少太 BLOG

考える日々

べんりだからでしょ

2017-03-30 18:24:40 | 日記

「ほらほら!バタバタ走ってないで止まりなさい!いい加減にしなさいよ、轢かれたってしらないよまったく。」
「どうして車が来るの?」
「車が走る道だからでしょ!」
「どうしてくるまがあるの」
「・・・・・・便利だからでしょ!」

それまで強かった母親が「便利だかでしょ」と答えた自分にクスッと笑った。ちょうどすれ違いざまの私もクスッと笑った。
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50年後、100年後

2017-03-22 00:26:45 | 日記

この国に対する社会的感情あるいは職場、人間関係そこに感情が湧き上がるのは知っている。そういう事を言葉にしたり歌にしたり、生きている間に実績を残したい、そっちに向いてしまうのは解る。
一番簡単でやりやすい事だし、まるで蟻の様に動く動き、そんなものは100人いれば100人に当たり前にある。


そういう意見は国民として持ち合わせていないといけない事だし当然私にもあるが、それら外側の事をさらに外側へと放つエネルギー、場合によってはそれこそが国を変えるために個人が出来る事、生きている意味という人々、の、その足元に転がっている石ころの変化に気付くだろうか。誰かが起こした問題に対する一連の右らえの人々の連なる動き、は、その足元にある種の変化に気付くだろうか、目を向けるだろうか。


50年後100年後まだそこにあるものに。


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リビドーといっても

2017-03-18 03:31:01 | 日記
ところでフロイトの五段階発達理論ほ私はなるほどと思い、リビドーをどうとらえるかの問題であって、そこにまた言葉の誤解というのがあり、その論理ゆえ離れていった心理学者達がいたが、リビドーといっても、概してセックスの話ではなく、ようするに赤ん坊から成人まで、大人が思う性の根元的なものが生まれてからすでに人に備わっており、五段階のそれらを何らかの理由で上手くこなせないというか、うまく育てなかった人が何らかの精神の異常をきたす、というのは解る解らないの判別の話でなく放っておけない話だ。



そういうものは実は一番信憑性がある。
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ライトがまた使えるようになり

2017-03-17 04:39:36 | 日記
酒は血、現代人においてその意味がたやすくて、笑う。酒の一滴が血に対して何故に現代人は我が身に力となる我が身によかればという利点を思うのだろうか。


血の一滴というのは例えではなくて、未開人にとっては木魂をもった神聖な者であり、植物にも魂があり、だからブドウからのなる葡萄酒はブドウの性落葉低木の血そのものであり、そういう命の源を頂くというのは、未開人にとってある意味危険な、、別の魂が入るという、、、何かであり、という意味にはあまり現代人にはない思想であるが、、、

そうした未開人から引き継がれているものがたくさんあって、確実に引き継がれており、


しかし、物は何のために作るのか、必要だから作るのか、売るために作るのか?
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表現と挨拶と

2017-03-13 17:00:14 | 日記
表現とはまた別の、挨拶となるととたんに発表会になるという、、、方向が一気にその場にいる人々に向いてしまい、、


表現が発表会になっている、そのような練習を積んでいる人達をたくさん知っているが、だからその気持ちも解らないでもない。それでは何が違うのか、言葉では説明できない。
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ちゃむいのね

2017-03-09 18:59:13 | 日記


なんだろうか、あの赤ちゃん言葉になってしまうのは、しかし僕の場合は子供ではなく猫や鳥や、、

「ペロペロぺロ、あれアッカンベー、したをちまいわすれたのね、だしたままになちゃうのね、あーおひさまあったかいの、そうなのかー、あーそうかゴロンしてお腹だしてうれちいの、あーちょうかちょうか」

「チュンチュン、羽毛逆立ててね、ちょうね、ちゃむいちゃむいね」




書きながらおかしくて大きく笑う。
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何をダラダラ書いているのか

2017-03-04 15:53:19 | 日記
仙台へ向かうとちゅう、


山にはまだまだ雪があり、あの大雪山の一年中溶けない雪のように、雪の川のようにして残っている。


歌詞のノートをパラパラめくる。数十年分の鉛筆の文字を見ていて、それにしてもいまだにコピーをとらないのはどういうわけか、無くしたら終りではないか。記憶からまた作り直そうとでも思うのか。


雪はどんどん深くなり、面白山高原駅にとまる。標高440メートルとあり、そうか函館山よりも高いのか。




ピチピチのセーターを自分で選んでおいて、息苦しいと言ったら「大丈夫だよ、死なないから」と言われた。

作並駅、去年一泊した場所だ。



今日はやる曲を決めずにいどんでみようかと思っている。


ストレスでえずきが止まらないが、このストレスを回避するすべがない、性質の問題だからだ。

あの山里に、あの川岸に灰を沈めに雪が降り積もると歌にしたのは多分この仙山線の車窓を思ってのことかもしれない。


愛子駅か、愛子駅を通り過ぎて眠りこけ、ハッと目が覚めたら愛子駅という、あの苦い愛子駅だ。


もうすぐだな、さて、、、
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ひろくみると

2017-03-03 04:31:43 | 日記
入口があって、出口があって、しかし入口から入ると出口になるのだが、出口から突入すると入口は出口となり、それらを遠目で見下ろす様に全体像で観ると、入口も出口も一望出来て、一望出来るがゆえに入口と出口の真ん中の危険性を想像してしまい、というか、その地中のあんなにもの自由がそんなにも不自由であった事に気付き、そこに戻れなくなるという。



さて、この事がなにを意味しているか、生きるうえでよーく考えてみては如何か。
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