少太 BLOG

考える日々

ゴマフアザラシ

2018-08-29 23:59:40 | 日記
なかなかの北海道キャンプ、立ち寄ったオホーツク海沿いの施設で立ち泳ぎしている、いやゴマフアザラシは2足歩行するわけではないから立ち泳ぎとはいわないのか、声をかけるとこちらによってきて垂直に泳いだまま鳴き声をたてる、なんとも愛くるしい。

ここにいるのは飼育されたゴマフアザラシのほか怪我をした個体や魚網に絡まって保護されたゴマフアザラシで、ここで治療してやがて船で沖に返されるのだそうな。

こんなに幼い声でキーキー鳴くゴマフアザラシを初めて見た、この子もまだ治療中なのだろうか。

旅も半ば、明日は墓参り。

初めての心境

2018-08-26 01:52:16 | 日記


ここ数年の話。
何といえば良いのか、すべての物事、論理、一つの物事があれば必ず否定、肯定があり、そういうものに憤りを覚えなくなって、知識人は本質的私から知識に飲み込まれ、それは評論家も、専門家も同じことで、興味からの、知りたい事、覚えたい事からの離脱という、そういう気持ちは初めての事で、それらがどうでもよくなったという事では全然なくて、ただそういう気持ち(僕にとってこれはもう迷宮の入り口)の状態で旅に出られることはとても嬉しくある。明日の今頃は船の中でただ夢を見る。

水のうねり

2018-08-06 18:17:50 | 日記

↓読み返して言いたい事があまり表されていないと思い( )の中を付け足す。




大雨の影響でゴウゴウと満たされた河川を望みながら、

同じ河川を見つめていても、考えやイメージが以前とは大きく違ってきている。

最近聞いた面白い話の発端である、その高齢の釣り人は相変わらずメモ用紙に乱れ書きしているが、実は昔小説家になりたかったそうだ。

河川を見つめて思考する私のマインドもそちらがわに近い様になっていると感じている。

以前の「川よこんな私を洗い流しておくれ」みたいな「私」が川に思いを寄せる様な言葉(この私が見つめるあの川という非対称の関係性)ではなく、ただただ流れの変化していくさま、を観ていて奥の方から浮かび上がる言葉(ただ私でありただ川である、理由なきただなのだから川は私とも言えるし私は川とも言える無意識に近い関係性)

そういう思いの変化というか、既にあった何かを経ていくことが老いというものならば、老いはまた可能性でもある。

またそうした変化に早く出逢いたい、といっても、それを待つのではなく探して。
(ここで書いた老いは確実に時間軸にそっているのだけど、とつぜんおとずれる閃光のようなひらめきは時間軸にそって一定の方向には動いてはいない、だから時を待っていても訪れることはない)