少太 BLOG

考える日々

やってくる年を迎える

2015-12-31 17:28:15 | 日記
年の瀬に

いつもと同じ公園で、いつもと違う風が吹いている。私の歩く方向のその先に横切る猫。やがて、わたしの足元をぐるりと取り巻き私の後ろを世話しなく、招くようにして、いつもより幾分お尻を高く跳ねるように駆けていく。

いつもと同じ公園で、いつもとは違う大きな意味での水溜まり、小さな幾つもの波紋を作る鴨達が、波紋は小さなものからやがて大きな一つのかたまりとなり、平面から凹凸の層となり、それを作っているのは、お尻をくちばしが、くちばしがお尻を追うように、大きな円を描いている鴨が、やはりいつもとは何処か違ってみえる。

昨日とは違う世界の片隅を、時に見上げる空の広さをそれにあてがうようにして、一人、ただ歩いている。

そうして、また違うやってくる年を迎える。
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初めての時の様に

2015-12-28 20:58:21 | 日記


曲に歌詞という言葉を乗せて歌う。というのが、過去を振り返る事や、これからの幻想とか、全くの作り話とか、何かに対する反発とかそこはそれぞれで別によいのだけれど、その言葉による作り手のイメージが明確に、又はぼんやりとそこにはあるわけで、それが明確なら明確に、ぼんやりはぼんやりとしたそのまま伝えることは出来ないだろう。

「言葉を歌い、自身のイメージを誰かに歌うことによって伝わればいい」という前提で歌詞を書く事はそういう何かを投げかける事で、何処か的外れの様に思う。

少なからずまとわりつく先入観に対してディランの様に何度もやっている曲を出来るだけ初めての時の様に向かう。

保坂和志の様に何度も読んでいる本を出来るだけ初めての時の様に読む、とか。

そういう向き合い方というのは、歌で言う「言葉によってそれを伝えたい」という表現ではなく、誰かの作品、又は自身の作品の繰り出す言葉の連続に自分のあらゆる感覚をあずけるという、そういう風に何度も向き合うという事を私も心掛けているし、やはりそうなってしまう。だから、そういう向き合い方の場合、同じ曲が変わっていくのも、変わらないのも、それがその場で生まれた動きであるならばそれでいい。

初めての時の様に。
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あいくるしい

2015-12-27 21:56:41 | 日記
河川に住むカワセミは、狙いを定め一直線に小魚を捕らえ、枝の上でくわえた魚の頭を首をふって何度も枝に打ち付けて動かなくなってから食べるのだけど、

巣穴から飛び出したヒナが、生きるためのそれを見よう見まねでやるときに、エサの魚だと思い、時に葉っぱをくわえて葉っぱをパシパシ枝に叩き付けたり、時にはただの小枝を叩き付けたりしているのをテレビで観ていて、その様子がなんともあいくるしく思う。
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わかりません

2015-12-25 02:41:10 | 日記


志の輔落語、行く。
あそこがどう、ここがどう、という事を書けないんだなぁこれが。

入場から幕が下りるまで志の輔なんだもの、もうどうのこうのじゃないでしょ。

言葉には意味がない、というのを、何が言いたいのかというと、考えるきっかけを与えてくれる言葉に出会うと言葉は言葉でなくなるというか・・。もうわかりません!
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霊的な話をしようとして

2015-12-24 01:33:55 | 日記
この世に現在生きているとしたうえで、不思議な事が、生きているとしているわけだから不思議な現象を体感的に感じたことがあると言えるのだけど、皆生きているとしたうえで、不思議な現象を説明のしようがないことを、「ありえない」と言う場合に「ある」「ありえない」の話ではないと思うと、万物が膨張し続けるように、人の外側にしか向かわないエネルギーが、時がたつという認識をもたらす、体感でその事を感じられること、例えは秒針が進んでいるとか、会話が後ろに延びるように続くとか、音楽が後ろに流れているから一曲が終わって二曲目だなというふうに感じる、外側に流れるエネルギーが時間となっているのだと思うと、果てた物が、残るというより、そのすべて外側に流れている時間に対しては「流れに逆らう」というかたちになるものが、流れている時間に屈折するような現象となり現れる事があるのも自然なことのようにも思えるし、「ありえない」という方が不自然と思う事もあるし、その思考からみると「物理的な証拠をみせろ、今この場所で」という考えが、
私が今生きている証拠をみせろと言っている様で、疑っている側のその意見が、
自分を疑っている何者でもなく思えてきて、そうなるとすごく滑稽に思えて面白い。

なんの話だったか、霊的な話を書こうとして、、。
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でもやる

2015-12-22 20:18:42 | 日記


ある程度経験の持ったドラムの音、それで、目配せをしながら徐々にリズムを変えていくのは、そうしたある流れを読もうとしている意識が鋭く働くと同じようにして身体が示すリズムとなっていき、互いの感覚がその場で生まれる音に向かって行き、うまい具合になると突出し合いどんどん大きな固まりとなってまわりにも広がって行く・・、。気持ちのいい感覚が残る。

一方でもうこの一定のリズムから流れとかもなく飛んでくる音を待っている、目配せなどもなく予感させるような音を僕が示すのでなく、ただ待つ。これはその空間にとってとても難しく、また苦しくもある。なじみの音楽、を思えばやらない方がいい事かもしれない。そこで表れた何かがあったとしても、その場の音には結びつかない場合も多く下手をすると、下手をしなくても、大体のを敵に回すことでもあり、気持ちの悪い感覚が少なからず直接に残る、やる側も、当然聴く側も。

でもやる、そこが出来ればというか、湧き上がってくるようになればきっと素晴らしい。
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悲しくも美しい

2015-12-22 00:57:01 | 日記
この世の物語とは思えない様な悪夢をみて、もう、わずか、布団を頭からかぶるようにして、もう、少しまるまっている。

散歩に外に出た空を見上げたときに、いつかせっせと世話をした小鳥が、ある日突然巣立ちの様にして、何処までもみえなくなるまで飛んでいったその姿が、皮肉にも、みたことがないほどに、力強く、たくましく、悲しいながらに美しいという、私もそんなふうに歩んでいきたい。
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幼き対老いた

2015-12-19 16:30:19 | 日記
いつもの場所、いつもの猫達。

5匹のうち、一匹がオス猫で、いちばん幼い。しかし、遅れた発情期を思わせる行動をとるようになると、人であればお婆さんであろう、いちばん老いたサビ猫はいつもおしりのあたりをいつまででも叩いて欲しいように、いつまででも叩かれているのだけれど、その時期になると、オス猫に敏感になり、おしりのあたりを叩いていると、すぐに噛もうとしたり落ち着かない行動をとる。

少しでも近付こうものなら、それであのチーターがある距離まで近寄っていくときの、背を低くして、そろりそろりとやるみたいにして、幼いオス猫はこちらに近づいてきて、撫でられて安心したようなタイミングで、老いたサビ猫の怒りのパンチによって、またあの怒られたときの様な顔をしながら、すごすごと、退散してしまった。
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そこではない

2015-12-18 23:56:36 | 日記


捉え方による、動き続けている思考の停止。

いったいどの論理がより自身にとって良い影響を与えてくれるのか、ソクラテスの場合・プラトンの場合・カントの場合・アリストテレスの場合・ロックの場合・ニーチェの場合・フーコーの場合・マザーテレサの場合・ガンディの場合・マルクスの場合・フロイトの場合・・といった風にそれらの言葉をただの異言として「その意味を知りたい」と捉えているならば、その誰一人としての言葉の想いは通じないかもしれない、後ろの歴史の様にして。

それらの言葉を読み聞きするならば、一緒になって探求することだ、それで浮かんでくる何者かが存在としてではなくて必ずある。

この人が書いている、言っている意味を知るというのは、やはりそのものに対しての私の何かしらのどこか偏見的な知識としてのそれに対しての判断の探求という、「求む結果がもたらす結果」という物に向かっている様に思う。

一言一言、一行一行に埋もれている言葉たち、それたちを捕まえようと追いかける事だ、しっかりと捉えていれば、それは己を追いかける事にもなるだろう。知識としてでは無く。

「どうしたらその域に達するのか」域などない、己の中にうずいているもの、それをぼんやりと感じていられれば、そのことをちゃんと背負って歩いていれば、ある日突然網を掻い潜りやってくるだろうし、その連続である・・・と思う。難しいものは難しいものとして。

哲学者を例に挙げてみたけれど、自身がすごく面白いと思える誰かの言葉ならば、それは同じこと。今日はつもりはなくても、縁があって思い当たる事を書いてみる。

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今年最後の

2015-12-16 21:52:30 | 日記


今年最後の歌う場所はBar Tarjiで忘年会ライブです。

Open 16:30 Start 17:00 Charge ¥1500(ドリンク別)
 
ざ べっがーず  17:00~17:30
アマリリス      17:40~18:10
太田昌子    18:20~18:50
maquaroni    19:00~19:30
BRONCO     19:40~20:10
松沢春伸    20:20~20:50
Kechon Kechon Jug Band    21:00~21:30
少太           21:40~22:10

さて、どうでしょう。
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ただそれだけ

2015-12-11 04:21:51 | 日記
言葉は言葉だ、伝える手段ではない。伝えようとするほどおかしな事になる・・という思考で、僕は知らない人の言葉を読む。

言葉の意味にとらわれないため、そのうちにそれが何か身体の一部分に洋服につく落ちない汚れの様になって、潜む。潜んだものは、それはもはや言葉とかではなくなっていて、ただ付くものとして、ある視点でしか見つからないような汚れとして。

そういうことがある時にふいをつかれたように意味を持つ。それが初めて言葉として意味があると思える。そういう方が、より言葉の理解に近づけると思う。

ただ、会話は会話であり、また別の、会話として共感出来る手段なのだからとても大切な事で、何処かで響き会うとかそういうことではなくて、ただ会話で知る事が沢山あるわけだから。

その少し昔、駆け出しの頃にどこだかのプロデューサーに「あなたの歌詞は何が言いたいのかよく解らない、もっと直接的な方が良いのでは、、」と言われた事がある。

その答えという訳ではないけれど、そういうことが答えの様になった今日の文章。ただそれだけ。
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それはそうかもしれない

2015-12-10 05:16:21 | 日記
一人家に帰ってきたら、テーブルの上にいつか買ったゴーゴリの本があって、翌日相方に「えっゴーゴリ?」といったら、「なんとなく読みやすそうで、可哀想なおっちゃんがさぁ、あれ?まだ読んでないんだぁ、ゴーゴリが何とか別にそうしためんどくさい話じゃなくてさぁ、可哀想なおっちゃんがさぁ」という事で、「ぼくは嬉しいな」と返した言葉に僕は恥じらいさえ感じた。
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乗っかっているではないか

2015-12-08 18:36:43 | 日記
パソコンをダウングレードしたら、作業不能になり、OSの入れ直しとなると、経理、ホームページなどのやり直し・・、どうしよう・と、仕事場の時間は流れているのに僕が停止してしまった気持ちになってしまった。

4時間かけてなんとか修復したものの、「その発展ちょっと待った」と思っている自身が完全に機械的連帯に乗っかっているではないか。

全てを紙とペンに戻そうかとふと思い始める。
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考えのままにただ書いている

2015-12-04 01:39:15 | 日記
ご飯と納豆と根菜の味噌汁を食べながら、せめてこのくらいの根菜を育てられればいいなとずっと思っている。

東京に住んでいた頃からそういう思いはあったけれど、どちらかというと自給自足みたいに、その頃は単にそういう暮らしそのものに憧れていた部分があって、それは騒がしい世間からの逃避というものに近い願望だったのだけれど、今では今の暮らしがあって、それが今現在の自身の根であり、その根から、そこで育てたものが、自身の身や栄養となる様な物を、あれもこれもではなく、せめてこの味噌汁の中の根菜くらい出来たら素敵だなと思う。

最近作ったというか出来た歌で「僕と私」というのもその様な考えから出来た歌で、これから生まれるかもしれない音は、生まれた時から抱いていて、欲望のため押さえられ続けてきた自我、半分眠ってしまっているような根。

例えばあらゆる哲学者達が「いろいろ論じて来ましたね、しかしながら気苦労だった事も多かったのかもしれない、今の世界がこうである様に、まぁこれからは楽しくやりましょう」と何処かで手を取り合う事が、音に変わると盆踊りみたいな、無条件に群がり踊る様な事であれば、あの空気中に漂う魂がそこら辺で一緒になって踊っているのではないか、とまで感じてしまう様な、人本来の一体感、先住民の祈りの様な、いろいろな経験、知恵、知識の果てに帰るように生まれる根源的な、民族の奏でる音、体の音、声、それそのものを真似る事ではなく、生きるための働きにある人々の自然と出てくるような掛け声とか、誰にでも生まれながらにあるような、その地域によっての歌、様々な体験をしてきた事でようやく掘り起こされた源、そういう目覚めなくても生きてはいけるが、誰にでもあるはずの土の声みたいな物が降りてきそうな気がしている。

来ないかもしれないし、来たとしてもそれが曲になり得るものかどうかは解らないけれど、最近そういう事が沸いてきては、煮立つまえに沈んでいく事が面白いと思っていて、これは初めての感覚だ。

書きながら何を書いているかは解かっているが、明日読み返した時に文章から解れる自信はない。考えのままにただ書いている。
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師走に猫が走る

2015-12-01 19:34:32 | 日記
日課の散歩を3日ほど休んでいる。

ダウンを着て自転車で温泉に向かう。今日も始まる温泉での突拍子もない会話「紅白みるがよ、ちょっとぐらいみるべ、チャンネル変えながらよ、今年はあれよ、マッズ(マッチ)がでるべ、あれよ多分ギンギラギンやるんだず。最近のうだはよくわがらねくてよーおにゃんことがよ、あの人は今みだいなやづばもっどやればいんだずよ。よくわがらねぐでよー」

「おれは見ねず」、と一刀両断する口数の少ない隣のおじちゃん。

JーPOPの大御所のような人がライブで「ブルース畑の人達ははいいよなー」というのがよくわからない。

日本のポピュラー音楽というものが、こうでなければいけないというメロディーや歌を共感したがる民衆に対してのそれに答えなければいけない音楽をやっている僕らは大変だとでもいっているのだろうか、だとすると、ブルースならば多少音ががさつであっても、それがブルースというジャンルのイメージによって受け入れられやすいという事にでもなるのだろうか、そういう話ならばそれはもう「音楽という商品」と物差しの話になるので、どうぞご自由に、さようなら、である。

帰りに日没した公園を走る自転車の前をスッと横切る黒猫、師走に走る猫か・・。
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