詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy Loco por España(番外篇319)Obra, Jesus Coyto Pablo

2023-03-10 10:28:05 | estoy loco por espana

Obra, Jesus Coyto Pablo

 ¿Dónde he visto ese color azul? Lo sé, pero no quiero decirlo, dijo así la palabra. El sol empezaba a ponerse, pero la luz aún no se había coloreado, y las olas rompientes brillaban de blanco. Tras ellas, el azul del mar, impoluto de luz u oscuridad. Ese azul era el color del silencio. El sonido del silencio que amortigua el ruido de las olas y el viento. El sonido del mar que amortigua la voz que me dijo lo que era importante. El sonido del silencio que amortigua el sonido del mar. Era un grito desde el fondo de la garganta, desde el corazón, dijo la palabra. El corazón subía hasta la garganta, pero allí dejó de moverse. Lo recuerda todo, dijo así la palabra. Es mentira decir que no lo oí. Lo oí todo. Porque lo oí, lo bloqueé con el silencio. El azul del mar, al que no afectan ni la luz ni la oscuridad, el color del silencio inmóvil. Lo recuerda claramente, dijo así la palabra.  Y añadió que no había necesidad de decirlo. No hacía falta recordarlo.

 (escribo un poema inspirado por el cuadro de Jesus Coyto Pablo)

 その青い色を、どこで見たのだろうか。知っているが、言いたくはない、とことばは言った。日が沈み始めていたが、光はまだ色に染まらず、砕ける波は白く光った。その背後に、光にも闇にも侵されていない海のブルー。沈黙の色をしていた。波の音も風の音も聞こえなくする沈黙の音。大事なことを告げる声を消してしまう海の音。その海の音を消してしまう沈黙の音。喉の奥の、こころの叫びだった、とことばは言った。こころは、喉まで駆け上っていたが、そこで動かなくなった。何もかも覚えている。聞こえなかったというのは嘘だ。何もかも聞いた。聞いたからこそ、それを沈黙でふさいだ。光にも闇にも侵されていない海のブルー、動かない沈黙の色。はっきり覚えている。だから、言う必要はないと、ことばは言った。思い出す必要はない、と。

 

 

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細田傳造「うん」

2023-03-08 23:54:59 | 詩(雑誌・同人誌)

細田傳造「うん」(「ぶーわー」49、2023年03月10日発行)

 細田傳造「うん」を読む。どこまでがほんとうで、どこからが嘘か、わからない。しかし、嘘にしたって、それを書いているときは、それを書かずにいられないほんとうがあるのである。だから、みんなほんとうと思って読む。詩を書く人間は人をたぶらかしているし、読む人間もだまされてもともとと思って読んでいる。どっちにしたって、人の書いた詩は、自分とは関係がない。それは私の生活ではないのだから、何が書いてあったってかまわない。そのことばのなかで、私は、私の考えたいことを考えるだけである。

おやじ友達出来たか
慈悲が来たりてきく
うん さんにん
三人もか よかったなおやじ
うんさんは海埜と書いてうんのと読むんだ
交際のきっかけのくわしいいきさつはおしえない

 とはじまる。「おやじ(細田か)」は「慈悲(息子か)」と会話している。二人目もうんさん。百万円拾って届けたら落とし主が現れないので、自分のものになった。運がいいからうんさん、とつづけて三人目。

さんにんめの御友達もおんなのひとか
もちろんご婦人だ
いつもうんこのニオイがしている
なまえはしらない
うんさんとよんでいる
身近なカオリでおちくつ
勃起させてくれる
ここは酸素が濃い

 なんといってもおもしろいのは、ことばの「口調」が、整えられていないことだ。親切なのか、冷酷なのか、丁寧なのか、乱暴なのか。皮肉を言っているか、うらやましがっているのか。「うんこのニオイ」を「身近なカオリ」と言い直したあとで「勃起」か、とうなってしまう。
 ここでは、ことばは「知性」ではない。ことばは「肉体」のまま動いている。
 で、ことばが「肉体」であるとき、それはどんなに乱暴(暴力的)であっても、「知性」の暴力に比べれば何のことはない。「知性」は肉体を持たないから、他人を徹底的に破滅させてしまうが(核兵器がその代表)、「肉体」には、そこまでできない。
 どうしても「肉体」が触れ合うと「反応」が「肉体」にかえってくるから、どこかで、何かが連絡し合う。まあ、一種の「セックス」である。そんなことを感じさせるところが「ほんとう」である。
 
片貝の養老ホテル
いいところにおしこんでくれてありがとうよ
もつべきものは愚息だなあ
韓国語でも運はうんという
うつくしいわが人生である
うん

 いいなあ、この終わり方。細田は、「受け入れる」ということを知っている。「受け入れる」ことが生きること、交わることなのだ。交わったら、そうだね、ちゃんと「エクスタシー」まで、「肉体」のかぎりつくす。
 その「つくす」が、いつでも細田のことばのなかにある。「ほんとう」がなければ、つくせないからね。

 

 


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Estoy Loco por España(番外篇318)Obra, Lu Gorrizt

2023-03-08 22:44:50 | estoy loco por espana

Obra, Lu Gorrizt

 El sencillo y bello cuadro de Lu me inspiró para escribir un poema.

 La palabra escribió un poema que empieza así: "Justo antes de ver este cuadro, la palabra estaba escribiendo un poema". Y continúa: "En el momento en que vió el cuadro, algo se rompió dentro de la palabra. Hubo un sonido que no debería haber oído, como cuando se rompe un espejo. Un breve silencio. Tras un breve sonido de silencio que parecía desaparecer en el sonido, la palabra oyó reverberar el silencio a alrededor la palabra. El poema sigue ahí, interrumpido, pero es cierto de que continúa en el cuadro como palabras inaudibles.

*

 Lu publicó un conjunto de dos imágenes en Facebook. La otra es este cuadro.

 「この絵を見る直前、ことばは詩を書いていた」とはじまる詩をことばは書いていた。それは、「その絵を見た瞬間に、何かが、ことばのなかで割れた」とつづく。鏡が割れるときのような、聞いていけない音がした。短い沈黙。音のなかに消えていくような短い沈黙の音のあと、ことばの周りで静寂がこだまするのを聞いた。詩は、そこで中断したままなのだが、きっと絵のなかで、聞こえないことばになってつづいているのだろう。

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Estoy Loco por España(番外篇317)Obra, AC Kikirikí

2023-03-08 09:52:37 | estoy loco por espana

Obra, AC Kikirikí

 En cuanto vi la obra de AC Kikirikí, apareció ante mí una serie de obras de besos. Klimt, Picasso, Rodin. ......
 En muchos casos, el hombre presiona a la mujer para que le bese, y ella acepta pero se niega. La negativa alimenta el deseo del hombre y hace que el beso sea aún más apasionado.
 En esta escultura, la mujer está a la izquierda. Se niega, pero sus manos sujetan firmemente a su amante.  Su espalda recta es decidida y sobria. Sólo se niega para recibir con más fuerza el beso del hombre. Ya están de rodillas. La mujer no rechaza al hombre. Están disfrutando del juego del amor.
 Esta escultura puede ser una obra de arte, incluido el fondo. Parece un callejón en el que ha desaparecido gente, o una habitación con un espejo. Hay una armonía tranquila.

 AC Kikirikíの作品をみた瞬間、次々にキスをする作品が目の前にあらわれた。クリムト、ピカソ、ロダン……。
 多くの場合、男が女にキスを迫り、女は拒みながら受け入れる。拒むことで、男の欲望が燃え上がり、さらに情熱的なキスになる。
 この彫刻では、左が女。拒みながら、手はしっかり相手を抱いている。(男も女を離さない。)まっすぐに伸びた背筋が、毅然としていて、余裕を感じさせる。男のキスをより強く受けとめるために、拒んでいるだけなのだ。すでに二人は膝をついている。女は男を拒んでなどいない。ふたりは愛の駆け引きを楽しんでいる。
 この彫刻は、背景も含めて作品なのかもしれない。人の消えた路地にも、鏡のある部屋にも見える。邪魔するものはだれもいない。静かな調和がある。

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読売新聞を読む(2023年03月08日)

2023-03-08 08:57:05 | 読売新聞を読む

 2023年03月08日の読売新聞(西部版・14版)の一面。
↓↓↓
「核の傘」日米韓で協議体/米が打診 対北抑止力を強化
↑↑↑
 見出しだけ読めば、記事を読まなくても内容がわかる。同時に、疑問も、読んだ瞬間に浮かんでくる。
 私が見出しから理解した内容は、北朝鮮の脅威に対応するために、日米韓がアメリカの核運用について協議体をもうけるというものだ。北朝鮮のミサイル開発が進んでいる。日本はいつ攻撃されるかわからない。アメリカの「核の傘」に守ってもらわないといけない。韓国も同じだろう。日米、米韓とばらばらに連携するのではなく、日米韓が共同で対応すべきだ。「もっとも」なことに思える。
 記事にも、こう書いてある。
↓↓↓
 【ワシントン=田島大志】米政府が、日韓両政府に対し核抑止力を巡る新たな協議体の創設を打診したことがわかった。米国の核戦力に関する情報共有などを強化する。北朝鮮が核・ミサイル開発を加速させる中、「核の傘」を含む米国の拡大抑止に対する日韓の信頼性を確保し、核抑止力を協調して強化する狙いがある。日本政府も受け入れる方向で検討している。
↑↑↑
 しかし、私はひっかかる。なぜ、「米が打診」? なぜ「日本が打診」、あるいは「韓国が打診」ではないのか。わざわざ、アメリカが日本と韓国に打診してくるって変じゃない?
 記事を読み進めると、こんな部分がある。
↓↓↓
 米国のイーライ・ラトナー国防次官補は2日の講演で、対北朝鮮の核抑止に向け「新たな協議メカニズムの議論に入っている。戦略的な作戦や計画への理解を深めるためだ」と語った。
 背景には、北朝鮮が射程の短い戦術核兵器の使用をちらつかせる中、米国の「核の傘」の信頼性への不安が日韓で広がっていることがある。米国は協議体を新設し、拡大抑止を提供する断固たる姿勢を両国に示す必要があると判断した。
↑↑↑
 イーライ・ラトナー国防次官補の講演の内容が全部載っているわけではないのでわからないが、ラトナーが問題としているのは「戦略的な作戦」、つまり「戦略核」である。大陸間弾道弾である。「戦術核」については、「北朝鮮が射程の短い戦術核兵器の使用をちらつかせる」と書いてあるが、これはラトナーが力点をおいて語ったことかどうかわからない。実際に語っているかどうかもわからない。カギ括弧でくくられていない。ラトナーが言ったのではなく、読売新聞記者の作文だろう。
 つまり、である。
 北朝鮮はミサイル実験を繰り返しているが、その狙いはアメリカ本土を直接攻撃する能力があるということを誇示するためである。照準はアメリカ大陸にある。アメリカを濃く攻撃できる能力があることをアピールし、アメリカを直接交渉の場に引っ張りだしたい。「戦略的」に北朝鮮は、そういう構想を持っている。アメリカはそれを理解しているからこそ、それに反応し、ラトナーは「戦略的」ということばをつかっている。
 そして、それに対抗するために、アメリカはさらに「戦略核」の能力を高めようというのではない。日本、韓国の基地から「戦術核」を使用しようとしている。その協議を進めようとしている。アメリカ本土が攻撃される前に、日本、韓国から北朝鮮を攻撃できるのだぞ、ということを北朝鮮にアピールしようとしている。
 「戦略」と「戦術」ということばが、記事のなかでつかいわけられているが、これが今回の作文ニュース(特ダネ)の「ポイント」(ほんとうのニュース)なのである。
 言い直せば、アメリカから大陸間弾道弾をつかって北朝鮮を攻撃するのに、日本や韓国と協議などしなくても、アメリカ独断でできるだろう。それに、大陸間弾道弾の方が経費もかかれば時間もかかる。戦術核をつかって日本、韓国から攻撃すれば、時間も経費も少なくてすむ。しかし、日本、韓国から「戦術核」を発射するには、日本、韓国の「了解」が必要である。
 そういうことを進めるためには、「論理」を一度逆転させて、日本、韓国は北朝鮮の書くの脅威にさらされている。それから日本、韓国を守るためにはアメリカと協力する必要がある、という具合に展開しないと、日本や韓国の国民の理解を得られない、だから「日米間で協議体」をつくろうという形で提案しているのだ。
 今回の読売新聞の特ダネ(米政府の発表ではなく、「わかった」という形で書かれている作文)は、それまでの特ダネがそうであるように、読者の(国民の)反応を探るためのアドバルーンなのである。「核の傘で日本、韓国を守るための協議体を日米韓でつくるといウニュースを流すと、日本の国民はどう反応するか」を探っているのである。日本で「これで安心」という声が高まれば、それに乗っかろうというのである。そういう声を高めてから「日米韓協議体」の話を持ち出せば、反論は少なくなる、という腹積もりなのだ。
 アメリカを守るために、日本と韓国をどう利用するか。アメリカの考えていることは、それだけである。(アメリカを守るために、ウクライナをどう利用するか。あるいはアメリカを守るために、台湾をどう利用するか。これは、単に「武力攻撃」だけてはなく、「経済戦略」を含めた利用である。むしろ、経済戦略を、「武力」にすりかえて進められている戦略だと私は考えている。)
 だから、というのは「論理の飛躍」に見えるかもしれないが。
 最近のビッグニュース、日韓の懸案だった「元徴用工問題」が急に解決に向かって動き出したのは、背後にアメリカが動いているからだと考えてみる必要がある。日韓が対立したままだと、アメリカの「戦術核をつかうときの基地として日韓を連動させる」という作戦がうまくいかない。なんとしても日韓を協力させる必要がある。障壁となっている「元徴用工問題」を解決させよう、ともくろんだのだろう。
 このあたりの事情を、書かなければ書かなくてもすませられるのだけれど、読売新聞は、例の「ばか正直」を発揮して、こう付け加えている。
↓↓↓
 日本政府は、核抑止力の強化につながるとみて打診に対し前向きに検討しつつ、日韓間の最大の懸案だった元徴用工(旧朝鮮半島出身労働者)訴訟問題の行方を注視していた。韓国政府が6日に解決策を発表したことで、日米韓の安全保障協力を強化する環境が整いつつあるとみている。
↑↑↑
 自分では何一つしない、口が軽いだけの岸田が、韓国政府に働きかけるはずがないし、韓国が突然「方針」を変換するのも、とても奇妙である。アメリカが韓国に圧力をかけたのである。「元徴用工問題」は日本にとっての懸念であるというよりも、アメリカの懸案事項だったのだ。それがあると日韓のアメリカ軍基地を連動させるときに障害になる、と考えたのだろう。
 そして、いま、その問題が解決に動き出したからこそ、次のステップ、日本と韓国にある米軍基地を利用して、北朝鮮に「核の圧力」をかける、という作戦に転換したのである。
 突然、記事の最後で「元徴用工問題」が書かれているのは、記者に「特ダネ」をリークしただれかが、「ほら、元徴用工問題もアメリカの後押しで解決したし……」と口を滑らせたのだろう。「そうか、そうだったのか」と記者は、自分の発見ででもあるかのように、そのことを「ばか正直」に書いてしまっている。
 だから、読売新聞の記事はおもしろい。

 

 

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Estoy Loco por España(番外篇316)Obra, Luciano González Diaz

2023-03-07 22:17:50 | estoy loco por espana

Obra, Luciano González Diaz

 El 6 de marzo es el Día del Escultor, y Luciano subió fotos de su trabajo en curso a su libro del festival.
 La obra tiene un sabor diferente a cuando se ve de la obra solo. "Mírame. Sé montar en monociclo", él está gritando. Sin Luciano a su lado, podría parecer un monociclista solitario. Podría parecer el símbolo de una persona que vive tiempos inciertos. Sin embargo, en esta foto no se perciben ni la soledad ni la ansiedad. Me siento el orgullo del hombre en la obra.
 Tras las palabras "Mírame", podría añadir la voz: "Luciano me hizo".
 La alegría de hacer y la alegría de ser hecho están en esta fotografía.

 3月6日は「彫刻家の日」。Luciano が制作中の写真をフェスブックにアップしていた。
 作品を単独で見るときとは違った味がある。「私は一輪車に乗れる。ほら、見て」と自慢している声が聞こえてくる。そばにLuciano がいなければ、孤独な一輪車乗りに見えるかもしれない。不安な時代を生きている人間を象徴しているように見えるかもしれない。しかし、この写真からは、孤独も不安も感じられない。作品のなかの人間の、誇らしげな気持ちが広がっている。
 「ほら、見て」のあとに「Luciano がつくってくれたんだ」という声を追加してもいいかもしれない。
 つくる喜びと、つくられる喜びが、この写真のなかにある。

 

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Estoy Loco por España(番外篇315)Obra, Jose Miguel Palacio

2023-03-06 20:21:09 | estoy loco por espana

Obra, Jose Miguel Palacio

 A veces me mareo cuando miro cuadros realistas.
 Cuando miro algo, lo miro según me conviene. Por ejemplo, estoy esperando un autobús. Lo que miro entonces es el número de destino, el nombre del lugar. No veo la cara del conductor, ni veo el paisaje urbano reflejado en la ventanilla del autobús.
 José está dibujando lo que yo no veo. La superficie del cristal parece plana, pero está distorsionada. Así que la ciudad reflejada en la ventana está distorsionada. Y José ve la realidad sin modificarla. Yo no puedo ver las cosas así. Tengo que tener agallas para estar a la altura de la visión de Jose.
 Si parto de la base de que lo que José representa no es un paisaje, sino una "percepción", quizá ustedes puedan entender mi miedo. Cuando converso con personas (es decir, cuando las confronto con sus percepciones), y cuando encuentro "distorsiones" en sus percepciones, las corrijo y prosigo con el diálogo. José, sin embargo, acepta la distorsión tal como es, y prosigue con el diálogo.
 Al mirar los cuadros de José, me pregunto adónde va mi "percepción". Temo quedar atrapado en una ciudad distorsionada.  

 私は、リアリズムの絵を見ると、めまいに襲われることがある。
 私は何かを見るとき、自分の都合に合わせて見ている。たとえば、バスを待っている。そのとき私が見ているのは行先の番号、地名である。運転手の顔も見なければ、バスの窓に映った街の風景も見ない。
 Joseは、私が見ないものを描いている。ガラスの表面は平らなようでも歪みがある。だから、窓に映る街は歪んでいる。しかし、Joseは現実を修正しないで見ている。私は、こういうものの見方ができない。このJoseの視力につきあうのには、度胸がいる。
 Joseの描いているものが、風景ではなく「認識」だと仮定すれば、私の恐怖が伝わるかもしれない。人と対話するとき(認識を突き合わせるとき)、私は他人の認識の「歪み」に出会ったとき、それを修正して対話を進める。ところが、Joseは歪みをそのまま受け入れて対話することになる。
 そのとき、私は、いったいどこへ行ってしまうのか。Joseの絵を見ると、私の「認識」はどこへ行ってしまうか、考え込んでしまうのだ。歪んだ街のなかに閉じ込められるではないか、と不安になるのである。

 

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Estoy Loco por España(番外篇314)Obra, Javier Messia

2023-03-06 18:59:06 | estoy loco por espana

Obra, Javier Messia

  

¿El arte revela deseos ocultos u oculta los deseos que están ahí? Al ver los trabajos en pareja de Javier, escrio una poema.
*
Déjame verlo, extendiste tu mano.
Me negué.
No tengo que mostrártelo.
Es lo mismo.

Miralo, extendiste tu mano.
Me negué.
Aunque no lo vea, lo sé.
Es lo mismo.

Mi negativa fue arrancada como una tela blanca.

Si es lo mismo, no tienes que ocultarlo.
Extendiste tu mano.
Si es lo mismo, no puedes ocultarlo.
Ya lo sabes.

Escóndelo, extendiste la mano.
Me negué.
No puedo ocultarlo, lo sabes.
Es lo mismo.

芸術は隠れた欲望を明らかにするのか、それともそこにある欲望を隠すのか。Javierの対になった作品を見て、詩を書いてみた。
*
見せてくれ、と君は手を伸ばした。
私は拒否した。
見せなくても、君はわかっている。
同じものだ。

見てくれ、と君は手を伸ばした。
私は拒否した。
見なくても、私はわかっている。
同じものだ。

拒否が、白い布のように引き裂かれた。

同じものなら隠さなくていい。
君は手を伸ばした。
同じものなら隠せないはずだ。
わかっているだろう。

隠しておけ、と君は手を伸ばした。
私は拒否した。
隠せないと、君はわかっている。
同じものだ。

 

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三木清「人生論ノート」から「個性について」

2023-03-05 23:07:51 | 考える日記

 長い文章。他のエッセイよりも若いときに書いたせいか「気負い」のようなものがあり、とてもむずかしい。18歳のイタリア人は、前回は読み進むことがむずかしく、前半で時間切れになったのだが。
 今回読み進んだ後半は、前半の「要約」というか、言い直しなので、一気に読み終わってしまった。最初から最後まで通読し、そのあと後半の「精読」という形で進めたのだが、すでに「個性とは個人がつくりだしていくもの」という主張が把握できているので「個性は宇宙の生ける鏡であって、一にして一切なる存在である」という後半の書き出しをつかみ取ると、あとは一気呵成。すべての文章が、この「個性は宇宙の生ける鏡であって、一にして一切なる存在である」の言い直しであると理解した。
 創造と自由について補足したかったのだが、それをすると私の三木清観の押しつけになってしまいそうなので、それはしなかった。
 あまった時間で「我が青春」と「読書遍歴」を読み進んだのだが、「人生論ノートは考えないとわからないが、これは考えなくてもわかる」。
 さらに「人生論ノート」の「後記」に書いてあった、「若いときの文章」という部分にふれて、「むずかしいのは(むずかしいことばが多いのは)、まだ背伸びして書いているからだね、君の作文みたいだね」というと、「それを言おうとしていた」という感想。
 いやあ、ものすごいなあ。自分で書いている作文の「問題点」もきちんと把握している。
 教えながら感心してしまう。
 次回からは「天声人語」をテキストにするのだけれど、難なく読みこなすだろうなあ。速読というか、多彩な語彙を身につけるために読むのだから、「天声人語」が適切だと思うのだが、「哲学を読みたい」とリクエストされてしまった。

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Estoy Loco por España(番外篇313)Obra, Joaquín Llorens

2023-03-05 20:48:47 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens

Como en los trampantojos de Escher, la superficie horizontal de arriba se encuentra con la de abajo en el espacio. La escultura de Joaquín deforma el espacio de forma misteriosa. Entonces la memoria y el tiempo se distorsionan.
Escribí este poema inspirado por su obra.

La esquina de la calle donde nos conocimos es 
la esquina de la calle donde nos separamos.

¿Cuál es la verdad?
¿Cuál de los dos cometió un error?

Una cosa es cierta.
Ese día nunca volverá a nosotros.

¿Pero sabes? 
Ese día todavía está en mi corazón.

No sólo me pone triste mi memoria.
sino tambien me hace soñar.

La esquina de la calle donde nos separamos es
La esquina de la calle donde nos conocimos

 

エッシャーのだまし絵のように、上の水平な面と下の水平の面は、中空で出会っている。それは見る角度が引き起こす錯覚なのか、それとも真実なのか。Joaquin の彫刻は、空間を不思議な形に変形させる。記憶と時間が、そのときゆがむ。
こんな詩を書いてみた。


君と会ったあの街角は
君と別れたあの街角だ

どちらが本当なのだろうか
どちらが間違えたのだろうか

たしかなことは一つだけある
あの日はもう戻ってこない

だが、君は知っているかい? 
あの日はいまも私の胸のなかにある

私を悲しませるだけではない
私を夢見させる

君と別れたあの街角は
君と会ったあの街角だ

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サム・メンデス監督「エンパイア・オブ・ライト」(★★★★)

2023-03-04 21:02:33 | 映画

監督 サム・メンデス 出演 オリビア・コールマン、マイケル・ウォード、コリン・ファース

 スピルバーグの映画がどうも気に入らなくて……。予告編で見た「エンパイア・オブ・ライト」で目を洗い直す感じ……。(「対峙」も予告編の緊迫感がすばらしい。)
 「エンパイア・オブ・ライト」は「ニュー・シネマ・パラダイス」ではなくて、「オールド・シネマ・パラダイス」という感じだが、映像が、なんといっても英国風で湿度と奥行きがある。そこが好き。
 屋外の風景だけではなく、室内も、湿気があって、それが色に反映している。私が日本の湿度になれ親しんでいるから、イギリスの色を好むだけなのかもしれないが。
 「オールド・シネマ・パラダイス」だから、どうしても「純粋」というわけにはいかないのだが、その「純粋じゃない」部分のなかに「純粋」を探し出してしまうという感じが、まあ、しみじみとします。
 コリン・ファースが、この映画のなかでは、誰もが「大嫌い」と言うに違いない役を演じているところが、なんともおもしろい。かつては美少年、英国王を演じてアカデミー賞(主演男優賞)をとったんだけれどね。
 あ、こんな脱線は、どうでもいいか。
 スピルバーグの映画がそうであったように、そして「ニューシネマパラダイス」がそうであったように、映画のなかの映画が、この映画でもとてもいい。大好きな「チャンス」の大好きなシーンが、一部はなんと、音だけで出てくる。豪邸の、豪邸だからこそあるエレベーターに乗って「この部屋は小さいね」。あっけにとられて、笑うのを忘れる、というか、忘れるまでに「間」がある。「チャンス」はドタバタを含むコメディーだったけれど、そのドタバタさえ「間」があった。「間」がコメディーを「芸術」に昇華させていた。(と、書くと、コメディー・ファンに叱られるかもしれないが。)
 で。
 この「間」なんだけれど。
 イギリスはやっぱりシェークスピアの国だねえ。セリフの強さと「間」で、芝居をリエルに変えていく。ことばをつきつけられたら、嘘をつかない。ことばにしない限り、それは「秘密」だし、ことばにすれば、それはすべて「事実」(現実)になる。だからこそ、ことばにするかどうか、「間」が必要になる。「間」のなかに「真実」が凝縮している。
 引きこもりのオリビア・コールマンを精神科病院へつれていくために部屋に侵入するところのやりとりは、まあ、すごいもんだねえ。オリビア・コールマンは何も言わず、顔だけで演技をするのだけれど、それがなんというか、やっぱり「間」なんだなあ、と思う。
 思えば、スピルバーグの映画というのは「間」を、ほかの監督よりも短くすることで成り立っているね。スピード感。私が経験する「間」、想像する「間」よりも短い。つまり、速い。その加速度にのっかって、映画が展開する。
 この映画は、逆。
 スピードを上げない。とどまる。ゆっくりと進む。その「ゆっくり」のなかに力がこもる。加速度に頼らない。「ゆっくり」、あるいは「進まない」動きのなかに、人間が存在している、その力を見せる。それが登場人物の「生き方」も決定する。
 それにしても。
 再生の象徴としての、最後の緑の美しさ。このままずーっと見ていたいと思う。そして、この緑についても、「チャンス」が反映しているね。

 

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スティーブン・スピルバーグ監督「フェイブルマンズ」(★★)

2023-03-03 22:18:02 | 映画

スティーブン・スピルバーグ監督「フェイブルマンズ」(★★)(中州大洋スクリーン1)

監督 スティーブン・スピルバーグ 出演 ミシェル・ウィリアムズ、ポール・ダノ、ガブリエル・ラベル

 予告編を見たときから不安だったのだが、その不安が的中した。おもしろいのは、映画のなかの映画の部分だけ。肝心のドラマが紙芝居っぽい。
 スピルバーグの「自伝」らしいが、ここには「自伝」特有の「ためらい」がある。そして、それが映画をつまらなくしている。自伝だから、家族が出てくる。自分の家族を描くというのは、とてもむずかしい。スピルバーグの両親が生きているかどうか私は知らないが、どうしても家族に対する「配慮」が働く。「悪く」描けない。「憎しみ」を描ききれない。
 で。
 どういうことが起きるか。
 映画が「ストーリー」になってしまう。登場する人物が「演じる」前に、ストーリーがすべてを説明する。映画なんて(小説なんて、詩なんて、と言ってもいいが)、「ストーリー」なんか、どうでもいいのである。「人間」が生きているかどうかが問題なのである。
 つまり。
 この映画では、母親の「浮気」が一つのテーマだが、この「浮気」が、その「浮気」の一番いい部分が、少年の撮る「家族ムービー」のなかだけで、生き生きしている。「映画のなかの映画の部分だけ」と最初に書いたのは、そういう意味である。そこには、なんと、映画の質を高めるのは、「狙い」のなかにどれだけ偶然が入り込んでくるか、あるいは偶然カメラのなかに入ってきてしまったものをどれだけ「リアリティー」として吸収(消化)し、作品に昇華させていくことができるか、ということと関係している。なぜ、それが映っている? わからない。しかし、よく見ると、それが映っていた。そして、それが「現実」なのだ、ということが映画を、突然、すばらしいものにする。かけがえのないものにする。母親の浮気のシーンは、まさに、それである。
 それは、浮気相手が母親に帽子をかぶらせるシーンが特徴的だが、ちらって見た目にはなんでもないこと、ほほえましい親愛のシーンなのだが、別のシーンが組み合わさると、全然違ったものになる。「意味」がかわる。「意味」とは、そこにあるものではなく、ひとの認識がつくりだすものだからである。
 そういう意味では、映画は「つくるもの」ではなく、「つくらされるもの」でもある。そういうことを、この映画は語っている。
 この映画の秘密は、また、別のシーンでも語られる。戦場の死体のなかを歩く軍曹かなにか知らないが、責任者がいる。演技指導をして、撮影をはじめる。そうすると、その軍曹は少年の演技指導を上回る演技をする。しかも、それは「顔」ではなく、「背中」の演技なのだ。歩く後ろ姿なのだ。
 スピルバーグに限らないが、名監督といわれるひとたちは、そういう瞬間をのがさずに組み合わせることができる能力を持っている。そういうことをスピルバーグは少年のころからやっていた、と意識して見れば、これはこれで、たしかに「立派な自伝映画」だとは思うが、やっぱり、退屈。
 ゴールデングローブ賞の作品賞、監督賞、主演女優賞を獲得しているが、これは「御祝儀」のようなものだ。アメリカ人は「実在の人物(実際にあったこと)」を評価するのが好きな好き人が多い。有名人を「そっくりさん」として演じると、たいてい主演男優賞、主演女優賞が獲得できるし、作品賞も獲得することが多い。人への評価(称賛)と作品を混同していると思う。
 アカデミー賞でもいくつかの部門でノミネートされているが、私はこういう作品や演技をおもしろいとは思わない。
 「激突」や「ジョーズ」は、スピルバーグってだれ?と、何も知らない観客が見てもおもしろい映画だった。この映画を、スピルバーグってだれ? そんな人聞いたこともない、という人が見ておもしろいと何人が言うだろうか。

 


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林嗣夫「わが方丈記・2」、やまもとさいみ「さよならは」

2023-03-02 10:31:04 | 詩(雑誌・同人誌)

林嗣夫「わが方丈記・2」、やまもとさいみ「さよならは」(「兆」197、2023年02月10日発行)

 林嗣夫「わが方丈記・2」の後半。小中学校の不登校が増えているという新聞の記事をみながらの感想のあと、こう書いている。

またも新聞の見出しに驚いた
「戦後日本の安保転換
 敵基地攻撃能力保有」!
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して(憲法前文)、と
わたしたちは決意したのではなかったか

ここにきて
一つ納得するものがある
「敵基地」という
毒性の強い共同幻想が
少しずつ 用意されてきたのだ

 「敵基地」というよりも、「敵」ということばが、いったいどこから来たか、と私は考えてしまう。
 中井久夫はエッセイのなかで、戦争中、空襲に恐怖を感じたが、アメリカに敵意は感じなかった、と書いていた。そのことも思い出した。
 「敵」という「ことば(概念)」は、とてもむずかしい。私は自分自身からそのことばをつかったことがあるかどうか、よく思い出せない。それは、なんというか、私にとっては「組織的な概念」である。ひとりでは立ち向かうことができない何か。それに立ち向かうためには、まず「組織」をつくらないといけない。これが、私には苦手だ。だから、そういう苦手なことをしないようにしないようにしているうちに「敵」という考えが、自分のなかから自発的(?)に出てくることがなくなったのかもしれない。
 聞いたらわかるが、自分ではつかわない。そういうことばが、私にはたくさんあるが、そのひとつが「敵」だ。
 新聞記事の「いやらしさ」は「敵」とだけ書くのではなく「敵基地」と書いていることだ。これは、まあ「政府の受け売り」だけれどね。「敵」と「敵基地」はどう違うか。「敵」といえば人間を思い浮かべるが、「敵基地」と聞いたとき、そこに何人の人間の存在を思い浮かべるだろうか。人間よりも、「武器のある場所」を思うだろう。それから、「武器を動かす人」を思うかもしれないが、その「武器」が「野球バット」だけだったら「基地」ということばはついてまわらないだろう。だから、「敵基地」というとき、思い浮かべるのは、やっぱり「武器」だと思う。たとえば、ミサイル、とか。で、それは逆に言えば「敵基地」ということばは、人間の存在を隠してしまうことばなのである。
 人間を殺さない。武器だけを破壊する。それが「敵基地攻撃」。
 そんなことは、できないね。
 「ことば」は何かを表現するためにある。しかし、「ことば」は何かを隠すためにもある。隠すための「ことば」が増えている。「敵基地」は「人間がいる」ということを隠すために「発明されたことば」である、と私は思う。
 「隠すためのことば」とどう向き合い、どう「ことば」を動かしていくか。そのことを考えないといけないのだと思う。

 やまもとさいみ「さよならは」。

さようならと言えば
さようならと返ってくる

じゃあまたと言えば
じゃあまたと返ってくる

さよならはこだま
返ってくることば言葉
でなければならない

さようならと言って
さようならと返ってこなければ
きっと言葉を間違えているのだ

 「さようなら」という「ことば」が何かを隠しているとき、「さようなら」が返ってこないのだろう。隠している何かは、それまでに起きた何かだろう。「隠されているもの」を、少しずつ、探していく(明るみに出していく)ために、ことばを動かしてみる必要がある。


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中井久夫集2『家族の表象』

2023-03-01 22:51:21 | 考える日記

 中井久夫集2『家族の表象』の「精神科医から見た子どもの問題」という文章。その「本筋」からふっと脇にそれる形で、こんなことが書かれている。戦争体験についてである。

空襲は台風に近い天然現象であって、恐怖ではあったが、アメリカに対する敵意は実感がなかった。

 「実感」。
 これは、とても大切なことではないだろうか。
 ロシアのウクライナ侵攻から2年、それを利用する形で「台湾有事」がしきりに話題になる。
 その話題のなかに占める「実感」というものは、どんなものだろうか。
 私は、さっぱりわからない。

 ウクライナの人は、ロシアに敵意をどれくらい持っているのか。爆撃の恐怖(死の恐怖)と敵意を比べられるものかどうかわからないが、敵意を持つよりも、恐怖を持つ方が多いのではないだろうか。
 他人の感覚はわからないが、「台湾有事」が起きたとして、そのとき私は中国に対して敵意を抱くか。それとも恐怖を抱くか。たぶん、恐怖である。そしてそれは中国に対する恐怖というよりも、死に対する恐怖だろう。私の余命は、そんなに長いものではないけれど、やはり恐怖がある。何よりも、痛いのはいやだなあ、と思ってしまう。

 そこから、こんなことを考える。
 「敵意」というのは、いったい、どういうときに生まれ、どう動くのか。いったい、ロシアのだれがウクライナのだれに対して「敵意」を持ったために戦争が起きたのか。侵略が起きたのか。個人が、どこかの「国家」という組織に対して「敵意」を抱くということが、私には、考えられない。私には、そういう「想像力」はない。
 「国家」が、どこかの「国家」に対して「敵意」を持つ、というのも、かなり論理的に飛躍した考え方だと思う。「組織」が自律的に「意識」を持つというとは、私には考えられない。
 具体的に言えば。
 プーチンが、ゼレンスキーに「敵意」を抱いた? 侵攻された結果、ゼレンスキー(ウクライ人)がロシア軍に「敵意」を持ったというのは理解ができるが、それは何か「個人の感情」とは別なものに思える。多くの人は「敵意」と同時に「恐怖」を感じたと思う。もしかすると、「敵意」を持つよりも前に、恐怖を持ったのでは、と思う。
 この「恐怖」を「敵意」に変えていくのは、かなりの精神力が必要だと思う。そして、その精神力というのは、私の感覚では「実感」ではない。何か、ある意図を持ってつくっていくものだ。そして、その「敵意」を集団を動かすものに仕立てていくというのは、こもまたたいへんな「力」がいると思う。
 そこから飛躍してしまうのだけれど、こういうことができるのは「恐怖」を感じることがない人間だけだろうなあ、と思う。自分は絶対に戦争に巻き込まれて死なないと判断している人だけだろうなあ、と思う。

 それから、こんなことも思うのだ。
 多くの国がウクライな支援のために武器を提供する。(買わせるのかもしれないが。)これはどうしてだろうか。ロシアがウクライナを超えて侵略してきたら「怖い」から? それならよくわかるのだが、しかし、わかりすぎて、変だなあと思う。自分の国が侵攻されると「怖い」から、そうならないようにするためにウクライナに戦わせる? これは、なんだか「支援」というのとは違うと思う。「利用」というのものだろう。
 どういう「利用」かというと、自分の国を攻撃されないための利用だけとは限らないだろう。
 武器を買わせて、金を稼ぐという「利用」の仕方もあるだろう。アメリカのやっていることは、これだと思う。「戦争」をウクライナにとどめておくかぎり、アメリカは攻撃されない。それだけではなく、武器を売ることができる。金儲けができる。そういう「判断」があると思う。
 それは中国や北朝鮮にもあるだろう。ロシアに武器を売るチャンスと考えている人もいるだろう。
 どちらの「陣営」にしろ、そこで金を稼いでいる人は「恐怖」は感じないだろうし、「敵意」だってもっていないかもしれない。「自由を守る」というととてもかっこいいが、かっこいいものは信じない方がいいかもしれない。自然にかっこよくなっているのならいいけれど、かっこよくみせるために、かっこをつけているのかもしれない。その人たちが感じている「実感」というものが、私にはわからない。

 かろうじてわかるのは、攻撃される人は怖いだろうなあ、ということだけである。私は戦争は体験したことがないが、「恐怖」は感じることができる。私は、いろんなことがこわい。私は老人だから、道で転ぶことさえ、とても怖い。
 プーチンが核をつかうとおどしているが、私は、広島や長崎の資料館見学だけでも「怖い」。「怖くない」というのは、もっとも「怖い」ことだと思う。岸田は先頭に立って「怖い」と世界中に語りかけるべきではないのか。侵攻したロシアが悪いのはわかっているが、どちらが正しいということは後回し死にしてでも、「怖い」と言わないといけない。ウクライナのひとたちの「恐怖」を代弁しなくてはいけないと思う。
 いま、恐怖を「実感」しない人が増えているのではないのか。

 

 

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