少太 BLOG

考える日々

カワウ

2016-01-30 18:38:20 | 日記
単眼鏡で観ても、ようやく首の辺りの黄色い部分がみえる程の距離までしか近付けないため、クロサギだと思っていた鳥が、今日近い距離から飛び立ったその足がはっきりと短く見えたのと、先日潜水していたのを見かけた事から、図鑑を調べたら、カワウであった。

留鳥だというのにこの時期に急に飛来してくるのはどういうことだろう。

それにしても、別種の鳥同士が何処かで争っている姿を一度も見たことがない。鳥は同種と別種とをどのようにとらえているのだろう。
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そこにもあそこにも

2016-01-28 18:45:33 | 日記
そこに二頭の馬を走らせている彼がいます。

彼の引く手綱は、何度か欲望側に吸い寄せられますが、気概側を走りやすいようにそっと握りを弱めたりします。気概がうまく走り出すと、むき出しの欲望側がいよいよ暴走しないように、あるいは気概側の走りに引かれて転倒しないようにと、彼はそちらの手を程好くしようと思います。欲望の馬に身をゆだねる事も出来ますし、その手綱を断ち切る事も出来ますが、彼はそうはしません。三文説の例えをもとにした個人的主観でのお話なので、その彼とは理知ですが。

そして、その理想的例えを国家に当てはめることもできますが、ところでうまくいきません。なぜならば、手綱を引いている彼はもともと裸なのですが、国家となると、官僚という洋服に身を包まれてしまうからです。そしてその間中ずっと、その地位から物事を考える様になるからです。「それが社会というものだ」という場合、そう言い聞かせているにすぎません。もとはといえば、馬の手綱を引いている個々の裸の理知の集まりな訳ですから。

何故こんな話をしているのでしょうか、したくなったからでしょう。だってニュースを御覧なさい、映っているでしょう、そこにもあそこにもまた一人。
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修正するというのは

2016-01-28 00:23:23 | 日記
修正するという事は自身の恥じらいの過去を修正するというのではなく、それによって成長の過程、プロセスを確認できる事であり、それによって気付かされる事もあるのであって、、、
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ライブ

2016-01-26 21:50:09 | 日記

ライブです、今年は我店からのスタートです。

■2/8(月)山形 Bar Tarji
出演 高木克(SOUL FLOWER UNION) / 少太 / イノヴ(BRONCO.)
Open 19:00 Start 19:30 チャージ 前売¥2500 当日¥3000(ドリンク別)

今の状態は僕にも解らず、、ただただ遠く深くへ。
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雪が見たくてさ

2016-01-25 21:43:39 | 日記
温泉に浸かりながら、ガラス越しに積もる雪が、沖縄にも降ったのか。

沖縄に住んでいた時に、乗ったタクシーの運転手のおじさんが定年後の自分の暮らしかたみたいな話をしながら「死ぬ前に一度雪が見たくてさ」と言っていたのは「死ぬ前に一度、雪国の雪景色が見てみたくてさ」と言っていたのだと思う。

温泉の湯けむりで視界がぼんやりしてきて、さっき薄暮の中で猫の様子を見に行った時に、こちらは辺りの暗さによりみえにくい、それよりも猫の方はみえている、と思わせる昼間と変わらぬ動きをみせていた。

生まれつき盲目の画家が、色の配合でどの色になるかを知っていて、分量も指先が知っていて、知らないはずの遠近法を巧みに使って書いてみせると、すぐに研究者たちは、「全く信じられない、見えているとしか思えない」と言って驚いて、ところで、薄暮の中の猫の話、辺りが薄暗いから見えにくい、湯けむりが立ち込めているから視界が悪い、という因果関係があるのだけれど、その場合にそこにあてはまらないのが「猫」であり、研究者たちの「見えていないから遠近法など表現出来ない」という場合の因果にあてはまらないのが「生まれつき盲目の画家」であり、画家の場合は人間の持つ感覚として、視覚という頼りが欠けているのに対して、触覚や嗅覚が驚くほど進化する、そのことが脳に驚きの変化というかはたらきをもたらすのは、考えにくい事ではないし、五感を持っていても記憶力が異常に発達しているという事があるのだから、因果関係などほうっておいて、あらゆる可能性があるということを知っている。
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鳴っていたのは

2016-01-22 18:45:04 | 日記

去年の秋口から喘息気味で、ライブも近く、病院に行く。

毎年その時期にかかりつけの循環器内科に行くのだけど、最初の一言が「どうも、一年ぶりですね」という言葉に意味もなくホッとした感じになって、そのことで自分の通院歴を思い出すきっかけになり、考えてみれば、アレルギー体質にもかかわらず、ここ一年は病院に行っていなかった事になった。耳鼻科にも、皮膚科にも。

それで、咽の炎症を測る機械を手に持ち、パソコンに映っているゲーム画面の動物の乗った気球を息を吹き込ませてゴールまで飛行させるみたいな測定システムをやって、「いいですか、はい、どうぞ!」という合図とともに「フーーーーーーーーーッ」とやっているときの流れる音の「ピョロロロローン」みたいな腑抜けたゲーム音楽と、「はい、強すぎ、もっと気球を上手く運ぶように」とか横で声援を送ってくれている先生のその感じがツボにはいってしまい、必死に笑いをこらえて、動物の乗った気球をぶつけてしまってやり直しになり、「あ、の、せんせい、この音消すことは出来ますか」と神経質な人だと思われるのも覚悟で言ったら、「え、あ、やってみます。そうか、パソコンのボリュームを下げればいいのか」と独り言の様に言いながら、パソコンのボリュームを最小にして、「ではいいですかー、、、、はい!!」と息を吹き込んだ瞬間に、「ピョロロロロローン」と鳴っていたのは、息を吹き込む手元の機械からであり、、
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雪が降っている方が暖かい

2016-01-20 18:46:10 | 日記

気温が同じ氷点下の場合、雪が積もっている方が暖かいと長年思っているのは僕だけであろうか。

それで「雪が降っている方が暖かい」と検索してみたら、水蒸気が雪にかわる時には熱エネルギーを放出するから、その周辺は暖かい。とあり、反面雪が解ける場合には熱エネルギーを吸収するとあり、その科学的な内容に「なるほどー」とは思わなかったのは、僕が感じる暖かさというのはどちらかというと、大気中で水蒸気が雪となって降ってくるその周辺はやはり寒さを感じるが、反面大地に降り積もり、完全に雪であり、後は溶けるだけのその周辺、つまり足元の雪から熱エネルギーが放出されているように感じるのだが・・。あくまでも体感として。
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そうそうたる顔ぶれの中で

2016-01-19 19:34:20 | 日記
SONG TO SOUL「We are the world」を観ていて、そうそうたる顔ぶれ、こういうレコーディングの場合に、ソロの部分に感情が入りすぎてしまうのはありがちな事だけど、ディランのソロの所で思うように歌えず、録音がストップしてしまい、スティービーとライオネルがディランを挟むようにして、二人がディランの歌真似をして誘うようにディランに指導している映像を観ていて、笑ってしまい、また好きになり、そのソロの後、全員が合唱している所にもう一度ディランの走り気味の声がいっそう浮き立って聴こえてきた。そうそうたる顔ぶれ、の中で、問題をおこす、面白い。
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懐かしい気持ちが突然と

2016-01-17 17:33:28 | 日記
温泉の帰りに大きな橋を渡る自転車をこいでいて、今日は降りずにがんばってこいで、よろけながら到達寸前の坂のてっぺんのその向こう側に自分の生まれた家が見えてくるのではないかという、その必死にこいでいる幼少時代の補助輪のついた自転車に乗っている自分の色彩の薄れた、しかし確かであるはずの記憶と懐かしい気持ちがやってきた。

生まれた家が見えてくるのではないかという、その家だけは薄れた記憶でもなく、というのも、去年その家を訪れて、二泊したうえに、何かを確認する様に、家の隅々まで観てきたからであり、、。
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故郷

2016-01-16 22:40:27 | 日記

シリア難民の番組を観ていて、理由は命の危険から逃れるためだけではないにしても、命の危険を冒してまでも、幾日もかけて狭い船内の中地中海を渡り、言葉の問題、お金もなく受け入れられる場所の決まらぬまま仮住まいでインタビューを受けて「この状況まるで監獄のようだ、数十年かけて僕の事を理解してくれて信頼をきずいてきた友達は何処にもいない、また一から町をおでこに履歴書を張るようにして始めなくてはいけない、もし許されるなら、帰る手段があるなら明日にでもシリアに帰りたい、あそこには僕のすべてがある」と答えていて、命の危険からの解放を命の危険を冒してまでやって来た、日常に起こる身の危険からの解放そのことよりも、故郷を遠い場所にしたことの方が辛いのではないか、故郷とはそういう場所であるのだろう。
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厳しい寒さのおかげでよく観える

2016-01-15 19:01:23 | 日記


公園の北門の出た所にある生け垣の中で暮らす猫達を雪からかばうように、初めは段ボールがかぶせられていたのが、今日訪れると、「これはまた派手にやったなぁ」と思わず言ってしまった様に、厚めの透明なビニールシートが3~4メートルほどの幅で生け垣を覆うようにかぶせられていて、猫にとっては良いはずではあるが、そのシートに「このままであった場合○○日に撤去します」という公園緑地課からのシールが貼られていて、それはそうなるなぁと思いながら。

水堀の土手側で久しぶりに観つけたカワセミを「あーあー」と指で追いながら、いつも観ているコガモよりもさらに小さい「カイツブリ」というカモの一種が、これはとにかく潜水ガモで、水面にいる時間の方が少ないのではないかと思うくらいに、少しでも近づく気配を感じると、「シャボン」と潜り、数十秒して数メートル離れた向こう側に姿を現す。それで昨日、その現れたカイツブリのくちばしが稚魚を捕えていて、獲物を捕えた瞬間を記憶によるとここ数年で初めて目にした事で、あのカワセミのハンティングの上手さに改めて感心する。確かに濁った水中の魚にしてみれば、足と腹が見えていて、そこから潜りやってくるであろうカイツブリのやり方と、見えない水面から突然くちばしから突っ込んでくる予期せぬ攻撃とではまるで違うのだろう。

イヌツゲの中で合唱している数十のスズメ達。に、立ち止まり手のひらにヒラリと落ちてきた、この厳しい寒さのおかげでよく観える雪結晶。
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出だしの二行だけが

2016-01-14 22:18:44 | 日記
書き溜まっていたメモなどから、何か曲ができそうな気がして、乱雑にも、並べて言葉を変えたりしたところで、辻褄があわない事は、毛頭あわせようとは思っていないから、いいのだけど、なんというか、視覚と聴覚による言葉よりも、感覚というものがかもし出す、出された言葉を直接ではなく、その場の、歌う場においての何かをとおして、重層的に向かってくるような、言葉が見出されず、消していったら、出だしの二行だけが残った。
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わをかけたような静けさがやってきて

2016-01-12 21:49:50 | 日記
ひさしぶりにお休みする。休日ではない、お休み。

そのような日に、本を読む以外なにもできなくなってきている。

本を読む事は、何かをしようという作業であり、ただ映っている何となく番組に目をやる耳をかたむけるのとは違って、つまり、捜す、選ぶという作業であり、。

音楽を聴こうとして、アルバムを選んでいるうちに、外に出たくなり、外は寒いから、筋トレしようと思い、その前にと換気扇の下に移動してタバコをくゆらせているうちに、キッチンにある土鍋を見つけて、何か作ろうかと思い、一人で過ごす時間という事を考えているうちに、シーーんとした辺りの静けさに不自然さを感じたすぐあとに、カメのイシくんがおとなしくなっていることに気づいて、わからないように、そっと覗いてみて、というのも、さっきまで、その水槽がわりの衣装ケースの水が、熱湯であるかのようにして、死にものぐるいのようにして、暴れていたので昼寝が出来なかったのを思い出したからで、普通にカメが石ノ上で甲羅干ししているから静かだというより一層静けさを感じたため、。

一人のお休みは、こんなふうにして過ぎていき、だからなにもできないのである、とここまで書いたことによって、さっき読んだページの続きをまためくろうとしている。
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ただ・・

2016-01-11 04:30:54 | 日記
ただ・・ヒタスラ、、酔うた・・。書くのも酔いに任せ、そうなる。
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雑然としたまま

2016-01-09 18:41:52 | 日記

雑然としたまま、パソコンのキーボードに向かう。

あの険しいにらみつける様な表情で譜面に向かい白毛の張った弓を動かしている、きっとそのオーケストラの音を後ろでながして、ただ一人そこに座りやってみても、やはりその険しい顔のまま譜面に向かう、音符、休符、置かれた記号が身体を通して音になって、目を閉じていても、目を閉じていた方が臨場感がわかりやすいという様な音。

この間の未明、勝手にセッションみたいになった時に、どちらかというとにやけたり、アーハーと言ったり、というのも、カホーンの走り出す音、に、一度にやけ、その走り出した音の主がどこに向いて自分の音にか、響き渡る複数の音全体に対してなのか、どの働きによりその音が走り出したのか、表情から想像しているうちに、他方の声、他方のギター、ボンゴ、がまた同じように隙間隙間で妙に響くというのは、妙な空間の様に感じてしまい、その妙な音の主の表情から想像できる範囲のにやけとなり、と思っているうちに、今度はこれは伝達というよりは、その妙な音に対する共鳴の様な、妙な動きとなり、なぜここだけ動きなのかといえば、その主が自身であったために、そうなり、この未明の出来事というのは、録音された音を流しながら、一人目を閉じて音に向かうという状態では不可能なことであって、なぜ不可能かといえば、音に対する表情が無いからであり、表情や動きにより想像されたその状態が更なる共鳴を呼ぶという、目を閉じた時に聴こえる音に反応して、主が僕であった場合に働きかける音とは、つまりは一段階という実体のない音をへて起こる働きと、そこから動きや表情を拾い上げ、その二段階ともいえるものに対する自身に起こる働きというのは違うものであるはずだからだ。

オーケストラの場合、未明のセッションの場合、芸術的にしてみれば後者はただの落書きの様な物なのか、落書きが踊り出し落書きを呼ぶというか、この例えは別としても、別にしなくても、どちらがいいという事ではなくて、今思ったのは、その前者の場合、むしろ自身で最高の演奏が出来た場合に、それよりも少なからず劣る演奏を、しかしお・と・るという漢字を変換してみて、これは解りやすいなと思う、。、いや、劣る演奏をするならば、最高の状態の演奏をほぼ二度出来た方がよいという世界なはずで、そういう技術的なベストの音に向かう力量と、未明の方の場合は、二度出来てはいけないというか、やろうとしてもできるためしがなく、たった一度でしかないという二度目があってもその音はそこでまた一度きりという、確実にそういう方が好きなのだけれど・・。
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