カフカの小説は「今日はここまで」という区切りが難しく、それでいて次にその続きから読み繋げようと、また区切りの前編を復習しようと、また夜を徹して一気に読み進めようと、繰り返し再読しようと、話の辻褄があってくるとか、カフカの真理(書き手が何を思い、何を伝えようとしているのか)が理解出来てくるとか意味がわかってくるとかそういうものがまるでなく(まるでなくと言うのは書き手は物語の中で何かを伝えたいものだ!とした場合に対しての私の印象であるが)例えば計画性も出来上がりのイメージもなく、ただ思いつきの日曜大工の様な、イメージがないために出来上がりに向かわない家具の様な、あるいは雑な比喩で言うと、イカの刺身を作ろうと皮を剥がれたイカが、さていよいよ切られるのかと思っていたら一向に事が進まずに、細く切られていくのをただひたすら想像しながら、その間に茶の間ではすでに家族の夕食が始まっていて、台所に立つ母親とちゃぶ台を囲むその家族の団欒をそばで感じながらまな板の上に寝かされていて、その理由が母親が何を作ろうとしていたのか忘れてしまったのならばイカにとっては因果関係が成立するのだが、どうもそうではなくて、それでも時たまイカに触れるのだから、イカの存在そのものが忘れられたのでもなくて、その日は結局母親に捌かれることなく放置されたまま家族の夕食が終わり、まな板の横のシンクですっかり洗い物がすまされ、蛍光灯がパチリと消灯され、薄暗いまな板の上で、磨りガラスからこぼれるやさしい月明かりに照らされたまな板の上で、今までの家族の団欒の内容やら、これからの先の見えぬ運命やらを、明かりの消されたその薄暗いまな板の上で何時までも考えているそのイカの心境というか、ところで何故イカなのか。
とにかくカフカは書き続けた、何かを削りながら小さく走った。
読んでいるうちに何処かにたどり着く道筋があるのではなく、道筋の様なものがあったとしても、木の枝のように別れながら合流することなくバラバラの速さで伸びていくようなそんな様な気持ちというか常態というか、、、になる。
とにかくカフカは書き続けた、何かを削りながら小さく走った。
読んでいるうちに何処かにたどり着く道筋があるのではなく、道筋の様なものがあったとしても、木の枝のように別れながら合流することなくバラバラの速さで伸びていくようなそんな様な気持ちというか常態というか、、、になる。