「熊と一緒に遊んだ、相撲取ったり、2歳になるまで犬と同じだ、山へ行くのでも川へ行くのでもずっとついて歩く。いなくなったらわざと隠れたりしたらファーファーと鳴いて呼ぶ。相撲とってね、俺がぶんなげたら熊は勝つまでかかってくる。だから最後わざと負けてやんなけりゃ、したら喜んでる。なんも人間と変わらないんだって、しゃべらないだけで」


アイヌの血。
コメント

いるんだよ

2016-12-28 19:36:16 | 日記
公園の水堀の水位が数週間前から下がり続けている。今日はいよいよ、お堀の中央のライン、一番深いところの底の石の集まりが見えている。中央の底が見えたのは記憶によると初めてだ、という事はここまで水位が下がったのは13年間で初めてという事か。




橋の真上から見下ろすその中央のラインに沿うようにして、手前の近い方にこれは多分アマサギ、後ろにアオサギが立っていて、アオサギの方は首を縮めて、休んでいるようにもみえるが、手前の白いアマサギの方は、小魚を捕らえようとするあの、首をグッと水面を除きこむように伸ばして、そろりそろりと歩くそれをやっていて、こちらから濁った水の底が見えていて、魚などが見当たらないから「だからいないって、川にいった方がいいのに」と思った事をほとんど同時に口に出したかはわからないけど、アマサギは魚をさがすのをそろりそろりやっていて、時にフッとこちらに顔を傾けるその仕草から、こちらより水面にずっと近いアマサギにしか見えていない稚魚がいるのかもしれないと思ったのは「いるんだよ!そっちからは見えないだろうけど」といっている様な気がしたからだ。
コメント

私とライブと音楽は

2016-12-28 01:45:34 | 日記
ともかくライブはどんどんやるに越したことはないというのは普通に私にもあるし、そう思うのだけど、しかし、音楽をやる理由としてライブがすべてというのは少し違う、いや、大きく違う気がする。



とても暴れん坊の猫がいて、とにかく利かん坊で、いつも叱られて、叱られたらまた歯向かってきて、そのなんとも言えないその感じを音にするとどうなるのか、切なく朽ちていく葉を観ていて、そこには切なさの中にひそかな喜びみたいなものもちゃんとあって、そういう事を音にするとどうなるか、こちら想像して創造する環境音楽とかではなく、私が利かん坊の猫や朽ちる葉を観ていて感じることを音にしてみるというよりは、それらが私にもたらせてくれるもの、を、音として拾ってみるというか、そのまま受けてみるというか、それが音になり得るのかどうかもわからないけど、そうして音に向かう日々があるなら、音や歌は意味やその理由をもたない何かでもあるし、言いたいことを詞にして、それを歌にしてぶつけるというものでもなく、だからライブをやるために音楽をやっているということには絶対にならない。



ということは、ライブをやらなくなってしまったから音をやめてしまうということにも絶対にならない。


という事で、私とライブ=私と音楽にはならないのですよ。
コメント

詩を書き歌にするというのは

2016-12-27 19:03:14 | 日記


NHKの番組でディランの事をやっていて、彼の保管されている自筆のメモとそこから実際に曲になった歌詞を比べて、順番がまるで入れ替わっていたり、「僕」が「彼」になっていたり、最初のメモを解体して再構築されている。これが彼独自のスタイルで・・・・・・というようなところで、えっ、詩を書き歌にするというのはそういうことなんじゃないの、と思うし、むしろ他のやり方がわからない。


それが私の好きな日曜大工の様な文章、にもいえる、音楽と文学と響き合うものがある。
コメント

それではその土地で生きてきた人々は

2016-12-22 01:37:21 | 日記
今日は霧がかかり幻想的な街。


転勤族の一員の私がみえたもの。生まれた場所を6才で離れて、その場所と再会したのは18才の頃だ。幼児時代、あの公園でミニスキーをダーーッ!と滑っていた山のように高い盛土と思っていたものが、何の事はない、標高としては高さ2メートル程のものではないか、家の前に置いてあった、背の高さほどの巨大な石、そこによじ登り親戚と記念写真を撮っていたあの巨大と思われた石は何の事はない、小石よりは大きなやさしく添えられた程度の石ではないか。あの広い道幅の道路を歩いて通学した道は車が二台ようやくすれ違えるほどの狭い道ではないか。という驚きであった。


それではそこで生まれ育ち、ずーっとそこにいる人々はどうなんだろうか。「私たちあまり変わらないよねー」などと互いに一緒に年を取っているがゆえに気付かないが、一昔前の写真を見ると「いやー若いねー」という落差それと同じ様に、いちいち近所の景色の大きさなど気にせず育つのだろうか。景色と一緒に年を取るがゆえ大きくならない景色という風になるのだろうか。そうではなく、どこにいても子供の目線はその目線のまま大人の記憶として残るのだろうか。
コメント

ライブです

2016-12-13 02:14:46 | 日記
次回のライブです。


12/25(日)Bar Tarji忘年会ライブ

Open 17:00 Start 17:30 チャージ1500円(ドリンク別)

出演 佐藤翼17:30〜18:00
ざべっがーず18:10〜18:40
太田昌子with 佐藤王信18:50〜19:20
BRONCO. 19:30〜20:00
松沢春伸20:10〜20:40
Kechon Kechon Jug Band 20:50〜21:20
少太21:30〜


今年はクリスマスです。
コメント

そうして成長したい

2016-12-11 02:05:02 | 日記
また少しの余裕もないのに本を注文してしまった。ドキドキ、最近は音が届くより、ドキドキする。それは音にさめているという訳ではなく、文章と音はかなり近いものがあるから、時間的に同時には入ってこない。


この音は何々の本の様だという音があって、この文章はあの音楽の様だという本があって、だから同時にはいけない。でも期間的には並行しているし、どちらも好きだ。


物事の真髄を求める人とそうでない人がいて、そうでない人は起きたことによる結果がすべてであって、真髄を求めなければその物事に対して自身がいいか悪いかでしか判断の仕様がなく、それでは意味がないというか、ろくなことにはならないと思っているから、僕はあくまでも真髄を求める。


ブログにテーマなどもっていないし、たまには書きたくないことも書く。読んだ人がどう思うかを想像して書くならばブログなどとっくにやめている。


自分がやりたい音楽も同じことだ。聴く人がどう思うかを想像してよりよく思われるために演奏するならばもうとっくに音楽などやめている。音と一緒に気付き、知らなかった感覚を覚え、そうして成長していきたい。文章と一緒に知らなかった言葉や感情を知り、そうして成長していきたい。
コメント

こうしてまじまじと

2016-12-09 01:27:04 | 日記
古い換気扇がフォォーーというような音をたてている。ボトル棚のクリアタイプの電球はニーナのモノクロ写真をやんわりと照らしている。

ボトル棚のホワイトタイプの電球は木彫りのサンタクロースと、赤鬼の面が笑っている様にみえる。どちらも頂き物だ。


音はちょうどジョニーキャッシュの「デスペラード」が流れている。カウンターの中に立っていればこの光景はみえない、カウンターに座らなければみえない、という事は店が暇だということだ、いや、暇じゃなくてもこうしてカウンターに座ることはある。でも今こうしてみえる光景を今こうして書いているのだから、たしかに暇なのだ。



嵐の前の静けさならよいのだけど。


でもこうしてTarjiのカウンターに座り、まじまじと眺めるのもいいものだな。
コメント

向いて向き合う

2016-12-03 03:13:33 | 日記
酔うた金曜日、帰り道、空は青白く、青白いからカラスの形、輪郭が見えるのであって、突然夜の支配者という言葉が浮かび、それは空の夜の支配者という事なのだけど、確認済みのカラスは飛んでいったし、それではあの「キキキ」という声はなんであるか、何の鳥か、そういう疑問を知らないままにした方がよいだろうと思う時がある。知恵と知識は別だ。


金曜日という事でいちいち今日は13日ではないのかと思ってしまうジェイソンは数式ではなく、ジェイソンそのものだ。


猫は猫そのもので、私はわたしそのものだ、それでしかない。


だから一度目は向け、二度目は向き合うのだよ。
コメント