詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐々木安美「豆でも肉片でも」

2016-07-20 09:50:48 | 詩(雑誌・同人誌)
佐々木安美「豆でも肉片でも」(「生き事」(2016年夏発行)

 佐々木安美「豆でも肉片でも」の各連は、連絡があるのかないのか、はっきりとはわからない。しかし、ならべて書かれたことばを読むと、そこにどうしても「連絡(意味)」を読み取ってしまう。こういうとき、「読み取る意味(読み取られる意味)」というのは、たぶん、作者の書こうとしていることというよりも、読者が自分のなかで思い出すことがらである。

昼過ぎ娘を連れて検査入院の妻の病室へ。血小板の減少は癌性
DICと診断され、治療法はほぼないと言われる。その中で針の穴
を通すような微妙な調整を加えた抗がん剤を使う提案があったが、
妻は拒否。残された日々を穏やかに家族と過ごすことを選んだ。

意味の折れた無数の枝

 妻ががん。治療法はなくて、治療はせずに、残された日々を家で過ごす(家族と過ごす)ということを選ぶ。このときの「主語」は何か。「昼過ぎ娘を連れて検査入院の妻の病室へ。」という部分では、「主語」は書き手(私/佐々木)だが、「妻は拒否。残された日々を穏やかに家族と過ごすことを選んだ。」では「主語」は「妻」に変わっている。ただし、そういう「妻」を受け入れると読むと、「主語」は「私/佐々木」のままである。ここには「妻/私(佐々木)/娘」という三人の人間が出てくるが、もうひとつ「がん」という異質な「登場人物(?)」もいる。そして、それが三人を、三人にし、また「ひとり」にする。「家族」というものにする。区別は、あって、ない。
 こういうことは、がんをかかえた人間がいる家庭では、よくあることである。そして、そのとき思うのは書かれている家族(佐々木の家族)ではなく、自分の家族のことであり、そのときの自分の思ったこと、感じたことである。自分のおぼえていることを重ね合わせて、そこに書かれていることが「わかる」と感じる。
 で、一行空けて書かれた、一行。

意味の折れた無数の枝

 これは、だれが感じたことか。考えたことか。「妻」も「娘」も感じているかもしれないけれど、「私/佐々木」が感じたことなのだろう。瞬間的に共有されたイメージのようなものである。
 それは書かれている「三人」を超えて、読者にも「共有」される。
 私の父は胃がんで死んだ。父ががんで死ぬとわかったとき、私は「折れた木の枝」を見たわけではないが、この一行を読むと、見たかもしれないという気がしてくる。そして、あの折れたものは木の枝ではなく「意味」なのだと思う。思うというより、「思い出す」。そこには、父が死ぬとわかってから見た「木の枝」があるのではなく、それよりも前に見た「木の枝」があるのだと思うが、それがよみがえってきて「意味の折れた無数の枝」になる。
 だから、私が見ているのは、あくまで「私の見た木の枝」なのだが、その「木の枝」をとおして、佐々木と「感情」を「共有」していると感じてしまう。

 こういう感情の「共有」は、不思議な部分でも起きる。

オオキナツバサヲヒロゲタトリガ
タマシイノヌケタニクヲミノガサズニツカマエル
ソレカラユックリトマイアガリ
ソラヲハコバレテイクヒンシノモノ
ダラリトフツタニオレマガリ
モウモドルナ
モウモドッテクルナ

 これはカラスか何かが蛇でもくわえて飛んで行く様子だろうか。(私はカタカナ難読症で、正確にカタカナを読めないのだが。だから引用も間違えているかもしれないが。転写しながら、何を書いているかわからないのだが。)
 何だかよくわからないのだが、最後の「モウモドルナ/モウモドッテクルナ」を「もう戻るな/もう戻ってくるな」と読み、強い衝撃を受けた。
 蛇をくわえたカラスが不気味なものだから、死を感じさせるから「もう戻るな/もう戻ってくるな」と叫んだのか。それは「カラス」に言っているのか、カラスにくわえられた「蛇」に向かって言っているのか。
 そのとき、こんな言い方をしていいのかどうかよくわからないのだが……。
 佐々木は妻を「蛇」と見たのか。あるいは「カラス」とみたのか。がんで、治療法がない妻。死が運命づけられている妻。それは、瀕死の蛇のように見えるかもしれない。しかし、私は、「蛇」をくわえている「トリ(カラス)」が妻のように思えて仕方がない。
 「蛇」は「がん」。それをくわえて飛んでいく「トリ(カラス)」が妻。生きて、死そのものと闘っている。死を食べている。そんなふうに思える。
 しかし、もし「カラス」が「妻」であるなら「戻ってくるな」は矛盾する。
 いや、矛盾しないかもしれない。「蛇」をくわえて飛んでくる「カラス」に向かって「戻ってくるな」と叫ぶとき、それは同時に「蛇」に向かっても叫ぶことなのだ。対象は一瞬にして入れ替わるのだ。「カラス」に向かって言ったことは、ほんとうは「蛇」に対して言ったことなのだ。瀕死の「蛇」にむかって、「もう戻ってくるな」とと命令している。「カラス」と「蛇」は「一体」なのである。
 この不思議な「結合」(混同/矛盾)のなかに、何か強い願いのようなもの、祈りのようなものを感じる。
 あの「カラス」が「蛇(がん)」をくわえたまま空を飛び、どこかへ行ってしまえば、ここに「妻/娘/私」が残される。「カラス」はあくまで「比喩」、「蛇(がん)」も比喩。つまり「意味」。「意味」が三人から奪いさられ、「意味」に病んでいない健康な三人が「いま/ここ」に残される。

 そんなことは、書いていないか……。

 わからない。
 ただ、そう読みたい気持ちになる。「意味の折れた無数の枝」という一行で、「感情」を「共有」した。「共有」したということは、もう自分のものでもあるということ。だから、それから先は「自分の感情」として、かってに動かしていく。
 「不気味な物/いやなもの」をことばにしてほうり出す、自分から出してしまうことによって、佐々木自身が「健康」を取り戻している、「妻」も健康な肉体を取り戻している、そういう瞬間だと思って読むのである。



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