詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「この世界の片隅で」「君の名は」

2016-12-11 09:52:10 | 映画
「この世界の片隅で」「君の名は」

 映画を見ないで、感想を書くのは邪道なのだが。
 私はいま評判の2本のアニメを、見たいという気持ちになれない。
 「この世界の片隅で」は戦争時の「暮らし」を描いている。「反戦」と声高に語っていない(イデオロギーがない)ところがすばらしい云々と喧伝されている。
 黒木和雄監督「TOMORRO/W明日」(出演・桃井かおり、原作・井上光晴『明日・1945年8月8日・長崎』)とどう違うのだろう。舞台が長崎から広島にかわっている。もちろん、それぞれの「場」で戦争と暮らしは描かれなければならないのだが。広島は広島で、そのときの「暮らし」を描きのこすことは大切とわかっているが、「評判」のあり方が気になってしようがない。「評判」を聞くと気がそがれてしまう。
 「8月8日」は「8月9日」の一日前。「明日、8月9日」には長崎に原爆が落とされる。それを知らずにつづく「一日」。そのなかにある「暮らし」。これを群像劇で描いている。
 そのなかで、桃井かおりが「お手玉」をみつけ、それをほぐし、あんこをつくるシーンが大好きである。「ああ、おいしい」と味見するシーンに涙が出た。お手玉にはお手玉の「思い出」があるだろう。それを突き破って「お手玉には小豆が入っている。小豆があればあんこがつくれる」と思う瞬間の「意識の飛躍」。生きたい、甘いものを食べたい、という「欲望/本能」が「思い出」に勝つ瞬間と言えばいいのだろうか。それが、たまらなく美しい。かなしい。いとおしい。
 無事出産した赤ん坊をみつめ、おっぱいを含ませる桃井かおりのシーンも思い出すが、なによりも、お手玉をほぐしてあんこをつくるシーンが好き。

 「TOMORROW/明日」は、「この世界の片隅で」を勧めてくれたひとの話では1988年の映画。30年ほど前の映画である。そのときもたしか「日常が淡々と描かれている」というような評価が多かった。ただ、そのときは「反戦」と叫んでいないからすばらしい、イデオロギーがないからすばらしい、というような声は、私は聞かなかった。
 いまなぜ、たぶん同じスタイルの作品が「反戦」を叫んでいない、イデオロギーがないという形で評価されるのか。そこに、とても疑問を感じる。戦時中の「暮らし」の工夫、必死に生きていくひとの姿は、それだけで思想(イデオロギー)である。しあわせに生きたいという思想より大切な思想はない。幸せを考えない思想など、存在しない。
 ふつうのひとの、ふつうの暮らしのなかの思想。それを「反戦」ではない、「イデオロギーがない」というとき、そのことばが狙っているものは何だろう。「思想」隠しは、なぜ、おこなわれるのだろう。
 戦争が起きたとき、「戦争反対」と「イデオロギー」を叫ぶのではなく、「ふつうの暮らし」をしつづけろ、食料が乏しいなら工夫しろ、という具合に働きかけてこないか。「我慢して生きるよろこびをみつけろ」という具合に、働きかけてこないか。
 戦争法が施行され、安倍の手で戦争が着実に準備されている。暮らしの大切さなど無視して、年金は切り下げられるということが実際に起きようとしている。こうしたことに不平をいわず「日々の暮らしを工夫し、生きるよろこびをみつけろ」ということばとなって跳ね返ってこないか。
 私は、それが心配である。
 監督の意図は知らない。しかし、「この世界の片隅で」は確実に安倍の政策に利用される形で喧伝されている。
 実写ではなく、「アニメ」であるというのも問題が多い。アニメには「美化」が入り込みやすい。主人公が暮らしのなかで工夫することがらは、「実物」では違った映像にならないか。予告編(だったと思う)に登場する野の草を利用して料理するシーンなども、実際につくったものを「実写」すれば、アニメほど美しくは見えないかもしれない。おいしそうに見えないかもしれない。そこに問題がある。
 「TOMORROW/明日」のお手玉と小豆、あんこは、私の世代ではとても身近である。お手玉一個のなかに入っている小豆の量を知っている。一握りに満たない。それを煮て、あんこにして、食べる。その切実さが「肉体」に響く。
 私は田舎育ちだから、野の草(山菜)を食べるのは「日常」だった。腹が減ればスカンポと呼ばれるすっぱい草やゴボウのように黒い野草の茎もかじった。「肉体」は、そういうことを覚えている。アニメでは、その「肉体の記憶」が変に洗い流され、「美化」されているように感じる。「肉体」に「もの」が直接迫ってくるのではなく、ストーリーとして「頭」に侵入してくる。
 「この世界の片隅で」は、どんなに「暮らし」を描こうと、それは「頭」に入ってくるストーリー(架空)でしかないような気がする。「感情移入」が「肉体」ではなく、「頭」経由になる。「反戦」と叫んでいない、「イデオロギー」がない、というのは「頭」経由の「頭」拒否のことばである。「思想」を「頭」の「仕事」と考え、「頭」を拒否する。自分で考えない。「考える」こと、「思想」は「指導者(独裁者)」にまかせて、ふつうのひとは「暮らしを工夫するだけでいい」ということなってしまいそうである。
 独裁者は「考えない肉体」を求めている。独裁者の思想にそって動く「肉体」をもとめている。「戦争」をするのは「頭」ではなく「肉体」である。「肉体」がなければ「戦争」はできない。
 戦争は怖い、死ぬのはいやだ、という「肉体/本能」の拒絶反応(思想)を、私は大切にしたい。「肉体感覚」のないものは、警戒したい。
 
 あ、かなり脱線したか。
 もう一本の「君の名は」はポスターがとても美しい。少年のシャツの上の木漏れ日、あるいは木の葉の影と言えばいいのか、光と影のバランスが美しい。実写でも同じ美しさをスクリーンに定着できるかどうか疑問である。「この世界の片隅で」で触れた「美化」の問題が、この映画では拡大されていない。その「拡大」が「麻薬」のように「頭」を汚染していないか。
 「現実」と「芸術」は違う。「映画」も「芸術」だから、実写だからといって、そこに「人工的な操作」が行われていないというわけではないのだが。
 「この世界の片隅で」のポスターの木漏れ日を見て、私はルノワールの絵を思い出した。印象派の木漏れ日の描き方、影の色を思い出した。「色」は他の色とのバランスの上で選択されている。操作されている。そういう作品を見たあとでは、私たちは(私だけかもしれないが)、「現実」を「芸術」をくぐり抜けた形で見てしまう。「現実」が「芸術」を模倣しているように感じる。
 「美化(芸術化?)」された映像をとおして、「美化」されたストーリーを見る。これでは「頭」が「美」以外のものを拒絶するだろう。「美化されたストーリー」以外を、「頭」は受け付けなくなるだろう。

 私はなんとなく不気味なものを感じている。
 「この世界の片隅で」「君の名は」はまったく別の映画なのかもしれないが、私は、その「人気」の奥底に「共通」のものを感じる。

 映画を見て、そのうえで批判すべきなのかもしれないが、私は目が悪くてあまり多くの映画を見ることができない。もっと見たい映画がある。だから、見ないまま、思ったことを書いておく。
 「この世界の片隅で」に感動したひとは、ぜひ、「TOMORROW/明日」を見てほしい。「美しい夏キリシマ」と、時間があれば「祭りの準備」「原子力戦争」も見てほしいなあ、と思う。「この世界の片隅で」を見ないくせに、こんなことを書くのは「反則」かもしれないが。









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2 コメント

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Unknown (鱈ポン)
2016-12-15 02:57:35
ええ……喰わず嫌いかよ……(困惑)
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Unknown (しんくう)
2017-07-03 11:37:48
中身を見もせずに、政権批判と合わせてしまうのは反則でしょうね。政権側の方々は読みとる力を持たない人が多いようなので、おかしなプッシュの仕方になっていたのでしょうけれど、この映画はけっして戦時中のささやかな幸せを描いた「だけ」の作品ではありませんよ。

ちなみに友人の父は、しきりに暮らしのディティールのことだけを褒めていたそうです。ストーリーのことはいっさい無視で。

こうせよ、ああせよ、という「命令文」をいちいち汲み取ることも、ある種の(政権に批判的な自分を正当化するという)美化であるように思います。「肉体感覚」だの「思想」だのといったワードチョイスも、美化でしょう。「本能」は依拠するに足るほど、永遠不変に正しいものなのでしょうか。
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