少太 BLOG

考える日々

南の島のおじさんが

2017-12-23 19:47:40 | 日記
雪が降るとふと思い出すそう遠くない昔、八重山諸島を転々としていた頃、石垣島のタクシーの運転手のおじさんと(私はオートバイで移動していたのに何故タクシーに乗ったのか?ひょっとしたら体一つで訪れた竹富島か波照間島だったかもしれない)の会話、多少方言が入っていたが、方言を忘れたので標準語で。

「どこからきたの」とおじさん。

「札幌から」と私。

「この辺りの海はエメラルドグリーンで珊瑚の砂浜は白くて綺麗ですよね」と私。

「そうですか?私はこの海しか知らないから本州のグレーの砂浜を知らない。」とおじさん。

「そうなんですか」と私。

「実は私は今年で還暦を迎えるんですよ。それでね、退職したら時間があるから死ぬ前に一度辺り一面の雪景色を見に北海道に行きたいんですよ」と遠くを見つめたおじさん。

今年で還暦というのが嘘ではなく、私の記憶も嘘ではなければおじさんの歳が59歳、ということは現在81か82歳。


その後生きて北の大地を踏み、辺り一面の雪景色が見られただろうか。
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主体が

2017-12-14 23:53:32 | 日記


ゆっくりと日々の事について言葉としての日々を書ける気がしてきている、それはゆっくりとやってきてようやく。

私は日々というか毎日ほぼ同じ時間に3キロほど散歩をする(ここではカントの話をしたいわけではない)。

自然から学ぶことは色々あるが、いや色々ある。

私は動物に興味がないという人の理由が「私はヒトだから」という人に対してすぐに面白くなくなる私はきっと「私はそれらに興味があるから、それらに興味がない人には興味がない」というふうにとられるであろう言葉でしか説明しようがなかったが、それは「私はヒトであるから動物の事など興味がない」のと同じことを主体が「ヒト」なのか「動物や自然」なのかの違いであって、私は同じ種類の発言をしているということになる。そこを否定的に誰にでも同じように流れているそれが日々なのだという事でも全然ない。それを言いたいのであればそれは時間、空間とかそっちの話になって、輪廻転生とかになってそっちの話であればきっと「日々について」をテーマに置かないし、言いたいことはそういう事ではない。

以前日々についての文章を書いてといわれた時に私は日々の日記の様なものを書いたが、その様に誰にでも坦々と日々はあり、坦々と続くという事を言いたかったわけではない。坦々とあるのは当たり前だ。


私にとって日々は膨大であり、すべてである。なんて書くと嘘臭くなる、駄目だまた書けなくなってきた。

地球中心論とか地動説、その概念を規模を小さく小さくしていき、宇宙と地球あるいは太陽→神と地球→万物と人類→王と民→カースト制度とかそういう話になっていくことだとして、それは認識できる物事一つ一つにより全体像が広がって、哲学的であればこうではないのか、科学的には観測の結果こうであるという話で、つまり私がヒトであるのを前提として自然や万物が、世界が見えてくる像であり、例えば映画を見てその場面場面で起こる出来事がその映画の主体であり、その場面場面で全体が構成されている、そして全体がある、だから同じ作品に対して「この映画は展開が色々あって、、」という視点と、「この映画はこんなにも何もなくそこが面白い」という視点と、つまり「自然に興味を向けないと自然の奥深さは解らない」という一つの片寄った視点にではなく、ヒトの起こすあるいは起こる社会的物事にもまれている人々がいて、その片隅でそのすぐそばで自然に身を投じている人がいるが、互いのヒトには同じ時間(時刻の事では無く、体感的質量をさす)は流れていなくて、それはそちらに意識を向ければ世界が広がるというそれではなく、ただ自然はそこにある。自然に身を投じているひとも、何処かで人間社会の事を思っている、だから「私はヒトだから」と私は「自然の様な何かである」の世界は同じようにそこにあるのであり、そういう全体の片隅で私は日々歌の言葉を書いては消し、楽器に触れているが、風が塵や枯れ葉を、巻き込んでいく様に、日々の行為にまとわりついてくる塵や枯れ葉のぶん膨らんでいく内面性としての音、変化をもたらすその塵や枯れ葉に気付いている、驚きがある。

いや、ここまで書いてまたわからなくなった。

日記の様なものとして保存しておく。

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ライブです

2017-12-11 22:00:06 | 日記


ライブです、今年最後の。

12/24(日) Tarji Night
出演 ・ちとっぺ / Kechon Kechon Jug Band/ 松沢春伸 / BRONCO. / 少太
Open 17:30 Start 18:00 チャージ1500円(ドリンク別)
山形市七日町二丁目7-28 YT二丁目ビル1F TEL 023-623-3944

Bar Tarji
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冷凍違い

2017-12-09 18:28:47 | 日記


彼は数年ぶりに風邪に見舞われた。

丑四つ時に布団に包まって高熱にうかされていた。

タオルで首に巻き付け動脈を冷やしていた保冷剤が溶けていた。

暗闇の中彼女はそれに気付いて冷凍庫の凍った保冷剤を取りに茶の間へ向かう。

ガサゴソと音がして寝室に戻ってきたと思ったら「あっこれハンバーグだ、何か形が変だと思ったら」と言い残しまた茶の間へ戻って行った。

彼は冷凍ハンバーグで動脈を冷やしている姿を想像した。

失笑して声にならない声でプルプルと肩を震わせ笑った。

そのせいで激しく咳き込んだ、更に熱が多分0度3分ほど上がった。



彼とは私の事か、いや、そうとも言えないし、夢ではないとも言えない。
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練りこまれていく言葉

2017-12-06 01:56:21 | 日記


それでは月は月なのか、言語化された「月だ!」に起こる思考の連想の様なものは月でもなく、もう完全に月であり「兎がもちをついている様な」「丸く輝く」「太陽系の、地球の周りを、、、」も全て月以降であり、「あれは何か」ではない。


伝えるという意味での月を伝えるための言語化以前の、素早く意識化されてしまう直前の無意識間での感情を、指をさしてただため息が漏れるだけの「・・・・」という物に限りなく近いものを言語化してみようと試みるが、それは突き詰めると難しい言葉になっていくのとは逆の、そういうものは歌にしうるものではないのかもしれないけど、最近そんな事ばかり考えていて、何度も書き換えられた重ねられて埋もれた言葉がもたらす能動的(といっても一度埋もれたと書いている時点で何らかの受動性を持った)それを楽器の音としてではなく歌として言語として表現しうる限りの言葉を探す事の方に向かい始めているが、しかし一向に進まない、当たり前だ、きっとずーっとそうだ、消しゴムのカスに練りこまれる言葉との日々。完成に進むことよりも、むしろその行為(外面化された自我を通し内面化される)そのものが厚みとなっていくのかもしれない。これとはならずにずーっと仮の歌を歌っている様な日々のその行為の中に。

私とあなたが並行して歩いている
私というあなたが歩を進めている
あなたが歩を進めた、わたしの歩が進んだ
私はあなたの様に歩いている月だ
丸い吐息が私を見ている
あっ丸い吐息だ、、


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