詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西村賢太「苦役列車」

2011-02-20 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
西村賢太「苦役列車」(「文藝春秋」2011年03月号)

 西村賢太「苦役列車」は、書き出しに驚いてしまった。

 曩時(のうじ)北町貫多の一日は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立ってゆくことから始まるのだった。

 いきなり「ことば」から始まるのだ。もちろん小説(文学)だから、それが「ことば」でつくられていることは承知しているのだが、しかし、私は驚いてしまうのである。
 「曩時」って何? 私はこんなことばはつかわない。広辞苑で調べると「さきの時。むかし。以前。曩日(のうじつ)」とある。意味はわかったようで、わからない。「いま」ではなく、「むかし」ということ、なのかもしれない。つまり、ここに書かれていることは、「むかしむかし」で始まる「物語」ということなのかもしれないが……。
 うーん。
 言い換えると、ここに書かれているのは「現実」ではなく「物語」なのだ。そして、この小説は、あくまでも「物語」なのである。この小説は「私小説」、西村の体験を描いたものというふうに言われているけれど、それが西村の体験だとしても、西村はそれをあくまで「物語」として提出している。「ことば」の運動として提出しているということになる。
 よくみると、たしかにそうなのである。ここに書かれているのは「日記」のことばではない。「日記」の文体ではない。自分を語るときのことばではない。自分の行動を記すのなら、

北町貫多(私)は、目が覚めるとまず廊下の突き当たりにある、年百年中糞臭い共同後架へと立っていった。

 ということになる。けれど、西村は、そうは書かない。あくまで「北町貫多」を「私」という視点ではとらえない。「自動詞」の主語にはしないのである。「自動詞」としての行動を描くときでも、それを対象化する。つまり、つきはなす。
 北町貫多は便所へ行った、ではなく、北町貫多の一日は便所へ行くことから始まるのだ、と対象化する。
 そして、そのつきはなしによって、読者が主人公と向かい合うようにするのだ。読者が主人公になってしまうことを拒絶する。読者を主人公にはしない--という操作で、主人公を「私(西村)」に引きとどめておく。そういう形での「私小説」である。
 これは同時に芥川賞をとった朝吹真理子の小説と比べるとよりはっきりする。

 永遠子(とわこ)は夢をみる。
 貴子(きこ)は夢をみない。

 ふたりの主人公が登場し、ふたりの行動は「自動詞」として書かれる。「夢をみる」「夢をみない」。そこに書かれているのは「私」ではないが、彼女たちは「私」として行動する。このときの「私」とは、「私=朝吹」ではなく、「私=読者」である。
 ふたりの主人公を、読者は「私」として読みはじめる。それは「私」ではないけれど、小説を読むことで読者は「永遠子(私)」になり、「貴子(私)」になる。ふたりは別個の存在だが、そのどちらにもなる。ときには、同時にふたりになったりもする。
 こういう主人公と読者の「同化」を西村のことばは拒んでいる。「主人公=読者(私)」を拒絶することで、「主人公=西村(私)」という形をとる。
 「主人公=読者(私)」ではない世界では、「ことば」はけっきょく「読者(私)」のものではなく、西村のものである。そのことが、

あ、ここにあるのは、ことばだ、

 という印象を呼び起こすのである。

 しかし、パンパンに朝勃ちした硬い竿に指で無理矢理角度をつけ、腰を引いて便器に大量の尿を放ったのちには、そのまま傍らの流し台で思いきりよく顔でも洗ってしまえばよいものを、彼はそこを素通りにして自室に戻ると、敷布団代わりのタオルケットの上にふたたび身を倒して腹這いとなる。

 若い肉体が書かれているのだが、私には、その肉体よりも、それを描写する「ことば」ばかりが見えてしまう。勃起したペニスは見えない。勃起したペニスを描写する「ことば」が見える。
 「顔でも洗ってしまえばよいものを」ということばには、顔を洗わない主人公ではなく、顔を洗わない主人公を描写する「作者」が見える。
 どの描写をとっても同じである。そこには「主人公」はいない。「主人公」を描写する「ことば」があり、その「ことば」を書きつらねる「作者=西村」がいる。
 なるほど、そういう構造をもった作品が「私小説」なのか、と私は、考えながら納得してしまった。

 もう一か所、具体的に書いておく。日雇い労働の昼飯どき。弁当が配られ、それを食べてしまう。そのあとの描写。

 当然、これでは到底もの足りなく、むしろ底抜けな食欲の火に油を注がれたみたいな塩梅である。

 西村の小説に何度も出てくる「塩梅」。自分のことを語るときにも「塩梅」ということばはつかうかもしれないが、ここではあくまで自分ではない誰かをみて、それを描写している。「食欲の火に油を注がれた」ように感じているときは、そんな自分を「塩梅」というように悠長に描写してはいられない。狂ったように動く感覚を、飢えを語ってしまうのが「自分」のことば、「主人公=私(読者)」のことばである。はげしい飢えがことばになっているとき、読者(私)は、その飢えを私自身のものと感じ、その感じのなかで主人公と一体化する。
 「塩梅である。」という描写(ことば)では、読者(私)は主人公の飢えと一体化しない。離れたところから主人公を眺めてしまう。主人公と読者(私)のあいだに、「ことば」があって、その「ことば」を眺めてしまうのである。そして、あ、この「ことば」が西村なのだと思うのである。
 金がないから主人公は弁当だけですませるが、金のある日雇い仲間は、自動販売機のカップラーメンやワゴン車が売りにきた焼きそばなどを食べている。それを眺める主人公の描写。

 金のある者は弁当と共にそれらを添えておいしそうに食べているさまが、貫多には腹立たしく眺められて仕方がなかった。

 食べている者を眺め、腹立たしかった、ではない。また、腹立たしく眺めた、でもない。「貫多には腹立たしく眺められて仕方がなかった。」と、はげしく動く感情を突き放して描写するのである。「ことば」にしてしまうのである。
 感情を生きるのではなく、「ことば」を生きるのである。
 「私小説」とは「ことば」を生きる作家の生き方なのだ、と思った。あ、こんなふうにして西村は自分を救ってきたのだ、「ことば」を生きることで現実を超越してきたのだ、と感じた。
 これは最近ではめずらしい形の「ことば」と作家の関係であると思った。





苦役列車
西村 賢太
新潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(183 )

2011-02-20 14:53:42 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠつづき。

探すのはマラルメ的な
オブジエではないだろう
もつとつまらないオブジエだろう
淋しさを探すだろう
町で聞く人間の会話
雑草の影が映る石
魚のおもみ
トウモロコシの形や色彩や
柱のふとさ
なにも象徴しないものがいい
つまらない存在に
無限の淋しさが
反映している

 ここには西脇の夢が結晶している。シンボルにならいなもの、意味にならないもの。そこに淋しさかある。淋しさとは「意味以前」なのである。
 --と、私のことばは、どうしても動いてしまう。「意味以前」という「意味」に触れてしまう。これは、こうの行を書きつづけた西脇にも起きる。
 さきの行につづけて、西脇はすぐに書いている。

淋しさは永遠の
最後のシムボルだ
このシムボルも捨てたい
永遠を考えないことは
永遠を考えることだ
考えないことは永遠の
シムボルだ

 しかし、どうしても「矛盾」になってしまう。堂々巡りになってしまう。これは詩の宿命なのだ。
 詩はことば以前を書く。意味以前を書く。しかし、書いた瞬間、それはことばになる。そして意味になる。だから、それを否定する。そして、その否定すらが、ことばになり、意味になる。
 問題は、それを自覚して書くか無自覚で書くかということになる。西脇はつねに自覚している。
 という、うるさいことは、もうやめにして、少し前に戻る。きょう引用した最初の部分、そのうちの、

雑草の影が映る石
魚のおもみ

 この2行が、私は非常に好きだ。
 「雑草の影が映る石」は夏の明るい陽射しがまぶしい。太陽そのもののまぶしさではなく、空気のなかに広がって散らばった光の美しさがある。石はきっと白い。そして影はきっと黒いのだが、その黒は、藍色に見えたり水色に見えたり灰色に見えたりするのだ。
 「魚のおもみ」。この1行は、私を不安にする。この魚の重みは、私にとっては手では測れない重みである。私は水のなかを泳いでいる魚を見てしまうのである。「雑草の影が映る石」から夏を想像してしまうのでそうなるのだが、夏の川で泳いでいる魚を私は思うのである。それは手で触れることはできない。つかまえようとしても逃げてしまう。逃げることができることをしてってい悠然と冷たい水の、その冷たさをここちよげに味わっている魚。その重さ。西脇は「重さ」ではなく「おもみ(重み)」と書いている。「おもさ」と「おもみ」のことばの違いも、私の想像力に影響しているのだと思う。
 触れえないものがある。確かめようがないものがある。これが「淋しさ」である。触れえない、確かめようもないとき、感じてしまうのが「淋しさ」である。
 しかし、その触れることができないもの、確かめることができないものにさえ、人間のこころは動いてしまう。動いて何かを感じてしまう。(だから、「淋しい」。)
 そして、その何かを感じさせるもの、感じさせる力が「シムボル」だとすれば、感じてしまう力、感じる動きこそが「永遠」かもしれない。「シムボル」と「永遠」はそんな具合にして出会うのだ。





Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター

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岸田将幸「心のなかにアルトーの小屋が」

2011-02-19 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
岸田将幸「心のなかにアルトーの小屋が」(「現代詩手帖」2011年02月号)

 岸田将幸「心のなかにアルトーの小屋が」の書いていることは、わかるようで、わからないが、その「わからない」だけがわかる、というようなことを、私は思わず思ってしまう。--と、私は、わざと書く。「思わず/思う」という矛盾のようなものの、その矛盾が発生する瞬間のようなものが、ふいに伝わってくるのだ。矛盾とは「わからない」というか、うまく落ち着いてくれないこんがらがったものである。それが生まれてくる瞬間の手触りのようなものが岸田のことばのなかにあり、それを私は感じる。

アルトーの小屋に行こうと
アルトーの小屋、と不図、
           書きつけていた
とたんに限界に至る、
ある出来事について
土を喰らうと僕らは
         狂ってしまう
狂ってしまう
地上に在る、
     といふ
        ことだけが
解らない。

 「アルトーの小屋」と書いて、そのあと、ふいにことばが動かなくなる。その一瞬を、岸田は「限界」と呼んでいるのだろう。なぜ、ことばが動かなくなったのか。正確にはわからないが、どうやら「地上に在る」ということばと関係しているらしいことは推測できる。そのとき「地上に在る」というのは、「ことば」であると同時に、ひとつの「こと」である。岸田は「ことば」はわかるが、「こと」がわからないと思い、その瞬間に「ことば」が動かなくなった。「限界に至」ったと感じたのだ。
 このときの「思考」の動きを、岸田は「空白」、つまり「ことばの断絶」をはさみながら表現している。「空白」の領域を越えてことばが動く。
 岸田の書いているこの作品の書き出しを、「空白」を消して、行わけを消して、散文のようにすると、読むのがとても窮屈になる。(ためしに表記してみる。句読点は、谷内がかってに補った。)

アルトーの小屋に行こうと、アルトーの小屋、と不図、書きつけていた。とたんに限界に至る、ある出来事について土を喰らうと僕らは狂ってしまう。狂ってしまう。地上に在る、といふことだけが解らない。

 ことばが密着しすぎていて、見分けがつかない。どうして、そこのことばと別のことばがつながるのか、脈絡がわからない。
 改行、空白の多い詩でも脈絡はあいかわらずわからないままなのだが、空白や改行があることによって、あ、岸田のことばは、ここでは飛躍しているのだな、ということがわかる。
 書かれていないこと(空白)--それがそこに存在するということがわかる。ことばが飛翔する、あるいは曲折する、その「瞬間」がわかる。
 もちろん、これは「わかる」とは言えないことなのかもしれない。
 
 それは岸田にも「わかる」とは言えないものかもしれない。そして、わからないからこそ「ことば」を動かす。それは、「こと/ば」から「は(葉、端?)あるいは場」を取り去り「こと」そのものになることなのか、あるいは「こと」を「葉、端(連続性のない断片)」を「場」のなかで動かすことで、「こと」そのものをもう一度再構築することなのか。たぶん「わからない」。「わからない」からこそ、「ことば」を動かして、それがどんうなふうに動けるか、どんうな具合に「こと」「ば(葉、端、場)」を緊密につなぐことができるのか、緊密につなぐことで「在る」というこことを探ろうとしているのか……。
 こういうことは、ほんとうは深く考え、整理し直して感想を書くべきことなのかもしれない。そうしないと批評にならないということは、まあ、わかっているのだが、私の手には負えない。
 私は、何かが動いている。何かが生まれようとしている、という「感覚」が、そこから伝わってくれば、それが詩であると思うだけである。

あらゆる精神が反動の街角を
折れる、パリ
人間がまだ肉の溜まり方でしかなかった頃、
乳をあたえた女が思想の欠落を流した
所与のものを所与でない形に変形してはいけない、
所与のものを性差の間に弄ばれてたまるものか、
といふ
闘いなのだ、パリ
思考のことだ、自然のことだ
       地表のことだ

 ことばは何かをつかみとろうとしている。ことばの先にあるもの、まだことばになりきれない(流通言語になりきれない)何かがある。それは飛翔(飛躍)しないことにはつかみとれない。そして、そのときほんとうにつかみ取るのは「もの/こと」ではなく、その飛翔の筋肉、ことばの運動の仕方なのだと思う。
 たとえば手の届かないところにほしい食べ物がある。人間がジャンプしてそれをつかみとる。そのとき人間が手に入れたのは食べ物ではなく、食べ物をジャンプしてとる、という運動である。ジャンプしてもとどかないことを考えてみるとよくわかる。ジャンプしてもとどかないなら、もの(たとえば棒)をつかう。あるいは梯子をつかう。人が人を肩車するということもある。そういう積み重ねで、人間が手に入れるのは「もの」ではなく、自分自身の肉体の動かし方である。これが「思想」である。その「肉体」の動かしたかを「ことば」で繰り返したものか「思想」である。

 岸田は、その動かし方を固定していない。ことばを固定していない。というか、固定しようとするものを揺さぶっている。その揺さぶりの力を私は感じる。「わかる」と勘違いする。誤読する。

あらゆる精神が反動の街角を
折れる、パリ

 このとのの「折れる」ということば。「折れる」ということばの前に存在する「改行」の呼吸。そして、読点「、」を挟んで「パリ」という場へ飛ぶ瞬間。このリズムを美しいと私は感じる。ここが、好き、と思わずいってしまう。
 それからつづくぎくしゃくしたことば。そのぎくしゃくした手触り。「肉の溜まり方」って何? 「思想の欠落を流した」って何? 涙のこと? 涙は思想の欠落? 涙こそが思想じゃない? とかなんとかかんとか、いろんなことを思うのだが、そのぎくしゃくが美しいとなぜか感じる。不思議な宝石の「原石」の磨かれていない凹凸のようなものかもしれない。そして、それはきっと磨かれて、どこかに展示されてしまうと、なんだ、あ、これは私には縁のないものだなあ、金持ちの持ち物にすぎないなあ、と思うようなものになってしまうのだ。
 詩ではなく、俗っぽい流通品になってしまうのだ。
 と、書くとひがみになってしまうかもしれないけれど。
 そしてまた、岸田がもし完璧な「商品」へむけてことばを動かしつづけているのだとしたら申し訳ない気もするが。まあ、たぶん、そういうものを岸田は目指してはいないだろうと思う。

 詩は、いつでも「わからないもの」、わからないけれど、何かそのわからなさのなかで動いてしまう力のなかにあって生まれる瞬間を待っている、生まれようとしている、そう感じさせてくれるものだと思う。
 わかったら、それは詩ではなくなる。
 岸田は「解らない、」と書いていたが、わからないことへむけてことばを動かす、その書くという行為のなかに詩が生まれてくるのだと思う。


“孤絶-角”
岸田 将幸
思潮社

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セルジオ・レオーネ監督「荒野の用心棒」(★★★)

2011-02-19 23:57:24 | 映画
監督セルジオ・レオーネ 音楽エンニオ・モリコーネ 出演クリント・イーストウッド、マリアンネ・コッホ、ジャン・マリア・ヴォロンテ、ヨゼフ・エッガー

 口笛のテーマ曲が私は気に入っている。不思議な哀愁がある。西部劇っぽくない。
まあ、黒沢明の「用心棒」の盗作だから西部劇であるはずがないのだが。しかも監督はセルジオ・レオーネだから、「根っこ」がさらに西部劇と無関係である。無関係な人間が集まって「西部劇」をでっちあげた。「根っこ」のない西部劇である。
 そして「根っこ」のかわりにあるのが「哀愁」というロマンなんだろうなあ。
 「根無し草」の悲しさと、軽い美しさ――何をしても現実に関しては責任をもたないという軽さの美しさ。この「哀愁」に、意外とクリント・イーストウッドの細い肉体があっている。
 もしジョン・ウェインが演じていたらどうなる? 違ってしまうねえ。特に女を逃がしたのがばれて、殴る、けるの暴行を受けるあたり。あれが残酷な美しさ(?)を感じさせるのは、クリント・イーストウッドの肉体が細いからである。あの細い体で、本当に耐えられる? あばら骨折れてない? 残虐を耐え抜いて、復讐する。これもクリント・イーストウッドの細い体があればこそ、快感になる。
 でもねえ。
 いま見ると、あのぞくぞくするような残酷な快感が、とてもとてもとても、薄い。左手(手の甲)を踏みつけられるシーンなど、もう「痛み」がスクリーンから広がってこない。自分の肉体が痛いのはいやだけれど、誰かが痛みを身代わりになって引き受け、苦しんでくれるとしたら、――うーん、やっぱり、人間はどれだけ耐えられるんだろう、なんてみつめたい気持ちにもなるのだが・・・。それは、もう遠い夢。
 「もう殴っても痛みを感じない」というラモンのセリフは、残酷というよりやさしさを伝えてしまう。
 あ、いまの映画は残酷になっているんだね。
 クライマックスの銃撃シーンなんて、いま見るとのんびりしているもんねえ。いまは全然過激じゃない。荒々しくない。人間の感性なんて、だらしなく、なんにでも慣れてしまうのだ。
 時代とともにかわってしまう感性について考えさせられてしまった。
           (「午前10時の映画祭」青シリーズ3 本目。福岡天神東宝)



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池谷敦子『声のかたち』

2011-02-18 23:59:59 | 詩集

池谷敦子『声のかたち』(美研インターナショナル、2011年03月01日発行)

 池谷敦子『声のかたち』は、詩集のタイトルがそうなっているからとそういうわけでもないのだが、はっきりと「声のかたち」をもっている。静かで美しい。「現代詩」のイメージからは遠い。たとえば、「あきつしま」。

月にみちびかれ
海は
ひたひたと川をのぼる

葦のざわめく岸を洗い
ひそやかに うねなりがら
陸と
愛を交わす

あかつきの闇深く
月が
みずいろの息をひくとき
霊たちは
群れ飛ぶ蜻蛉(あきつ)の羽のように
光るしずくをきらめかせて
空へ 空へと 立ちのぼる

あきつしま
海のまほろば わが島
生まれいで 過ぎゆくもの
交わし合う息遣い
みどり深き島の水辺よ

 1連目のイメージが美しい。そして2連目。「葦のざわめく」という濁音のあと、「岸を洗い」の「洗う」という動詞が音のざわめき(濁音)を洗うように動き、「ひそやか」「うねる」ということばが光る。わずかに残った「ながら」の濁音が、まるでそのあとの愛の睦言のように聞こえる。
 3連目の月が沈む様子を月の死ととらえ「みずいろの息をひくとき」ということばにするときの、その「みずいろ」という音の選択に、私は私のからだが震えるのを感じる。
 そして、同時に、「困る、詩がこんなふうでは困る」とも思う。何が「困る」のかといわれると説明がしにくいか、こんなふうに美しいばかりでは困るとしかいいようがない。しかし、問題は、それよりもそういう困った詩に、なぜかひかれてしまう私がここにいる、ということである。
 なぜ、私は「困る」と感じながらも、池谷の詩を読み進んでいるのだろうか。
 「湖北」という作品は、いま引用した「あきつしま」のすぐあとに収録されている詩だが、それを読んだとき、ひとつ気がついたことがある。そのことを書いておく。

湖の襞の奥に ひっそりと村があった
草の穂が茫々と靡く村のとば口に
よそびとを 拒むかのように
白く晒された木の鳥居があり
しめ縄を張られた古井戸があり
左手山際には寂びた神社があった
風が止むと 息をひそめるものの気配がした
……これは 隠れ里といわれるものであろうか

身のうちを滲み出てくる水に導かれ
私は結界を越えてしまったのかも知れぬ
人の気配はなかった
しかしまもなく道は尽きた
その先は湖の中へ降りていくしかなかった

 1連目の材料がそろいすぎた村の描写は「物語」になりすぎている。ぜんぜんおもしろくない。けれど2連目1行目「身のうちを滲み出てくる水に導かれ」に私は、びっくりしたのである。目がさめた。瞬間的に、あ、池谷がここにいる、感じた。池谷の「声」がここにある、と感じたのだ。特に「導かれ」ということばに、池谷の「思想」があると思う。
 池谷は自分で声を「発する」のではなく、何かに「導かれて」口を開き、息をはきだす。そのとき「声」が出るのである。その「声」の肉体はたしかに池谷のものだが、その「かたち」は池谷の肉体が独自でつくりあげたものではなく、池谷の息を誘うもの、誘い出すものがあって、はじめて「かたち」になったのである。
 そこには池谷の意図を(あるいは意識を)超えたものがある。その「導き」に素直に従うとき、そこに「かたち」が生まれるのだ。「かたち」があらわれるのだ。
 池谷の肉体のうちにあるものは「身のうちを滲み出てくる」。滲み出てきて、それが「導く」というのと、自ら「声」を出すというのとどこが違うのか--ということは厳密にはいうことができない。詩は、だいたい「哲学書(思想書)」のように厳密な論理ではできていないから、なおのこと、どこが違うかということは正確には言えない。言えるのは、そういう「声」の生まれかたに対して、池谷が「導かれ」ということばをつかっている、ということである。そして、そんなふうにつかわれた独特なもの、独自のことば、そのなかに池谷の「思想」があるということである。
 「導かれ」は「あきつしま」では「みちびかれ」と書かれていたが、あらゆるものは何かに「導かれ」動いている。これが池谷の「思想」なのだ。「導かれ」、それに逆らうことがあるかもしれない。けれども、そうだとしてもその動きのはじめは「導き」なのである。
 「導く」ということばは形をかえてあらわれるときもある。省略されて書かれているときもある。

水の揺れが 水を映す光の波紋が
私を呼び止める                      (「立ち尽くす脚」)

 この「呼び止める」は「導く」と同じ「意味」をもっている。

低音で しみいるように通い合っている
ここから出ていこうとしているのか それとも
やってこようとしているのか
未生の蝉よ                          (「声、蝉の」)

 「出ていこうとしているのか」「やってこようとしているか」。それらは対立する動きだ。そしてそれが対立するものでありながら同等に扱われているのは、それが「未生」だからである。まだ存在しないからである。そして、それが存在したとき、生まれたとき、それは池谷を導くために生まれるのである。
 だからこそ、池谷は、その未生のものに向かって「未生の蝉よ」と呼び掛けるのである。存在しないものにさえ向かって呼び掛けるのである。私を正しく導いておくれ、と。ここには「導く」が省略されたかたちで書かれている。
 省略してしまうのは--これは何度も書いてきたことだが、そのことばが作者の「肉体」そのもの、「思想」そのものになっているからである。

 ひとは、何かに(身のうちから滲み出てきたものにさえ)、導かれ、動く。そして、「私」を導いてくれたものと、ある地点で出会い、「愛を交わす」。その愛のために、「声」を水のような形のないも、流動するものにしておく--というのが池谷の生きかたかもしれない。



 「導く」(導かれる)につながるおもしろいエッセイ(?)を池谷は書いている。「虫の出口」。
 国語の時間、「リア王」を読んだ。

いつもなら適当な所で番が変わるのだが、そのまま最後まで読んだ。教室はしーんとしている。読み終えて座ると、先生が眼鏡を外しハンカチで目頭を押さえていた。先生はしばらく黙ったままであった。

 「リア王」のことば、シェークスピアのことばが、池谷を導いたのである。池谷は「自分のことば」を「声」にしたのではなく、導かれるままに「声」にかたちをあたえた。そのとき、そこに池谷を超える池谷があらわれた。池谷はしらずに池谷自身を超越してしまったのである。

 池谷のことば、たとえば「あきつしま」の作品のことばはとても古い。美しすぎて、現代からみると「嘘」である。それでも池谷はそのことばをつかう。それは池谷が自分から選んでいるのではないのだ。そのことばをつかいなさい、と導く声があって、池谷はそれに従っているのだ。
 導かれ-従うという動きの中に「しずかさ」のすべてがある。導かれ-従うという動きのなかで形が美しくととのえられる。--こういうことは誰にでもあるということではないし、そうしたからといって誰もが美しくなるとはかぎらない。けれど、池谷の場合、そんなふうにしてことばと出会い、愛をかわすとき、そこに詩が美しく結晶する、誕生するのだ。


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声のかたち
池谷 敦子
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ジェームズ・L・ブルックス監督「幸せの始まりは」(★★)

2011-02-18 16:11:32 | 映画
監督 ジェームズ・L・ブルックス 出演 リース・ウィザースプーン、オーウェン・ウィルソン、ポール・ラッド、ジャック・ニコルソン

 大もての男がいる。押しが強い。陽気である。せっかちかもしれない。誕生日に豪華な腕時計をプレゼントしてくれる。女がプレゼントを開けるのを待ちきれない。女から包みを引き取ると、自分で開けて「ほら」と差し出す。
地味な男がいる。慎み深い。女がプレゼントを開けるのをじーっと待っている。プレゼントは「汚れ取りの粘土」からうまれかわった「くねくね粘土」。豪華ではないかわりに、ちょっと考えさせる「お話」がついてくる。
もしあなたがリース・ウィザースプーンだったら、どっちを選ぶ?
映画の定石通り、慎み深く、教訓話をしてくれた男を選ぶ。
でも、これっておもしろくないなあ。誰でもというわけではないが、地味な男の方なら、多くの男がなることができる。なんといっても「粘土」のプレゼントなら買えるからね。豪華な腕時計は買えないなあ。で、地味な男が選ばれるというのは、なんというか、男のひそかな夢というか、ちんけな希望だねえ。
なんだかいやだなあ、こういう「教訓」じみた恋愛映画。つまらない希望を与えてくれる映画、というのは。
映画なんだから非現実的でいいじゃないか。
ちょっとだけおもしろいのは、ジャック・ニコルソンのずるいおやじかな。犯罪を犯した。でも有罪になると刑務所から一生出てこれない。で、罪を息子(地味な男の方)にかぶせようとする。息子なら初犯なので、いずれ出所できるから、なんてね。
そのジャックに対し、地味男が、「もし女が自分を選んでくれたらその女と生きるので身代りにはなれない。でも夢がかなわないなら、そのときはお父さんの身代わりになる」という。さて、ジャックの答えは? 「グッド・ラック」(がんばれ)。あ、これって、どういう意味でしょうねえ。おかしいでしょ?
最後、ジャックは息子が女とうまくいったことを知り、「よくやった」と喜ぶのだが、あれっ、そうするとジャックはどうなる?
このわがままで変な父親を、ジャックは楽しく演じている。こういうわがままで、どこか幼稚で、でもどこかに人間らしい温かみがある人間性が、この映画を「嘘」に高めている。うれしいねえ。

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朝吹真理子「きことわ」

2011-02-17 23:59:59 | その他(音楽、小説etc)
朝吹真理子「きことわ」(「文藝春秋」2011年03月号)

 朝吹真理子「きことわ」は、文体に特徴がある。この作品は「短篇」の部類に入るのだと思うが、短篇というよりは長編の文体である。長い長い時間の中で、乱れが乱れでなくなる。乱れであると思っていたものが、まっすぐに見えてくる。--そういう印象を誘う文体である。

貴子が春子に妊娠されていたとき、脂肪のほとんどない春子の腹を布越しに永遠子は撫で、「これからどんどん膨らむらしいの」と春子は永遠子の手をとって腹部に運ばせた。

 これは、私の感覚からすると、とても変な乱れた文章である。「貴子が春子に妊娠されていたとき」とは、私なら絶対に書かない。「春子が貴子を妊娠していたとき」か「貴子が春子の体内(胎内)にいたとき」のどちらかである。「妊娠」は「する」ものであって、「される」ものではない。「妊娠」するの主語は、母親(春子)である。その「妊娠」ということばを朝吹は、子供である貴子を主語にしてつかっている。そこに乱れがある。主語と補語の乱れがある。
 この乱れは、それにつづく文章に微妙なかたちで影響している。
 「脂肪のほとんどない春子の腹を布越しに永遠子は撫で、」の主語は永遠子である。永遠子は春子の脂肪のほとんどない腹を布越し(洋服越し?)に撫でた、という意味である。
 その次の「「これからどんどん膨らむらしいの」と春子は永遠子の手をとって腹部に運ばせた。」では主語は春子である。そして、主語が春子に代わったために、前の文では永遠子が春子の腹を自発的に「撫で」(自動詞)ていたはずなのに、ここでは永遠子の意志とは無関係に(?)、春子が永遠子に撫でさせる--手をとって腹部に運ばせるということにすりかわっている。
 この文章(句点「。」で区切ったものをひとつの文章だと仮定すると……)では、三つの文から成り立っていて、それは読点「、」で明確に区切られているのだが、その区切りのたびに主語が代わっている。つまり、ひとつの文章のなかに主語が三つあることになる。そして、その三つを、むりやりつなぐために、「妊娠されていたとき」というような、学校教科書文法からみると許されないような語法が捏造され、「撫でる」という自発的な行為が、手を腹部に「運ばせる」という使役の形(永遠子からみれば、「運ばせられる」という受け身)になっている。
 三つの主語が、微妙にねじれ、動詞がねじれている。
 そして、この乱れとねじれが、それにつづく文章の中で、ととのえられ、まっすぐになる。
 
貴子が知りようもない過去に違いなかったが、生まれる前に貴子に触れているのだと永遠子から何度も聞かされているうちにその思い出が身のうちに入り込み、いまはみたこともないその光景もすでに貴子の記憶となっていた。

 貴子、永遠子というふたつの主語がことばのなかで区別をなくしていくのである。--そして、これはこの小説の主題でもある。この小説の主人公は「貴子」と「永遠子」と、ふたりいるのだが、物語の中で、そのふたりは区別をなくしていく。「肉体」は別個であるが、意識が融合し、どちらがどう感じたのか、あいまいになる。あいまいになるだけではなく、入れ代わりさえするのである。
 永遠子の、春子の体内にいる貴子を撫でたという記憶が何度も語られる(ことばになる)ことによって、それを聞きつづけた貴子は撫でられたという記憶をつくりだしてしまう。けれど、「撫でられた」という記憶は捏造なので、それをそのまま持続することは難しく、ごく自然な「撫でた」という記憶の方にずれていく。そして、貴子は知らず知らず永遠子になる。
 これは変なことなのだが、そういう変なことがおきるのは、人間がことばを生きているからかもしれない。
 こうしたことを別の形で書いた部分がある。406 ページ。バーベキューをしたことを思い出す場面である。

バーベキューの埋み火に松毬(まつぼっくり)をいれると形を残したまま炭化すること、午睡からめざめると草木を透して永遠子の髪と畳みに流れていた暮れ方のひかり、明け方、緻密につむぎだされた蜘蛛の巣の露に濡れたのを惚(ほう)けるようにしてみあげたこと、一瞬一刻ごとに深まるノシランの実の藍の重さ。そのときどきの季節の水位にそったように、照り、曇り、あるいは雨や雪が垂直に落下して音が撥ねる。時間のむこうから過去というのが、いまが流れるようによぎる。ふたたびその記憶を呼び起こそうとしても、つねになにかが変わっていた。同じように思い起こすことはできなかった。

 ことばのなかで、「つねになにかが変わっていた。」「同じように思い起こすことはできなかった。」とは、同じことばにはできなかった(できない)、という意味である。
 主語を貴子にして語ろうとしても、主語は永遠子に代わる。
 さらに、朝吹は繰り返している。

いつのことかと、記憶の周囲をみようとするが、外は存在しないとでもいうように周縁はすべてたたれている。形がうすうすと消えてゆくというよりは、不断にはじまり不断に途切れる。それがかさなりつづいていた。映画の回想シーンのような溶明溶暗はとられなかった。もはやそれが伝聞であるのか、自分自身の記憶なのか、判別できない。

 ことばがとらえるものは、実際、だれが発したことばなのかを問題にしないことがある。ごくわかりやすい例で言えば、たとえば交通事故がある。それを私が目撃していたとする。そしてその事故がニュースで流れる。そのときのニュースのことばは私のことばではない。けれど何度も見て、聞いているうちに、それはほんとうにニュースのことばなのか、それとも私が見たことをことばにするとそういう形になるのか、区別がなくなる。
 ことばは、「事実」の前では主語をなくしてしまうことがある。その「事実」は、あるときは「永遠」とか「真理」とか呼ばれることもあるかもしれない。
 ある「こと」が「ことば」になる、そのときおきる「世界」の変化そのものを、朝吹は書いているのだとも言える。こういう「哲学」(思想)は、文体のなかにだけ存在するものである。そしてそれは短篇ではなく、やはり長篇小説のものであると私は思う。
 1000枚単位の長篇小説こそが朝吹にはふさわしいと思う。長篇小説を書いたとき、朝吹はほんとうの朝吹に、巨大な作家になると思う。そういうことを教えてくれる小説である。



きことわ
朝吹 真理子
新潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(182 )

2011-02-17 11:20:43 | 誰も書かなかった西脇順三郎
誰も書かなかった西脇順三郎(182 )

 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠつづき。いろいろ刺激的なことばが多い詩である。

意識は過去だ
意識の流れは追憶のせせらぎだ
時の流れは意識の流れだ
進化も退化もしない
変化するだけだ
存在の意識は追憶の意識だ
「現在」は文法学者が発見した
イリユージョンである
「話す人」の位置だ
永遠は時間ではない
時間は人間の意識にすぎない
人間に考えられないものは永遠だ

 断定の連続である。一か所、「「現在」は文法学者が発見した/イリユージョンである」だけが1行の断定ではなく2行でひとつの文章になっている。しかし、「発見した」でやはりいったん切って、それから「イリユージョンである」をつけくわえたもの、「イリユージョンである」はそれ自体で1行と見た方がおもしろいだろう。
 どの行も、それぞれがひとつの文であり、それは先行する文の、それぞれの「言い換え」なのである。意識は、そんなふうに動いていく。
 そして、この意識、時間、永遠をめぐる断定のあとに、一気に笑いが弾ける。

「教養をつければつけるほど
たたなくなる」
艶美なるイムポテンス
それだけ永遠に近づく
それだけ犬から遠ざかる

 「インポテンス」が永遠に近づくことになるのかどうかはわからない。犬から遠ざかるというのはほんとうのような気がする。(私は愛犬家だけれど--だから犬が結果的に永遠から遠いというのはうれしいことではないけれど……。)そして、このほんとうのような気がするというのは、一種の「笑い」の真実だね。インポテンス自体が笑いだけれど。
 そして、笑いながら、「笑い」の真実についても、ちらりと考える。
 笑いとは突然の断絶、突然の接続だね。「永遠」に「インポテンス」をぶっつける。それは瞬間的にはくっつかない。たとえば「鮮やかな薔薇の色」と「永遠」ならぶつけた瞬間にくっつくけれど、「永遠」と「インポテンス」はくっつかない。そのくっつかないという意識が、「永遠」から何かを引き剥がす。その瞬間「真の永遠」が、いままで気がつかなかった「永遠の真実」が見える。くっつかないことが「断絶」を浮かび上がらせ、その「断絶」の「断面」に、いままで気がつかなかった「永遠」がぴったりとくっつく。
 「永遠」が生まれ変わる。
 笑いの瞬間、それは何かが生まれ変わる瞬間なのだ。
 それは新しい真実(新しい永遠)とことばが「接続」する瞬間でもある。


旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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杉本徹「摘むことと漂流すること」

2011-02-16 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
杉本徹「摘むことと漂流すること」(「ファーズ」1、2011年01月15日発行)

 杉本徹「摘むことと漂流すること」は村松桂の写真とのコラボレーションである。村松の写真は二重露光の不思議なものだが、このコラボレーションは村松の写真が先にあったのか、それとも杉本のことばが先にあったのか、よくわからない。あまりにもうまく合致しすぎている。--といっても、その写真とことばの内容が一致しているというのではない。「思想」が合致しているのだ。

そして”木の舟”を騒がせる風の暗さは
かさなる葉から流星の方位へ向けて、この夏を編むだろう
……時間、光洩る時間はこうして揺らぎつづけ
あなたの、北緯への遮られない希いを
現れてはほどかれる境界の傾斜地で、……どこまでも、護るだろう

 杉本のことばは、ここ数日読んでいる松浦寿輝や松本圭二、福田武人のことばとはずいぶん違っている。「文字」を感じさせない。「文字」や「音」を感じさせない--というとおおげさになるが……。「文字」や「音」よりも、つかみどころのないイメージ(映像)を感じさせる。
 たとえば「騒がせる風の暗さ」ということばに触れるとき、私は揺れ動く光の暗さ(影がまじった光)を「見る」のだが、それはほんとうに見たのか、それとも錯覚なのか、よくわからない。もしかしたら「見たい」という欲望の動きを感じたのかもしれない。
 ほかのことばも、私の耳に響いてくるというより、視覚を刺激する。「北緯への遮られない希い」というように、目にみえるものなど何も書かれていないことばにさえ、イメージを感じる。北を向いたときに感じる光、その暗さのなかにあるものと共鳴するこころの動き--哀愁のようなものを、目で感じてしまう。
 そして、それは「現れてはほどかれる」ということばが象徴するように、しっかりとは固定しない。むしろ、固定を否定して動く何かである。そのしっかりとは固定しないもの、動くものは、だからといって「形」をもたないかというとそうではなくて、形をもっているのだが、なんといえばいいのだろう--半透明なのだ。(二重露光の写真のように。)半透明であることによって、「見える」と「見えない」を刺激し、その交錯によって、あ、ここにあるのは「視覚」のことばだ、と強く感じるのだ。
 この「見える」「見えない」の交錯を、杉本は別のことばで書き直している。

…………………………
かすかな、数歩の息とともに
濃い青の車の、”八月という川面2にまたたくウィンカーを、避(よ)けて
いま、遠い日にひらかれる白紙に、気配の枝が映った

 「見える」ようで「見えない」、「見えない」ようで「見える」何か--それを「気配」と杉本はとらえている。「気配」というものは、普通は(?)肌で感じるものである。私は常套句として「肌で感じる」とつかってしまうが、杉本はそれを「視覚」で感じ、その「視覚」で感じた「気配」をことばにしているのだと思う。
 目で見た(見ようとして見逃してしまった)気配を追いかけて動くことば--それが杉本の詩である、と感じた。いままで、ぼんやりと感じていた杉本の「思想」が、写真とのコラボレーションによって結晶のように形をとって私には見えてきた。(あ、これは、「見る」「見えない」という杉本のイメージに影響されて、私がそう錯覚しているだけのことかもしれないけれど。)

 もうひとつ、杉本の「視覚のことば」についてつけくわえたい。

囚われの陽射しには陽射しの、かすれてゆく母音が、うかび
それも打ち寄せる宇宙の遠近法の、静かな波頭の声で、あった(か)

 この杉本の詩には「……」や「” ”」などの記号が何回も出てくる。読点「、」もその記号のひとつかもしれない。そして、これらの「記号」は、それこそ目で見た「イメージ」であり、「気配」なのだ。杉本にとって、記号は「文字」以上に「文字」であり、「音」以上に「音」なのだ。それは杉本の「肉体」なのである。
 それを端的にあらわしたのが、

あった(か)

 の、(か)である。丸かっこである。「あった」と断定せず、疑問をつけくわえ、しかし、「あったか」ではなく、あくまでつけくわえただけの何か--その「二重露光」のような効果。
 これは、ことばの「二重露光」なのである。「あった」ではなく、「あったか」でもない。そして、両方でもある。その「二重露光」の「思想」を代弁するというより、強調するのが記号なのである。丸かっこなのである。
 杉本は、それを、そして「見ている」のである。「あった」と「あったか」が「二重露光」となって、そこに存在すること--それを目で確かめているのだ。

 杉本は、ここ2、3日読んできた詩人の中では、とりわけ「視覚的な詩人」なのである。目で書く詩人なのである。杉本の選ぶ音は、(あるいは、漢字、ひらがなは)、杉本の視覚を乱さないように、とても静かである。それも、杉本の大きな特徴であると思う。



ステーション・エデン
杉本 徹
思潮社

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クラウス・ハロ監督「ヤコブへの手紙」(★★★★)

2011-02-16 23:32:25 | 映画
監督 クラウス・ハロ 出演 カーリナ・ハザード、ヘイッキ・ノウシアイネン、ユッカ・ケイノネン

 光と影が印象的である。光と影の印象は何回か変わる。
 光と影。--冒頭のレイラが刑務所長(?)から恩赦について聞いているシーンが象徴的である。窓からの光が刑務所長の顔の一部を、口元を照らしている。眼鏡に反射した光は、刑務所長の目を隠している。レイラの目にも光と影が交錯している。まるでスポットライトのように、強い輝きと、それと対峙する強い影をつくりだしている。それは法の指導という強烈な光と犯罪という対比のようにさえ感じられる。
 恩赦で出所したレイラがヤコブ神父の元へ行く。その室内の光は、冒頭の刑務所の光とは違っている。神父館。やはり光は外からはいってきて、室内のなかに光と影をつくりだす。ただし、コントラストはいくぶんやわらいでいる。人間を照らしているというより、つつんでいるという感じがする。室内にはいりこんだ光が人間を照らし、影をつくり、同時にその影さえもつつんでいる。「愛の力」でやさしくつつむ、そういうことばがふと浮かんでくる。そういうことを想像させる光と影である。
 終身刑であったレイラという女性とヤコブ(神父)の交流、舞台である神父館を考えると、この人間をつつむ光について「神」というようなことばも浮かんでくるのだが、なんとなく違う気もする。これは私が「神」を信じていない、というか、「神」についてなにも知らないからかもしれないが……。少なくとも、私は「神」の光というものを感じなかった。
 この光の印象は、最後にもう1回変わるのだが、その前に、雨がふる。雨が出てくる。そして、このときから私は、そこにある光をただ自然の光と感じた。北欧の(南欧とは違った)やわらかい光。その光が、やわらかさゆえに小さな窓からも部屋にしずかににじむようにして入ってくる。それだけである。「愛の力」でつつむ光ではないのだ。それは、雨が「導き」でないのと同じである。ただ、そこにあるだけである。雨の非情さ(人間に対して何か導くとか逆に拒絶して何かを知らせるとかいう操作をいっさいしないこと)は、雨漏りとなって表現されている。雨が降って、屋根が破れていれば雨漏りがする。ただそれだけ。自然とはそういうものだ。
 それは逆説的な言い方になるが、ヤコブが教会のなかで神と自分の関係を見つめなおしたとき(助けを求める手紙と自分との関係を見つめなおしたとき)、はっきりする。自分の無力さ(神の無力さ)を自覚したとき、明確に描かれる。
 最後の最後に、神父と、恩赦で神父のところへやってきたレイラがこころを触れあわせるのだが、そのときの二人がいる場所は、教会でもなければ神父館でもない。神父館の庭、外である。そこにあるのは「自然の光」である。ただそこにあるだけの光である。人間に対しては何もしない。指導も、つつみもしない。人間は、そこで無防備にさらされる。
 そして無防備のまま、レイラは嘘をつく。神父にきた手紙を読むというふりをしながら、自分自身の書かれなかった「手紙」を読む。自分自身の物語を語る。その物語を聞いたあと、神父は「手紙」に返事を書かない。そのかわりにレイラの姉の手紙をレイラに届ける。神父が「郵便配達」というただの人間になる。
 神とは無関係の、ただの人間と人間との、無防備な出会いが、そこにある。そして、その人間と人間との出会いがかみあった瞬間、人間が輝く。それは何かの光(法の光、神の光)を受けて、あるいは光につつまれて輝くのではなく、人間そのものが「発光」するのである。光を放つのである。
 このとき、人間の影はどこに? 人間の肉体の内部、心の底に、静かに沈んでいくのである。
 これが美しい。

 人間と人間の出会いが人間を輝かせる--発光させる。それはレイラとヤコブの出会いそのもののことかもしれない。そして、それはまた神の否定につながるかもしれないし、そうした神を超えた人間と人間の出会いこそ神が準備しているものだと言えるかもしれない。たぶん、キリスト教徒はそういうだろなあ。
 まあ、いい。
 この映画は完全なハッピーエンドという形ではないのだが、そのことがまた逆に人間について、いろいいろ考えさせてくれる。

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福田武人「網状組織の諸々の結節点に……」

2011-02-15 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
福田武人「網状組織の諸々の結節点に……」(「現代詩手帖」2011年02月号)

 福田武人「網状組織の諸々の結節点に……」は書き出しが刺激的である。

網状組織の諸々の結節点に蠢動と放電が見られ、漢語の葉叢にまでその鳥は線状に伸びる、滴る夜の葉、その中を矢印と骨組にまで還元された鳥の飛翔は波動として岩盤の空に記憶され……

 何が書いてあるのか。まあ、簡単にいうと(?)わからない。葉っぱが主語? 鳥が主語? いや、これは「漢語」が主語なんだろう。書かれていることは、なにやら、鳥は漢語の結節点に刺激されて飛翔するというようなことなのだが、鳥はどうでもいいんだろうなあ。漢語(漢字熟語?)が福田の意識を刺激する。その刺激をたどりながら福田はどこへ動いていくか探している。「結論」はない。あるかもしれないが、最初から想定されているのではなく、動いていくことでたどりつければいいという感じなのだろう。
 たとえば、

網状組織の諸々の結節点

 このことばはどこからやってきたか。「結節点」ということば最初から想定されていたか。私にはそうは思えない。「網状組織」ということばが「網」の「結び目」ということばを誘い、「網状」と「組織」という硬い音が「結び目」という柔らかいことばではなく「結節点」という「意味」を凝縮したことば、漢字の組み合わさった「表記」と「音」を誘い出したのだ。「もろもろ」ではなく「諸々」もひらがなの少ない「表記」が大切なのである。
 福田はおそらく黙読派の詩人である。この詩を福田は朗読しようとは思わないだろう。朗読することを想定して書いてはいないだろう。黙読し、目で漢字を追い、その瞬間に耳の奥に響くすばやい音に耳をすましている。黙読の最大の特徴は、その読むスピードが朗読よりもはるかに速いということだろう。音が鼓膜をすばやく過ぎ去る。鼓膜をすばやく振動させる。黙読によって、ことばは加速するのだ。

網状組織の諸々の結節点に蠢動と放電が見られ、

 「蠢動」は「しゅんどう」と読むことを私はきょうはじめて知ったが(これを書くために、辞書を1年ぶり?くらいで引いたのだ)、その「読み(音)」はわからなくても、ことばは動く。蠢いて(うごめいて)動く。いや、うごめくがわからなくても、黙読のときことばは動くのだ。「蠢動」の「動」だけで、なにかが動いているのがわかる。「蠢」はごちゃごちゃした漢字だからきっと何かがごちゃごちゃ動いているのだと想像できる。このとき、鼓膜は振動しない。鼓膜を音が通過しない--いや、無音が通過するのだ。
 漢語を黙読する、漢字熟語を黙読するとき、そういう一種の「ワープ」が起きる。このワープ感覚に「放電」ということばがとてもよく似合う。あることばには、あることばがよく似合う--ということを福田は知っているのだ。
 福田はそういうことばの「似合い方」とワープ力を利用してことばを動かしている。意味を考えながら書いているのではなく、ことばが動いたあと意味を確認しながらことばを追いかけているのだと思う。

漢語の葉叢にまでその鳥は線状に伸びる、

 とても快調である。「漢語」というキーワードをさらけだすことで福田はより自由になっている。
 「葉叢」は「は・むら」と読むのか「ようそう」と読むのか、私にはわからないが(つまり、私は、そのどちらも口に出して言ったことがないということである。私は自分で口に出す、音にしないことばは、それがどういう音かわからない)、この表記も「漢語」が誘い出したものである。(漢語であるかぎりは、「ようそう」と読ませたいのだと想定できる。)
 でも、ここで少し失速する。
 「その鳥」の「その」がまず邪魔をする。「その」は何を指すのか。前提が必要であるが、書かれていない。書かれていないことが指示されてことばはつまずく。ワープにブレーキがかかる。とたんに「伸びる」という「和語」が出てくる。「漢語」が消える。

滴る夜の葉、その中を矢印と骨組にまで還元された鳥の飛翔は波動として岩盤の空に記憶され電磁波でさらさらになった肉粒は波の打ち寄せことのない仮名文字の浜辺として風の吹くばかりだれかの囁きの音の抑制を真似る者はなく置き換えられる文字の葉のままにその分枝は罅割れざよろしく空間全体に枝分かれしつつある、

 「岩盤の空」の「空」も漢語から逸脱する。墜落するか。もっとひどいのは「さらさら」である。そこには漢語の響きもすばやさもない。音がうるさいくらいに自己主張する。「波の打ち寄せる」は「電磁波」の「波」を引き継いでの動きだが「打ち寄せる」がまたまた漢語ではない。だから「浜辺」と漢字を並べることばを誘い出すのがせいぜいである。そのあとも「囁き」という画数の多い漢字でことばを引き締めようとするのだが、うまく動いているとは言えない。
 「よろしく」といううんざりするほどのんびりした「音」が耳障りである。耳をふさぎたくなる。ことばを鉛筆で塗りつぶしたくなる。「分枝」が「枝分かれ」と漢語から和語へと失墜するのにいたっては、もう、最初の詩は消えてしまっているとしか言いようがない。

 と、書きながらも、私は実は福田の詩が好きなのである。なんとかしてもらいたい、そうすればもっともっと好きになるのに、と思うのである。
 「漢語」をつかうかぎりは、「漢語」の文体も活用してもらいたい。何かしら、福田の肉体の中では漢語と漢語の文体が齟齬をきたしている。かみあっていない。
 あるいは、福田は漢語を和文の文体のなかに取り込みたいと願っているのかもしれない。そうであるならば、それは漢語ではなく「漢字」だろう。「漢語」を離れ、「漢字」に固執すべきだろう。漢語を和語で引き離し、漢字として独立させ、和文の文体に取り込む--そう言うことをすべきなのかもしれない、と考えていたら……。
 詩の最後の方に、

ついには白っぽい幼虫の空が無数の謎めいた漢字に覆われ身をくねらす朝の幻がやって来る、

 という美しい文に出会った。
 ここには「漢語」のかわりに「漢字」がしっかりと定着している。
 書き出しの文体は刺激的だが、途中でくずれる。そういう文体ではなく、この漢字を和文のなかに取り込んだ文体の方が、私には美しく見える。冒頭の文より刺激は強くないが安心感がある。
 福田はそういう漢字+和文体というものを目指していないのかもしれないけれど、私には和文体の方がむりがないように思える。
 漢語を主体にしてスピード感のあるワープを目指すなら、和文体を消し去る工夫が必要だと思った。



砂の歌
福田 武人
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(181 )

2011-02-15 22:35:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『えてるにたす』。「えてるにたす」のⅠつづき。

銅貨の中の
静寂

 この2行が前後の連とどう関係するのか、見当がつかない。けれど、この2行が私はとても好きである。
 「金貨」のなかに「静寂」があるとは私には思えない。「銀貨」ならありうると思う。そうして、私には「銀貨」の場合、その「静寂」の音は--というのは、へんな言い方なのだが--透明であるように感じられる。「銀貨」は「静寂」というより「沈黙」かもしれない。「銅貨」の場合、透明感のかわりにやわらかい深さがある。何か、遠い「静寂」。それも水平方向に遠いではなく、垂直方向に遠い感じがする。やわらかくやわらかく沈んでいく感じがするのである。

 こういうことは感覚の世界で、あらゆることにまったく根拠がない。根拠かないとわかっているから私自身も困るのだが、こういう根拠のないことを書いていると、何かが見つかりそうな気もする。
 だから書いておくのである。

 この連につづく部分。

夕陽はコップの限界を越えて
限りなく去る
黒いコップの輪郭が残る
女神の輪郭は
猫の瞳孔の中をさまよう

 これは「銅貨」の2行に比べると、物足りない。コップの中を(テーブルの上に置いたコップ、あるいは窓辺に置いたコップの越しに)夕陽が沈んでいく。光が去って、コップの輪郭が残る。黒く見える。「限界を越えて」ということばの速さにひかれるけれど、書かれていることが「イメージ」になりすぎる。目に見えすぎる。そういう感じが物足りなさにつながる。
 「女神」の2行は、「輪郭」のつながりで出てくのだが、私にはなんだかうるさく感じられる。
 「銅貨」の簡潔過ぎる「静寂」を聞いたからかもしれない。



西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店


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松本圭二「7 ジブリ1号」

2011-02-14 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松本圭二「7 ジブリ1号」(「現代詩手帖」2011年02月号)

 松本圭二「7 ジブリ1号」は「ミミズノウタ」という小詩集のなかの1篇。この詩よりも「10 とば1号」の方が私には読みやすいのだが、なぜか、「ジブリ」の詩についての感想を書いてみたいのである。どんなことが書けるか、私自身を試してみたい。

というのも
私はジブリという言葉がすごく怖かったんです
何かにジーっとにらまれ
ブスリと刺し殺される感じがして

 「ジブリ」で思い浮かべるのは、アニメ制作集団である。その「ジブリ」の作品がではなく、「言葉」が怖いという。「ジブリ」って、ことば? 松本は「言葉」と書いているが、私にとってそれはことばではない。ことばではないのだが、松本がそれにつづけて書いていることが私には、とってもよくわかる。(よくわかる、と勝手に共感してしまう。)
 「ジブリ」とは何のことか私にはわからない。単なる「音」である。そして「音」から「ことば」ではなく、私の場合「意味」がはじまる。「ジブリ」からはじまる意味--それが「何かにジーっとにらまれ/ブスリと刺し殺される感じがして」なのである。
 わけのわからない「音」があって、それが「ことば」であると知ったとき、私は「辞書」を引く前に、自分の「肉体」に聞いてしまうのである。そうすると「ジーっとにらむ」「ブスリ」があらわれる。「ジーっ」「ブスリ」が「ジブリ」になる。
 こんなことは、きのう書いた松浦寿輝には絶対に起きないことだろうなあと思う。いや、たいていのひとには起きないことかもしれない。だから、あ、松本も「音」からはじまる人間なのだと知って(勘違いして? 誤読して?)私は勝手にうれしくなるのである。こうなると、もうすべてがうれしい。
 この詩は松本圭二が書いたのではありません。私が書いたのです、と主張したくなる。私が書いたというと嘘になるので、私が松本の夢のなかにあらわれて松本に書かせたのです、と言ってみようかなあ、というような感じ。
 それくらいぴったり感じる。

それで個人的に、というか生理的に、というか反射的にジブリについてはジブーリと発音して、というか発音以前に唇がそのようにしか動かない、というか脳ではなくて無意識がそのように命令しているとしか言いようがないんですけれども

 そして、この感じ、ある音からはじまって変に理屈っぽくなるこのリズム--ここにあるのは、実は「書きことば」ではなく、「話しことば」だねえ。「意味」を考えてから書いているのではなく、口が勝手に動いて、「意味」を探しまわる。その結果、探しあてたものが「答え」ではなく、「探しまわる」という経過というのが、またおもしろい。ここには「探しまわる」という行為のリズムが「答え」としてある。
 --変でしょ? 私の書いていること。論理になっていないでしょ? でも、この変なところに、きっと松本の「思想」がある。
 私はなんとなくそれを確信している。(なんとくな、確信、というのは矛盾だけれど。)
 で、詩のつづき。

……としか言いようがないんですけども私がジブーリと言うとジ・ブーリみたいになってしまうからヒャクパーキョトン顔されるんです
「は?」みなたい顔です
「おまえイタリア人かよ?」みたいなことも言われました
嫌味には生まれつき慣れていますが
しかしニンゲンという根性の腐り切った下品な生き物は嫌味が好きで好きでたまらないみたいですね
絶望的です
ジブリ
私は言えないですよ
それが言えてしまうのは感性のウジ虫だけです
ジブリ
ジ・ブーリ
これはG式の問題ではありません
命懸けの美学ですから
おいこら世界中!
私の唇にへんな言葉を言わすな!

 あ、これはほんとうにうれしくてしようがないですねえ。
 とはいうものの、やっぱり他人は他人。松本は松本。私ではない。最初に書いたことと少し関係があるけれど、私は「ジブリ」を「言葉」とは呼ばない。「音」という。

私の唇にへんな音を言わすな!

 と書くだろうなあ。
 まあ、これは違うから大切なことなんだけれど。



 ちょっと松本の詩からはなれてしまうことになるけれど。
 私には嫌いな音がある。小倉に「紫川(むらさきがわ)」という川がある。私はこの音(松本なら「言葉」というだろう)がとても嫌いだ。背中がぞくっとしてしまう。こんな汚い音をよくもまあ川の名前にしたものだと思う。小倉のひとは「むらさきがわ」の「が」を破裂音で発音するから、「むらさき」という音のあとに、その破裂音の「が」がくると一歩後ろへさがりたくなる。



 「とば1号」についても少しだけ書いておく。

つまりそれは
ファーブルと昆虫記のような
「と」
の発見
「と」が「の」を反転させるテロール
もしくはテロリン
ば。
海辺とカフカ、レキシントンと幽霊、砂と女、仮面と告白


 なぜ「と」じゃなくて「の」だったのだろう。きっと「意味」が「と」ではなく「の」を選んだのだろうけれど、もし、「と」だったら? 「意味」が違う? うーん、違わないような気がする。「と」の方が「意味」が絶対ひろがると思う。
 なぜ絶対的にひろがると思うかといえば。
 「と」の方が声に出すとき力がいる。肉体が強く動く。強く動くものの方が「ば」をひろくとってしまう。
 あれ? こんなことを書いているわけではないか……。

 私はいいかげんなことを書いているのだが、このいいかげんなのかに実は大切なものがあるとも感じているのだ。いいかげんにしか書けないのは、そのことが私自身によくわかっていないからなのだが、(そして、詩はいいかげんでいいのだという思いもあるからなのだが)。
 ことばは「意味」だけではないのだ。「意味」だけを「肉体」が引き受けてことばを動かしているのではないのだ。「意味」にたどりつくまえに、ひとはそれぞれの「肉体」にあわせてことばを少し歪めている。その「歪み」のなかに、詩につながる「いのち」がある。
 松本の詩について触れながら、私はそんなことをほんとうは書いてみたかった。いつか書きたいとも思う。きょうの「日記」はそのためのメモである。




アストロノート (叢書重力)
松本 圭二
「重力」編集会議

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「現代講座」開設のお知らせ

2011-02-14 12:03:46 | その他(音楽、小説etc)
4月からよみうりFBS文化センターで「現代詩講座」を開きます。受講生を募集中です。
テーマは、

詩は気取った嘘つきです。いつもとは違うことばを使い、だれも知らない「新しい私」になって、友達をだましてみましょう。

現代詩の実作と鑑賞をとおして講座を進めて行きます。

受講日 第2、4月曜日(月2回)
    13時-14時30分(1時間30分)
受講料 3か月全納・消費税込み
    1万1340円(1か月あたり3780円)
    維持費630円(1か月あたり 210円)
開 場 読売福岡ビル9階会議室
    (福岡市中央区赤坂1、地下鉄赤坂駅2番出口から徒歩3分)

申し込み・問い合わせ
    よみうりFBS文化センター
    (福 岡)TEL092-715-4338
         FAX092-715-6079
    (北九州)TEL093-511-6555
         FAX093-541-6556
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松浦寿輝「色の名」

2011-02-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
松浦寿輝「色の名」(「文藝春秋」2011年03月号)

 松浦寿輝「色の名」は「もの」よりも「ことば」に欲情するひとである。もし、「もの」に欲情するとすれば、それは「文字」という「もの」に欲情する。「色の名」。

ひわもえぎ あおしろつるばみ うらはやなぎ
つぶやけば 母音と子音が母子のようによりそい
舌と口蓋をなでながら あわくやさしくころがる
鶸萌葱 青白橡 裏葉柳
書きつければ すずやかな彎曲 剛毅な直交
線と線が指と指のようにからみあう その淫蕩の倫理
やがて まなうらにひっそりうかびあがる
色々の 色々の あまい悔恨やにがい快楽(けらく)
秋色の儀としてとりおこなわれる 絢爛たる射精
しずかに覚醒すれば のちの時空はただ無色

 「ひらがな」と「漢字」。それによって「ことば」がかわる。
 「ひらがな」のときは「音」。そして、それは舌と口蓋に代表される発声器官をくすぐる。刺激する。なぜか、そのとき「耳」は具体的な肉体として表立ってこない。ことばはあくまで松岡にとって発するものである。聴く--ということをとおして受け取るものではないのだ。
 「漢字」のときはどうか。「書く」というときの肉体、指、腕は少しないがしろにされる。「漢字」では視覚(目)が動いている。目が、ことばを受け止めている。
 このふたつのことは、松浦の「根本」にかかわることがらかもしれない。松浦は、ことばを「読む」(目をとおして理解する)、そしてそれを発する(声に出す)。ことばを「聞いて」、それを理解し、それを声で反復するのではない。また、「聞いた」ことばを書くのではない。「読んだ」ことばを声にだし、それからもう一度「読む」。「見る」。視覚の中に定着させて、ことばを理解する。自分のものにする。
 「読んだ」ことばを、声にする。それから「書いて」ことばをととのえる。ことばを確かめる。「ひらがな」「漢字」、どっちが、そのことばにふさわしいのか、自分の肉体になじむのはどちらなのかを確かめる。どんなふうになじんでいるのかを確かめる。
 松浦は「文字」のひとなのだ。書きことばのひとなのだ。

 この詩で非常におもしろいのは「やがて」である。

やがて まなうらにひっそりうかびあがる

 ことばは「音」(ひらがな)と「文字」(漢字)の交錯を経て、ことばではなくなる。「肉体」になる。その「肉体」を松浦は、「快楽」「射精」というセックスと結びつけて書いている。肉体の深部で、自分を裏切るようにして動く力と結びつけ、また「あまい悔恨」「にがい快楽」という「味覚(肉体)」と「悔恨」「快楽」という「精神」を融合させることで、肉体そのものに深みをあたえる。
 それを松浦は「やがて」という「時間」の経過のなかでみつめている。松浦がほんとうにみつめているのは、もしかすると「悔恨」でも「快楽」でも「あまい」でも「にがい」でもないかもしれない。ただ「時間」を見つめているのだ。時間をみつめ、その時間を描きとるために、そこに肉体と精神、感覚の運動を軌跡を記しているのかもしれない。
 時間の経過を示すことばはもう一回出てくる。「のちの」である。

しずかに覚醒すれば のちの時空はただ無色

 時間の経過のなかに「悔恨」があり「快楽」がある。「射精」がある。それはそれぞれに、「色」をもっているはずだが、ここでは松浦は書いていない。もしかすると、それはまだ名づけられていない色なのかもしれない。そうであると、思いたい。
 いや、そうではなく、「あまい+悔恨」「にがい+快楽」「絢爛たる+射精」ということばの組み合わせそのものが、「ひわもえぎ」「あおしろつるばみ」「うらはやなぎ」「鶸萌葱」「青白橡」「裏葉柳」のように、色なのだ。
 声に出して、書き記せばわかる。いままで存在しなかった「もの」としての「あまい悔恨」「にがい快楽」「絢爛たる射精」という「ことば」が肉体をひっかきまわすのがわかる。それ何? と一瞬、強い刺激が走る。そして、しばらくすると、松浦のことばを借りていえば、「やがて」、あ、そういう矛盾したものが自分の肉体のなかにあるなあ、とわかる。「悔恨」はにがいだけではなく、あまいものもある。「快楽」にはあまい快楽だけではなく、にがい快楽ものある。射精も貧弱な(?)射精だけではなく、絢爛たる射精がある。
で、その「のちの」は、なんだろう。「時空はただ無色」。
先に私は「時間」こそが松浦の見つめているものだと書いた。ここでは「時空」と松浦は書いている。「時間」に「空間」を融合させてとらえる世界。松浦は、ことばをとおして「時間」をくぐり、「空間」へ戻ってくるのかもしれない。そのとき「時空」が瞬間的に融合して存在するが、「戻る」という意識は「空間」の方へ傾くだろう。「時間」をくぐりぬけてきたのだから。そのとき、色は「無色」。
 これは、とてもおもしろい。いままでとは違った色というのではなく、あくまでも「無色」。では、色はどこにある?
 くぐりぬけてきた「時間」のなかにあることにならないだろうか。
 これは、反復であり(反芻であり)、確認なのだ。色は時間のなか、松浦の書いてきたことばをそのままつかえば、「あまい悔恨」「にがい快楽」「絢爛たる射精」ということばそのもののなかにこそある。そのことばを声に出して読み、書いている瞬間のみに存在する。書いてしまえば、消える。
 だから、また書かなければならない。

 この短い詩は、書くことに取りつかれた松浦、書きことばなしには自己確認できない松浦の不幸と至福の証言であるとも読むことができる。


官能の哲学 (ちくま学芸文庫)
松浦 寿輝
筑摩書房

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