少太 BLOG

考える日々

とにかくカフカは書いた

2017-11-29 04:01:13 | 日記
カフカの小説は「今日はここまで」という区切りが難しく、それでいて次にその続きから読み繋げようと、また区切りの前編を復習しようと、また夜を徹して一気に読み進めようと、繰り返し再読しようと、話の辻褄があってくるとか、カフカの真理(書き手が何を思い、何を伝えようとしているのか)が理解出来てくるとか意味がわかってくるとかそういうものがまるでなく(まるでなくと言うのは書き手は物語の中で何かを伝えたいものだ!とした場合に対しての私の印象であるが)例えば計画性も出来上がりのイメージもなく、ただ思いつきの日曜大工の様な、イメージがないために出来上がりに向かわない家具の様な、あるいは雑な比喩で言うと、イカの刺身を作ろうと皮を剥がれたイカが、さていよいよ切られるのかと思っていたら一向に事が進まずに、細く切られていくのをただひたすら想像しながら、その間に茶の間ではすでに家族の夕食が始まっていて、台所に立つ母親とちゃぶ台を囲むその家族の団欒をそばで感じながらまな板の上に寝かされていて、その理由が母親が何を作ろうとしていたのか忘れてしまったのならばイカにとっては因果関係が成立するのだが、どうもそうではなくて、それでも時たまイカに触れるのだから、イカの存在そのものが忘れられたのでもなくて、その日は結局母親に捌かれることなく放置されたまま家族の夕食が終わり、まな板の横のシンクですっかり洗い物がすまされ、蛍光灯がパチリと消灯され、薄暗いまな板の上で、磨りガラスからこぼれるやさしい月明かりに照らされたまな板の上で、今までの家族の団欒の内容やら、これからの先の見えぬ運命やらを、明かりの消されたその薄暗いまな板の上で何時までも考えているそのイカの心境というか、ところで何故イカなのか。

とにかくカフカは書き続けた、何かを削りながら小さく走った。

読んでいるうちに何処かにたどり着く道筋があるのではなく、道筋の様なものがあったとしても、木の枝のように別れながら合流することなくバラバラの速さで伸びていくようなそんな様な気持ちというか常態というか、、、になる。

空と大地

2017-11-27 04:54:56 | 日記
私は汗をかきながら手拭いを首に巻いて稲を摘んでいる、綿のようにして。通りには凸凹のぶつけたであろうという意味での痕跡の車がブンブン走り、時たま手巻きの(手巻きであると想像した)窓から手がふられ振り残す。声はない。

誰だか知らない人が、稲を踏むようにして踊っている。ハチャメチャなステップなのだが、しっかり稲を踏んでいる。タンタンタン、稲がしなり、流れるように整頓される。

近代のまんまるい目玉を持った列車の様なものが遠くでどす黒い煙ならまだしも、透明に近い煙というか息に近いものを吐きながら空に走って行った 。

何かこめつぶみたいな物がうごめいているが、一つうごめいていない物がある。

うごめいていないのは私であり、その私の視点に戻り止まって見えたのは光の速度に近い空に飛び立った列車の何両目かの何番目かの車両の窓にたたずむ姿であった。

その表情は、笑っていたのか、泣いていたのか、思い出せない。


ヤーヤーワーワーの声と、チャンチャンチャカチャカのといった音で目が覚めた。

ライブです

2017-11-23 18:42:34 | 日記


次回のライブ情報。

12/3(日) BRONCO.presents ONE FOR THE ROAD
出演 ワタナベマモル / 少太 / Kechon Kechon Jug Band
渡部リョウタ / 山 / BRONCO.
Start 18:00 チャージ2000円(ドリンク別)

もう12月かぁ。

渓谷をゆく

2017-11-07 19:38:54 | 日記


雲一つなく、紅葉も終わりかけの紅葉川渓谷を歩く。雪が降り始める前に一度来ようと思っていた、登山コースではなく、渓谷沿いを歩く1時間半ほどのトレッキングコース。

歩き始めて最初の滝にうまい具合に光が差し込んであらわれた虹、コバルトブルーの様な水流の下にした潜む魚、揺れる吊り橋、流れる崖の岩肌にびっしりとひろがりつく、ヒカリゴケではなく、光って見える苔。嬉しく美しかった。


面白山駅に戻り、電車の時間まではまだ余裕があり、コースの入り口の最初の滝が見下ろせる丸太の上に座りビールを飲んでいたら、逆回りでコースを下から登ってきたカメラを持った男性が「どうもこんにちは、すぐ下のあの滝に、今なら光が当たって丁度虹が見えますよ」と微笑んだ。

夢と充足

2017-11-02 01:37:57 | 日記
フロイトの言うように夢は願望充足であると思っている。

直接的な場合もあるが、ものすごい複雑な、充足のためにその反対の内容の夢をみて、しかし、その場面場面の枝の様な道筋を辿っていくと1つの充足的な事柄に繋がる場合もある。

例えば充足される自身が誰かにすり替えられている場合もある。そういう場合、その知っている誰かに対して何かしらの後悔の念がある場合が多く、その誰かに自分の充足を譲り満たしてもらう事で、結果的に自身の罪悪感に対する充足となる、間接的な例とか。

直接的な例でいうと、私は水の底で地上の人々を眺めながら生活する夢を見るが、私は泳ぎがとても苦手である。小さい頃海で泳いでいて、その乱れたフォームのためか、溺れてるんじゃないかと間違われて助けられかけた事がある。


また助走をつけて走りながら見事にふわーっと空に舞い上がり、町を飛行する夢を見るが、私は軽度ではあるが高所恐怖症であり、飛行機が大の苦手である、とか、まぁこれは最も解りやすい例ではあるが。


近頃自分の夢を分析する事が小説を読んでいる時みたいに想像が膨らんで面白い。

あまり良い趣味ではないと思うが、脳のトレーニング程度にはなるかもしれない。
それは夢を出来るだけ鮮明に思い出す作業から始まるのだから。