少太 BLOG

考える日々

見つめ直す旅でもある

2015-08-31 23:59:57 | 日記
苫小牧上陸、の途端にモヤモヤが一気に消える。知らない間にこんなにもストレスを抱えていたのかと思う。

父方と母方の墓参りに行き、そこから200キロほど走る。今宵の宿、旭川の僕の生まれた家まで。天気もまぁよく、単車もまぁ調子よく。

生家に着いて、ビールを飲んでいたら、なんだか歩きたくなって、繁華街にあるジンギスカン屋まで歩く。片道4キロちょっと。

煙りだらけの店内は満席で、壁にはサインの入った色紙がいっぱいで、生ラムはとても美味かった。

帰りはタクシーをと思ったけれど、コンビニで酒を買い込んで、飲みながらまた歩いた。子供の頃の足跡を拾うようにしながら。そう、僕はこの町で産まれたんだと思いながら。
飲んで、呑んだが、おそらく二日酔いにはならないだろう。本当にありがたくて、全然酔わないんだもの。 これが故郷という意味であろうか。年に一度しか帰れない故郷との関係であろうか。見つめ直す旅でもある

最高の魂を持つ男

2015-08-29 18:59:31 | 日記
ジェームスブラウン「最高の魂を持つ男」を観る。

絶望的な孤独との戦い、苦悩であるが、その孤独はときに孤独な私を越える何かを生み出す。そこにショービジネスだろうが、自由表現であろうが関係はない。どちらにも起こりえる何か。方法などない。

遠吠えの様な長さの

2015-08-28 18:51:06 | 日記

いつもの魚屋さんに自転車をこいでいたら、魚屋さんの隣の家の松の木からふっと小さな影が目の前を横ぎった。危ない!と思ったら同時に「あぶない!」と言ってしまう程の距離を。

その影は目の前を横ぎったあとで、U形を描くように元の松の木にとまる。観ると餌をくわえたヒヨドリであったが、こういう油断した様な行動は珍しいなと思って、魚屋さんに入っていった。

しばらくすると風を通していた部屋の網戸の向こう側から「ピィーーーーーーーーーー・・」と遠吠えみたいに長い鳴き声が聞こえてきて、僕の知っているヒヨドリの鳴き声は「ピューイ」なのだけれど、はてと思い窓から外を眺めると駐車場の上に張られた電線の上に止まって「ピィーーーーーーーーーー・・」とその鳴き声をたてながらこの近所をまるで巡回するように飛んではまた電線に止まり鳴く。目を凝らしてよく見るとさっきの生きたエサをくわえたまま鳴いている。

「あっ、きっと子供を探しているのだ、カラスにでも・・。あの珍しく油断した行動は、雛を必死に捜していたためにか」と思ったら「ピィーーーーーーーーーー」という鳴き声がとても哀しく聴こえてきて、その悲しい鳴き声がしばらくの間ずっと続いていた。

年をとり続けている

2015-08-26 18:20:54 | 日記


つい先日、昼寝から目が覚めてそのままむくっと起きて手の届く範囲にあった本を読もうとしたら、文字がぼやけて見えて瞬きをしても時間がたってもぼやけて見えて「いよいよきたか」と思い、だからといってブログの背景色を変えた。黒に白文字は目が疲れる。見やすくなったと思ったら文字がぼやけなくなって「いよいよきたか」と思った老眼ではなかった様だった。

年をとったというか、年をとり続けていることを実感した。

鼻の粘膜はいち早く気温の変化を察知したけど、対処できなかった様だ。鼻炎になる。
「鼻洗浄は粘膜を強くする」という事を信じて続けてはいるのだけど。

奮い立つ音や発言

2015-08-25 03:12:00 | 日記
昔から大雑把に言うとアメリカの音楽が好きなのだけれど、それは今でも変わらないのだけれど、いわゆる国民的スターになった人達のドキョメンタリー映画やなんかを観ると、どうしてそうなるのか、やっぱりそうなるのかと発言一言一言にいちいちそう思ってしまい、映画の中で「こういういきさつがあってこの曲が出来た」という曲を聴いても、やっぱりそうなるのかと思ってしまって、逆にあぁ僕は音楽をやっていてやり続けようと思うのだけれど、

時に、そういう考えをぶち壊してくれる様な人、国民的かどうか知らないアーティストがいて、映画の中のいちいちの発言にもお手上げになってしまい、音楽を自分がやることに「まった」とか「まいった」と思ってしまう時があるのだけれど、時間がたつと、考える時間があるほど、後者の方のアーティストの方が、僕にとっては「よし、やったるで」と奮い立たされるのです。

僕が響く音はそういう音です。

笑いがとまらなく

2015-08-22 19:00:34 | 日記


探偵ナイトスクープという番組のリターンズシリーズ。

元プロボクサーの父に息子がボクシングで勝ちたいという依頼。

息子は試合に向けてトレーニングを積んで、本番2分3ラウンドを戦いぬき、「息子よ、ようやった!」となるはずが、終了のゴングが鳴ったとたんに、主役の親子より互いのトレーナーが興奮しすぎて、同時に「〇×△□!!、○×△□!!!」と全く聞き取れない会話が始まって、やりきった親子が息を切らしながらあっけにとられている場面で笑いが止まらなくなった。

涼しさの中で鳴く蝉の

2015-08-21 18:32:23 | 日記
数日まえから身体がだるい。あの猛暑日をのりきった疲れが、急な気温の低下により一気に押し寄せてくる。

涼しさの中で鳴く蝉の音はどことなくさみしい。猫が三匹すりよってきて、ゴロリと腹を見せる。

いつもより少しだけはやい夏が過ぎていく様だ。

書くという行為、やるという行為

2015-08-21 01:25:17 | 日記
ブログに書くという行為。

リスナーであればこのアルバムが素晴らしいというような事を書いている。

ギタリストであれば、このギターがあのギターの音色がどうのこうのと書いている。

一般人と言うのもおかしいけど、あの町この町、楽しかった様子などを書いている。

僕は音を人前で発する人間ではあるが、普段は「一般人と言うのもおかしいけど」である。

ともあれ、音を人前で発する人間である以上は、公開されているブログであっても、誰かが観ていることにも、自分にでも、何処にも向かうことなく、ただ思うことを残す為にブログに書く事をしている。

時には人に向かうと思われそうな様にもなるし、時には旅日記の様にもなるし、何かのために書くわけでなく、何かのために残す訳でもなく、思った事を書くことだけにしている。

だからライブにしても、ただ瞬間の身体がやる事だけをやることをしている。

もう少し突っ込んだ話をすると

2015-08-19 19:02:29 | 日記
前回書いた事について、もう少し突っ込んだ話をすると、人は外面というか、外に放出するエネルギーでしか生きていない。人の中の核から発するエネルギーだ。そこに時間と空間が一定のバランスではたらいている。はたらいているから瞬間のズレが生じて今が過去になる。

その一方向に向かうエネルギーに対して、人の持つ念が生命は終えているのに働きかけていので、進まない念だけがそれに逆らおうとすると、そのズレが空間になんらかの現象を起こさないとは限らない。それが「霊」なのだとしたら信じられる事もある。これを形でもって証明出来なければ、科学者達は「霊などいない」側に立たざるおえないわけだ。

あれ、話がそれた、成り行きで霊の話になってしまっている、話を戻す。

脳のニューロンの伝達によりニューロンが増え、より複雑な知識や感情をもつようになる。と、ここまでは科学的な話なのだけれど、そこから動き出す社会念というのが、より大きな念となり、脳の進化と共にひとりでに暴走していく傾向にあって、もともとは善悪のないことに、善悪をつけようとしてしまい、その共通の知覚が強い塊となって進み続けている。

人類の飛躍的な進化が膨らんだ社会念を生んでいくのだとしたら、修正がより難しくなるということだ。

しかし、そこに起こっている問題について「良い」「悪い」のどちらでもない考えの人もいて、そうした社会念そのものを疑問視する考えもある。暴走しているのに気付く、危険な事だと知っている人達だ。

社会的な問題に人の知覚感情による善悪により起こるのは「争い」だ。

あたりまえなのだけど、とても大事な話でもある。だから僕はこの様な問題に対しては、どちらでもないと考える。

平和とボケ

2015-08-14 18:53:07 | 日記
戦後70年、そんなにたったのかと思えば、まだ70年なのかとも言える。この年数は80・90・・と続いていかなければいけない。


「平和ボケ」という言葉が、平和とは言えない国の人から客観的にみて、愚かさを表す様な事であってはならないし、「平和」と「ボケ」が、「平和→ボケ」のような観念でささやかれるというのは、世界の平和が程遠いということを意味している。


一方「この国はこれからどのような豊かさを求めていけばよいか」というこの問いは、社会的な豊かさの問いであって、人々の豊かさというのは、国の発展や、技術の進歩といった、ブレーキの壊れた列車の様な進みかたによって得られるものではないどころか、むしろ遠ざかってしまうような豊かさではないのか。


静かなお盆だ。

歩けば歩くほど

2015-08-13 03:35:21 | 日記
たとえばほら、ギターを弾くでしょ。覚えた事をやるでしょ。

度に従い指を動かすでしょ。音として確実な音を出すために。聴いていて気持ちよくもなるでしょ。ブレの無いサウンドに目をつむるでしょ。ブレのないサウンドはあなたを裏切らないでしょ。


しかしながら、時は進むでしょ。あなたに同じ時は流れないでしょ。足が動いているでしょ、前に。

僕もほら、歩いているでしょ。自然と生物との関係性はまたいつか話すとしてね、だから毎回おんなじおんがくは提示出来んのですよ。

悲しいものに対して「泣く」と「鳴く」

2015-08-08 18:15:13 | 日記


像使いだった青年が事故で亡くなってしまい、その像が葬儀の出棺の時に霊柩車に何度も体を擦り付けながら鳴き叫び、運ばれる棺に「待って待って」とでも言うように鼻で引き戻そうとしたりして、その後ほとんど食べ物を口にしなくなったという事実。


ハチ公の話や、真っ黒な犬が主人の死後数日で真っ白になって、ただひたすら外を眺めているという事実。


では猫は家族が一人ただそこに居なくなったのと、本当にこの世から居なくなった違いをどう感じるのだろうか。第六感の様な事で、「そこにいた痕跡」がすっかり無くなるとか、痕跡とは異なる気配を感じるとか。犬や猫はそういう感がすぐれている事は僕も何度か目にしたことがあるけど、こういう事をいちいち「実験によって科学的にに証明された!」という人たちがいるわけで、証明された事による「わかった」と感じ取れたことによる「わかった」は全然違う。


何が言いたいのかといえば、人の場合は、目に見えない事が思考となって、目に見えている形を不完全な物にさせるという様な面白さがあるという事。

猛暑花笠

2015-08-06 18:20:36 | 日記


先日「今度の花笠俺踊るよ!」というお客さんが、祭り当日午前中に名古屋で会議があり、その足でただ花笠を踊るために山形に飛んで来て、二週間で得た舞を踊った後、店にやってきて小一時間踊った時のその様子について楽しそうに話していた。こういうところに男の可愛げがある。


踊るという事を知って「ちゃんと踊らないとダメ出しだからね!」と言い放ち、しかし踊る姿を前にして「やれ、それ、頑張れー!」とビールを飲みながらパシャパシャと携帯に収め、店に来るころに半分熱中症みたいになってやってくる。こういうところに女の可愛げがある。


東北祭りの時期、店のエアコンは冬季とは違う悲鳴にも似た音をたてている。

続く猛暑日の中、なぜか不思議と具合のいい僕、その事と、ここ数日便秘気味な事と、何か関係がないかもしれない。

書いては解らなくなり

2015-08-01 18:59:33 | 日記


どうすればその様なライブになるのかという問いに答える答えはないが、どうすれば、どうやれば、という事をここ数年考えたことが無い。考えていた頃もあったけれど、考えた結果が考えに対する結果になる事がつまらなくなり、考えるのをやめた。


ひとつ言うならば、やる前にどういう音を出すかを考えるよりは、やった後にどういう音が残るかを考えるというよりは想う。音そのものは当たり前に出て、当たり前に消えるとけれど、音は残る、記憶の響きとして、その響きはある時には「こう」という方向を持った思考の中に突然割り込んでかき乱してくれたりもする。そういう残り方をする音が僕には面白い。


グルーブ感でさえも、とある説明によると、基本的にはより正確なリズムがとれなければ駄目で、その上で絶妙な(意図的な)「ズレ」が出来るようになりグルーブ感が生まれるということが書いてあるけれど、それは「ズレ」というより規則的なリズムと身体が覚えるリズムの融合というか「ズレてはいないズレ」というか、メトロノームの同期現象のような、同じ枠内でおこっている事だ。この際規則的なリズムでも、意図的な「ズレ」でもどちらでもいいけれど、その心地よさに身体が反応する「ノリ」、身体が準備できるような「ノリ」というのはやはりつまらなく思える。


なにが言いたいのかまた解らなくなった。言葉というのはとても難しい。