少太 BLOG

考える日々

この地に立つというのは

2016-07-28 18:17:41 | 日記


仮にダーウィンの進化論が誤りだったとしても、その否定をするための論理が人類は宇宙から来たというのはどうだろう。

その「宇宙」という言葉でひらめくイメージというものが、どうしても地球中心的発想にとらえがちだが、現在での観測可能な宇宙の範囲、現代宇宙論においても、地球外生命体が確認されていない事を考えると、この地球こそがまさに神秘なわけだから、地球が惑星を含む天体の一つである以上は、この地上に生まれたというのは、宇宙に降り立ったという考え方もあるわけで、無重力空間という事を除けば、言葉の語源が「宇」は三次元空間のあらゆる方向をさし「宙」は往古来今というのであれば、人類は「宙」に生まれ、過ごし、「宇」に散っていくという事でもあるわけだ。


そんな神秘のもとに生まれた人類が、神秘に満ちた地球を傷つけ、宇宙へ向けて愚かな世界をさらけ出してよいはずがない。

絶望ながらの

2016-07-27 04:16:24 | 日記
ドアの隙間から何かを覗いている人物がいる。


その人物は覗くという行為とその先に何があるという期待とがあって、その欲のままの行為だとしても、それではその覗く行為を後ろから観ている人物がいる。その後ろ側の人物はきっと、なにを覗いているのかというその好奇心と、また、どちらかというと、この人物はいけない事をしているのではないかという悪意を少なからず感じる。


そしてさらに、その二人を後ろから観ている人物がいる。その人物は二番目の人物よりはそれらの行為に対しての悪意という前に、その前の二人の関係性を思う。

悪意ならば覗いている人物の単独なのか、二人の共犯なのか、もしくは友好的行為なのか、つまりは覗いている人物が悪意ならば、そこが真ん中にいる人物により、想像がふくらんで悪意のある行為というイメージが友好的イメージにも膨らむわけだ。

そうした連鎖は後ろに繋がり、比喩的に言えば、蜘蛛の巣の、あの放射状に広がる巣をつくるのが、その行為の主役だとした場合の、それに対する放射状に広がる後ろの人物達だとして、一定の放射状になるためのそれを繋ぐ輪郭が物を覗いているという一つ一つの行為の輪郭だとするならば、その輪郭もまた、もとはといえば何かを覗いている人物一人の一つの中心のはずなのに、覗いている人物が、覗いている先の物事によっては、善人として後ろ側に参列してしまうような事にもなりかねないわけだ。


この様に言葉のない行為によって起こりうる事が、言葉をくわえる事によって、正されるであろうか。


正されるというか、その行為と言葉によって思いえがける事というのは、それによって自分の脳裏にすり替えた表れに対しての相手に対する想像への重ね合わせのなのだから、意思表示の為の自身そのままの言葉は自身そのままの相手を返しての意思表示にはならず、気付くも気付かぬも皆孤独なのだけど、行為や言葉そのものでなく、それを通して、何処かで繋がるという事があるのだという経験を何度もというわけではなく、何度かしている。


何が言いたいという事でもないけれど、そうした経験がまた新たに孤独を生むという様な絶望ながらの面白さ。

ライブ

2016-07-23 18:22:41 | 日記


次回のライブです。

■8/4(木)山形 Bar Tarji (Tarji Night Vol.4)
Open 19:00 Start 19:30 Charge¥2000
出演 蠣崎未来 / 松沢春伸 / 少太
山形市七日町二丁目7-28 YT二丁目ビル1F TEL 023-623-3944

いざ!

一羽のアオサギ

2016-07-14 18:05:59 | 日記
秋田チビコスでお笑いコンビのちぇすと、ワタナビーチとのライブを終え、店を移動して長い夜が過ぎて、寝不足で電車に乗り、楽しみにしていたあの広大な田園風景よりも眠気が勝って、ガタンゴトンとその揺れが手伝って、田園風景をほぼ眠りこけてしまい、ハッと目が覚めたその目の前に、一羽のアオサギが、ただ立っていた。

日記くらいが

2016-07-10 18:08:56 | 日記
二日酔いの休日にビールを注ぎ、文章を書こうとしている。すでにこの時点では書き始めている。

二の丸の北門の猫を懸命に探している父親がいる。という事はすぐそばに子供がいるのだけど、親というのはいつでもに子に対しては懸命なのだなと思う。


その、懸命に猫を探している姿を懸命に子供にみてもらおうという気持ちが懸命にあるのだろう、それでいて子供側は「お父さーん、いたぁ〜」と一つも気持ちのあらわれがないのびーとした言葉をもらしたあと、大きなあくびをした。猫はいなかった。

それにしても、現代の教育というのはさん付けで呼ぶとか、順位をつけないとか、体罰であるとか、要点だけを教えようという、まるで人間味のない事務作業の様な事になりつつある事をばかばかしく思っている教員がどのくらいいるのだろうか。という事はその子供達が社会に立った時にどう育っているのかなど、明瞭ではないか。


今日もカモのヒナ達は見当たらず、代わりにカラスのかぁくんが三羽、(私にとっては、私の知り得るカラスは全てがかぁくんというわけで)一メートル手前に近寄ってもこちらを横目でチロチロ観ているだけで、ふと、朝方の新宿通をピュイーと口笛を吹くだけで、何処からかカラスが男の肩に舞い降りてくるあのボロボロの服を纏った浮浪者の光景が、記憶からよみがえってきた。


大手門をぬけた所で、その下は線路であり、ちょうど左側から仙山線がやって来た所で、その電車に向かって手を降っている60才前後くらいのおじさんがいて、こういう心が良心的というか、純粋というか、あの猫探しに懸命な父親の様に、誰かに見せるためではなく、心から電車に向かって手を降る様なおじさんもいるものだと思ったら、反対側の線路つまり右側の線路を見下ろしながら手を降っている孫がいたのだった。



ここまで書いて、冒頭に繋がったなと思い、笑ったが、私は小説家ではなくて良かったなと思った。私と私の文章との関係性はちょうどこのくらい、日記を書く様なくらいが、私にとっては心地が良いのだから。

先月見つけたカモのヒナ達の姿が

2016-07-09 21:24:52 | 日記


先月みつけたカモのヒナ達の姿をその日以降見かけていない。

毎日行ってはみるのだけど、一度も。

ある程度経つと餌のある場所へ引っ越しする様だから、しかし、よちよち行ける距離に川はない。
とすると階段を登り、橋を横切って反対側の水堀に移動したのだろうか、
それもしかし、お堀の上から見える範囲の水堀には、見当たらず。

見つからない原因がカラスでないことを願おう。

ところで僕は秋田に向かう電車からある角度のままで視界に入る範囲がすべて広大な田園風景が続くのが好きで、という事は当然死角のそこも広大な田園風景なのだろうと頭で想像して、想像というのは見えない物だから、見える物と見えない物が身体の中で融合する感覚が好きで、、。

ある、いるのない世界

2016-07-03 04:35:29 | 日記
とある書物に、と言っても、ほぼ内容はフィクションなのだが、まるでそうとも言えない内容にとても響いた。


インディオの日々生きる思考というか、目に映っている物が今そこに「ある」「いる」という、観念がなく、「そう見える」あるいは「そのようだ」という、「それはこうだ」とか「そうだからこうなる」とかがまるでない世界、というか、その民族にとっては私達の日々以外は存在し得ない世界とでもいうか。

そういう思考というか行動が日常であったインディオ達は確かに存在していたはずで、当然そこには「善、悪」などはなく、太陽と月だけが、インディオ達の我らの存在をより確かなものとさせる何か。

しかしながら不確かな日々と、私達が世界の全てだという、というのも、私達の民族がというものでなく、生そのものがあの夜空に、そう、太陽が陰りだすと、やがて光をもって存在を現す星空の一つ一つが我々の存在そのものであるかのような存在を信じてやまない民族、私達にもいえるどこか確かであるべき根底の、、。