詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(77)

2020-07-13 08:59:41 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (その人はどこへゆく)

冬の日が野をあまねく照らしているところを
その人の影が動き
ぼくの心のなかを水のように去つていく

 「その人」が繰り返され、「その人」を受け継いで「冬の野」が「ぼくの心」と言い直される。「現実」が「心象」になり、そのなかで「その人」が「水」という比喩になる。
 この「比喩」よりも、現実と心象、現実と比喩が交錯するということが、詩を成立させている。交錯をとおして、比喩は事実になる。




*

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小池昌代「箱根」、松下育男「床屋で」

2020-07-12 15:52:04 | 詩(雑誌・同人誌)
小池昌代「箱根」、松下育男「床屋で」(「孔雀船」96、2020年07月15日発行)

 小池昌代「箱根」。

春は底冷えがする
死んでいるものには
泥の 冷たさ

 は始まる。なんとなくエリオットの「荒れ地」を思い出す。でも、小池は、エリオットとは違う方向へことばを動かす。

鎌倉時代
武士たちには
兄弟の血よりも濃い ヒーローがいたが
わたしには そんな主君がいない

 小池が何を書こうとしているのか、見当がつかない。

妹は
いまは 山ほども遠く
長じて わたしたちは
汽笛のように孤独だ
言うまでもないことだが
思い出すことがある
道を曲がったとき 山を見たこと

 そして、この「見当のつかなさ」は、この「道を曲がったとき 山を見たこと」で頂点に達する。タイトルから察すると、山は「箱根」を指すのかもしれないが、「道を曲がったとき 山を見たこと」がいったいどうしたというのだ。道を曲がることと山を見ることに、どういう関係があるのだ。
 「道」「山」という、あまりにも無防備というか、何も具体的に指し示さないものにあきれてしまうのだ。
 あきれてしまうのだが、ここから、ことばが一転する。

危機のように
稜線が 身に迫り
山よ 抽象的な山
長い石段をのぼり
山の神社へ詣で
雲の湧く旧い山道を行けば
何もかもが 具体性を帯びた
箱根
我が実朝の眼差しが強く差しこむ
山桜の散る音にも耳をすますと
石ころのひとつに
わたしの顔があっても 驚きはしない

 いや、そんなことがあれば驚くだろうと、ふつうなら私はいいたくなるのだが、そんな気持ちが起きない。ぐいぐいとひっぱられてしまう。
 そこに書かれていることは、現実ではない。ことばなのだ。そして、そのことばは現実を否定して、「事実(あるいは真実)」を生み出している。
 そこに書かれているのは、事実、あるいは真実というものなので、驚くのがあたりまえなのだが、「これは事実なのだ、真実なのだ」という気持ちが引き起こされているので、驚きの方が引き下がってしまうのだ。「事実(真実)」を発見した驚きが、それまでの日常の驚きを凌駕してしまうのだ。驚いているのだけれど「驚きはしない」というしかない「驚き」がある。
 これを、詩との出会い、という。

かつて山にのぼった船があり
その巨大な悲しみが
山の裾野で いまも溶け続けている
とりかえしのつかないことをして
ハエに生まれ変わることを夢見ていたが
腐葉土積もるここならば
かなうかもしれない

 あまりにも「非現実的」なことが書かれているのだが、「非現実」か「現実」かを超越して、ことばが「事実」を生み出している。「ことば」を読んでいるのか、それまで隠れていた「事実」を、つまり発見された「真実」に向き合っているのか、わからなくなる。興奮する。「ことば」に酔い始めていることに気がつく。
 そうか、これが詩というものか、とあらためて思うのである。
 小池のことばは、まだまだつづくのだが、「これが詩だ」と感じたときから、その行方(結論)は、「いま/ここ」ではないことが明らかなので、それがどんな「結末」にたどりつくかは関係がなくなる。
 だから、もう引用しない。
 詩がつづいているのだから、それは詩を読むしかないのだ。私の感想など、どうでもいいことなのだ。



 松下育男「床屋で」は床屋での客(松下、と仮定して読んでみる)と理髪店の店主との会話を再現したものだ。
 犬を飼っている。その犬を「おふくろ」が可愛がっている。しかし、犬が死んだ。死んだと知っているはずなのに、「おふくろ」が犬を預からせてくれ(一晩いっしょにいたい)と電話をかけてくる。天守は「おふくろ」が認知症になったのではないかと心配になる。「おふくろ」は……

おふくろ
犬の骨壺と写真を大きな袋にいれて
さっさと帰って行ったんです

翌朝
返しに来ましたけどね

一晩
骨壺と一緒にいたんだなと
思いましてね

それで何をしていたんだろうと
思いましてね

一晩で
いいのかなと
思いましてね

たまらなくなってきたんですよ

 感動的である。「思いましてね」とを繰り返したあと、「思いましてね」とは書かずに、ただ思ったことをそのまま放り出している。「たまらなくなってきたんですよ」。
 この放り出し方(気持ちを補足しない)に詩があるといえばいえるのだけれど。
 私は、この感動は「詩」ではなく「散文」だと思った。「事実」を「事実」のまま、何の変形も加えずに積み重ね、その結果として、いままで知らなかったことにたどりつく。「結論」が非常に大切なものとして響いてくる。
 でもねえ。
 この感動は、小池の詩の「結末なんかどうでもいい」という感動とは正反対のものなのだ。

 こういうことは、読者の好き嫌いだから、私が口を挟むべきことではないが、小池と松下との、まったく違うことばの動き、「詩」の差し出し方に、私はちょっとびっくりした。
 そして、小池の「詩」への大転換、そのときの「踏み台」のようなものが「道を曲がったとき 山を見たこと」とう実に平凡なことばであったことを同時に思い出すのだ。「平凡なことば」のなかへ踏み込む力が詩を生み出す第一歩なのだ。もしかするとその「強さ(力)」こそが詩なのではないかとも思う。小池の詩を長々と引用したが、そらで思い出すことができるのは「道を曲がったとき 山を見たこと」という、いわば「無意味」な一行なのだから。
 「無意味」の定義はむずかしいが、松下の最終行「たまらなくなってきたんですよ」と比較すると、わかるものがある。小池の「道を曲がったとき 山を見たこと」は非情なのだ。詩は非情の先にある、非情をくぐりぬけたときにあらわれる。人情はストーリーになる。






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ウッディ・アレン監督「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(★★★+★)

2020-07-12 13:31:51 | 映画
ウッディ・アレン監督「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」(★★★+★)

監督 ウッディ・アレン 出演 エル・ファニング、ティモシー・シャラメ

 最近のウッディ・アレンは弱い光のなかで、輝いたり陰ったりする「人肌(女性の肌)」の変化に執着している。この映画でも、最初からそういうシーンで始まる。大学のキャンパスでエル・ファニングとティモシー・シャラメが話をする。夕方の色づいた光がエル・ファニングを染め上げる。金髪がやわらかに輝き、ほほが朱色(黄金?)にそまる。エル・ファニングが美しいのか、夕暮れの光が美しいのか、判断に迷う。そして、迷っている瞬間、私は、私がウッディ・アレンになっていると感じる。
 言い直すと。
 もしエル・ファニングが魅力的に見えたとしても、それは彼女自身の力によるものではない。ウディ・アレンの演出、特に光の演出によって、この世を超えた存在になっているのである、とウディ・アレンは言っているのだ。
 ここではウディ・アレンは「自己分裂」していることになる。
 ふつうはミューズに出会い、ミューズに引かれて、さまざまな活動が始まる。しかし、ウディ・アレンの場合、それは「女性」であるだけではだめなのだ。その「女性」をウディ・アレンが求める光のなかに存在させることで、彼女はミューズに生まれ変わるのだ。ミューズがウディ・アレンを育てるのではなく、女性をミューズに生まれ変わらせることで、ウディ・アレンの創作欲は動き始めるのだ。
 ミューズによってウディ・アレンは生きているということを装い、ウディ・アレンは次々にミューズを取り換えていく。ウディ・アレンにとってミューズは突然やってくるのではなく、ウディ・アレンの「創作」でもある。同じミューズを使っていたら「自己模倣」になる。「自己模倣」を乗り越えるためには、次々にミューズを「更新」しなければならない。
 そういうことが、非常によくわかる映画である。ダイアン・キートンからはじまり、エル・ファニングにたどりつくまでの「女性の変遷」を見ていると、とくにそう感じる。
 ウディ・アレンの「好み」は「成熟」というよりは、「未成熟=未完成」である。「ブルー・ジャスミン」のケイト・ブランシェットさえ、「未完成」を生きている。「わがまま」を貫いている。(ダイアン・キートンは、唯一、未成熟とは無縁の女性に見えるが、未成熟を感じさせないことがウディ・アレンには耐えられず破綻したのかもしれないし、そこで破綻したからこそウディ・アレンの女性遍歴=ミューズ探し、ミューズづくりがはじまったかのもしれない。ウディ・アレンには「未熟、未成熟」と「純粋」のあいだには大きな違いがあるということが明確に認識されていないのかもしれない。「未成熟」なら「純粋」と思い込んでいる感じがある。)

 ということを書いてもしようがないが。

 私は、エル・ファニングが生理的に嫌いである。
 こう書き始めた方がよかったかもしれない。
 なにが嫌いか。「童顔」が嫌いである。「童顔」は「未成熟」とは違い「未熟」である。まだ「成熟」に手がかかっていない。
 でも、これは考えようによっては、「成」の気配さえないのだから、どんなふうにでも育てられる。変化させることができるということかもしれない。それは、逆に言えば、手を着けたいけれど、どこから手をつけていいかわからないということでもある。
 この映画のなかでは、恋人のティモシー・シャラメのほかに三人の「成熟」した男が出てくる。彼らは、ティモシー・シャラメに対して、どうしていいか、さっぱりわからない。したいことが「ある」のだけれど、それを具体化できない。ディエゴ・ルナは自宅に誘い込むが、スカーレット・ヨハンセンが帰って来て、したいことができない。自分の「未熟」をさらけだしてしまう。
 ウディ・アレン(ティモシー・シャラメ)も、結局、何もできない。
 自分のしたいことをエル・ファニングに明確に伝えるが、エル・ファニングは目の前にあらわれる「魅力」に右往左往して、エル・ファニングを「支えている」ティモシー・シャラメを、ほんとうに「つっかえ棒」のように利用しているだけである。そして、その自覚もない。
 ここには、どうすこともできない「分裂」がある。
 そして、この分裂は、最初に書いた「ウディ・アレンの自己分裂」に、そのまま重なる。
 ティモシー・シャラメはエル・ファニングに魅力を感じるが、それはティモシー・シャラメの求めている「陰影」を背負ったときのティモシー・シャラメなのだ。セントラル・パークの馬車のなかで、ティモシー・シャラメは「街路の騒音と、部屋の中の沈黙」というようなことを言う。だれのことばだろうか。私は知らない。それに対して、その出典を「シェイクスピアね」とエル・ファニングが言う。このとき、ティモシー・シャラメは、エル・ファニングに「陰影」を与えることは絶対に無理だと悟る。エル・ファニングは「陰影」を生きる人間ではないのだ。

 「陰影」好みなんて、スノッブだ。全体的な美は「無垢」にある。でも、「無垢」のままは嫌い。「陰影」を与えたい(自分の好みにしたい)、というのは「かなわぬ恋」である。
 この映画は、エル・ファニングとティモシー・シャラメを描いているが、ふたりがいっしょに行動するシーンは非常に少ない。「恋」は、「ミューズはほんとうにいるのか」というストーリーのための「枠組み」に過ぎない。そのことも、「かなわぬ恋」を雄弁に語っている。
 ウディ・アレンの映画を見ると、私はたいてい登場人物が大好きになるが、この映画ではかろうじてジュード・ロウが年をとっていい男になったなあと感じたくらいで、ほかの登場人物(役者)には「共感」というものを感じなかった。「凡作」だと思った。しかし、ウディ・アレンとミューズとの関係がとてもよくわかった気がしたので★をひとつ追加した。
(ユナイテッドシネマ・キャナルシティ、スクリーン3、2020年07月12日)


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谷川俊太郎「テーブルの上のリンゴ」

2020-07-11 12:02:01 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「テーブルの上のリンゴ」(「みらいらん」6、2020年07月5日発行)

 谷川俊太郎「テーブルの上のリンゴ」。全行引用する。

テーブルの上にリンゴが一個のっている
絵にも描けるし写真にも撮れる
言葉でそれを伝えることもできる
でもずっとそれが気になっています

テーブルの上にリンゴが一個のっている
その事実が一体どういうことなのか
私にはそれがいまだによくわからない
形も色もそして味もよく知っているし
リンゴの種類や栽培方法も本で読んだ
でもテーブルの上の一個のリンゴは
見ているとわからなくなるのです
わからないのにそれがあるのは確かで
わからないのにそれは例えようもなく美しく
それがあるのが不思議でなりません

テーブルの上にリンゴが一個のっている
そのことがわからないのがむしろ快い
わかるようにしたいとも思っていません
わかってしまうと失うものがあるに違いない

地図でしか知らない海の向こうの島の道を
どこへ行くのかおんぼろトラックが走っていく
運転しているのは化粧っ気のない若い娘
荷台にはシードルにするリンゴが満載

テーブルの上にリンゴが一個のっていた
それが果実である事実は真実でした
言葉によってそれがどこまで拡散するとしても
テーブルの上に一個のリンゴはのっている

 書きたいことがある。でも、何を書いていいかわからない。谷川の詩にならって書けば、開いた本のページに詩が一篇書かれている。全部、知っていることばだ。声に出して読むこともできるし、文字を書き写すこともできる。電話をかけて、遠い友に読んで聞かせることもできる。でも、ずっとそれが気になっている。全部知っていることばなのに、見ているとわからなくなるのです。
 全部知っていることばというだけではない。四連目。起承転結の「転」の部分だが、「地図でしか知らない海の向こうの島」という想像力を誘うことばは谷川の「定型」である。「おんぼろとラック」も「化粧っ気のない若い娘」も「定型」である。いつも行っている島、最新のスポーツカー、助手席に一個のリンゴをのせて、イタリア帰りのちょい悪おやじが車を走らせているわけではない。「見慣れた」谷川のことばが、見慣れた形で「転」をつくっている。
 「結」では「それが果実である事実は真実でした」のことばあそびが少し重い。そして、その「重さ」をひきずって「言葉によってそれがどこまで拡散するとしても」という一行は、なんとも不思議な論理性をかかえていて、最終連の四行のなかで、「転」になっている。最終連の四行が、ひとつの「連」であると同時に、一行ずつ独立して「起承転結」を演じていることを教えてくれる。
 しかし。
 それよりも何よりも奇妙なのは二連目である。
 谷川は、私の印象では、きわめて「形式性」が強い詩人である。「起承転結」を踏まえるということもその一つだが、連をつくるとき、その連の行数はそんなに変化しない。この詩の場合、二連目をのぞくと各連は四行ず構成されている。これまでの谷川の詩だったら、二連目も四行で構成しただろう。なぜ、この連だけ十行もあるのか。
 詩を書き慣れている谷川なら、これを四行に収めることができるだろう。なぜ四行にしなかったのか。
 できなかったのか。
 まさか。
 何が起きたのか。

テーブルの上にリンゴが一個のっている

 この一行は、書き出しの一行と同じである。そして三連目、五連目(最終連)の一行目と同じである。詩のリズム(論理の定型)を支えている。

その事実が一体どういうことなのか
私にはそれがいまだによくわからない

 は一連目の「不思議」と「気になっています」の言い直しである。

形も色もそして味もよく知っているし
リンゴの種類や栽培方法も本で読んだ

 これは、一連目の「絵にも描けるし写真にも撮れる/言葉でそれを伝えることもできる」の言い直しである。変奏である。
 そういう意味では、ここまでは一連目(起)を受けた「承」そのものである。ことばを変えて、すこしずらした。
 この「承」を、谷川はもう一度「承」の形で、ひとつの連のなかで展開している。二連目は「承1」「承2」という形になっている。(そしてその「境」に「本で読んだ」という「転」が踏み台のようにしてはいってきているのだが、このことを書いていると省略。)
 それが証拠に、「承2」のはじまりは

でもテーブルの上の一個のリンゴは

 と、それぞれの連の書き出しにある「テーブ(の上)」「一個」「リンゴ」を引き継いでいる。しかし、そこには「のっている」は省略されている。そのかわりに、一連目の最後の行にあった「でも」ということばが入って来ている。
 ということは。
 この行から始まる五行は、一連目の「でもずっとそれが気になっています」を言い直したものなのだ。
 「承1」は一連目の一行目から三行目まで、「承2」は一連目の最終行を受け継いで、その「変奏」を展開していることになる。
 「気になる」を、どう言い直しているのか。

見ているとわからなくなるのです

 「わからない」ではなく「わからなくなる」。「なる」という「動き」がくわわっている。「わからない」は「状態」だが、わからなく「なる」は変化である。わかっていたはずのことが、わからなく「なる」。
 「気になる」も変化かもしれない。「気になる(気にする)」は「わからない」同じように「状態」であるけれど、「気にならなかったものが、気になる」と言い直せば「なる」が明確に見えてくる。
 一連目がさらりと書かれているのでわかりにくいが、

でもずっとそれが気になっています

 は、

それが気になってきました。そして、その気になったという状態がつづいています

 ということなのだ。
 一連目の隠された「なる」を、別の形でもっとていねいに言おうとしているのが二連目なのだ。
 そして、この「なる」は二連目の最終行でもっと不思議な形に変化する。

それがあるのが不思議でなりません

 これは簡単にいいなおせば「不思議です」ということ。「なりません」は「ない」を変形させたことばであり「なる」とは直接関係がないかもしれない。つまり、「不思議でなりません」は「不思議であります」ということ。
 しかし、谷川は「ある」ではなく「なる」につながる形でことばを動かしたかったのだろう。「なる」につながる「な」という音をふくんだことばを書きたかったのだろう。

 私は詩を読むとき、詩には必ずキーワードがあると考える。言い換えのきかないことば。言い換えたいけれど、あまりにも「肉体(思想)」になりきってしまっているので、無意識に動いてしまう「必然」のようなもの。
 この詩の場合、それが「なる」である。

見ているとわからなくなるのです

 その一行のなかに、一回だけでてきた「なる」。
 そして、「変奏」される「なる」。

 「なる」は「成る」である。しかしまた「生る(ある)」でもあるだろう。ハムレットではないが、「to be or not to be」の「be」が「なる」であり「ある(生る)」であるからこそ、「生きるべきか、死ぬべきか」「なすべきか、なさざるべきか」にも変奏される。そして、そのとき「なる」は「なす(為す)」であり「生す(なす)」であり、この「なす(為す)」は「する」ということ、「動詞の主体となること」、読み直すと、最終連の、この一行がくっきりと見えてくる。

言葉によってそれがどこまで拡散するとしても

 「拡散する」に「する」が隠れている。そしてそれは「なる」であり、「生まれる」なのだ。ことばを拡散していくとき、そのことばといっしょに、谷川の考えていたことが「生まれる」のだ。
 谷川は、ことばといっしょに何かを「生み出している」のだ。「生む」ということが、谷川にとって詩を書くことなのだ。

 この詩を、私は特別すぐれている作品とは思わない。形が不細工だし、読んだ瞬間に、その不細工さにつまずいてしまう。
 けれど、形の不細工さだけにつまずいたのか、ということを見つめなおすと違うものが見えてくる。そういう不思議さがあり、不思議さにつきあってみると、谷川にとってことばとはなにか、という思想(肉体)のようなものが見えてくる。
 奇妙ないい方になるが、とても「貴重な」一篇である。



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岡田衣代『パールグレイの瞑想』

2020-07-10 09:36:54 | 詩集


岡田衣代『パールグレイの瞑想』(書肆侃侃房、2020年07月05日発行)

 岡田衣代『パールグレイの瞑想』は歌集。書肆侃侃房は新人歌人の歌集を次々に出版している。私は若い人のことばの軽いリズムには何かついてけないものがある。ページを開く前に、ちょっと身構えた。しかし、

口笛が呼んでいるからうす青い朝露くらいに光ってあげる

コカ・コーラの缶のへこみにきざし来る感覚今日も尖っているか

 そんなに軽くない。「光ってあげる」というようなことばさえ、妙な重さがある。「口笛が呼んでいる」も、軽いというよりも今の若い人は知らないだろう「日活青春映画」、小林明がやせていた時代のことばのような「影」がある。「コカ・コーラ」という律儀な表記にも、ふーん、と思って読んでしまう。

いま少しわたしはここにいるだろう芽吹きしずかなしずかななずな

 この後半のリズムなども、私はとても自然な感じでうけとめる。「ず」の繰り返しと「な」の不規則性が、音楽的に響く。

こいしいと唇(くち)にのせたら恋しさはカシューナッツのように曲がって

 「曲がって」は「曲がってしまった」なのか「曲がっていた」なのか。この判断を読者にまかせる口調もおもしろいが、「こいしい」を「恋しさ」と言い換えるときの、「恋しさ」に不思議な静けさがある。S音の追加、母音の「い」から「あ」への開放の変化。それが「カシューナッツ」の音の静かさにつながっていく。カシューナッツって、こんなに静かな音だっただろうか、と私はびっくりしてしまった。
 どの音もそうだが、「口先」の軽さではなく、もっと奥の「肉体」を通り抜けてくる感じがする。「音」に太さがある。「声」にしたとこがあることばを書いているのだとわかる。「頭」で書いているのではなく、「声」で書いている、という印象がある。
 それは、

これもまた短歌なんです「     」律儀な人にはなんにも見えぬ

 という「頭」で書いといわれても反論できないような一首にも感じる。「なんです」「律儀な」「なんにも」と繰り返された「な」が「見えぬ」の「ぬ」(な行)におさまっていく感じ。「律儀」という濁音を含んだ響き(しずかななずな、に通じる)、加速し失踪していくことばを押しとどめるような響きが、書かれなかったことば、ことばにならないことばがある、ということを納得させる。「頭」では、そのことばを埋めることはできないが、「肉体」はこの一首の響きにあわせて「肉体」のなかに、ことばにならないものがあることを実感させる。

 不思議だなあ、どうしてなんだろう。あとがきには「第四歌集」と書いてある。そんなに若い人ではないのか、と思ったら、略歴に「1940年生まれ」とある。誤植の可能性もあるが、ほんとうに1940年生まれなのかもしれない、とも思った。1940年生まれならば、歌集をつらぬく「装い」(ことばの自由をもとめる動き)に驚くが、音の確かさは納得がゆく。
 「頭」と「肉体」の調和が、とても自然だ。




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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(76)

2020-07-09 10:22:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (水よ)

空へとどこうとして
急に無一文になつて地獄へ落下する水よ

 「無一文」と「地獄」が唐突に出てくる。
 「水」が比喩なのか、「無一文/地獄」が比喩なのか。
 「地上」と言わず「地獄」と言うところに、これを書いたときの嵯峨の壮絶さがあらわれている。
 「急に」ということばこそ書きたかったのかもしれない。「急に」だけは比喩ではなく、実感そのものだ。

 たぶん「思想(肉体)」は特別なことば(意図して書かれた比喩)に表れるのではなく、だれもがつかうことばに無意識にあらわれるものなのだ。





*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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加藤 治郎#自由律つぶやき

2020-07-09 08:36:35 | 詩(雑誌・同人誌)
加藤 治郎がフェイスブックで「#自由律つぶやき」を書いている。
「自由律俳句」と主張しているわけではないのだが、「自由律句」として、私は読んでいる。
7月9日の作品は、

地下鉄混んでいる大雨の朝

あ、これいいなあ。
「大雨の朝」の「朝」がいい。
どこまで「特定」するかというのは人の好みだろうけれど、「大雨の日」では見えてくる情景がまったく違う。「大雨の夕方(帰宅時間)」「大雨の夜」とことばを動かしてみると、「朝」がいかに的確かということがわかる。
しかし、その「的確性」を強調していない。それこそ「つぶやき」のように、自然にもれてきたもののように書かれている。
これが、この句を「自由」にしている。おもしろくしている。

フェイスブックには「シェアマーク」がなかったのだが、コピー&ペーストで、強引に「シェア」してしまう。
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ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督「その手に触れるまで」(★★★★★)

2020-07-08 15:43:01 | 映画
ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督「その手に触れるまで」(★★★★★)

監督 ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ 出演 イディル・ベン・アディ

 非常に見づらい映画である。特に私のように視力の弱い人間は、船に酔ったような感じになる。画面が揺れるのだ。そしてその揺れは、たとえば「仁義なき戦い」のような手持ちカメラが走り回る揺れではなく、ふつうの映画なら固定して撮るシーンで揺れるのだ。たとえば少年がイスラムの礼拝をする。その肉体を追うようにしてカメラが動く。カメラを固定しておいて、その「フレーム(枠)」のなかで少年がひざまずき、体を投げ出すという動きを撮った方が、観客には少年の動きがわかりやすい。しかし、カメラは固定されていない。どこに「視点」を定めて動いているのかもつかみにくい。ただ、少年に密着するように動いているということだけがわかる。これが私の知っている少年(人間)ならば、こういうとらえ方をしていても「不安」にも「気持ち悪い」という状態にもならない。知っている人だったら、本の少しの肉体の動き、手や指の動きだけでも、何かを感じる。でも、始めてみる人間、知らない人間の動きを、こんなふうに撮られて、それを見せつけられても困惑する。少年のことは何も知らないのに……と思ってしまうのである。細部の動きから、少年の「内面」を感じ取れと言われても、そんなものはわかるはずがない。しかし、そのわかるはずがないものを、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督は、「わかってやれ」と押しつけてくる。いや、そうではなくて、ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督も少年がわからずに、ただわかりたいと思い、そばにいつづけるだけなのかもしれない。
 この「そばにいる」(いっしょにいる)という感覚が「気持ち悪い」までに濃厚になるシーンが、少年が出席している「放課後講座」である。あるときアラビア語(?)を歌をとおして教えるのはいいことか、コーランに反することがというテーマにした話しあいが開かれる。子どもたちの両親も参加している。そこで何人かが発言する。その何人かをカメラは発言者が変わるたびにずるずるっと動いて捕らえる。一人ずつをカメラを切り換えて映し出すわけではない。そうすると発言者と発言者のあいだにいる人までカメラに映ってしまう。もし、そこに私がいたら(つまり「肉眼」でそういう場を目撃したら)、私は発言者と発言者の「あいだ」の人々を意識から省略して発言者だけを見つめる。見ていても「脳」のなかで見なかったことにする。ところが、カメラにはそういう「省略」ができない。そこにいる人を全部映し出す。不必要な(?)人も「つながり」のなかに入ってきて、その「つながりのなさ」があるにもかかわらず、そこにいるということが非常に気持ち悪い感じで目眩を引き起こすのだ。人がそばにいること、個人が個人では存在しないことというのは、ある意味で「気持ち悪い」ことなのだ。私たちは(私だけか)、たぶん、人がいても「いない」という処理をして、日常を生きている。
 この映画の主人公は、しかし、その「そばにだれかがいるけれど、それはいない」という「処理」ができない。自分とは違う考えの人がいる、ということを受け入れることができない。そばにいていいのは、自分と同じ考えの人間だけだ。世界は自分と同じ考えの人間で構成されていなければいけない。そう思っている。そして、その少年の意識が私に乗り移っているから、放課後講座の討論会が「気持ち悪い」ものとして肉体に迫ってくるのだ。そして、ここから考え直すと、この映画のカメラは「少年」そのものなのだ。「少年」の見ている世界を「少年」が見たまま、再現しているのだ。
 手を洗い、口をすすぎ、身を清めるシーンが何度も出てくるが、その時の映像に少年の顔が入り込んでいたとしても、それは「客観」ではなく、少年が見た「主観」からの世界である。手を洗うシーンでは、手しか映らないから、そのことがよくわかる。少年は真剣に「手」の汚れが落ちていくのを見ているのだ。
 少年に触れていいのは、そして少年が触れていいのは、少年と同じ「清らか」な存在でなければいけない。少年と同じように「神」と一体になろうとしている人間でなくてはならない。それ以外の人間は、「いてはいけない」。共存など、ありえない。少年と違う考え(違う神を信じる)人間は、いてはいけない。もしいっしょにいたいなら、同じ考え(同じ神)を持つべきだ。
 これを象徴するのが、少女との恋である。少女は少年に触れる。キスをする。そのとき少年は少女にイスラム教徒になれと迫る。それができないなら、いっしょにいることはできないと突き放す。
 さて。
 ここで、私は悩む。
 この少年に、私はどこまで付き合いつづけることができる。少年が何を考えているかわからない。頭では「狂信的」なイスラム教徒になっている、ということは理解できるが、だんだん、少年は狂信的なイスラム教徒なのだと頭で処理することで、こころと肉体が少年から離れて言っていること気がつく。つまり、「冷淡」な気持ちでストーリーを追うことになる。「結末はどうなるの?」と思ってしまう。
 と、突然、思いがけない「できごと」が起きる。
 少年は、放課後教室の女性の先生を「背信教徒」と思っている。なんといっても、先生の新しい恋人はユダヤ教徒なのだ。そして殺害することが正しいことだと思っている。実際に殺害しようとして失敗し、少年院に入る。少女との濃いの跡、作業で通っている農場からの帰り道、少年は車から脱走し、もう一度女性教師を殺そうとする。しかし、女性教師の家に忍び込もうとしたとき、つかんだ二階の窓が壊れ、少年は地面に落ちる。背中を強打して、動けない。死んでしまう、助かりたいと思う。必死になって、庭を仰向けのまま這ってゆく。女性教師を殺すはずの「凶器」の金具で、窓格子を叩き助けを求める。女教師が出てきて、少年に気づく。「救急車を呼んでほしいか」と尋ねる。少年は、うなずく。少年は女性教師に手を伸ばし、その手に触れる。それまで、別れの握手さえ拒んでいた女性教師の手に触れる。
 何が起きたのか。死にたくなくて、少年は必死だったといってしまえばそれまでだが、私は、このラストシーンに、非常に衝撃を受けた。
 だれかといっしょに生きる(社会)とは、「助けを求める」ことなのだ。「助けを求めることが許される」のが社会なのだ。少年は、それまで誰にも助けを求めてこなかった。神にさえ、助けを求めていない。正しいことをすれば(背信教徒を殺害すれば)、神は少年を受け入れてくるとは考えても、それは神が助けてくれるということとは違う。自分の肉体を傷めることで、少年は初めて「助けを求めた」。それまで少年は「助けられてきた」けれど、他人に助けを求めたことはなかった。でも、人間とは助けを求めるものなのだ。
 握手をする(他人に触れる)は、「私はあなたに危害を加えません」、あるいは「私はあなたを助けます」という意味をあらわすだけではなく、「何かあったら私を助けてください」ということを含んでいるのだ。もちろん、「助けてください」を意識して握手をする人はないが、握手をしたことがある相手なら、ひとは助けの手を差し伸べる。「助けを求めてもいい」というのが社会なのだ。
 このことは、カメラの動きというか、映像そのものからも伝わってくる。
 この時のカメラ、映像は、それまでのものとはまったく違う。仰向けで這っていく少年に近づき、その動きにあわせて移動するという点では同じだ。そして、少年が何をめざしているかが最初のうちはわからないという点でも同じだ。少年に何が見えているのかがわからない。けれど、少年がポケットに隠し持っていた凶器を取り出し、窓の格子を叩いたときから、彼のやっていること、「助けを求めていること」がくっきりとわかる。そして、女性教師の手に触れたときの「安心感」がくっきりとわかる。
 ああ、よかった、と思う。
 私は少年を誤解しているかもしれない。監督が描きたかったものを理解していないかもしれない。しかし、この「ああ、よかった」という気持ちの晴れ方は、めったにない。いわゆるハッピーエンドではないけれど、心底、「ああ、よかった」と思う。このときカメラは少年に寄り添っているのではなく、少年そのものになっていると実感する。カメラと主人公と、見ている観客が「一体」になる。こういう映画を「名作」という。

(KBCシネマ2、2020年07月08日)


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館路子「夜半、雨の降る中へ送り出す」、田原「無題」

2020-07-08 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
館路子「夜半、雨の降る中へ送り出す」、田原「無題」(「北方文学」81、2020年06月30日発行)

 館路子「夜半、雨の降る中へ送り出す」は「正体不明」のものについて書いている。

夜半の
雨音の籠もる部屋の片隅に
病葉とおぼしきものが一枚
どこから吹き込んだものかと訝りつつ
拾い上げようとして身をかがめると
奇妙なことに
傍らの子猫がひどく警戒する風情でくっくっと鳴く
くっくっ
しかし鳴いているのは子猫ではなくて
朽ちたような葉の
眼も口許も見当たらない肉化した(ような)一枚が
音とも声とも推測しがたく身をふるわせて鳴いているのだ
進化の途次か退化のそれか
ともかく異形
摘まみ上げようとした手をとめて
思わず古語でつぶやく(口籠もりながら)
ただの生物ではあるまじ

 括弧内に閉じこめられるかたちで補われている(ような)(口籠もりながら)は何だろうか。それこそ思考の「口籠もり」か。そうではない、と思う。これは、何かに頼っているのだ。何か、とは「ことば」だ。それも「自分のことば」というより、「他人のことば」とも言うべき、「ことばの力」に頼っているのだ。
 それは「古語」の力。自分から進んでそれを口にするのではなく、自分のことばではたどりつけない何かがあって、それを「古語」に頼んで、いま、ことばにするのだ。
 (ような)は、古語というほどでもない。しかし、「肉化した一枚」と「暗喩」にしてしまうと何かが違う。「ような」という「直喩」なら許されるかもしれない。そういう意識が動いているように感じられる。「口籠もる」のは、それが館の「肉体のことば」ではなく、「知識のことば」だからだろう。いや、「知恵のことば」と言えばいいか。目で(頭で)読んで理解していることばではなく、「耳」で聞いて、つまり暮らしのなかで「こう言うんだったな」と思い出している感じ。両親か、祖父母か知らないが、館の肉親のだれかが「……ではあるまじ」と言っているのを聞いたことがある。その「記憶」のことば。昔の人(?)は、こういうとき「……ではあるまじ」と言うことで、その存在が存在として「いま/ここ」にあらわれてくるのを避けていた。存在を「ことば」の領域にとどめておいて、どこかへ放り出してしまう。正確に言い当てないことで、自分とは無関係にしてしまう。それが「……ではあるまじ」なのだろう。
 ここでは館は、過去からつづいている「肉体の力(いのちの力)」というものに、「古語」で触れ、それにすがっている。梅爾(また、この詩人を出してしまうが)が「一億年」と呼んでいる「肉体化された時間」に触れているのだと思う。
 「一億年」と「デジタル」の表現では言ってしまえるが、しかし「一億年」がどんな時間であるかを、梅爾は知らないだろう。知らないけれど、知ってると「肉体」でなら言える。それが「女・性(おんな・せい)」なのだと思う。
 この「知らないけれど知っている一億年」のようなものを、館は、「解読されない言語」「伝わって来ない言葉」と言っているように思う。

解読されない言語がまだ世界には在って
その一種で嘆いているようだが
わからない

伝わって来ない言葉に替えて
感情の在り処を読み取らなければなるまい
不安、悲しみ、恐怖感など
かたちにならないものがその身体の中に渦巻いてはいないか
くっくっ

 「わからない」けれど、「わからない」ということ(ことば)を媒介させて、それを「肉体(館は、身体と書いている)」で引き受ける。自分の「肉体」のなかに引き受ける。
 もし、館が「くっくっ」という声を漏らすとしたら、それはどういうときか。「ただの生物」ではなく、「不安、悲しみ、恐怖感」を抱え込んでいる「肉体」としての存在なのだ。こう、想像できるのは、館に「くっくっ」に似た声を発したことがあるからだ。ことばにならない「不安、悲しみ、恐怖感」をかかえて「くっくっ」。それは、館の「肉体」のなかで渦巻いている。そういう「時間」を館は知っている。
 そしてそれは館が知っているだけではなく、両親や祖父母(古語につながるいのち)が、あるとき、館の前で見せた「肉体の姿(いのちの姿)」そのものだったのだろう。館は、それを「古語」を引き寄せるようにして、館の「祖先の肉体」から引き寄せ、引き継ぎ、そうすることで夜の不思議な訪問者と和解しようとしているように感じられる。
 「ただの生物ではあるまじ」の「あるまじ」は「ことば=意味」というよりも「声」なのだ。「声」を発することで、「声」の力で、不吉な「肉体(いのち)」を避けようとする「いのり」のようなものだ。
 「いのり」と思わず書いてしまうのは、「私は、おまえを殺さない。逃がす。だから、私を助けてくれ」と言っているように聞こえるからだ。
 そんなことを思いながら、詩を読み進むと、最後にこんなことばが出てくる。

雨の中へ、街路灯のあかりの果てに拡がる闇へ
気味の悪い思いを消せないままに送り出してしまった
爾来、遭遇することはない
が、気懸かりなほど寂しいいのちのひとつ(だった)

 「いのち」。館が「肉体」で引き受けたのは「いのち」だったのだ。そして、「だった」とはいいながら、それは「過去形」になってしまっているわけではない。括弧で隠しているように、過去だけれど、いつでも「いま」になって噴出してくる何かなのだ。「……ではあるまじ」という「古語」のように「過去」だけれど、「過去」にとどまり続けているのではなく、ふいに「いのち/肉体」が揺さぶられるようなときがあれば、また「いま」となってあらわれるものなのだ。



 「ことば」と「肉体」の、この「時間を越える交渉」を田原は「無題」の後半で、こう書いている。館が「古語」と呼んでいるものを、田原は「母語」と呼んでいる。

10
漢語は
あなたの歴史の原形
和語は
あなたの記憶の痛み

11
一篇一篇の詩は
母語に昇ってくる地平線
起点から
終りのない終点へと延びてゆく

 この「無題」には「高銀に」というサブタイトルがついている。私は「高銀」という人を知らないのだが、「10」の部分から想像すると、韓国の人だろう。詩のなかには「漢江」という地名も(川の名前)も出てくるから。その人は、韓国語を生きると同時に、漢語の精神を引き継ぎ、日本語も身につけている。(身につけさせられた、の方が正しいかもしれない。)しかし、「母語」はやはり韓国語なのだ。「母語」を「肉体」で引き継ぐとき、高銀は「終りのない終点」を生きる。ことばの運動が、どこまでもつづいていく。「一億年」と言わないのが、たぶん、田原の「男・性(おとこ・せい)」というものであり、それを田原は高銀のことばにも感じているのだろう。
 で。
 ここから、私は飛躍するのだが、「肉体」をどう「ことば」と関係づけるかというとき、男と女は、やはり違うのだと思う。


灯りが
馬の体内で明るく灯る
その蹄をふるう嘶きは
あなたの詩篇に響いている

 「馬」という明確な動物(昔は生活に密着していた)の「体」が象徴のようにして動いている。こういう象徴の作り方は、田原にとっては「古語(古典)」というよりも「母語」の動きなのだ。田原にとって「肉体」は「象徴」を引き受けるものなのだ。「象徴」を引き受けることで「ことば」と合体するものなのだろう。
 だから、


古木にかけられた空っぽの巣は
象徴性が失われ
鳥の帰りを待っている
漢江岸辺の前哨屯所が
水の流れを見送っている

 卵(あるいは雛)のいない空っぽの巣は、「象徴性」を持たない。そこに「いのち」がないからだ。
 人間と動物の「肉体」を「象徴」を手がかりにして結びつけ、漢詩(母語)と一体になるように、田原は田原と高銀の「肉体」を「ことば」に象徴化することで結びつけ、一体になる。象徴をつかい「肉体」を表現するという「母語(漢詩)」の伝統の中で一体化する。


匿名の闇討ちが矢を突き立てるのは
肉体ではなく
良識なのだ
時間の鏡の中で
嫉妬と騙し討ちは
かならずその正体を現すのだ

 「良識」とは「ことば」である。「正体」とは「ことば」である。田原は「ことばの肉体」を引き受け、引き継ぐ詩人である。ことばの肉体は象徴となり、「母語に昇ってくる地平線」となる。
 そして、

12
あらゆる川は一つの方向へ流れる
あなたが見守る漢江だけは
絶えることがなく
どんなところへも流れていく

 この最終連は象徴的だ。梅爾や館がさまざまな「いのち/肉体」を平然と受け入れることで「一億年」生きるのに対して、田原、高銀は「ことば/肉体」を引き受けることで「時間」というよりも「空間」的に越境していくのである。ここには、日本語で詩を書く田原(おそらく高銀も)の意識が無意識に反映しているのかもしれないが、とてもおもしろく感じた。
 ここに「見守る」という「ことば」があることにも注目した。「見守る」とき、梅爾は自分自身ではなくなって、他者に寄り添い動いていくが、ここに描かれている高銀はことばを「一つの方向へ流す」というところまでいっしょにいるだけで、それから先は「流れ」にまかせている。寄り添い、いっしょに動いていくわけではない。
 「終りのない終点」まで動いていくのは、あくまで「ことば」なのだ。「母語」のなかに生きている「いのち」なのだ。これは同時に、田原の生き方なのだ。





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山本育夫書下し詩集「不穏(ふおん)」十八篇(2)

2020-07-07 17:49:25 | 詩集
山本育夫書下し詩集「不穏(ふおん)」十八篇(2)(「植物誌」47、2020年06月22日発行)

 梅爾のことばが「女の肉体(ことば/思想)」だとすると、山本育夫は、もうどうしようもないくらい男だ。「見る」という動詞は、どんなふうに動くか。

02こだま

事務所の近くの
戦災で焼け残ったような
一角にある中華屋の二階の
手すりごしに
ぼくを見ている
見上げているぼくが

 二階にいるだれかが「ぼく」に見えたのか。あるいは路上から見上げているだれかが「ぼく」に見えたのか。「見る」という動詞を共有し、「ぼく」が「ぼく」に分裂しているのか、「ぼく」が「ぼく」に統合されようとしているのか。どっちが「ほんとうのぼく」であり、どっちが「もうひとりのぼく」なのか。主観がどちらで客観がどちらなのか。
 このことは、その瞬間に、先に思ったことが「ほんとう」であり、あとで思ったことはほんとうを確かめるための「捏造」である。ことばというのは「ほんとう」であるということを主張するために、何でも捏造してしまう。後出しじゃんけんのように、どんどん増殖して、自己正当化をする。これが「男・性(おとこ・せい)」というものだ。
 と書いても、まあ、抽象にすぎないから……。

おーいと二階に向かって
声をかけると
おーいとこだまがかえってくる

そのあいだに
大急ぎで二階のぼくは
見上げているぼくに
もどってくる

 これは、子どものときに言う、こんな「ことば/論理」に似ている。「雨に濡れないためには、雨が降ってくる前に雨粒をよければいいのだ」。言ったことがあるでしょ? だれかに自慢して。そんなことは、できないのに。そして、できないのに、そんなふうに「言える」ことを発見して、その発見がうれしくて。これを簡単に言い直すと、「ことば」はどんな不可能(嘘)でも、「論理のほんとう」として言うことができるということ。確かに雨は空から降ってくる。そのとき時間がかかる。そうであるなら、降ってくる時間より早く雨粒の下を通過すれば濡れない。これは「論理的」である。しかし、「一方的」な論理である。雨に言わせれば、子どもが走るよりも早く落ちれば子どもは濡れるし、何よりも子どもは一人なのに雨は「雨粒」といいながらひとつではない。子どもの論理は、単に「論理」に過ぎなくて、そこにはどんな「事実」もないのである。
 声が地上から二階に届くまでには、確かに時間がかかる。さらにその声を聞いて「こだま」か返事か知らないが、声が帰ってくるまでには時間がかかる。その間に「ぼく」が地上と二階を往復すれば、山本の書いていることは「実現」できる。
 「ことば」ではね。
 でも「ことば」でできる(捏造できる、嘘をつける)からといって、それが「事実」になるわけではない。
 で、どうするか。

引き裂かれている
感情があるんだな

 なんとなんと、「ぼく」という「肉体」を「感情」にしてしまう。感情は確かにあるだろう。しかし、それを「肉体」のように「肉体」で確かめた人がいるだろうか。「肉体」のなかにあるから、外からは確かめられないと、ここでもう一度嘘をついてみてもいいけれど、まあ、そんなことはやめておこう。
 言いたいのは、こういうことである。

蹄の跡はにじみ出た水に満たされ              (夢に清渓湖に帰る)

 と梅爾は、発見(蹄の跡に水がにじみ出てくる)を見つめ、それが跡を「満たす」まで見守った。ものの変化によって、自分の発見を「確認」している。「追認している」と言ってもいい。「ことば」で「結論」をつくりあげるのではなく、子どものように新しく生まれたものは、子どものように成長して別なものになる。それは「ことば/論理」の運動ではなく、梅爾を拒絶する「絶対的存在」である。その「絶対的存在」は梅爾のことばをいまは受け入れているが、いつかは叩き壊して違う存在になるかもしれない。どうなるか、わからない。だから、「見守る」なのだ。
 山本は「見守る」ことはしない。「見て」、それが「発見」だとわかると、それを暴走させ、違うものにしてしまう。飛躍したところに「結論」を出現させ、その「結論」によって、それまでの「経過」を超越しようとする。梅爾の場合、「ことば/子ども」が梅爾を超越していくのに対し、山本の場合、山本が「ことば」を超越していく。別の「子ども/ことば」を出現させる。

感情

 それまで書かれていたのは「ぼく」であり、せいぜいが「声」だったが、突然「感情」が、「新しい発見」として提示される。
 こう書くと、山本は怒るかもしれないが、ほら、安倍に似ているでしょ? 「これは、新しい基準です」。それまで言ったことは関係がない。「新しい」何かで、やりなおす。「新しい」と言えば、何でも通用すると思っている。
 しかも、この「感情」は「引き裂かれている」。
 この「引き裂かれている」という「比喩」は、単に「感情」がふたつある、「ぼく」と「もうひとりのぼく」がいる、ということではない。「引き裂かれた/感情」というとき、ひとは「感情」が二つになるのではなく、ひとつの感情が何かによってダメージを受けるという意味であると知っている。好きな人がいる。でも、その人が自分から離れて行ってしまう。そのとき「感情が引き裂かれる」。つまり、それは「分裂」ではなく「痛み」の「比喩」なのだ。主観的「比喩」に過ぎないのに、まるで「客観的事実」として、「分裂」を提示する。
 「ぼく」が体験したことは「感情」のできごとである。「感情」は引き裂かれて「二つ」の感情になっていた。
 このとんでもない「でっちあげ(捏造)」に「引き裂かれている」という「痛み」に通じることばをつかう。「痛み」はだれもが知っている。共感されやすい。受け入れられやすい。
 「抒情病」だな、と私は思う。

 これくらい、女と男は違うのだ。

 もう一篇、引用してみよう。

14残された風景

その風景は男が走り去ったあとの風景だ
だからいまはその風景に男はいないのだが
男の体臭は漂っているかもしれない
なぜならいまその風景から
男は消え去ったばかりだから

体臭の中にコロナはいないのか?
男はどこへ行ったのか?
その風景にはだれもいないので
わからない
残された風景
なのだ
その体臭を嗅(か)ぐ

 「その体臭を嗅ぐ」は走り去った男の体臭を嗅ぐとも読めるし、風景そのものの体臭を嗅ぐとも読める。私は、男の体臭ではなく、風景そのものの体臭(獲得したものか、前から持っていたものかは、あとで考えよう)を嗅ぐと読みたい。
 でも、それは私がいま書きたいことではない。
 山本は、ここでも「発見」にこだわっている。コロナに感染した男がジョギングしていたら、男が走ったあとにはコロナウィルスが空中に漂っている。そういうことは山本が「発見」したことではなく、世間に言われていることだが、これを「体臭」と言い換えることで山本の「発見」にしてしまう。
 そして、そのあとなのだ。
 山本は、その「発見した体臭」にこだわりつづけ、「体臭を嗅ぐ」ということばで「発見」を閉じる。完結させる。これが男の方法なのだ。
 梅爾と比較してみよう。

蹄の跡はにじみ出た水にみたされ
月の光がこうこうと降り注いでいる
小さな鴛鴦は抱き合い眠っている

 梅爾は発見したものを「見守る」。そして見守っているうちに、視界が広がっていく。発見から離れて、世界が広がる。その広がりの中に、梅爾は、彼女の肉体を拒絶して存在しつづける「非情」の絶対性を見ている。「見守る」というのは、優しい行為だが、同時に絶対的非情と共存するための行為なのだ。絶対的非情を受け入れることで、梅爾は、彼女の「肉体」を「開放」してしまう。つまり「宇宙」になり「無限の時間」になる。梅爾が詩の最後で「一億年おまえを見守る」と書いたのは、非常に自然な成り行きなのである。
 「男・性(おとこ・せい)」は、こういう「開放」を生きられない。

 山本の詩について書いているのか、梅爾の詩について語りなおしているのかわからなくなったが、きょうは、こんなことを考えたのだった。






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嵯峨信之『詩集未収録詩篇』を読む(75)

2020-07-07 09:04:24 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (愛するということはそういうことだろう)

夕顔の白い花を
大地から小鉢に植えかえることだろう

 これは逆の言い方も成り立つ。

夕顔の白い花を
小鉢から大地に植えかえることだろう

 「愛」とは、そういう「逆」が成り立つほど、「領域」が広い。
 それは「愛する/愛される」(能動/受動)においても言える。そのとき次第なのだ。でも、そのとき次第といいながら、この「逆」をつらぬく変わらぬものがある。
 植え「かえる」という「動詞(運動)」である。「場所」が問題なのではなく、「かえる」という行動が「愛する」ということなのだ。「植えかえない」という選択(行動)もあるが、「しない」よりも「する」方が「愛」が大きいと思う。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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2020年07月07日(火曜日)

2020-07-07 00:00:00 | 考える日記
 ピカソの作品には、「整えられる前」の事実がある。
 私たちは、すべて「整える」ことを教えられる。
 「整えられたもの」が他者との「共有できる認識」になる。一点透視の遠近法は、私たちに「ものの見え方」を整える。そして、私たちは、「整えられた世界」へ入ってゆき、最初に見た事実を忘れてしまう。
 ピカソは、その「整えられた世界」を破壊し、「整えられる前」の視力に帰っていく。「整えられる前の欲望」のままに、世界を再現する。

 私は、ことばで、同じことをしたい。
 「結論」へ向けてことばを整えていくのではなく、「書き始めること」が結論なのだ、「書いている(書きつづけている)事実」が結論なのだ。
 書くことがなくなったら、それで終わり。
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2020年07月06日(月曜日)

2020-07-06 23:59:59 | 考える日記
ことばが勃起する。
 そういう瞬間がある。
 ことばを射精したい。

 どれだけ出るか。どれだけ飛ぶか。
 
 こんなふうに言い換えることができる。
 ことばは何に照準をしぼっているか、ことばの射程はどこまで広いか。そんなことは書いてみないとわからない。けれど、このことについて書きたいという欲望が、「結論」を無視して動いてしまう。結論を想定できないのに、ことばが動いてしまう。「結論は書きながら考えろ」というよりも、「結論は書き終わってから考えろ」という感じ。
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『梅爾詩選』(竹内新訳)(2)

2020-07-06 23:26:17 | 詩集


『梅爾詩選』(竹内新訳)(2)(思潮社、2020年05月25日発行)

 詩集を読むとき、私は、行き当たりばったりに読む。最初から順に最後まで読むということはない。特に、近年はページが多いので、読み通すのに体力がいるから、どうしてもその日その日、気の向くままにという感じになる。
 きょうは『梅爾詩選』(竹内新訳)の「夢に清渓湖に帰る」という詩を読んだ。タイトルが、いかにも「漢詩」らしい。「夢に」の「に」のつかい方が「漢詩」の「読みくだし」を思い出させ、ちょっと緊張する。

夜のなかを母鹿がやって来る
まなざしは静まり返った湖面のように優しく
蹄の跡はにじみ出た水に満たされ
月の光がこうこうと降り注いでいる
小さな鴛鴦は抱き合い眠っている

 梅爾が女性だと知ったので、そんなに驚きはしなかったが、女性と知らなかったら「蹄の跡はにじみ出た水に満たされ」ということばで、私はじっと立ち止まったと思う。女性と知っているので、「ほっ」くらいの感じで次の行に移った。移ったけれども、やっぱり少し違う何か、私の「肉体」を刺戟してくる「正しさ」、おまえは間違っているぞ、と叱責する声を聞き、立ち止まることにしたのだ。つまり、このことを書いておこうと思ったのだ。
 他の詩人のことば、男のことばと、どこが違うのか。
 大岡信だったと思うが、春のなぎさを少女が歩く詩がある。砂浜に足跡がある。その足跡のかたちに水がにじむ、というような繊細な描写がある。古今・新古今派に通じる繊細さであり、そこには何か、繊細さを知っているんだぞという「みえ」(みせびらかし)のようなものがある。男が書くと、繊細は、どうしてもそうなる。
 梅爾も「蹄の跡はにじみ出た水」と書いている。視線は大岡と同じように動いている。しかし、そのあとに「満たされ(る)」という動詞がつづく。私は、ここに驚く。踏みしめた土の下から水がにじみ出る、ということを発見し、ことばにするだけではないのだ。それがどうなるかを見守っている。この「見守る」という感覚が、私にとっては驚きである。あ、そうなのだ。何かを発見したら、それがどうなるか「見守る」ということが必要なのだ。発見で喜んでしまってはいけないのだ。(ということもないのかもしれないけれど。)
 そして、この「見守る」に、私は私が忘れている「女性の正しさ」を感じる。「見守る正しさ」とは、産んだ子どもを「見守る正しさ」である。こう書いてしまうと、女性に何かをおしつけている、女性差別だという批判が返ってくるかもしれないが、それを承知で私は書く。「見守る」は「時間をかける」であり、「寄り添う」でもある。そしてそれはいっしょに何かをする(共同で何かをする)ということではなく、何が起きようとも私はお前の傍にいる。お前は、もうひとりの私なのだという感覚だろうと思う。
 「時間をかける」という感じは、水が蹄のかたちを満たすのをみつめたあと、さらに「月の光がこうこうと降り注いでいる」という時間をみつめ、そこから「小さな鴛鴦は抱き合い眠っている」へとつながっていく。ここに「静かな動き」(静かな連絡/接続)がある。別のもの(切断されたもの)なのに、つながっている。それは「見守る時間」がつなぐものなのだ。
 そういう「時間」が私の「肉体」のなかに入ってくる。
 この切断と接続、不思議な距離は、つづきを読み進むとこんな風に言い直されている。

私は清らかな魚
遥かな夜のなかで
水からセンチメートルの彼方にいる

 「センチメートル」。何センチか書かれていない。他の詩には「三メートル」というようなことばがあったが、その距離に比べると非常に近い。近いけれど「彼方」と梅爾は言う。自分が産んだ子ども。しかし、生まれてしまったら、もう全体に「一体」になることはないという「彼方」の「絶対性」がある。これが女性の「肉体感覚」なのだろう。
 この「距離感」にも、私は立ち止まる。それは頭で想像はできるが(だから、これが女性の「肉体感覚」なのだろう、と書いたのだが)、私は「肉体」で実感していない。だから、それを実感し、ことばにする「肉体」に出会うと、何か、自分の「肉体」そのものを整えられるような気がするのだ。
 こんな言い方が正しいかどうかわからないが、「肉体」が勃起する感覚、刺戟を受け、目覚める感じになるのだ。性器が、ではなく、ことばが勃起して、ことばを射精しろ(書いておけ)と励まされるのだ。そして、私はそれをそのまま書く。

 脱線したが、さらに読み進むと、詩はこう展開していく。

険しい峰の橋を渡り悠久の岩の谷川を渡って
風景を心ゆくまで見てから
酔っ払ったコオロギのように
北斗七星島の港に停泊し鴛鴦の娘に眼差しで
思いを伝えるほど素晴らしいことはない

 「鴛鴦の娘」と「娘」を出してくるところなど、「男」の詩人とかわりはないが、これは梅爾の「男性(おとこ・せい)」というよりも「性(ジェンダー)」を超越した視点なのだと思う。どうして「性」を超越してしまうか。「心ゆくまで見てから」ということばがあるが、「心」が満足してしまったから、「性/肉体」は二の次になるのだろう。この感じを「酔っ払った」とも書き直している。
 そしてこの「素晴らしい」瞬間のなかに、「眼差し」ということばがあることからわかるように、これはこれで「見守る」の一形態なのだ。
 こういう行を経たあと、詩は最終連にたどりつく。

私はもう目を覚まさず綿の花のなかに横たわり
おまえを哀惜することができる
おまえの心が翡翠のようでありさえすれば
私は断崖に眺められるその瀑布と青苔のあたりで
もう一億年おまえを見守る

 私の「誤読」は、梅爾の「見守る」ということばにのみこまれ、「正しい」にかわる。最初の連で「見守る」ということがこの詩のキーワードだと「肉体」で私は感じたのだが、それが「ことば」になって、ここにある、と感じる。
 こういうことは、またまた不謹慎な表現になるかもしれないが、「ことば」でセックスし、いっしょに絶頂に達したような快感!
 でも、これはもちろん私の「誤読」。梅爾は私の「肉体」も「ことば」も問題にしていない。私は「時間」をせいぜい自分の一生としか考えていないが、梅爾は「一億年」と書いている。
 最後に私は、梅爾にぶん殴られるのである。お前の肉体は間違っている。だからたかだか七十年かそこらしか生きられない。女の私は一億年生きるのだ、ざまあみろ。悔しかったら、一億年生きてみろ、と言われてしまうのだ。
 この「絶対的正しさ」に、私は、ただ立ち止まるだけである。私の感想は、ただの妄想。独りよがりだ。





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FaceBookに書いたことなのだけれど。

2020-07-06 21:45:45 | 自民党憲法改正草案を読む
FaceBookに書いたことなのだけれど。(フェイスブックでは、他の人の文章に紛れ込んでしまうので、再掲載しておく。)
東京都知事選で小池が勝利したことに関すること。
二つのことを書いた。(ほんとうは、ひとつなのだけれど、二回にわけて書いた。

★その一。

小池の勝利。
これが意味することは、たったひとつ。
選挙戦ができないときは、現職が絶対に勝つ、ということ。
安倍は、すぐにでも衆院選をやりたいだろうなあ。
コロナ不安で、街頭演説は充分にはできない。
あした総選挙があれば、失敗だらけの安倍だけれど、絶対に自民党が圧勝する。
小池が、それを証明して見せてくれた。
どんなにコロナ感染者が増えようが、コロナは「夜の街」のせい、とだれかを「排除する」作戦に徹すれば、それだけで現職は勝てるのである。
「悪いのは、あの人たちのせい」
安倍も、その作戦を取る。
「休業したら、生きていけないでしょ?」
「悪いのは、あなたがたではない。悪いのはあの人たちだ」
だが、病気の人を批判してどうなるのだ。
病気を人も安心して生きていけるようにするのが政治のはずだ。
「悪いのは、あの人たちだ」
こういう論法を許せば、「あの人たち」は次々に拡大されていく。
ホームレスが悪い、生活保護を受けている人が悪い、引きこもりが悪い、etc.
きっと、老後資金を2000万円準備しなかった人が悪い、いつまでも年金に頼っている高齢者が悪い、という具合に広がっていく。
「弱いものいじめ」が横行する社会になる。

★その2


新型コロナに対する「政権」の対応の仕方、初期から一貫して変わっていないと思う。それをそのまま「バージョンアップ」して、小池は展開した。そして、それが都知事選で代成功した。
新型コロナが発生した当初、「医療崩壊が起きる」と叫ばれた。これは、新型コロナ患者が押し寄せると、高額医療費を支払っている「金持ちの患者」を救えない。救えるはずの患者が救えなくなるというかたちで最初に表面化した。(これは、言い換えれば、貧乏な患者の面倒をみていたら、金持ちの患者の治療に専念できない、という主張だ。医療崩壊の前に、「医療倫理崩壊」が始まっていた。)
最初から、選別が行われていた。
今度の選挙では、その選別を「夜の街」に焦点をしぼってやっている。
「貧乏な患者」の面倒をみていたのでは収入にならない、高額医療費を支払ってくれる「金持ち患者」を守れ(医療収入を守れ)というかわりに、「不道徳な患者」を許すな、というかたちに変わってきている。
これは「作戦変更」であり、その作戦変更にあたって「貧乏な患者」を味方に引きつけようとしている。
「夜の街の不道徳な患者」を排除すれば、「貧乏な患者」も診察できる。悪いのは、「不道徳な患者」だ、という風潮をつくろうとしている。
この「作戦変更」には、やはり「医療倫理(経済)」が関係している。
医療体制が少し整ってきた。「貧乏な患者」も診察することにして、収入を増やしたい。
医療機関の「トップ」がそう思い始めたのだ。それを小池は代弁しただけ。
「夜の街」であろうと、「昼の街」であろうと、ひとのいのちはひとのいのち。それが無視されている。
そして、これは、一貫して同じことであるとも言える。
ひとことで言い直せば「貧乏人は切り捨ててかまわない」。
「夜の街の従業員」とは、ようするに「大企業に就職できなかった貧乏人」を言い直しているにすぎない。
「大企業に就職できない貧乏人」が感染を広げると、大企業の活動ができなくなる。それは許せない、ということを、ことばを変えて言っているだけだ。
「夜の街(不道徳)」をやり玉に挙げれば、大企業にこきつかわれている下請けの貧乏人も、口をそろえて「夜の街が悪い」と言ってくれる。
その「作戦」が、完全に成功したのが都知事選だ。
この「差別」をつくりだすことで、「貧乏人」の不満をごまかしてしまうというのは、江戸時代の「士農工商」のやり方と同じだ。農民は貧乏だが、「商業」をやっているひとよりも偉いのだ、とごまかす。さらに「士農工商」の下に「被差別階層」をつくりだし、「商業人」を「あなたよりまだ下がいる」と持ち上げる。
時代は「戦前」どころか「江戸時代」にもどっている。
「お殿様」が一番偉い。「お殿様」のいうことを聞かない奴は許さない。
安倍は、絶対にこの「小池作戦」(差別できる対象をでっちあげる作戦)を真似する。「①お殿様が一番偉い」「②次に、あのひとたち以外の国民が偉い」「③悪いのは、あの人たちだ」。もちろん①②は言わない。③だけをいう。
衆院選が近づいた、と私は感じている。
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