少太 BLOG

考える日々

雑文

2016-02-25 20:29:35 | 日記
・大や少の無数の滴が落ちてきて水面に無数の波紋がうまれる、それらには一波として同じものが無い。


・淡路島の半分以下の面積の島にの38万人以上もの人々が住んでいる。目に飛び込んできたのは島というよりはコンクリートの山であった。


・木は立っているというよりは伸びている。

・猫はひたすらネコでしかなく、人はひたすらヒトでしかない。
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ライブです

2016-02-23 18:39:32 | 日記

久しぶりのVORZ BARという事になりますか。

■3/5(土)仙台 VORZ BAR 
Open 19:00 Start 21:00 Charge ¥1500
仙台市青葉区国分町1-6-1 ルナパーク一番町ビル3F TEL 022-224-0312
http://www.vorzmusic.com/vorzbarhome.html
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過去への前進というか

2016-02-23 15:24:07 | 日記
必ずしも過去に向かうことが後戻りするという事でなく、今の自分に対して過去の考えを問うという事があり、そこから新たに何かが展開されるならば、それは過去へ前進するというか、過去が現在にもたらす新たな道という様なことになるわけだから、「過去を振り返らずしっかり前を向いて・・」などというのは、場合によってはつまらない言葉だと思う。
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という事でもあるし

2016-02-20 21:15:33 | 日記
一度ではよくわからないからまた読むという事でもあるし、二度呼んだら一度目のあの解釈が違っていたのではないかと思う部分に気付いてまた読むという事でもあるし、良いのか悪いのか一度目と二度目の読み方、向き方が変わってきてしまっているからまた読むという事でもあるし、三度目はなるべく一度目の様にして読んでみようとして、また読むという事でもあるし、何度読んでも、全くわからないからまた読むという事でもあるし。
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何故そうなるか

2016-02-19 03:58:33 | 日記
トムウェイツのホールドオンをYouTubeで観ていて、その小さなギターと、そのデレクベイリーさえ感じさせられる単音と、何だろうと思いながら、うわーうわーと視聴していたら、それをカバーしている若者の動画がその関連により表れて、ついでに視聴したらばいやになった。何故にこうなるかーという・・。
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白い梅の花が

2016-02-18 19:44:31 | 日記
寝ぼけているかの様に、梅の花がもう開いている。

水温は変わらないのに、カメが食べるエサの量が増えてくる。

まだ2月だというのに、もうすぐだと気持ちが高ぶり始める。

自然の摂理により、また生まれてくる。
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今更ながら

2016-02-17 00:26:53 | 日記

憧れに飛躍しようとしてはいけない、飛躍したい場所、音があるのは当然でありその対象にあたる人々はどんなにも踏み重ねているのだから。その過程を飛び越えてすぐさま音にしようとするという事は、そこには劣等感もそれによりうまれる高揚感もなく、届かない、届けないまま追い続ける事にもなりかねない。

人の一歩はその人の歩幅での一歩であるからこそ身になっていくのだと思う。
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一羽のカラスが

2016-02-13 19:44:36 | 日記
今日は気分がすぐれなく、夕方に起きて寝ぼけたまま寝室の窓を閉めようとしたら車が通りかかって、運転手の人と目があってハッとした夢をみたことを、寝ぼけたまま寝室の窓を閉めている自分により思い出して、車こそ通らなかったものの、ん、この光景は・・と、サルトルの実在主義の事が浮かんできて、とにかく散歩に出て、猫達のいる場所まできて、こうした不安定な気分で猫に近づくと、経験上見えないものを見るような、あの不信な目をするだろうと思い、会わずに通りすぎて、歩いていたら、線路沿いの縁石の上を真っ直ぐに別の猫が歩いていて、側によっても一向にこちらを気にすることなく歩いていて、しばらく並んで歩くようになって、先に猫が右に曲がって行ったので、あっ行ってしまったと思った時に、急に背後に気配を感じて振り向いたら、誰もいなくて、また歩き出そうとして、やはりもう一度振り向いてよく観たら、誰でもなく一羽のカラスがそこにいた。
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生きている間がすべてなく

2016-02-13 03:59:18 | 日記
私の生きている間は私の納得のいく世界、ではなく、私の世界が次の世界につながる物事、主観的ではなく、私がどうのこうのでもなく。
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聴き手の自由

2016-02-12 00:40:33 | 日記


ショービジネスの音により与えられるものが「聴き手の楽」であるならば、私の音が与えられるものがあるとすれば「聴き手の自由」である。

ここでいう自由とは定められた物に移行しないさま。
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そのような猫が

2016-02-11 20:05:21 | 日記
ひざまずいて呼ぶとすぐに太股によじ登ってくるような人懐っこい野良猫が、帰ろうとして立ち上がり歩き出すと、通せんぼするように足元にすりよってくるのは、もしよそ見をしていれば不意にふみつけてしまう恐れを感じていないのだろうか、(実際同じ状況で一度しっぽを踏んでしまったことがあり)この人はこちらに気付いているから踏まれることはないだろうと思うのか、それともこちらに都合よく考えれば、踏みつけられるかもしれないけど、まだ行かないでという気持ちが先にあるのだろうか。
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「んー何だって?」

2016-02-10 00:33:06 | 日記
記憶により、

あれは小学四年生だと思う、夏のある夜、社宅のキッチンの横にある小さな窓から聞こえてくる鈴虫の鳴き声、そばにいた父親に「鈴虫が鳴いている」というと、「んー、何も聴こえないぞ」「ほらまた鳴き出した」「んー」自分にはこんなに聞こえているのに、不思議だと思い、鳴いている場所がすぐ隣の空地だというのを知っていたために、父親をそこまで誘い出し、土の上にビニールシートを敷いて、「シッー、静かに、、ほらもうすぐそこで鳴いてるだろ」「ん、んーやっぱり聴こえないぞ」というやりとりをしばらく繰り返しているうちに、鈴虫の鳴き声よりも、子供心になんだか夜のピクニックにきたみたいでわくわくしてきて、「ちょっと待ってて、」と足早に家に戻り、父親の好きなウイスキーの水割りとするめいか、僕の方は氷と砂糖とレモンを加えただけの即席ジュースを水筒に入れて、また足早に空地へ登っていき、それらを飲みながら、父親の「あー聴こえる」の言葉を待っていたのだけど、結局その夜、その言葉が聞ける事はなかった。

そして現在、久しぶりに実家に電話をかけると耳が遠いため「んー、何だって?」と返してくる父親の声が異常に大きく、、。
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言葉にすると、どうも

2016-02-09 20:17:15 | 日記
誰かのライブを聴いてイェイと音に乗って発散し、明日からまた頑張りましょう、という場において、僕の音はよくわらないであろう。僕自身の音を通じて、今の場所、成長を知れる事。成長といっても、すくすく育つ見える成長ではなく、人が持つ見えないものの部分も含め、見える部分は例えば昨日よりギターが上手くなっていくという事だとして、見えないものの方は、広がるというより人の核にどこまで迫ってゆけるか、外に向かう意識が内の部分を掘り起こすという様に。

そういう動きと音なのだから、わかっても、わからなくても、それが僕の音楽への向き合い方の、音楽と共に日々を重ねていくプロセスなのだから仕方がない。それも、そうしていく事でしか生まれない確実な何か、に向かって。

人々が日々を生きていて、理想と現実に苦悩したり、批判したり、あるいは思考の変化などによって多くの理不尽な事を受けとめられる様になったりするのも、その人の成長の過程なのだし、しかし音楽となると、そこだけ何十年も変わらぬ音になる方が、むしろ自身の成長に逆らっているように思うのだが。
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の後にやってくる

2016-02-04 21:33:32 | 日記

おめでたい夜、の後にやってくるおめでたい二日酔。

暗がりの中の墓場を通り過ぎる、墓場の桜の木から不気味に聞こえるカラスの鳴き声、「カァ」ではなく「ギィ・・」と。

カラスではなかったのかもしれない。
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おめでとう

2016-02-04 04:36:15 | 日記
なんだろう、春伸とみちるの祝な日に、この深夜、なぜか一人トムウェイツをもう一度、二度きいていたら涙がこぼれてきた。おめでとうもこぼれて、、
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