少太 BLOG

考える日々

カラスの楽しみ

2018-06-28 02:56:41 | 日記


カラスが何かをくわえて電線に飛び乗る直前に何かを落とした。

カラスが電線にとまって流れる車を見下ろしている。


とにかく流れる車が好物のクルミを潰し去ってくれる事を待っている。
クルミは車線の真ん中にあり、普通に走行していては触れられない場所で、とするとカラスは危ない運転手の訪れを待っている。
可能性が訪れるのは、右折専用レーンに車線変更する車のタイヤが偶然にクルミを潰すこと、を待っている。


車道に入りそのクルミを拾い足で潰そうとして以前足を痛めたので、大きめの石を拾い叩き割る。

その場を離れるや否やカラスが舞い降りてきて、クルミをつつく。


そのクルミが干からびてほぼ身の無いクルミであるのを僕は知っている。
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リアリティー

2018-06-15 03:19:41 | 日記
例えば悲惨な事が世に起こり、悲惨な状況を作品としてドキュメンタリーで撮影しようとした時に、カメラを回す人が悲惨だなぁと思いながら、より悲惨さを訴えるべく悲惨な映像を撮ろうとする、そういう場を探す。


そうして撮られた映像を人々は、悲惨だなぁという事になり、眼を手で覆いながら指の隙間から観てしまう心理に基づいて、ということは何処かでより悲惨なえずらを探して撮影側が商業的にそれに基づいた撮り方をして、作品としてあの映像は悲惨だよねとかリアルだよねとかいう事で話題になるかもしれないけれど、その悲惨な光景の中にふと、「お姉ちゃん待ってよー」とイタズラに靴をくすねた姉と、鼻水を垂らしながら靴をくすねられた裸足で追いかける妹が目の前を横切ったとしたら、映像を撮っている人は「ちょっとちょっとー」とカメラを止めるのだろうけれど、この悲惨な状況の中にあたりまえに「お姉ちゃん靴返してよー」と鼻水を垂らしながら駆ける妹がいる、そちらの方がよほどリアリティーだなと感じる事があり、私が作品として映像を撮る人間だとしたら、ふと表れたそちらの姉妹を追いかけてしまう。


リアリティーというのはそういう事ではないか。


何の話だ?
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何処から、そして何処へ

2018-06-06 19:10:37 | 日記
「このくらいの簡単な事は隅々まで説明しなくても解るだろう」という認識が見事に誤りであり、「このくらいの簡単な事さえ理解出来ないのかもしれない」という認識が的中する場合が増えていく、感情老化。



「パパ、私ね、おばあちゃん知ってるよ、おばあちゃんといつも遊んでたんだ、そしたらある日遠くの方で、パパとママのおいでおいでと呼ぶ声がしてね、そしたらおばあちゃんが、ほら、パパとママの所に行きなさいって言ってね、それで私も声の方に向かったの、私そうやって生まれてきたんだよ」
その子の生まれる前にすでに亡くなっていて、祖母の存在を知らないはずなのにそんな話をした赤ん坊がいるという身近な話。



子どもは何処からやって来るのか、、、老いは何処へ向かうのか。
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