たまには文章とちゃんと向きあうのも良いかと思い、「歌」について書こう。最近「どのスイッチが入ってそこに行くんですか?」と聞かれた。頭の中で「何処に向かえば人が、揺れ動くんでしょ?」と勝手に変換した。
「宇宙に向って歌ってる。」とか濁したてみたけど答えはみつからなかった。実際俺自身どこにも向っていないからだ。というより一曲唄う事にどっかに出掛けて行って曲が終わる頃に我に帰るみたいな。
ここからは個人的観念です・・・。たとえば「ライブとは」って話もよくするけど聴きにきてくれたお客さんに焦点を合わせて歌った事は一度もない。それならばもっと分かりやすいやり方をするだろうしそんな風に簡単に事は進まない。じゃあ自己満足かと言われてもこれまた満足した事など一度もない。多くの反響があった時に「今日は何かしら伝わる要素があったかな、似た感覚を持った人が多かったのかな」と思うくらい。でも何かを伝えたくて唄う事に変わりは無いけれど。
その前にそもそも物を作るって話に戻らなきゃいけない。
一枚の絵をしみじみ眺めた時に、一行の文章を繰り返し追っかけた時に、栄えある彫刻を見上げた時に、感じる事は自分との照らし合わせなのだと思う。自分の精神がどこにあるか、その時感じるものは視覚に反映する自分探しの始まり。一日一日で見え方聞こえかた感じ方が違うのもそうなんだと。作る側も同じ穴で何かを作りながら知らない自分に気付かされたりするもんだ。その中で「わっ」となったり「えっ」ってなったりするたまたまが居るだけだ。
俺が歌に対する快楽を得るとすれば見えない何かが瞬間的に一体化した時「あっ今日も唄ってるぜ」って思える。ただ時代と共に音楽の伝え方も代わりつつあって入学試験とは違う点数のない音楽の世界が魅力でずっとやってきたけど、今や、人の居ない箱でライブしてそれをネット上で生中継してネット上で「このバンド良い」とか点数をつける世界が広まりつつあるらしく。
そういった人達は最初からネットの向こう側の誰かに向って音楽をしてるんだろうか。反応が面白かったり、そこで起こりえる何かに向かって演奏するのだろうか。
そうなると下積みとか経験とかはどうでもよくなり、ダウンロードで音楽を聴きYouTubeでライブを観るといった時代の象徴だろう。いい悪いは別にして時代に肖ったそれはなんて合理的なんだろうと思う。
ただ、俺がそういう世界で音楽をやっていたらすぐに辞めてしまうだろう。評価はあくまでも評価でしかない。むしろ辞めれる物ならどんなにいいだろうと思う。
叫んだ言葉がやまびこみたいにのしかかる。そしてまた駄作を生みつづける。
15年ほど前に一度だけ意図的に丸一年ほど音楽を辞めた事がある。それはノルマを満たすためのライブとそのための練習の日々に疑問を感じた頃。ギターは見えない場所に押し込んで・・。毎日同じバイト先に通い飯を食い寝て起きて、週末は恋人と飲みに出かけたり高校以来だったテレビゲームをしてみたり。本を読みながら山手線をぐるぐるしたりして何となく過ごしてみた。
歌という荷物が減った分、それはそれは愉快な日々だったけれど、どこかしら地に足が付かない様な日々だった。旅の途中で旅費を使い果たし仕方なく小銭を稼いでるみたいな日々だ。
忘れ物を取りに行く様にまた歌い出し、歌に叩き落とされ歌に救われる。なんだか体の一部分に思えてくる。今は自分にとって歌とは形の無い化け物みたいに思える。
全くやっかいな化け物だ。