詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2020年01月12日(日曜日)

2020-01-12 10:15:27 | 考える日記
2020年01月12日(日曜日)

 「渾沌」ということばがある。「無」ということばもある。そして、それをつなぐことばは、たぶん「闇」である。
 しかし、私は「それ」を体験したことがない。
 「闇」のかわりに「光」を組み込むと、私の知っている「世界」になる。

 私は田舎に生まれた。
 家の前には畑があり、道があり、山があって、直接は見えないけれど川もある。道が分かれるところに神社がある。こう書くと、それは「渾沌」とは違って、明確に整理された世界だ。
 しかし、私はいま道と呼び、山と呼び、川と呼び、神社と呼んだものを、意識しない。存在しているけれど、存在しない。「ある」けれど、名前を持たない。ことばを持たない。
 ことばにしたとき、ことばといっしょに「あらわれる」。
 たとえば、いまの季節。昔は雪が降った。私の田舎は雪が多い。学校が終わって、家に帰って、帰り際に友達と、「川の向こうの段々畑でスキーをしよう」と言えば、そのときその「場所」が「段々畑」として「あらわれる」。そして、すぐに「スキー場」にかわり、「あらわれなおす」という感じだ。スピードを出しすぎる、いちばん下の畑で曲がり間違える。川に落ちる。そのとき「川」が「あらわれる」。
 「ある」けれども「名前がない」というのが、私の「渾沌」である。「名前もある」けれども「名前が意識されない」が私の「渾沌」である。

 「闇」というものがあることは知っている。しかし、私が最初に見たのが「闇」だという記憶はない。これが、私が「渾沌」について考えるとき、いつもつまずく問題である。つまり、「闇」から出発して「渾沌」を考えることができない。
 「論理的」には理解できる(理解できているつもり)だが、現実感覚にあわない。

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(68)

2020-01-12 09:09:32 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはそこを歩いていこう)

ひとすじに思いをたどるだけで
どこに行きつくかも知らずに

 しかし、こう書くとき、嵯峨は「どこ」に行き着くかを知っている。「どこ」は場所を指し示すことばだが、目的地だけを指し示すわけではない。
 「ひとすじ」には「一つ」と「筋」の二つのことばがある。「筋」は細い。その「細さ」は「場」につながる。「狭い」。そしてそれは「一つ」しかない。すでに嵯峨は「行き着いている」のだ。
 「歩く」「たどる」「行く(行き着く)」と動詞はかわるが、その動詞が動いている「場所」は「筋」という限定されたところであり、しかも「一つ」である。「歩く/たどる/行く」がそのまま「着く」なのだ。
 そこ「へ」歩いていこうではなく、そこ「を」歩いていこうと書かれていることが、そのことを端的に語っている。「歩く」という動詞が「目的地」なのだ。








*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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野沢啓「暗喩の発生--言語暗喩論

2020-01-11 11:26:24 | 詩(雑誌・同人誌)
野沢啓「暗喩の発生--言語暗喩論」(「未来」598、2020年冬発行)

 野沢啓「暗喩の発生--言語暗喩論」は「詩のことばとはどういうものか。」と書き始められている。そして、「ことばの発生の歴史」「ことばが発生する機序」「小括」と章を立てて進んで行く。ヴィーコを手がかりに、野沢はこう書いている。

〈神学詩人〉とはことばをもたない段階において自然の驚異に目覚めてみずからの感覚と想像力にのみ依拠してことばを発する経験をもち、そこから徐々に他の人間たちとコミュニケーションを確立していく

ことばの発達とともに社会や国家が形成され、歴史がつくられていくなかで、人間はえてしてことばの本源的な価値と創造性を見失ないがちになり、つねに原初的な感覚と想像力をもって世界と対峙していく詩人という存在を無視していくようになる。

 「自然の驚異に目覚めてみずからの感覚と想像力にのみ依拠してことばを発する」は「原始的な感覚と想像力」と言い直されている。
 これは具体的に言い直すと、雷を体験したときに、「原因のわからない大いなる現象に驚き、びっくりして、目を上げ、天(の存在)に気づ」き、「その現象に自分自身の自然本性を付与しようと」し、声を発する、というような体験のことである。吉本隆明が「海が視覚に反映したときある叫びを〈う〉なら〈う〉と発するはずである」という発想をダイナミックに展開したものだと野沢はとらえている。

 「意味」は解る、と書いていいのかどうか、ずいぶん迷う。野沢の書いていることに「論理性」はある。その論理の展開の仕方はわかる。だが、それが「意味」かどうかはわからない。
 私がいちばん疑問に思うのは、私には海を見たときに「う」という声を出した記憶がないからだろう。雷を体験したときに「天の存在に気づいた」ということがないからである。そんなことを、私は思い出せない。
 私が詩人ではないからだ、と言ってしまえばそれまでになるのだが。

 私が「ことば」というものを意識したのは(もちろん、そのときは意識などはしていないが)、小学校に入学する前日、父親が「名前くらい書けないといけない」と言って、名前をひらがなで書いて教えてくれたときだ。それまで私は「名前がある」ということを感じたことはなかった。人に名前がある、ものに名前がある、と意識したことはなかった。それは「同時」に、「もの」になった。名前を書くということを教えられて、はじめて「もの(人間)」と「名前(ことば)」というものが別々だとわかったのだ。
 それはもちろん、いまだから、こういう具合に書けるのであって、そのときは「そうか、名前を書かないといけないのか。これが名前か」というような、とても変な気持ちがしただけである。それがとても奇妙な気持ちだったので、私は、いまでもあの瞬間を覚えているのだと思う。我が家は貧乏だったので、私のためのノートとか鉛筆などはなくて、姉のノートと鉛筆を借りて書いたのだと思うが、今から思うと、よく字を覚えられたなあと感心する。すぐ書けたことも覚えている。(これは錯覚かもしれない。苦労したのだけれど、すぐ覚えたと思い込みたかっただけかもしれない。)
 では、それまで私は「世界」をどう見ていたのか。どう考えても「名前(ことば)」なしで見ていた。庭に柿の木が二本、梨の木が一本あったが、いつもそれが存在していたわけではない。梨の木は実がまずくて、あってもただの木だった。木という意識もなかった。柿の木は一本が甘柿、一本は渋柿。実が実り、甘くなったとき「柿の木」として存在するけれど、それまでは意識から消えている。存在していない。あらゆるものが、「必要」になったときだけ、「名前(ことば)」といっしょに、そこに「ある」という感じ。「必要」がないときは、「名前(ことば)」もなければ、「もの」も「ない」。
 私自身についてさえ、そう感じる。特に小さいときがそうだが、「修三」と名前を呼ばれて、はっと我に返る。自分がいるのだと気がつく。名前を呼ばれるまでは、「無名」のまま世界に溶け込んでいた。自分の向き合っている世界と一つになっ「私」など意識できなかった。「私」と「世界」が別物だとは感じられなかった。
 これは、私のなかでは、いまもつづいている。世界はいつも溶けて混ざっている。端的にそれを感じるのは、探し物をするときだ。「野沢の詩集」を探す。そのときたいてい「野沢の詩集がない」というかたちでことばが動く。「野沢の詩集」と言えば、溶け合って区別がなくなった世界から「野沢の詩集」が目の前にあらわれてしかるべきだと私は考えているらしい。まるで赤ん坊である。「おっぱいが飲みたい」と泣きだせば「おっぱい」が出てくる。「ことば」は「もの」を生み出す。「もの」に「名前(ことば)」があるのではなく、「名前(ことば)」のあとに「もの」があらわれる。ほとんど同時に。
 山とか川とか空さえも、そんな感じだった。ことばにするまでは、全部がつながっている。自分自身とつながっている。自分と区別がない。
 「野沢の詩集」探しにもどれば、野沢の詩集がみつかったとき、私の肉体がそこまでつながったという感じ。つながって、区別がなくなったとき、区別するために「ことば」が必要になる、と言えばいいのか。そして、それは区別しながらも、やはり「私の肉体」なのである。言い直すと、そのとき私が意識しているのは「野沢の詩集」だけであり、他の本は「区別のない」部分に隠れてしまっている。目を向ければ、それは見えるが、見えるだけで存在などしていない。
 そして、どうやら私は、この「そこに何も存在していない(何もかもが溶け合っている)」という感覚が非常に強い気がする。貧乏で「もの」がなかったせいか、「もの」を「ことば」にする習慣がない。逆に「ことば」を「もの」にする感覚の方が強い。「ことば」を読むと、いちいち、それを「もの」にしないと納得できない。
 だから。
 野沢が引いているヴィーコとか吉本隆明の「ことば」を「もの」(現実の体験)にして確かめようとするのだが、それが私自身の体験とはぜんぜんつながらないので、納得できないということになる。え、これ、何を書いてあるの? 「論理」が動いていることはわかる。でも「もの」は?

 きのう私は朝吹亮二の詩を読んだ。空白(虫食い)だらけの詩である。文字は一部が見える。つまり「ことば」の断片。「音」と言ってもいいかもしれない。私は、その「一部」を手がかりに、「ことば」から「もの」をつかみだす。
 「一 の雪   は」からは「一片の雪の結晶は」と「もの」を呼び出す。朝吹は「一月の雪原それは」と書きたかったらしい。つまり、私は「誤読」するのだが、そういうことができるのが「ことば」だと思っている。「事実/正しい」かどうかではなく、「あり得る」か「あり得ない」か。それは「ことば」が「もの(世界)」をつくっていくのであり、ことばがつながったところまでが「私の世界」という感じなのだ。「客観的な世界(ものだけが独自に存在する世界)」というものを私は信じることができない。

 これは感想なのか、批評なのか。
 どっちでもない。私はただ考える。それを「ことば」として、ここに「存在」させる。ことばにしているときだけ存在するものがある。書き終わったら、忘れる。
 私にとって、ことばとはそういうものだ。








*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(67)

2020-01-11 09:37:19 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
海辺の町

* (小さな港に出た)

海の隅に
緑が休んでいる

 「港」と「海」。嵯峨は区別しているのだろうか。海の一部が港、港は海へとつづいていく。広がっていく。
 「緑」は「港」を指しているのかもしれない。
 海の動きに比べると、港の水の動きは静かだ。止まっている。そのために緑が深く見えるのかもしれない。
 嵯峨自身が「緑」になって、ここで休んでいる。








*

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朝吹亮二「雪 降りつづけ」

2020-01-10 23:06:13 | 詩(雑誌・同人誌)
朝吹亮二「雪 降りつづけ」(「ミて」149、2019年12月31日発行)

 朝吹亮二「雪 降りつづけ」と、とりあえずこう表記してみたものの、作者の意図をくみとったタイトルの紹介ではない。見開きのページの中央に(雪 降りつづけ    朝吹亮二)とレイアウトしてある。そして本文は、

一 の雪   は  すべ の 音を鎮  降 つもり りつ き
どこ でも 平を拡げ ゆく の り され 無  コード の傷
の うに 配が繰 返さ るう に近づ  くるわ   思い し
てい  たしの  ヒョウそ 翡 の その のようにしな 尻 
わた は い出し い  もふれ  の  配だ  体のかた を
し 気 だ  もど にい の たし ユキ    の 翠の瞳 
まり 遠  原わ し  術 も学 で  たを呼  かあ  の

 という具合でつづいて行く。文字が頻繁に空白になっている。さて、この空白をどう読むか。
 ためしに少し空白を埋めてみる。

一片の雪の結晶はいますべての騒音を鎮めて降りつもり降りつづき
どこまでも地平を拡げてゆくその塗り潰され無音のレコード盤の傷
のように気配が繰り返されるように近づいてくるわたしは思い出し
ていたわたしの遠いヒョウその翡翠の羽その鞭のようにしなる尻尾
わたしは思い出している

 雪が思い出させるものと、雪が隠して行くもの。それが空に舞う雪片のように交錯する。そして、その隠されたもの(空白)を想像するとき、私は朝吹のことばを追いかけながら私の過去を思い出している。雪を見た記憶を。
 「翡翠」は雪の白との対比から飛び出してきたが、「ヒョウ」は「雹」だろうか、それとも「豹」だろうか。あるいは「〇〇ヒョウ」というカタカナことばだろうか。そこでつまずいて、あとのことばが動かなくなった。
 このあと詩は「熱」とか「肌」とか「愛」ということばとともに動き、そこには「吐(く)」という動詞や「息」も動くので、昔のおんなのことを書いているのだろうなあと勝手に想像する。
 女の名前は「ユキ」である。
 記憶だから、とぎれとぎれ。脈絡もあるようでない。だから、最後まで「文」として完成させる必要もない。もともと詩は「意味」ではないから、こうやって切断と接続をテキトウにたどれば充分なのだとも思う。
 で、こういうことをやってみて思うのは。
 私は「ヒョウ」につまずいたが、それ以外は「文章」にはならないが、愛の行為を思い出す肉体の愉悦と淋しさを思い、なんだか自分を見るような錯覚に陥る。
 ことばというのはいつでも、他人のことばを読んでいても、結局自分の肉体を読むことだと知らされる。



 この「日記」をアップしたあと、読者の山本育夫さんから「よく空白を埋められましたね。驚く」という感想をもらった。
 しかし、私の「穴埋め」は、実は嘘を書いたのだ。
 私は詩の感想を書くとき、詩を引用する。しかし、その引用は作為的である。言い換えると感想も作為的である。ときどき嘘を書く。嘘の方が「詩的」というか、おもしろいと思うからである。
 あるとき、ある作者から、「その詩は、次のページにつづいている」という指摘を受けたことがあるが、それは私が知っていて省略したのである。
 今回の場合も、「正解」は解っているが、あえて「誤読」した部分がある。「誤読」することで、私(谷内)を出したかったからである。「正解」は、いつでもどこでも、誰にでも導き出せる。「1+1=2」は、私が書くまでもない。
 で、全行を引用し、全行を穴埋めしてみよう。

一 の雪   は  すべ の 音を鎮  降 つもり りつ き
どこ でも 平を拡げ ゆく の り され 無  コード の傷
の うに 配が繰 返さ るよ に近づ  くるわ   思い し
てい  たしの  ヒョウそ 翡 の その のようにしな 尻 
わた は い出し い  もふれ  の  配だ  体のかた を
し 気 だ  もど にい の たし ユキ    の 翠の瞳 
まり 遠  原わ し  術 も学 で  たを呼  かあ  の
 線の かで 熱 は  わた の躰も の茎  の も  冷え
と  く くき 音の音を  て く熱 のはわ し 吐 ある 
はひき かれて   たしの肌 愛して   わた の  ヒョウ

(雪 ふりつづけ       朝吹亮二)

 月  原それ 雪が  て 無   めて り   降  づ 
  ま  地    て  雪 繰 返  る 音レ  ド盤  
 よ  気   り  れ  う   いて   たしは  出 
  るわ   ユキ    の 翠 眼  鞭      る 尾
  し 思   て るで   える は気  け肉    ち 
 た 配 けで  こ  る わ  の  ヒョウそ 翡   あ
  に い雪  た は魔 で  ん あな   ぼう  なた 
視  な  は い ずの  し   こ  もあ 茎も  冷え
 して き  無    たて ゆ  い   た の 息  い
   裂   いくわ   か    ほしい  し ユキ   

 穴埋めすると、こうなる。

一月の雪原それは雪がすべての無音を鎮めて降りつもり降りつづき
どこまでも地平を拡げてゆく雪の繰り返される無音レコード盤の傷
のように気配が繰り返されるように近づいてくるわたしは思い出し
ているわたしのユキヒョウその翡翠の眼その鞭のようにしなる尻尾
わたしは思い出しているでもふれないのは気配だけ肉体のかたちを
した気配だけでもどこにいるのわたしのユキヒョウその翡翠の瞳あ
まりに遠い雪原わたしは魔術でも学んであなたを呼ぼうかあなたの
視線のなかでは熱いはずのわたしの躰もこの茎もあの茎も冷え冷え
としてくきくき無音の音をたててゆく熱いのはわたしの吐息あるい
はひき裂かれていくわたしの肌か愛してほしいわたしのユキヒョウ

(雪 ふりつづけ       朝吹亮二)

一月の雪原それは雪がすべての無音を鎮めて降りつもり降りつづき
どこまでも地平を拡げてゆく雪の繰り返される無音レコード盤の傷
のように気配が繰り返されるように近づいてくるわたしは思い出し
ているわたしのユキヒョウその翡翠の眼その鞭のようにしなる尻尾
わたしは思い出しているでもふるえるのは気配だけ肉体のかたちを
した気配だけでもどかにいるのわたしのユキヒョウその翡翠の瞳あ
まりに遠い雪原わたしは魔術でも学んであなたを呼ぼうかあなたの
視線のなかでは熱いはずのわたしの躰もこの茎もあの茎も冷え冷え
としてくきくき無音の音をたててゆく熱いのはわたしの吐息あるい
はひき裂かれていくわたしの肌か愛してほしいわたしのユキヒョウ

 五行目だけ一部が変わっている。

わたしは思い出しているでも「ふれない」のは気配だけ肉体のかたちを

わたしは思い出しているでも「ふるえる」のは気配だけ肉体のかたちを

 もしかすると、前半の「ふれない」が誤植かもしれない。「ふるえる」の方が朝吹の語感に近いと思う。







*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(66)

2020-01-10 09:10:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
                         2020年01月10日(金曜日)

* (約束は)

 短いことばで始まる詩の前半を省略し、最後の二行に結びつけてみる。

いま暁の冷たい雨にぬれて
花々は小さく顫えながら育つている

「冷たい雨」「顫える」は敗北や喪失を連想させる。それは求めているものではない。求めていたもの、約束したものは、それとは逆のものであったはずだ。しかし「約束」は裏切られるためにある。運命だ。そして、思い出すためにある。
 この悲しみは、しかし、青春の特権である。
「育つ」ということばが、それを象徴している。敗北しても敗北しても、あるいは喪失しても喪失しても、決して失われないものがある。






*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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アルメ時代25 紙について

2020-01-09 20:32:09 | アルメ時代
25 紙について



 一枚の紙がある。幾筋もの折り目が残っている。裏側の色がかすかに透けて見える。青系統の色らしい。四辺を広げてみる。無数の凹凸がしずかに呼吸している。手を離すと少し縮む。そのときである、見え隠れしていた折り目、やわらかな署名が浮かび上がるのは。深い折り目、裏側の青か、紺か、あるいは緑に白をまぜたときにできるあいまいな色をにじませる第一の折り目の端から新たな折り目が走る。
 全体を求める未熟な精神は、第五のかすかにふとった折り目にぶつかると唐突に向きをかえ、第一の折り目の右端へとまっすぐに駆けだす。しかし、第四の、二回折ったときにできるらしいぶれた折り目の底なしの淵を落ちていく。そのときの声がこだまする一点から類似の、つまり微妙にずれた折り目が、様様な折り目を喚起しながら上辺の中央へ向かう。それらが展開する継続的な乱れが視力にひそむ装飾的な連想を吸収し、否定し、直感をととのえる断念の領域へ認識を誘い込む。
 新しい紙を取り出し、二つの角を合わせる。ふくれた紙の稜線を指でしごく。交錯する折り目の角度を思い出しながら繰り返す。対称に折り、対称に広げる。折り目という不可逆性がはらむ豊かさを夢み、さらに繰り返し、立体になる直前に、ほどいていく。掌を伸ばす。手を離す。ゆっくり縮む時間の、危うい光を見ている。判断し、検討し、分類し、完結を求める意識のようにだらしなく動いている。



(アルメ247 、1987年02月10日)
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水根たみ『幻影の時刻』

2020-01-09 18:48:41 | 詩集


水根たみ『幻影の時刻』(らんか社、2019年01月05日発行)

 水根たみ『幻影の時刻』を読み進んでいて「緊張」へたどりついた瞬間、私は、気づく。水根のキーワードに。
 こういう詩である。

糊付けされたような
夕闇
そのガード下で
急停車する赤いバス
突然
飛び出す
白いネクタイの男
祝辞の言葉を忘れ
曲がりくねった道を
右往左往する
電柱の前で
血色の良い美女と出会う
直立する

 キーワードのあらわれ方には二つある。①そのことばがないと意味が通じないことば。②なくても意味が通じるが、作者が無意識に書いてしまうことば。
 水根の場合は②である。そして、それは「突然」である。
 その一行が登場する前の「急停車する赤いバス」には「急」ということばのなかに「突然」が含まれている。準備して「急停車する」ということはない。「急停車」はいつでも「突然」である。「急停車」ということばに隠れている「突然」、それが隠れきれなくなってあばれているので、それにつられて「突然」が登場してしまった。
 「突然」は、この詩の、どの行にでも補うことができる。
 「突然」糊付けされたような、「突然」祝辞の言葉を忘れ、血色の良い美女と「突然」出会う。
 どういうことも「必然」であるけれど、水根は「必然」を否定し、「突然」を描く。「必然」は散文であるのに対し、「突然」は詩だからである。
 水根にとっては「散文」を否定する「突然」こそが詩なのだ。
 「突然」を言い直したものに「不意(に)」がある。「誕生日」という作品。

不意に
女が顔を そむけた時
時間と時間の隙間から
バラの花が咲いた

 「不意に」は「突然」と書き換えても同じである。
 この詩の最終連。

この時
地球が少し動いた

 ここは「不意に」を補ってもいいし、「突然」を補ってもいい。どちらも同じだ。水根はこの「突然」を強調するために、「時」ということばをつかっている。律儀である。
 そして、この「突然」は、まったく逆のことばとしても書かれることがある。
 「孤独」という作品。

淋 という漢字を
口の中で
噛みくだいていると
雨が降り出した

傘を買った
急に走り出した

いつの間にか
口の中は
忘却の味がした

 一連目には「突然/不意に」雨が降り出したとことばを補うことができる。二連目には「突然/不意に」の代わりに「急停車」のときの「急」が書かれている。そして最終連。「いつの間にか」。これは「知らないうちに」ということであり、そういう意識の奥には「時間の流れ」が「量」として存在するから「突然」とは相反するはずなのだが。

突然
口の中は
忘却の味がした

 こう読んでも、受ける感じは、私には同じに思える。
 「突然/不意に」も「いつの間にか」も「瞬間」なのである。何かが変わる「瞬間」が水根にとっての詩ということになる。









*

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2020年01月09日(木曜日)

2020-01-09 09:57:37 | 考える日記
2020年01月09日(木曜日)

 和辻哲郎『古寺巡礼』の「道」、その2。

 「十二」。法華寺十一面観音について書いている。光明皇后の伝説について触れたあとの部分。

「あった」か「なかった」かの問題よりも、「あり得た」か「あり得なかった」かの問題に興味を抱く人に対しては、これらのことも何ほどかの意味を持つに違いない。
                               (135ページ)

 和辻は、「あり得た」か「あり得なかった」かに興味を持つ人である。この「あり得た」か「あり得なかった」かは、「事実」ではなく「構想力」の問題である。
 「構想力」ということばは、別の場所で、こんな具合につかわれている。「七」、聖林寺十一面観音について書いている。

かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうして自由な、構想力の結晶なのである。
                                (68ページ)

 「十一面」は「あり得る」のである。では、どこに。「構想力」を、和辻は、こう書き換えている。

人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核まで突き入り、そこにつかまれた人間存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。
                                (69ページ)

 「構想力の結晶」「一つの形像に結晶せしめようとした」と「結晶/結晶する」ということばが二つの文章をつないでいる。そして、そこに「人間存在の神秘」ということばが挿入されるのだが、この「あり得る」ものとしての「人間存在の神秘」こそが、和辻にとっての「道」なのだ。それは、「心の奥底」「体の中核」という、いわば「見えない」ところに、ある。
 和辻は、それを探している。「ことば」で、追い求めている。和辻は「倫理」の人であるが、同時に「哲学」の人として迫ってくるのは、そのためである。

 忘れられない本がある。忘れられない「ことば」がある。「意味」ではなく、「ことば」がある。それは、私と他人をつなぐ。そういうことが「あり得る」。その「あり得る」ものからすべてが生まれてくる。そういう「あり得る」ものとして「道」。
 「神秘」ということばは、私は好きではない。私は、その「あり得る」を「神秘」ではなく「ほんとう」としてわかりたい。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(65)

2020-01-09 09:03:39 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (菖蒲の花が咲いている)

重い時間を支えながら
色テープのような虹が消えるまえに

 詩の一部だけを取り出して読むことは「文脈」を無視することである。つまり嵯峨の「思想」とは関係がない。
 と、いえるかどうか、私はかなり疑っている。
 逆に嵯峨の「無意識」があらわれているといえないだろうか。
 なぜ「重い」時間なのか。なぜ「色テープのような」虹なのか。
 菖蒲と花菖蒲は別のものだが、たぶん、ここに書かれているのは花菖蒲だろうと思う。その強い色。強さが「重い」を呼び覚ます。さらに「人工的な(着色された)色テープ」を呼び寄せる。菖蒲の花の鮮やかな色が存在しないなら、虹は「色テープ」とは違うものを比喩にしたに違いないと思う。





*

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小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』

2020-01-08 21:54:26 | その他(音楽、小説etc)


小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』(岩波現代文庫、2019年12月13日発行)

 小池昌代『黒雲の下で卵をあたためる』には、単行本に追加した三篇がある。そのうちの「きみとしろみ」はゆで卵の「黄身と白身」なのだが「きみ」は同時に「君」をも含んでいる。岩本正恵が訳したクレア・キーガンの「別れの贈り物」(『青い野を歩く』の一篇)を読むという体裁をとっている。
 そのなかにこんな文章が出てくる。

読み進めるうちに、わたしのなかに、一人の女が生々しく形作られていった。
                               (166ページ)

 このことばは小池の「本質」のようなものをあらわしている。「他人」なのに、それが「わたし」の内部で「女」を生み出していく。主人公を自分のことのように感じる、と言い直してしまえば、誰もが感じることなのかもしれないが、それを「女」と対象化し、しかも「生々しく」とつかむのが小池の特徴だと思う。
 「生々しさ」については、小池は、こう言い直している。
 ゆで卵をつくるとき、殻が割れて白身がはみだすときがある。このはみだした白身を岩本は「リボン」ととらえている。小池は、

それを「脱腸」のようだと思いながら、いつだってその様子をじっと見ていた。その無為の時間の肌触りが、こんな箇所を読むと、蘇る。そうして読む時間をふくらませる。
                               (176ページ)

 「時間をふくらませる」(時間がふくらむ)。時間が、それまでと「異質」なのものになる。異質といっても、それはむしろ「ほんとう」になる、ということだ。あ、この時間こそが「ほんとう」だと感じる。
 それを「生々しい」と読んでいる。
 「生々しくない」時間は、客観的に描写できる「物理」の時間ということになるかもしれない。けれど人間は、時計で測れる物理の時間を生きているのではない。時計では測れない時間を生きている。「ふくれた」は、つまり、時計の時間から「はみだした時間」ということになるだろう。
 問題は、と書くと、語弊があるかもしれないが。
 問題は、そういう時計の時間からはみだした「ほんとう」の時間は、ゆで卵からはみだす白身のような形をとるとは限らないということだ。
 「別離」には、そのことが書かれている。梅酒をつくっている。梅酒の梅はもいでつくる。しかし、なかには自然に落下する梅もある。その梅は青梅ではなく、むしろ成熟している。それが枝から落ちる瞬間を、梅が木から「別離」する瞬間を見たことがないなあ、と「わたし」は思う。
 この見たこのない完全な別れ(ほんとうの別れ)について考えているうちに、「わたし」は「将来を約束した」男と別れたときのことを思い出す。「わたし」は「約束」を信じていたが、男は「黙って」去った。

あの時、はっきりとした破棄の言葉があれば、別れの言葉があれば、わたしは前に進めただろう。長く、この衝撃を引きずったけれど、歳月は流れ、わたしはその後を生き、今も生きていて、この顛末も忘れた。けれど落下した梅について書くうちに、なぜかあの時の記憶が蘇ってきた。
                               (226ページ)

 ここにもまた「ほんとう」がある。そしてこの「時間」もまた、過去から「ふくれあがって」、いまを突き破ってあらわれたものだといえるだろう。
 「蘇る」は「生き返る」であり、それは常に「生々しい」。小池の書いている「蘇る」の前に「生々しい」ということばを補うと、小池が書こうとしているものがよりはっきりと見えてくると思う。実際、いま引用した文章の二つの「蘇る」の前に「生々しく」を補って、「生々しく蘇る」という形にして読んでみるといい。小池が直面しているのは「生々しさ」だということがわかる。
 また最初に引用した文章から「生々しく」を省略してみればいい。省略しても「意味」は通じる。

読み進めるうちに、わたしのなかに、一人の女が形作られていった。

 しかし、何かが物足りない。逆に「形作られていった」を「蘇った」にしてみるとどうなるか。

読み進めるうちに、わたしのなかに、一人の女が生々しく蘇った。

 小池が、主人公を自分自身と感じていることが実感できる。一人の女の「時間」が「ふくれて」、生々しく「蘇った」のである。つまり、小池は、そうやって自分自身になるのである。「ほんとう(ほんもの)」になるのである。
 「生々しく」は小池のことばの運動の「キーワード」である。






*

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アルメ時代24 秋の花

2020-01-08 18:03:59 | アルメ時代
24 秋の花



ビルの壁が斜めに降ってくる光を受け
具象と抽象のあいだをさまようので
私は一本の木を求める
梢の幾枚かが明るく輝き
残りは肌寒い影にのみこまれている
そんなアンバランスな木を
窓から見つめていたい
木と私との距離を利用して
たぶん私は物語をつくる
雨に叩かれて芽吹いた木の葉が
思いがけない角度で電話線をこすったが
いまはだらしなく濁っている、と
時間の枠組みをつくる
それから女を出したりひっこめたり
季節の変わり目に吹く風のように
急に向きを変えたり温度を変えたりする
二、三のことばを引用する
ときには見せ消ちを残し
陰影をつくっていく
どうにもならなくなったときは
湿っているアスファルトのにおい
その底にある土を呼吸する樹液
のようなものを狙ってみる
つまり私の物語が木に似ることを願いながら
遠近法の中心へもどる
それから象徴というものを考える
「象徴とは思考をやめたとき
ふいにあらわれてくるものである」
という行を挿入すべきかどうか
しばらく頭を悩ませたりする
そうするうちに宇宙は動いていって
木がビルの影にのみこまれて
なんとなく秋はおわる




(アルメ246 、1986年12月25日)
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(64)

2020-01-08 09:59:23 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

* (それが人の世というものです)

 どういうものが人の世か、具体的なことが(しかしかなり抽象的に)書かれたあと、最後の二行。

大きな夜がしずかに傾斜する窓ぎわで眠ります
ある大きな手からわたしにだけつづいているいつもの深い眠りに

 「ある大きな手」とは「わたし」を超える存在である。それと「わたし」がつながっている。「わたしだけに」と嵯峨は書いている。ここに詩人の「特権」がある。それは認めるしかないのだが、私はこの「特権」が嫌いである。
 「特権」があるから「人の世」を、人とは違った生き方で生きていける、という考え方には異を訴えておきたい。





*

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沢木遥香『わたしの骨格』

2020-01-07 11:49:17 | 詩集


沢木遥香『わたしの骨格』(七月堂、2019年04月30日発行)

 沢木遥香『わたしの骨格』にはさまざまな自画像が書かれている。感想の「二十五歳の肖像」が印象に残る。
 返された履歴書(採用試験に受からなかった)を破る詩である。

水辺に腰かけて
糊づけされた証明写真を
ゆっくり剥がした

色白の肌
意志が強そうな黒い瞳
濁った川の水面で
歪んだ笑みを浮かべ
漂っていく

二つ折りのA3用紙に
収容された二十五年
破いて
破いて
高く上げた手のひらから
花びらのように
こぼれ落ちていく

風が体の中を吹き抜ける
静かな葬儀に参列しながら
乾いていく髪の毛
滲んだ視界で
澄んだ空を仰ぐ
逃げ水のように不確かな
今日とか明日とか

 全行引用したのには理由がある。一連目だけ「剥がした」と過去形がつかわれる。そのあとは「現在形」である。履歴書の写真を剥がすことで、就職試験に落ちたことを「過去」にしたのだ。
 「濁った」「歪んだ」「収容された」「滲んだ」「澄んだ」ということばがあるが、これは「過去形」というよりも連体修飾形。動詞そのものが動いているわけではない。
 と、書いてちょっと脱線したい気持ちになった。
 修飾語と被修飾語。どちらを先に書くか。日本語、英語は修飾語が先に書かれる。フランス語やスペイン語では被修飾語が先である。修飾語はあと。
 日本語がもしフランス語やスペイン語と同じ構造を持っていたなら、沢木の書いていることばは、少し違った印象になったかもしれない。最後の「澄んだ」はちょっと異質だが、それ以外のことばは「過去」にしてしまいたい、「いま」の「背後」に葬りたいという感じが強くなるかもしれない。
 「剥がした」は「過去」を振り切るための「過去形」。
 修飾語になっている「濁った」「歪んだ」「収容された」「滲んだ」も、「過去」にしてしまいたい何か。
 そう読むことはできないか。
 「過去」にしたけれど、だからといって「未来」が確実になるわけではないというのが、生きることの難しさである。しかし、なんとなく「過去」を振り捨てて、「いま」を生きていこうという思いが、「過去形」をとる修飾語に感じられる。
 それは「花びらのように」という比喩(修飾語)と比較すると明確になる。振り捨てる過去であるけれど、そして「濁った」「歪んだ」「収容された」「滲んだ」というような否定したいものではあるけれど、愛着もある。自分自身への愛が「花びら」ということばを選びとらせている。
 「花びら」はそのあとの「葬儀」につながる。「葬儀」には花を飾る。その花なのだ。
 涙で汚れた髪が乾いてく。涙で滲んだ視界が澄んで行く。「澄んだ空」は「澄んでしまった」という「過去形」ではなく、「澄んでゆく」という「現在/未来」形である。だからこそ最終行の「今日」「明日」ということばが自然に響く。







*

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アルメ時代23 幸福

2020-01-07 09:22:12 | アルメ時代
23 幸福



「星のつまった袋を持っている
つまり宇宙を持っている」
と男はくりかえした
酔うとひとつの話しかできなくなる
「それは少し脳の形に似ている
つまり皺が入り組んでいて」
女の視線が動くのを待って
男の舌はゆっくりつづける
笑いをおさえるように
しばらくあともどりをする
「それは少し脳の形に似ている
そのためだろうか
ときどき 袋で考えることがある」
男のひとり笑いが
うすくらがりで吊るされて揺れる
女はよそを向いて
泡の消えたビールを決意のように飲む
「幸福を追い求める気持ちが
急にしぼんでしまった」




(アルメ245 、1986年11月10日)
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