少太 BLOG

考える日々

いつかだれかに繋がるものとして

2015-11-30 16:22:12 | 日記
叫ぶことでよしとなるのならば、叫ぶべきであろう。大事なことは、その事をその音として以後の身体がちゃんと覚えているのであらば、それとは違った反応を示してくる事もある。

崩すのがよしとなるのならば、それもよいだろう。その事を崩した音としてではなく、身体のもたらす音として感じることが出来るのならば。

同じように文章であれ、理解できればいいという訳ではない。理解できないままいつか読み返してみたら、理解できないという読み方が違っていたと思うこともある、見方が変わることがある。

解りにくい文章を解りやすい解釈で説明される事を、なるほどそうしたことかで終わってしまうのは、その文章の持つ、書き手の持つ面白さという部分を塗りつぶしてしまうような事でもある。

という風に、捉え方を間違えると、すべてが、何かに向けての音になる、身体の今持つ感覚を悪用して、誰かに引き渡す様にして。

受けとめる事しか

2015-11-27 01:06:22 | 日記
また金縛りにあう、かなり激しいやつ。足が引っ張られて、隣の住人らしき人が側でニヤニヤしていて、天井が蜘蛛の巣に覆われている。抜け出す術を知っていても、時間がかかることもある。しかし、現実へ抜け出せたと思っても、そこが現実であると言えるものだろうか。

人が視覚でとらえている物なんてわずかな部分で、誰にも見えていない世界があることは確かであって、あの山がこういう形をしているというのも、人が認識できる範囲内でそう見えているために、決まったものの様に思うけれど、人が感知出来ない物もそこにある。霊的な事や、イデア論の事ではなくて、複眼の生き物が見えている世界が世界だとしか認識できない様に、人間の様にカメラ眼の生き物しか見えない世界があるように、同じ世界の中でとらえられることの出来ない物。

だからこそ、見えたり感じたり出来ることを全身で浴びていきたい。それが現実で、私もそこに存在していると受けとめる事しか出来ないのだから。

へろへろへろへろ

2015-11-26 02:50:16 | 日記
へろへろに酔って、何度も間違って、イチギョウ書くのにとても時間がかかって、何を書こうとしてたのか解らなくなって、思えば何を書こうとしてたわけでもなくて、ギターを触って触って、どうしても上手くいかなくて、何度も何度も触ってやっぱり上手くいかなくて、思えば、この音をだせればという目標がなかったことに気付いた。

へろへろに酔っていて書けるぶんしょうの様に、、

へろへろで、、。

外は雨

2015-11-18 20:16:09 | 日記
あたりを見回す。部屋のなか、自分達のねぐら。食器棚の中に手作りの不規則に重なる皿、大量生産により規則的に重なる汁椀、コーヒーカップ、徳利、倒れた茶筒、狭いシンク、床の染み。

ダブルハンガーに掛かっている洗濯物や、重なって増えているジャケット、ぼろいファンヒーター、読みかけの本、組み立てた棚のオーディオ、生活の中のそれらの汚れ。

日々薄れていく欲望、日々膨らんでいく平穏、どちらも心地がいい、とても。

そのパシャパシャをどうかひとつ

2015-11-16 18:36:59 | 日記
先週から続いている体内の大変な何かを先週に引き続き、温泉で流そうと浸かる。

パシャパシャ、おじちゃんが浴槽の縁に両手をかけて蛍のポーズに近い形で両足で湯の表面を揺らすようにして運動していて、何かしらに良いのだろうと思いながら浸かっているうちに、規則的な力によって、しだいに大きな揺れとなってきて、揺れるフェリーの上で風呂に入っているような感覚になって、具合が悪くなってきて、少しでも身体が揺れない様にこちらは空中浮遊のように浮かせてみたり、ささやかな抵抗をしてみたけれど、いよいよお湯から上がって、おじちゃんの気が済むまで待っていたら、今度はお湯のなかで屈伸運動をやりだして、さらに大きくなった湯の揺れとおじちゃんを観ていたら、鏡に映った自分の顔がにやけていたのに気付いた。

この動き、何かに似ている、ライブだ、自分の発する音が波となって伝わっていく、大きな波の起こしかたを知っていて、しかし、大きな波というのは、そのような僕の様に心地が悪い場合もあるわけで、時に静めるための小さな波を起ててみる、というか、音を発する自身が同じ波を感じていて、居心地の良い波を身体が探しながら動くようにして音になるという事もあるはずだなと、ただのおじちゃんのパシャパシャからいろいろ考えていたら、多分にやけていたと思う。

ライブ

2015-11-10 23:42:18 | 日記
ライブです。

11/15(日)山形 Bar Tarji [Tarji Night]
Open 19:00 Start 19:30 Charge ¥1500
出演 山田兎(京都) / 少太 / 松沢春伸

いつだかぶりの我が場所で。

会ったことがあるらしい山田兎さんも楽しみだ。

ブルースへの憧れから、ブルースをやるというそういう事とは違う部分で、僕はブルースを覚えている。

残響に知る

2015-11-10 20:06:54 | 日記
昨夜は春との一年ぶりの虚弱ブラザーズライブ。ゆうや君も参加して。

虚弱とだれが言い出したかは覚えていないけど、確かに虚弱なのだから仕方がない。
始発までの時間、余韻とも言うべく。始発電車でもあまり眠らずに、眠れずに帰宅。倒れ込むように眠る。

夕方に起きて、さほど調子も悪くないし、散歩がてら温泉に浸かりに行く。と、そこまではよかったのだけれど、浸かっている間に流れ出す汗のように具合の悪さがやって来て、そしたら松田さんのバスで帰った時の話を思い出して、時間差で襲ってきた二日酔いであろう雰囲気のままフラフラと椅子に座って思い出し笑いしていたその様子が、他人の目にどう映ったかわ知らないけど、僕の目にはずっと飛蚊症によるモゾモゾがゆっくり動くように映っていた。

しばらく立ち上がれずじっとしているときに頭のなかに、「Feeling Good」がふわっとやってきて、昨夜の春伸のワンコードの抑揚のある音と声がなにか共に響きあうようにして向かってきたその感じを今日思い出していた。

自分のライブに対して、ある日ふと大脳新皮質とか医学的なことではなく、身体そのものが、手なら手が思い出す異変のような残響が突然やってきて、「あの時のライブでこんな音が自分から出ていたのか、それが今の求めてのいる方向なのか」と気付かされる事がある。

やり始めて生まれる、本人すらその時点では気付けない音、その人のやる知っている曲がいつもと違うという場合の「いつも」とは何であるか、少なくても僕の場合はステージで音を出して始めて曲が始まる、今どのような動きを求めている身体がどのような音を生み出して来るのか、その事自体、その一瞬一瞬が積み重なり「いつも」になる訳だから、抽象的な「いつも」に対するその曲のアレンジを変えてみたという、策略的な表現ではなくて、ある境地にいると、その場で生まれる音が毎回とは違った意味での、「いつも何が生まれるか、生まれないか解らない場所に立つ」ということになる。

一年の変化を感じた夜、がやって来た今日だった。

今日は何を書いても

2015-11-05 18:22:54 | 日記

久しぶりに先週見つけた、ジョウビタキ。翼が黒くて白い斑点が入っていて、腹の方がオレンジ色をしていて、生態を調べていたら、メスの方がまた何とも言えない可愛らしさがあって一度観てみたいと思ったら、その数日後目の前を横切ってすぐそばにとまり、首をかしげているのがそのメスでびっくりした。

それではと野鳥の会の進めもあったが、そういうつもりはないというか、そういう事でもない。地域猫問題にしてもそうだけど、自然に対して団体となるとどうも「私たちによっての管理=保護=共栄」という表情が顔をのぞかせていて、管理することがいけないとは思わないし、共存共栄という意味では必要な事なのかもしれないけれど、僕が出会って「ワーワー」と思うジョウビタキはジョウビタキであって・・まあいい。

今日は年内のラストランという事で紅葉を眺めながら大江町までバイクで走る。帰りに中山町にある温泉に浸かり、虚弱な体には炭酸水素何とかという泉質は少し強く感じたけれども、気持ちがよかった。

そういえば先日、太陽暦の上で年を重ねたわけだけれど、人々は月や太陽それらを時間の対象にして生きているのだけれど、46億光年の外側というかそこには外も内も無いわけだけど、地球から観る外側は光の届かない距離の向こう側はどうであろうか・・。光と闇・国と国民・見えるものと見えない物・自然と人々・わたしと人類・地球と宇宙・僕はこのような「何と何」という見方を「何又は何」と考える様にしている。

今日は何を書いてもだめだな・・だめな様です。

歩いているかぎりは

2015-11-02 00:52:13 | 日記
自身の音楽、作り、作った曲をやるという行為において、すぐに煮詰まるとか、生まれなくなる、途方にくれるといった場合、音楽に対する意識として、自身がやる一曲に「歌詞ができて、コードができて、今の技量を知っていて、ここまでやれればこの曲は完成だ」というような、意識があるのではないか。

つまりは立つ地があり、一曲の完成がピラミッドの頂点である、その繰返しで曲を増やしていくというようなやり方。

ずいぶん前にそういう風に音楽に向かう(上る)やり方は、一段一段成長していく過程でむしろ増えたり拡がるはずの、可能性とか思考とか発見といった荷物を、頂点があるために、より登りやすくするために、技量以外を捨てながら行く様なものだと書いた記憶があるが、その思いは今も変わらないし、「そんなことより、より安定した(上手い下手を基準とした上での)、テクニックがそなわった完成度の高い曲を提供したほうがよいのではないか。やる側、聴く側にとってそれこそがベストなのではないか」という思いに僕が変わっていたのなら、とっくに音楽などやめている。

ピラミッドの例えを当てはめるとすれば、おそらく僕の場合は、逆三角形、逆さなのだよ(極端だけれど例えとして)。行けば(上れば)ますます解らなくなり、解ったとしても、一歩上ればさらに次の拡がった地が待っている。解らなくなるのと行き詰まる事は全然違う、文章が書けなくなるというのも同じ様に、解らなくなったから行き詰まったというのは、考える事とか思い続けるとかそういう何かが停止しているのであって、上る事は掘る事でもあり、そのようにして道を探しながら、上り(歩き)続ける限りは完成することのない道を行くという。