少太 BLOG

考える日々

それでいい

2015-09-28 21:57:19 | 日記
その誰かは視界の何処かにそっと置き残して行く。そこに行けば何か解るだろうと思って行くものの、物が置かれた痕跡以外はなくなっていて、いっそう解らなくなり、置き残した人は見あたらず、知らせてもくれない。

そういう音や言葉を置き去りにする人がそれでもまだいてくれればそれでいい。

エクリプスであろう鴨を探しながらふと思う。

深く問う

2015-09-27 15:10:19 | 日記
翼くんと、佐山アキと仙台vorz Barでのライブ。なるほど、行こう行こう、としている感じであった。誰しもかどうか解らないけど、欲がもたらす飽きというものはある。何かしらの変化を見つけた時にまた次のライブにその変化を握っていくのだけど、「あーそういう事だったのか」という事を思う自身ではなくなっていて、なくなっている事じたいが変化でもある。

いいなと思える音をやる人を目指すのも飽きを通り抜ける一つの方法であるが、そこに辿り着けたとしても、とどのつまり欲を満たす、いや、欲に満たされているのであって、目指した人が優れた人であればもうとっくにそこにはいないはずで、何故いないのかという変化をとっくに身に付けているはずで、そこにたどり着こうとする事は、そこにはいない人が身に付けていく事柄を、人が持つ可能性の様なものを目指す側が知らずと回避していて、気付かぬまま進む事になる。

より良い方法というのがないために、こうだという事がない。


飽きながら、苦悩しながら、感覚を感じながら、音に向き合い、続けているだけで、もう充分ではないかとも思う。

僕はここ数年、自分の音に飽きるというのが実はないのだけど、それはステージに立って演奏しながら、次のステージへ向かいながら、音楽をやる自身に対して「僕はなにものなのか」問い続けるというのが深く関係していて、ライブの後にスポーツ選手の様に、自分なりの点数を付けることがもはや不可能である。

いつも0でありながら、又は100でありながら、無限の中にあるはずのない答えを探して迷い歩きまわっている様な、この部分はまだ上手い言葉がみつからないが。

間もなく仙台だというのに

2015-09-26 16:08:21 | 日記
仙台ライブへ向かう。

とにかく車窓が好きで、眺めている。キレイに区切られた稲、の側で麦わら帽子をかぶって首に手拭いを巻いたおばちゃんがせっせと畑仕事をしている、の側のビニールハウスの上に立っているサギ。

サギは平地に立っているイメージがあるが、この間木の枝に掴まるようにして止まっているサギを始めてみた。

さらにこの間、公園の大手門をくぐったその直後、目の前を「ブァサー、ブァサー」という音は聞こえなかったにしろ、そういう風に飛んで行った大きなサギを観ていたら「これはもうプテラノドンだなぁ」と呟いた。

仙台に近くなるにつれて建造物が増えてきて、緑が少なくなってきて、そうしたら窓ガラスに映っている女性が綺麗にみえて、そうしたら実はずっと前からその窓ガラスに映っている女性は、ずっと前からスマホをパチパチやり続けていて、その様子から、綺麗にみえなくなってしまった。

何を書いているのだろう、間もなく仙台だというのに。

何かを意味していたのか

2015-09-22 14:15:00 | 日記
はっと目が覚めて、不思議な体験をした。昨夜疲れていて、きっと10時間以上は寝たために意識はスッキリしていたけれど、ましてや網戸からみえる空は青くすんでいて、さて、と起きようとするのを阻むように、何か聞こえる。

なんというか、例えるなら携帯電話に留守電が入っていて、そのメッセージが明らかに電話を切り忘れているであろう足音や、車の走り去る音や、バッグの中で擦れるおと等がなり続いているような音を、電話から少し離れた状態で漏れる音が聞こえている状態のような音で、寝たまま耳をすますと、何かを叫んでいるようで、それも同じ何かを繰返していて、はっきりした言葉にはなっていなくて、「○○○ー、○ーー」くらいにきこえている。横を向くと携帯電話はしっかり電源が落ちていて、とにかくその内容を聴き取ろうとしていたのだけど、5分ほど続いた後で声がしなくなった。

しばらく起きずにゴロゴロしていたけれど、その声のような音は聞こえる事がなかった。
そのことが何を意味していたのかは解らないし、幻聴だったのかどうかも解らない。

ばあちゃんは

2015-09-20 04:36:16 | 日記
なんの変哲もない日、鴨達が並んで立っていて、自由を許された飼い猫はだらりんと緑の種種とたわむれていて、こちらに少し疑いの目をもつようにして見ていて、カワセミやサギはみかけなかったものの、南門のボス猫は南門のそこにいて、帰るタイミングに困ってしまう鳴きかたを聞かせてくれて、空は少し雲がかかっていて、暇な釣りびとがいて、途方にくれているかどうかは解らないけど、そんなふうに遠い何処かを観ていて、赤トンボが指先にとまり、お尻を天にむけてとまり、門の下で外人が指を指しながら歩いているただの公園を歩いているのが嬉しくなり、散歩しながら今日もまた生きるのだなと、思う様な何の変哲もない日にばあちゃんは逝ってしまった。

久しぶりなのかもしれません

2015-09-17 18:12:01 | 日記


久しぶりなのかもしれません、ライブです。

■9/26(土)仙台 VORZ BAR
Open 19:00 Start 20:30 Charge ¥1500 O.Act 佐藤翼 / 佐山アキ
仙台市青葉区国分町1-6-1 ルナパーク一番町ビル3F TEL 022-224-0312

それで、いよいよ地雷の埋められた果てしない砂漠のような所に足を踏み入れるのか、入れないのか。
この問題がどちらに転んでも、もうとっくに砂漠をさまよっている様なものだ。
常に能動的、反動的、どちらかを事あるたびに一人一人に迫られ、権威という「力」の元にどちらかが勝利したと思いこんでしまい、そこを生きがいとした粉砕の勝利がまた問われる疑問と賛否をもたらす。沸き起こる問題に対しての否定・肯定の動きの前に、起こった問題の発端、そこからまた現代の社会思考に至るまでの時代の流れの見直し、そこから創造を見つけ、生み出すことであり、そういう時にこそ必要な「力」こそが「力」となる・・と思うのだが、そうした思考そのものが「ん?何?」と思われてしまう厄介な時代にまできてしまっていて、きてしまい続ける傾向にあるという事もまた事実だ。

気付けば自分の足元である山形、Bar Tarjiでライブをする事を忘れている、やるタイミングを見失っている。もしかしたらどこかで恐れているのかもしれない。まぁそのうち、忘れや恐れにも挑むけど。

夏はすぎたか

2015-09-14 21:38:09 | 日記
CDのジャケットをコピーしたやつを、カッターで切り取る作業をしていて、細かい手作業はなかなかであると、自負していたのだけど、下に段ボールを敷いてやっていたら、キレイに切りはなそうとするために動作が鈍くなり、ちょうど筆でもって一筆書こうとするときに、集中しすぎて、文字が歪んだりしてしまうように、段ボールごと、刃を入れてしまい、ギザギザになってしまう。

そんなふうにギザギザな作業を続けながら、目の前に積んである本は、全て今日届いたやつで、メモしておいた本をAmazonでポチポチとまとめ買いという、あまり好ましくない買い方をした為に、単行本で揃えたつもりが一冊メルロ・ポンティのラジオ講演の朗読のが文庫本で届いた。

ところで、この間お客さんが50枚近くCDを置いていった中で、ry cooderの「pull UP SOME DUST AND SIT DOWN」という2011年のアルバムがよかった。他にも数枚あったけれど、1曲目から「おっ」となったのはryだった。

そうした事を思っているうちに、切り取り作業は終わっていて、そうした事を思い始めた頃からか、切り取り部分がキレイになっていて、作業も手早くなっていたようで、手作業というのは、あまり集中しない方がいい場合もあるものだな、と思う。

改行できず

2015-09-12 20:25:49 | 日記
仰向けになりながらブログを打っていたら天井の白いキャンバスに白の油絵のような凹凸のあるクロスを見ていたら、ただ仰向けになっているという理由から、白い空に見えてきて、そうかと思ったらそこからぶら下がっているハダカ電球の明かりが天井に反射して、その光と影の感じが、月食の様になっていて、だとすると、地球がこのちょうど寝そべっている辺りで、このずっと下の方に太陽があって、とゆっくり目を閉じようとして、「バカじゃないかしら、こんなことをしている場合ではない」と起き上がって、ギターを弾こうとそれを手にとって、ところでさっきからこの部屋に流れていたのはJesse Harrisのエレキの弾き語りで、ディランの様なハーモニカが 「ピープー」となっていた。

確信など

2015-09-11 00:05:02 | 日記
日々繰り返される普段の会話のなかで「悟ってますね」とか「核心をつくような話ですね」とかよく言われるのだけれども、始まりの話の内容を僕なりに考えると、こういうこともあるのではないかという一つの話であって、種をまいているわけで、むしろそこから始まる次の言葉をこちらは待ち望んでいるのだけれど、確信という言葉で締めくくられてしまっては、次がないというか、うわべから中には入れないのであって、「まぁいいや」となってしまう。

それで、その二言を並べてみたら「核心を悟る」というふうになって、笑ってしまい、何故笑ってしまうかと思えば、僕自身は「そんなに簡単な核心ならば確信など放っておけ」と思っているのだから。

評価のために飛び跳ねている

2015-09-08 19:47:58 | 日記
何かの物事が人に比べて不得意、不自由である場合に、他の何かの物事がずば抜けている、ということがある。

その何かの物事というのは、こういうことは、たいていこのくらいは出来るであろうという、人が思う「普通」を基準においてであるが、「普通」を基準において、「不自由」である場合に、その部分の信号が滞るために他の部分の信号が十二分に届くという場合が「バランス」によりおこる事もある。しかしながら「普通」の部分で決めつける人々が大勢いるということも、また事実である。

「決めつけられる不自由さ」が、自由を生み出す事もある。そこに気付くか気付かぬかは問題ではない。何かを基準とした評価を気にし出すと、よりよい評価を得たくなるのも、評価の為にただ飛び跳ねているだけにすぎない。

ある晴れた

2015-09-02 22:58:26 | 日記
ある晴れた爽やかな朝をむかえる。案の定日の出の時刻を寝過ごして、すっかり海辺の朝に目覚める。

しばらく海を眺めてから走り出す。クッチャロ湖で休憩。素晴らしい、湖のそばのキャンプ場、ここに泊まりたかった。多くの野鳥が飛来する場所。

先を急ぎ、午後からぽつらぽつら降り始めていた雨もやがてどしゃ降りに。雨の中のツーリングは体力戦になる。このまま夜まで降り続けると知って、キャンプをせずに、初日に泊まった誰も居ない生家に向かう。また一晩お借りする。クタクタで就寝。

オレンジ色の月が

2015-09-01 21:54:15 | 日記
オホーツク海沿いの日の出岬という所でキャンプをしながら、日の出が見えると思われる方角を、あそこから昇るのかと、ビールを飲みながら暗い夜の海を眺めていたら、そこからオレンジの月が波の表面の動きをオレンジ色に照らしながら昇ってきた。

とても美しかった。