少太 BLOG

考える日々

見ているようで

2016-03-24 20:50:29 | 日記
見ているようで見ていないが、実は見ていた。

聞いているようで聞いていないが、実は聞いていた。

、の後の実はというこの実はは、あるときに突如わき水のごとく現れるという事に対する実はなのだけれど、それは遠い記憶のようにして、確かに刻まれている。

などと書けばもっともらしいが、婉曲にせず、もっと直線的に書けば、

見てはいるが、興味がない。
聞いてはいるが、覚えるきがない。

というふうにもなるのであり、、

しかし人は一歳になるころに、海馬のニューロンが飛躍的に増えるというのは確かだとしても、脳と五感の関係が一定の法則に基づかないというのは、たとえば盲目の人がまっすぐに歩いていて、壁の10㎝ほど手前でピタッと止まる時に、脳の後頭葉の視覚野が強く反応しているという事でよくわかる。


で・・なんだったか、物忘れの話を書こうとして物を忘れるという、、

道端に

2016-03-23 18:25:12 | 日記

道端を歩いていて、ちいさなちいさな紫の花、たくさんのオオイヌノフグリがひらひら風に揺れていて、すっかり刈られた枯草色の空き地に春色の知らせの様に咲いていた。枯草に対してのその花の存在に「永劫回帰」という言葉が頭をよぎる。

また新たなニャンタ達を見つけた。


外は晴れ渡り

2016-03-18 19:30:24 | 日記
外は晴れ渡り暖かくある。今日このような時期になるとまた読みかえしたくなるのだ。



たくさんの冬

わたしは孤独な月を友として生きてきた、

その月があとを追う灼熱の太陽は

大地を冬から解き放つ前

わたしたちの感謝の歌に聴き入った。

たくさんの冬をわたしは生きてきた、

融けてゆく雪の中から、ひ弱な花が現れてわたしは春の精です、と言った

時のそもそもの始まりから。



ナンシー・ウッド「MANY WINTERS」より(金関寿夫訳)

かみのやま

2016-03-14 21:49:58 | 日記
前日急に思い立った上山温泉へ、以前お客さんに聞いていたよさげな共同浴場の名前を忘れてしまったので、ビールを買いにスーパーに立ち寄り、すこしの肴を買い、どんどん焼きの店でどんどん焼きを食べて、お店のひとが広くていいと言っていた、もっとも古い下大湯という浴場に決めて、お湯に浸かろうとして、足首を入れたら「ウァッ」と言ってしまったほど熱いではないか。

今度は膝まで、さらに太股までと、結局首まで浸かるのに5分以上をついやす。

そうこうしていると、脱衣場から腰のほぼ90度曲がったまま歩いてきた番頭さんらしきおばあさんが、90度腰を曲げたまま、そっと湯舟におーいお茶のペットボトルを浮かべていった、ぬるめのお茶が好きなのだろうか・、と思っていたら、その角度のままもう一度やって来て、洗髪専用の蛇口をそっとはずして持っていった。僕の視線はもうそのおばあさんに釘付けになる。

今度は脱衣場の床のほこりを、やはりその角度のまま、ガムテープを2枚ちぎり、手のひらを床に滑らせながら、掃除をはじめたと思ったら、その一部分ですぐにやめて、番台に戻っていった。

浴場を出て、相方とその母親と上山城に登り、敷地内の広場でベンチに座り頂上辺りはほぼ真っ白な蔵王連峰を望みながら、買ってきたビールを飲む。その美しい山山の手前には上山の町並みが広がっているが、歩く人の姿がなく、少しさみしいようにも思う。

その日は結局、ひたすら飲んで、その二日酔いのために、今日の昼間の講習会の説明が恐ろしく長く、苦しく、また、その話の内容はひとつも耳に入らず。

しかし・・2

2016-03-11 20:38:54 | 日記
私は広がり伸びた木を観ている。根元に近い方に幾つかの空間があり、内部が見えていて、心材が干からびていて、触れると無惨にも崩れてしまう。いや、崩れてしまうという哀れみのような表現は間違いかもしれない。形成層の細胞分裂により、樹皮と内側に木質が作られていくわけだから、過去の心材を滅ぼしながらも、形成層はさらに年輪を増やしながらたくましく生きている、とでも言うべきか。

ぐるりと回り込み、その構造を細部にわたり観察してみる。

しかし・・私には木を知ることが出来ない。

しかし・・

2016-03-10 22:34:15 | 日記
猫を観ている、威嚇する側が背を低くして飛び出す瞬間を待っている。される側はこれも姿勢としてはほぼ同じようにそろりそろり、こちらはきっと一気に逃げ出す瞬間を待っている。

お腹を見せてゴロゴロしている、お腹を見せて丁寧にグルーミングしている。木の根元の方でカリカリと爪を研いでいる。大きなあくびのあと、ピーンと伸びている。手先足先まで広げる勢いだ。

「楽しそうだ」とか「◯◯そうだ」などと思いながら、その行動を細部にわたり観察している。

しかし・・私は猫を知ることが出来ない。

少しずつ、でも確実に

2016-03-08 02:31:23 | 日記
久しぶりのVORZ BARでの夜、に限らずではあるが、最近何だろうか、終わったあとになって何をやったかわからない事は今までよくあるのだけれど、やりながら多分天井辺りからの視点、あるいは真上からか、時間が瞬間の連続であり、時が経っていくというよりは時がだらだらと流れていて、その床から天井に向かう距離というか、自身から溢れる音のエネルギーが放射状に向かうときの少し遅れた音を天井、あるいは真上あたりでとらえている、単に自分の音としてではなく、誰かの音のようにも感じながら一緒に揺れている様な感覚になることがあり、そういう場面というのは、気迫でもっていくような声や曲を演奏している時ではなく、決まってもうほぼ眠りながら指が動き、寝言の様に歌っていたのではないかと思える様なライブをしている時に感じられて、まだぼんやりとしか言えない感覚が少しずつではあるが、育ってきている気がする。

少しずつ、でも確実に。

こうしてだらだら書いていたい

2016-03-05 15:57:05 | 日記
電車の車窓から。

仙台に向かう、そしてこの時間がとても好きだ。流れる景色を観ては思いに耽る。県外にでるのは久しぶりだ、冬眠から覚めた気分だ。手元の荷物からチェーホフの文庫を取り出してペラペラしながらすぐに気持ちが悪くなり、遠くに目をやる。

乗り物の中で本が読めないのはつらい。この三半規管の弱さよ。長いトンネルに入る。この電車が走り去ったあとには、やはり重力波が起こっていることで、いよいよ宇宙膨張論は確実というわけだ。

先程まで晴れていたのにトンネルの向こうはどんより、山林の天気は変わりやすい。

畑作業を中断した年配夫婦がビールケースを縦長に置いて腰を下ろし雑談でもしているのだろう。その夫がくわえたばこだったというのは差し替えられた僕の記憶かもしれない、というか、年配夫婦というのもどうかわからない。もはや畑作業というのも疑わしい。

意味もなくこうしてだらだら書いていたいが、もうすぐ着きそうだ。

明日二日酔いにならない程度に今夜は・・いや無理であろう。

選挙のニュースを観て

2016-03-02 18:10:13 | 日記

アメリカ合衆国大統領選挙のニュースを観ていて思い出したムヒカ大統領のスピーチであるが、僕が驚いたのはあのスピーチ、一人の人間としての立場から考えるその内容がすぐに「もっとも衝撃的なスピーチ」だとか「突き刺さるスピーチ」だとかで世界で話題になる事自体に驚いてしまい、話題になるという事は広がるという意味では良い事なのだけれど、同時にそれだけそういう事を訴える人がいないという現実でもある。国の代表者が国を考えるという事は経済発展より以前にそこで暮らす人々の事を考えなければいけないのではないのか。高度経済成長効果により幸せになれる人などごく一部ではないのか。

例えばパソコンや携帯にしても、次から次へと新しい物(数年たつとこわれるように作られている物)を作り続けると、消費者がそれについていかなければ時代に取り残されるような社会となっていき、企業は果てしない競争社会となっていき、その分人と人との交流が減っていき、どうなるかなど考えればすぐに分かる事であり、日本でも車社会といわれる市町村が一家に一台がやがて一人一台車が必要だと当たり前に思うようになるのも、そういう社会が生み落としていく考えで、昭和の時代を思うと予測は出来た物の、やはり受け入れがたいことだ。

「便利な世の中になったものだ」と思うのは、そう思わされているのであって、携帯が無い時代に「不便な世の中だ」などと思う人がいただろうか。

選挙の話であったが「アメリカを偉大な国にする」というのと「アメリカをひとつにする」というのとでは全く考えが違う。どう違うのか、それは内面的と外面的の話になってくるのだが、すでにこの文章で述べてある。